『纏向型前方後円墳の築造時期は4世紀代』

					東京都立産業技術高等専門学校 名誉教授   石井 好

序文

 安本美典氏の大崩壊「邪馬台国畿内説」に、12年輪の小枝資料の結果によって、ホケノ山古墳が350年頃のものという事が分りました(3)。日本情報考古学会のシンポジウム「炭素14年代法と箸墓古墳の諸問題」のシンポジウムで述べた4人の(中村俊夫・新井宏・関川尚功・安本美典氏)の科学者の言う、100年程新しい時代である事と一致します(4)~(15)。ホケノ山古墳の築造時期は350年頃と明らかになっています。その証拠は①ホケノ山古墳の第2次調査に、橋本氏によると布留0式新相から1式期(310~340年頃)の土器がみられる事でわかります(35)。②画文帯同行式神獣鏡B型(蟠龍形)が出土するとそれは4世紀代という大体の年代観があてられると樋口隆康氏も証言しています(27)。③のかつき銅鏃(37)を見ても4世紀後半(370年頃)と分ります。④小型丸底土器(36)をみても4世紀代の物と分ります(36)。⑤考古学の常識では新しい遺物は350年頃になります。⑥決定的なのは負の伝世になる事です(34)。伝世は正がただしいのです。伝世が負になると鏡の届く前の埋葬となり不自然なのです。⑥件の350年説の証拠があります。樋口隆康・河上邦彦氏の250年説は崩壊します(34)(35)。私も含め、他にも6人の科学者が100年新しくズレル事を指摘しています。10名の科学者が100年新しくズレルというのです。ホケノ山古墳の築造時期は、350年頃の古墳になります。纏向遺跡の時代も100年程新しい時代となります。石塚古墳・勝山古墳も100年新しい時代になります。学者は考古学の常識を度々、誤って伝えている事が分るでしょう。

考古学の常識:

遺跡から出土した資料の中で、最も新しい時代を示す特徴を持って、遺跡の年代を示すのです。

1.石塚古墳の築造期は4世紀代

 石塚古墳の築造期は光谷氏によると177年の木材が出土する事と、表皮部分の欠落を見て195年頃の築造を考えています。(16)
 石塚古墳の情報は石野博信編の大和・纏向遺跡に記載されています。橋本輝彦氏は石塚古墳の築造期を纏向3式新段階(布留0式)(300~350年頃)はこれよりも溯る事は確実である(17)。寺沢薫氏は庄内2式(260年頃)または庄内3式(280年頃)と差が大きいのです(30)。石塚古墳は石野氏の全国古墳編年集成では250年頃、清水真一氏によると「出土品からは3世紀中葉~後半期と推定されるが、濠内の板材の年輪年代ではAD200年頃が出ており、その築造年代を確定できないでいる(23)。」 橋本輝彦氏によると「庄内0式期(230年頃)から布留0式期(300年頃)にかけての土器や木製品があり、築造時期は庄内0式期(230年頃)とする説と庄内3式期(280年頃)とする説の2者がある。」となっており、迷っているようです(23)。学者の間でも100年程の差がでています。10人の科学者の炭素14年代の意見で100年新しい時期と考えられます。1番新しい遺物で古墳の築造期が決まります。上の状況下では1番新しい遺物は300年頃の布留式土器と考えられます。布留式が出土すると古墳時代と判断されるのです。考古学者も布留式土器が出土する事を指摘しています。200年頃の築造は年輪年代法の影響が大きいのです。光谷氏は195年頃の板材と信じており(16)、この影響で3世紀初頭(200年頃)の築造と思い込んでいる学者も多いようです。195年には鉄器は1件も出土しない事は素人も知っています。(図3参照)年輪年代法に狂いがあると大きなミスになります。光谷氏は年輪年代の詳しい情報を公開していないので、多くの学者が年輪年代法を利用できないのです。考古学者も確認もできません。事実、安本・新井・石井・鷲崎氏は年輪年代法も100年新しい方にズレテいると考えています。纏向石塚の古墳については序文の10人の科学者の100年説の他に、私の独自の⑦件の疑問があります。これを箇条がきしましょう。
 ①.年輪年代法で195年頃の築造期であるとすると(16)、この頃に大和には鉄器の出土はありません。195年頃、鉄鋤・鉄鍬・鉄刀子・鉄ヤリガンナ・鉄鑿・鉄錐・鉄斧・鉄鏨・鉄鋸・鉄鏃・鉄矛・砥石・鉄鎌等ないのです(1)。木材など切れるわけはないのです。年輪年代法の結論は間違いなのです。石塚古墳の築造期は、表皮部分の欠落を見て195年頃の築造を考えています(16)。石野氏によると「私は布留式(290~300年頃)がやたらに多い事を述べています(18)。4世紀代の古墳と理解できます。
 石塚古墳の周濠から出土した鉄鋸の痕跡のある切り株があるという事を述べています。これも疑問が残ります。鉄鋸は大和では4世紀後半にメスリ山古墳(362年頃築造)に出土します(1)(29)。(図1参照)周濠から発見されており、立ち木が邪魔になったのでしょう。大和では、鉄鋸は4世紀後半に出土します(1)(29)。石塚古墳の築造期は3世紀初頭ではなく、4世紀後半でしょう。



図1.鋸の痕跡のある木材、石塚古墳の周濠から見つかっています。大和では鉄鋸は4世紀後半のメスリ山古墳に出土しています(1)(29)。

 ②.高射砲跡のコンクリ跡があるだけで、石もないのになぜ「石塚」というのか疑問に思っていました。過去に石棺が出土したという伝承があり(2)「石塚古墳」という事が分りました、寺沢薫氏の話で石棺は長持形石棺と思われます(1)。実例は日葉酢姫陵(382年築造)(29)櫛山古墳(386年築造)(29)の2件です。この長持形石棺は4世紀後半の石棺に違いないのです(1)。長持形石棺を作るには鉄鏨(たがね)が必要ですが、鉄鏨は4世紀後半に出土します(1)。実例は谷畑古墳(360年築造)に出土します(29)。
 ③.石塚古墳からは狐文円板が出土しますが、これもおかしいのです。(図2参照)これを作るにはヤリガンナ(1)は3世紀末の(見田・大沢古墳群)に1本(28)・4世紀前半に11本、4世紀後半に57本、大和に出土します(1)。鉄刀子は黒塚古墳(300年頃)に出土し、小泉大塚古墳(307年頃)、桜井茶臼山古墳(322年頃)に出土します。4世紀前半の大和に5本、4世紀後半の大和に99本と急激に増えます。鉄鑿は4世紀前半に1本、4世紀後半7本大和に出土します(1)。鉄鑿は小泉大塚(307年頃)に出土します。鉄鋸は大和では4世紀後半のメスリ山古墳に出土します(29)。鉄錐は4世紀後半に出土します、この5件の鉄器がなければ狐文円板はできません。それは4世紀後半でしょう。鉄鋸・鉄鏨・鉄錐は10代垂仁天皇(356~370年頃)の時代に出土します(1)。195年頃には、鉄製工具は大和には何も出土しないのです。(図3参照)その証拠に1次から8次の石塚古墳の資料からは1本の鉄器・砥石も出土していないのです。鉄器が出土しない事から3世紀末(290年頃)の古墳と理解できます。庄内0式(210~230年頃)から布留0式(290~300年頃)の土器があると、考古学の常識から、4世紀の古墳になります。大量の木製工具・木材の出土によって鉄製工具が出土していないのは不自然です。考古学者は時代を100年新しくした方がよいのです。鉄製工具・砥石があって、大量の木製工具・大量の木材が加工できるのです。(図3参照)弧文円板も鉄製工具が出土する100年後ならできますが、それは4世紀になってからです。(図3参照)

図2.狐文円板

 鉄製工具のない2世紀中頃(250年頃)に、弧文円板は完成できないのです。

 ④.鳥形木製品も刀子・ヤリガンナで整形しています。鉄製工器も出土しない時代では鳥形木製品もできません。鳥形木製品は速く見て4世紀、遅く見れば4世紀後半です。他にも木工製品に鉄製工具が使用されています。木工製品は石塚・勝山古墳から大量に出土するのです。鉄製工具もないのに大量の木製工具が出土するのは時代を100年間、間違えている証拠です。
 ⑤.石塚古墳からは纏向1式(200年頃)・纏向2式(260年頃)の土器が出土しています(23)。庄内0式(3世紀初頭=210年頃)から布留0式期(4世紀=300年頃)の土器があり(23)迷っているようです。迷っているなら、最新の土器が出土するのが築造期に決まっています、最新の遺物なら300年頃です。10人の科学者が指摘するように100年新しい方にズレテいます。
 ⑥.11個の二重口縁壺形土器を持った複合口縁壺形土器(布留式並行期=4世紀後半)は天井が腐って石室に崩れ落ちるといいますが、石野氏の意見どおりなら、これ以前に石塚古墳は築造されています。小型丸底土器(300年頃)が4点出土するなら、小型丸底土器を取るべきです。従って300年頃の築造でしょう。195年頃の板材なら、石野氏の言う議論にも疑問がでてきます。105年後に墓上祭祀をするのも不自然です。石野氏は「私は布留0式(300年頃)の土器がやたらに多いのは、布留0式段階に登場した大王の時に祖先を祭る一大イベントを行った、と考えます(18)。」それに対して橋本氏も「纏向遺跡築造記念大祝賀会」を認めているのです(18)。数字・文字のなかった時代に、105年後の祝賀会等あるわけはないのです。
 ⑦.3世紀初頭=200年頃から300年頃までなら、略100年誤差と考えてよいようです。安本・新井・石井・鷲崎氏も光谷氏の年輪年代法が100年ズレテいると主張しています。最新土器は300年頃であるからその時代が石塚古墳の築造期となります。10人の科学者は100年誤差を主張しています。以上の事から石塚古墳は少なく見ても4世紀代の古墳です。詳しく見れば4世紀後半かもしれません。鉄製工具が発見されていないだけかも知れませんので、遠慮して4世紀代とします。学者はこのような間違えないためにも第三部の座談会「纏向遺跡の課題」(40)という奇妙な座談会をしています。これは古墳前期の古墳ではなく、195年頃とした事に自信が持てないのでしょう。考古学者の間でも布留式は300年頃と認めているからです。


図3.大和の鉄器の出土年代・大塚初重編「日本古墳大辞典」(1)(23)(29)・川越哲志著「弥生時代の鉄器文化」(25)を厳重に調べたのが図3です。

 図3の説明をしましょう。図3の1-1は初代神武天皇の時代です。多くの鉄製武器が大和に出現します。武器を持った九州の勢力が大和に侵入した証拠となります。最初に鉄鏃・鉄剣・鉄刀が出現しているのです。日本書紀によれば武力によって長髓彦を滅ぼし、大和を占拠したとあります。大和平定後に皇都を橿原宮に造ったとあります。図3をよく見ると次に300年初頭に刀子・ヤリガンナ・鉄鑿が出土しています。3種の神器や鏡・絹・砥石・鍛冶工房が出土し、4世紀初頭(神武天皇の時代)になります。その後も鉄製工具が出土しています、この事は欠史8代の天皇はいないとはいえないのです。その証拠に鉄製工具・3種神器・絹等の贅沢品が豊富にあった事で、8代の天皇宮も作れるし、神武天皇が大和に移動した事を意味します。10代の崇神天皇に鉄鍬・鉄鋤が出土します(1)。この頃から大型前方後円墳が作られたと考えられます。鉄鎌が増えると人口も増えます(1)。四道将軍の時代に人口は大和・纏向に集まっています。10代崇神天皇の時代に人口は12万戸になります。人口の増加で大型前方後円墳が作れたのです。
 一方、大量の木製工具・大量の木材が出土するのは鉄器もない195~200年頃から出土するのは不自然ではありませんか?時代を100年間違えている証拠です。鉄製工具があるから大量の木製工具・大量の木材が加工できるのです。図3によっても大量の木製工具・大量の木材の不自然さが目立ちます。大型前方後円墳の築造期が4世紀後半である事が分ります。考古学と日本書紀の記述に一致があります。

2.勝山古墳も築造期は4世紀代

 勝山古墳の築造期は光谷氏によると、表皮部分の欠落を見て195年頃の築造を考えています。(16)。寺沢氏は王権誕生(31)で250年、280年(30)と差が大きいのです。石野氏の全国古墳編年集成は270年頃、大塚氏の続日本古墳大辞典では庄内2式期(260年頃)を主体とする遺物群と布留0式期(300年頃)を主体とする一群があるが、築造期の特定には決め手を欠くとあります。ここでも105年の年代差があります。安本・新井・石井・鷲崎氏の言う年輪年代法が100年新しい方にズレテいるのです。光谷氏が年輪年代法の詳細を開示しないので多くの人が疑いを持っています。日本情報考古学会に於て、彼は「定年後に発表すると宣言しました。」公開すべきではないですか? 考古学者が利用する方が賢明ですよ。大和・纏向遺跡の座談会の第三部の「纏向遺跡の課題」(40)でも光谷氏の年輪年代法に疑問がある事を論じています。(19)私の独自の⑧件の疑問があります。
 ①.勝山古墳から檜の板(41×26×25cm)が出土しています。(図4参照)
 この板は刀子・ヤリガンナ・鉄鋸が無ければできないのです。刀子は大和には4世紀前半に5本、4世紀後半99本程、出土します(1)。ヤリガンナは3世紀末の見田・大塚古墳群に出土します(28)。4世紀前半には11本だけ、4世紀後半に57本、大和に出土します(1)。
 鉄鋸は4世紀後半にメスリ山古墳に出土します(1)(29)。3件の鉄製工具が同時に出土するのは4世紀後半です。(図3参照)証拠に、1次から4次の勝山古墳の資料には、纏向3式新段階(350年頃)の鉄鏃が1本あるだけです。(②参照)他には刀子・ヤリガンナ・鉄鋸も出土しません。


図4.上の図は勝山古墳の檜の板です。良く見ると鋸、ヤリガンナ、刀子を必要としますが、これらの鉄製工具は195年頃には1件も出土しないのです。
 ②.勝山古墳からは纏向3式新段階(350年頃)の鉄鏃1本が出土します(32)。鉄鏃は大和には4世紀前半に急に211本出土します(1)。3世紀末の宇陀郡の見田・大沢古墳群に3本見られるだけです。4世紀前半なら211本の鉄鏃の1本と考えられます(1)。神武東征と考えられます。4世紀後半になると大和の鉄鏃は63本と急激に減少します。これは四道将軍が地方に持っていったからでしょう。
 ③.勝山古墳からは石臼が4件出土しています(39)。石臼を作るには鉄鏨が必要です。鉄鏨は4世紀後半に宇陀郡の谷畑古墳で出土します(1)。
 ④.①②③を見ると鉄製工具・鉄製鏃は4世紀前半、遅く見て4世紀後半でしょう。
 ⑤.勝山古墳からは庄内2式(250年頃)・布留式(280~350年頃)も見られます(23)。寺沢氏は庄内3式(280年頃)(30)とみています。この中に東海・山陰・北陸系の土器が混ざっているのも不思議です。鉄鏃が350年頃なら崇神天皇の時代ですから東海・山陰・北陸系の土器が混ざっていてもおかしくありません。四道将軍の遠征軍が使用した鉄鏃でしょう、考古学者の土器の見立てでも350-250=100年,纏向遺跡の年代を100年誤っている証拠です。
 ⑥.崇神天皇の時代(342~356年頃)に四道将軍が東海、北陸、山陰に出陣しています。この時に戦利品を纏向遺跡に持ち込だと考えられます。石野氏はこの件を忘れています。日本書紀によると、「崇神天皇の十一年夏四月二十八日、四道将軍は地方の敵を平らげた様子を報告した。この年異俗の人達が多数やってきて、国内は安らかとなった。」とあります。四道将軍は纏向遺跡から兵力を出陣して、東海・山陰・北陸に向った事が知られています。戻るのも纏向遺跡に帰てくるのです。安本氏は崇神を342~356年頃の天皇(1)といい、小原正哉氏も同天皇の推定没年を358年と算出しています(24)。いずれも4世紀後半の人です。卑弥呼の没年は248年ですから108年も以前の話です。纏向宮殿が卑弥呼宮殿のはずはありません(21)。10人の科学者の言う通りではないですか?纏向宮殿は垂仁の珠城宮と考えられます(21)。
 ⑦.勝山古墳からは砥石が1件出土しています(39)。この砥石は庄内3式期(290年頃)の砥石であるといわれていますが。砥石があるという事は鉄器があった証拠になります。光谷氏にいうように、195年ではありません、この時代に鉄器がないのは常識です。(図3参照)290年頃なら290-195≒100前です。①②③④の鉄製工具・鉄鏃・砥石を見ると290年~350年頃の築造と考えます。(図3参照)鉄器のない時代に大量の木材がでるのも不思議な事です?考古学者は時代を100年間違えている証拠です。橋本氏によると砥石の形状であるから砥石といっただけで、砥石で無い可能性もあると認ています(20)。290年も怪しいのです。
 ⑧.勝山古墳は「庄内2式期(260年頃)を主体とする遺物群と布留0式期(300年頃)を主体とする一群があるが、築造期には決め手を欠く(23)。石野氏の全国古墳編年集成は275年頃・寺沢氏の王権誕生では245年頃(31)、280(30)年と差が大きくズレテ論じています。新しい年代で築造期が決められるのです。この原則から300年頃の築造と考えます。10人の科学者が100年新しい方にズレル事から布留0式期(300年頃)が正しいと考えます。この古墳が光谷氏の3世紀初頭=200年頃は誤りなのです、195年の年輪年代法は100年ずれると300年頃の築造です。3世紀初頭(200年頃)から古墳時代ではないですよ。4世紀初頭(300年頃)から古墳時代なのです、従来の考えが正しいのです。これは明らかな光谷氏の年輪年代法のミスなのです。
 勝山古墳は発掘していないのです。地中レーダには何も見つかっていません。鉄製工具がないのに木製工具・木材が大量に出土する意味がわかりません。勝山古墳の築造期も100年新しい方にズレテいるのです。従って甘く見て4世紀前半、厳しくみれば4世紀後半の古墳と考えます。鉄製工具が発見されていないだけかもしれませんので、遠慮して4世紀代とします。
 学者は布留式が含まれているのに庄内期だというのは間違いです、考古学の常識をはずれています。特に光谷氏の年輪年代法を195年として、勝山古墳の築造期と捉えています。195年頃の鉄器は1件も発見できないのです。これが間違いの原因です、実際は100年新しい時代の築造期と考えられます。

3.纏向遺跡はいつ頃の物だろう。

 纏向型前方後円墳のホケノ山古墳、石塚古墳、勝山古墳を見てきましたがいずれも、100年程新しい時代と考えられます。4世紀代の古墳と理解できます。どれも3世紀の古墳ではありません。光谷氏の年輪年代の間違いが原因しているのです。考古学者は一体、何をやってきただという事になります。大和・纏向遺跡は、全くチグハグな理論です、考古学者の意見を聞いても布留式が出る事をいいます。これは300年頃の土器として知られています、考古学の常識にあわないのです。「纏向遺跡の課題」を見ると全員バラバラな意見を持っています。考古学者の間でも100年ズレテいるのです。これを手がかりにして纏向遺跡を探るには良い本ですが、完璧な本を望みます。
 石野氏は「2世紀末(195年頃)から4世紀前半(340年頃)の約150年間奈良県桜井市にその頃には珍しく大きな都市が栄えていた(26)。三輪山の麓にある纏向の地である。」と言います。この状況も光谷氏の年輪年代法が大きく影響しています。195年頃に石塚古墳が作られたと考えているようです。10人の科学者の意見は100年新しくズレテいると、4世紀初頭(300年頃)から纏向遺跡が発展し、考古学者の多くは布留式土器の時代といいます。古墳時代(4世紀代)の土器として認められている物です。195年頃の鉄器はみあたらないのです。4世紀後半(375年頃)に纏向遺跡は終了します。年輪年代法は非常に怪しいのです、100年ズレテいるのです。纏向が最大に大きくなるのは垂仁から景行天皇までの342~387年なのです。纏向遺跡の最盛期は45年間でしょう。纏向遺跡の古墳も4世紀代ですから342年~387年の45年間に入っています。石野氏の纏向遺跡首都論の150年説は長すぎます。大和の集落に150年首都があったのは、衛生状態の悪い古代では、首都を度々変える事があり、不自然なのです。
 代々の天皇の宮は10年毎に移動しています。纏向遺跡に150年間首都があったとは考えられません。纏向遺跡に近い位置に天皇の宮があったのは崇神・垂仁・景行天皇(342~387年)の3代だけなのです。この間、45年間程の都だったはずです。

結論

 10人の科学者が炭素14年代で予告したように、纏向の古墳は全て4世紀代である事が分りました。ホケノ山古墳の築造期は350年(石囲い木槨があるからです)、石塚古墳の築造期は4世紀後半、勝山古墳の築造期は4世紀後半が最もよいようです。年輪年代法の195年がいけないからです(16)。考古学者は光谷氏の年輪年代法の木材によって、195年頃の築造期を考えています。遠慮をして4世紀代としましたが、古墳によっては4世紀後半の物でしょう。
 纏向型前方後円墳の多くは布留式土器が出土する事を論じっています。考古学者は布留式の出土を300年頃と決めています。この矛盾は100年新しくずれていると言います。10名の科学者と考古学研究者が100年新しくズレル事と良く一致する事が分ります。
 光谷氏の年輪年代法が悪さをして考古学者を惑わしたと考えます。本論文は、鉄器出土と土器出土を見て、ユニークな視点で考古学をみています。科学・考古学・文献が良く一致している事が分ります。

文献

1.石井好、永井康寛、邪馬台国問題への解決、第一巻
「弥生時代~古墳時代の金属器の概観、柏葉書房、
2.森浩一企画・寺沢薫著・日本の古代遺跡・奈良中部・p92・保育社
3.安本美典、大崩壊「邪馬台国畿内説」、勉誠出版、平成24年12月、p(6)~(8)
4.佐々木泰造・C14濃度に局所的むら・毎日新聞2009年・平成21年7月28(火)夕刊 文化4
5.中村・新井・関川・安本・シンポジウム炭素14年代と箸墓古墳の諸問題・日本情報考古学会講演論文集(27回大会)Vol.7(2010)のp70~77.
6.中村・新井・シンポジウム炭素14年代と箸墓古墳の諸問題・情報考古学Vol.16 No,2,2010,p47~54
7.関川・安本・シンポジウム炭素14年代と箸墓古墳の諸問題・情報考古学Vol.17 No.1.2 、2011.p46~51
8.27回大会発表要旨・情報考古学Vol.16 No.1.2010・p48~49
9.鷲崎弘朋・年輪年代の問題点・日本考古学協会79回総会・20013年5月26日・p54~55
10.奥山誠義・奈良県立橿原考古学研究所・「ホケノ山の研究」・2008年11月刊、12年輪の小枝資料・図2
15.鷲崎弘朋・木材の年輪年代法の問題点・東アジアの古代文化、2008年・夏136号、p281~322
16.光谷拓実・纏向古墳群の年輪年代・大和・纏向遺跡(学生社)石野博信編・p312~318
17.石野博信編・橋本輝彦著・学生社・p248
18.石野博信編・石野・橋本発言・学生社・p455
20.石野博信編・橋本輝彦・石材・学生社・p368・砥石の疑惑
21.石井好・纏向宮殿は卑弥呼の宮殿か?・日本考古学会協会第80回総会研究発表要旨・p176-177
23.大塚・小林編・続日本古墳大辞典・東京堂出版・平成2年9月・纏向遺跡p440
24.小原正哉・古代帝の生物学的年代年次・歴史研究616号・2013年11月号、p99
25.川越哲志・弥生時代の鉄器文化・雄山閣・1993
26.石野博信編・石野博信著・学生社・p63・纏向遺跡のイメージ
27.樋口隆康・古鏡・新潮社・昭和54年・B型は4世紀代・p343
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31.寺沢薫著・王権誕生・講談社学術文庫・2008年12月・p331
32.石野博信・大和・纏向遺跡・学生社・鉄鏃p258
34.石井好・日本考古学協会第79回総会研究発表要旨・p172~173・漢鏡7期の不思議
35.奈良県橿原考古学研究所編・ホケノ山古墳調査概報・2001年5月・学生社・第2次調査・p35・AMSの結果・250年説
36.大塚初重・古墳と被葬者の謎に迫る・祥伝社・平成24年9月・第一講・p50~78
37.石野博信・大和・纏向遺跡・学生社・p449・のかつぎ銅鏃
39.石野博信編・大西貫夫著・大和纏向遺跡・学生社・石臼・砥石p265
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					最終更新 平成26年7月19日