『邪馬台国山陰説 要旨』

												田中 文也

1.はじめに

 世界中で、日本の国の歴史だけがわかっていないという事態は、国家的・民族的課題であり、人類社会の最終課題の一つである。過去の日本の歴史論争は、記紀の「古代史論争」と、魏志倭人伝に基づく「邪馬台国論争」の2つに、考古学の分野が絡んできた。
 私は、文字を持たない日本の古代文明の謎を解くには、自然科学、歴史学、考古学、民俗学、外国の文献などの全ての学問分野を網羅して、総合的に研究解析する必要性があると判断し、科学的検証作業を行ってきた。そして、30年余前から「邪馬台国山陰説」を提唱してきた。以下、簡単にこの概要に触れ報告としたい。

2、自然科学からみた古代日本の様相(記紀に記録された地球環境と生物多様性の問題)

 地質学・地理学・地球物理学等の分野では、6000年~7000年前をピークに「縄文海進」という気候変動が記録されている。当時は、少なくとも現在より海水面が25メートル程度高くなっていた(2013年山陰古代史研究会調査結果)。

【縄文海進のイメージ図】

 したがい、日本列島の平野部は全て水没、海進が始まる14000年前から海進が終わる2400年ほど前までの約12000年間、日本人は山か高台の地域に住でいた。
 この事実が、かつて「遠い祖先が住んでいた地域が、今自分たちが住んでいる平野部よりも高い、高原や山か高台の地帯であった」と、伝承されて1300年前にまとめられた記紀や風土記等に、「高天原」として書きとめられた。「佐渡島を双子に産んだ」「吉備を児島に産んだ」など、古代の地球環境の変動の記録が、記紀には正確に残されている。

   佐渡洲を双子に産んだ   吉備を児島に産んだ

 この過去の地球温暖化データは、今後人類社会の共通テーマとして貴重であるばかりか、世界記憶遺産に相当する価値を持ち、人類共通の宝物であるということがいえるだろう。
 次に重要な自然科学分野の要件は、生物多様性や動植物層の存在形態である。日本列島は、縦に細長い島国で、北海道は亜寒帯に、沖縄は亜熱帯になっており、その中間の鹿児島から青森までが温帯地域となっている。
 国際機関の調査では、日本列島は地球表面上でガラパゴス諸島の111種よりも130種と固有種が最も多い地域で、地球全海洋面積の0.9%しか占めない列島に、14.6%の海洋生物が生息していることが判明している。この結果、列島の中間地点である山陰地方には、北の動植物層であるコハクチョウと南の渡り鳥であるオオヨシキリが同時に生息しており、島根半島では、サンゴ礁や熱帯魚が棲み、夏には海ブドウも取れる。この様子は、出雲国の風土記に「年中自然に市が立って、遊び呆けて帰ることを忘れる場所」と記録されている。山陰地方は、地球環境の中で唯一、南方種と北方種が同時に生息できるため、365日常時食糧に恵まれていた。この動植物層の多さ(豊富な食料)が、農耕が出現する前から定住を保障し、世界最古で人類社会初の日本古代文明を、地球上にはぐくむ条件を作ったと考えられる。

        北のコハクチョウ         南のサンゴ礁           南のオオヨシキリ


3、歴史学からみた古代日本の様相(歴史学の科学的総合的検討)

 国書である記紀の神代の記録は、ほぼ100%山陰地方の話しとなっている。古事記では、3つの旧国(稲羽、伯耆、出雲)の場所が具体的に書かれている分量は85%にのぼり、山陰以外の他の日本列島の地域のことは書かれていない。したがって、日本国家の公式記録を見る限りにおいて、この国は山陰地方を中心に出来上がったと理解できる。
 また、記紀には「天津神」と「国津神」という2系統の神々が居たと書かれ、「国造り」と「国譲り」の伝承が残されているが、これは世界中でも日本の国にしか存在しない大変特殊な物語となっている。
 これまで、天孫が降りたった「高千穂」は、九州の「宮崎県」といわれてきたが、これは全くの間違いである。記紀に書かれているストーリーを順に整理すると、国譲り後高天原から天孫が降臨する場所は、①唐国に向かって東の日と西の日が同時に当たる場所。②ニニギノミコトは、浜辺で木の花咲くや姫と石長姫を紹介された。③海幸彦と山幸彦の話は、海辺を舞台に展開。④ウガヤフキアエズノミコトの話も、浜辺(海辺)の出来事。⑤神武天皇は45歳の時、船団を組んで高千穂の宮から大和に向かって出航した。⑥神武天皇の船団は大分県の宇佐(宇佐神宮辺り)に着くまでに「30日と5日間かかった」と書かれている。つまり、この記述からは、高千穂の宮は九州南部の山岳地帯ではなく、山陰地方の海辺(図の楕円の範囲)にあったと理解することができる。

 さらに、古事記、日本書紀、神賀詞、出雲国の風土記の4つの文献情報を、横断的・総合的に解析すると、もともと次頁の図のような関係にあったと考えられる。
 つまり、口承で残されてきた膨大なデ―タ群を基に、記紀の編者達は、異なる文体と様相で、4つの文献に役割分担をさせてまとめたのである。日本書紀は、当時の国際語であった漢文でそのまま書かれ一般の日本人には読めなかった。古事記は、漢字1文字を日本語の音1つに当てはめる「和文体」で書かれており、日本人にでも読めるように工夫された。神賀詞は、天照大神とその息子の天穂日命との親子の会話で、現在の祝詞の原型となった。延喜式後存在が明らかになったが、本来は文章では記録されないハズの身内の会話だった。

 この一連の作業の中で、図のように出雲の国の風土記には、「国譲り神話」だけが3か所にバラバラに差し込まれた。これは、4つの文献の調整が行われた証拠である。この4つの文献を、一体の文書群と理解し、科学的・横断的に検証しない限り、今後の歴史学研究の進展はないであろう。

4、考古学からみた古代日本の様相(考古学データの科学的総合的検証)

 「天津神」は、天津神の神殿として、「9本柱の掘っ立て柱方式」の建物を建てていた。これが、現在の神社の原型であり、私たち日本家屋の原型である。記紀には、杵築の大社も「天津神の神殿」であると書かれている。この分布を整理すると次の図のようになる。

【天津神の神殿の分布図】
 天津神の神殿は、中国山地に多く、一部が出雲地方にもあることがわかる。出雲地方の分布は、記紀に書かれた通り、天津神が未来永劫国津神を祀るために、国譲り後に降りてきた証拠と考えられ、これは記紀の記録と一致していることになる。

 上の図は四隅突出墳丘墓の分布である。国津神は、最先端の科学技術、青銅器や鉄器を造る技術、薬草を使う医学技術、水稲稲作の指導を行う農業技術等を持っていた。この国津神は、数学的知識も持っていたので弥生時代の前半には「方墳」を、弥生時代の後半には「四隅突出墳丘墓」を作り、これは山陰を中心とした日本海側に広く分布し、次の古墳時代を準備することになった。次にこういった日本の一連の考古学的文明指標の発掘状況を、全て分類した上で整理すると、下のような一覧表が現れる。

 勾玉は石器時代から使われる世界最古の文明指標で、日本が世界最古の文明であることを表している。糸魚川のヒスイが使われていたが、弥生時代に玉造のメノウも使われ、古墳時代には糸魚川のヒスイから玉造の花仙山のメノウに全て置き変わる。銅鐸、銅剣、銅鉾の青銅器群は、祀りごとに使われていたが、古墳時代の前に廃絶され日本中で埋納される。山陰を中心に展開していた方墳や四隅突出墳丘墓は、古墳時代には「前方後円墳」や「前方後方墳」に変化し全国に展開する。断裂Aで一度途方もない変化があったことがわかる。次に古墳時代が失敗し、古墳の廃絶が行われた結果、断列Bが現れる。日本の国を治める文明指標である古墳を無くした代わりに、当時世界最先端の中国の文明、文化、法律、宗教、文字等を輸入し、日本の国をリセットして造り変えた。この政策により、ようやく大和朝廷は日本を中央集権制の統一国家として治めることができた。山陰地方から出土する大量の青銅器群と鉄器群は、山陰地方がかつてこの国の中心であった証拠といえる。

5、民俗学からみた古代日本の様相(民俗学の科学的総合的検証)

 記紀には、サイエンスとテクノロジーの記録だけが書かれていないが、これも日本だけの特殊性である。民俗学の分野である鉄の伝承記録「金屋子神話」には、記紀には書かれていないサイエンスとテクノロジーの記録である「製鉄」の話が書かれており、この記録と鉱物資源と製鉄の神々の分布が一致する。また、日本の民俗学的伝承の一つに「神無月」「神在月」の伝承がある。ある特定の時期にその国の全ての神々がいなくなり、ある特定の地域に集まるという話は、世界中でも日本の国にしか存在ない極めて特異な伝承だ。これは、「暦」になって現在まで語り継がれており、鹿児島県から青森県まで日本中に伝承行事が残っている。これと対応する話は、「春になって田んぼにやって来て稲作を見守り、秋に稲刈りが終わると帰っていく」という「田の神伝承」だ。民俗学の分野を全て整理すると、田の神伝承には二通りのストーリーがあることがわかる。1つは田の神は「春になると山から来て山に帰る」という伝承、もう1つは「春になると出雲から来て出雲に帰る」という伝承である。後者の「出雲から来て出雲に帰る」という伝承が、「神無月」「神在月」の暦の元になったと考えられる(現在、前者は山の神になっています)。
 さらに、日本中の山の中で「セン」と呼ぶ山の85%は、山陰両県の県境に集中している。山を「セン」と呼ぶのは、古代中国の「呉音」(漢音と唐音の前)の発音で、日本の古代に山陰地方を中心に古代中国の呉音を発音して使用する集団が、かなりの期間居住していた可能性が指摘できる。
 彼らは、国書では「国津神」と書かれ、全国の風土記には「オオクニヌシとスクナヒコ」と書かれ、民俗学的には「田の神」と呼ばれ、各家庭では「大黒柱」として、今でも日本中に鎮座している。つまり、春になると全国各地に出かけて、稲作の指導や金属器の作り方・漢方による医術などの数々のサイエンスとテクノロジーを伝えて回って、秋になると山陰地方に戻ってきていた集団がいたことを、国家のレベル・地方の国々のレベル・地域の隅々のレベル・1人1人の国民のレベル等のそれぞれ異なるレベルごとに、日本人は明確に忘れることなく、今日まで記録し残してきたことになる。しかし、これらの記録レベルが異なっていたためと、それぞれの情報を研究する学問分野が異なっていたため、別々の話として受け止められてきた。横断的で総合的な解析が行われてこなかった結果である。

6.外国の文献からみた古代日本の様相(国外の情報の科学的総合的検証)

 邪馬台国論争は、「魏志倭人伝」をほぼ唯一の根拠に行われ、東大と京大が科学的検討を経ないまま、距離と方角の読み替えを行ったため、今日まで迷走を続けてきた。この方法論を続ければ、迷走は未来永劫続き、永遠に日本の古代史の謎は解けることはないだろう。
 しかし、三国志前後の文献情報を良く読み込むことで、邪馬台国の位置を推定することも可能となる。倭人伝には、当時日本の国は「もと百余国あり、使者訳の通じる国30国余の代表が集まって相談した結果、1女子を共立したら日本の国が治まった」と書かれている。事実「女王国」の影響の及んでいる国は29国(30国余)である。この29国の中で、最初の「始めて一海を渡る千余里、対馬国に至る」から、不彌国までは、旅程が当時の中国の距離の単位である「里」で示されているが、それ以降は距離の単位が「月・日」に変わる。「倭人は距離を知らずただ月と日も持って示す」と書かれている通り、不彌国までは中国の距離の単位で表され、その後は倭人の距離の単位で表されていることになる。したがって、不彌国までは中国の「里」で示すことができたが、不彌国からは中国の旅程単位で表すことが出来なかったために、倭人の「月・日」を使ったと考えられる。
 倭人伝は「伊都国は郡使の往来常に駐まる所なり」と書かれており、常駐の郡使が不彌国までは測量できて中国の単位が使えたが、それ以降は測量できなかったので、中国の単位では表せなかった。つまり、不彌国までは九州の中で、不彌国以降は九州から出た場所であると理解できる。又、不彌国から投馬国までは「水行20日」、邪馬台国までは「水行10日陸行1月」と書かれているのは、不彌国から投馬国までは「陸行」で行けなかったから陸行が示せなかった。つまり、海あるいは海峡を渡ったことが考えられる。そして、邪馬台国までは「水行」「陸行」の双方が書かれているのは、「水行」でも「陸行」でも行ける場所であり、国の一部が海に面していたことを表している。すると、不彌国以降の旅程は、北部九州からの日本海側ルートか、瀬戸内海側ルートのいずれかしか考えられない。
 ここで、頭を切り替えて考えてみる。大陸から日本を見た場合、倭国の中の国々をトレースすると、一番近い「対馬国」から順々に辿って行くのが自然である。大陸から離れた反対側の太平洋側や、内陸部の国から辿っていくことは考えにくい。不彌国以降は、物理的に測量ができない訳で、内陸国のことはわからないため女王国から以降は距離情報が無くなる。そうすると、大陸に面している国々、つまり、北部九州から日本海側ルートで順番に国を辿り、女王国の境界でリターンしてまた次の国を辿って行ったと考えられる。このルート(旅程記事)を示すと、次の図になる。



 結局このルートは、神武東遷と同じルートである。記紀の35日と、魏志倭人伝の30日との間の5日間の水行のずれは、対馬海流に乗るか乗らないかの差だと考えられる。魏志倭人伝の東行ルートは、対馬海流に乗り神武東遷の西行ルートよりも5日早く着いたという事を示している。

7.果たして、国津神とは何者か?(この国を造り、そして譲った集団)

 ここまで、膨大な自然科学の分野、歴史学の分野、考古学の分野、民俗学の分野、外国の文献記録などを総合的に解析してきた。すると、結局すべての情報は全く同じ事柄をとらえていることがわかった。では、日本の国を造ってくれたうえに再び譲ってくれた御礼に、天津神が天津神の神殿を建て息子を置いて未来永劫祀り続けると約束した「国津神」とは一体何者なのか。2000年近く経った今でも、天津神(天皇家)は、その約束を守り続けている。このテーマが、この国の謎を解く中心点になっていることがわかる。
 この問題を解くため、古代中国の文献を探っていくと「史記」に辿り着いた。「史記」には、始皇帝と徐福の話が書かれている。今から2200余年前、数百年間戦乱に明け暮れていた中国を初めて統一した秦の「始皇帝」を騙して日本にやってきた方士の話である。

【始皇帝の兵馬俑】

 始皇帝は、国家統一後亡くなるまでの10年間「不老不死」の薬を探すだけに費やし、中国全土をくまなく歩いた。中国には古くから「神仙思想」があり、「中国の一番偉い仙人が不老不死の薬を持っている」という考えで、その一番偉い仙人は「日本に住んで居る」という言い伝えになっていた。この国は「桃源郷」とも呼ばれている。
 神仙思想は、中国の大元の思想で宗教であり文化の源で、道教や儒教や墨教も発生した。
 この「神仙思想」に基づき、元斉の国の方子である「徐福」が、「日本の国に行って仙人から不老不死の薬をもらって来る」と始皇帝をだます。徐福は、一度日本に船出するが失敗して帰り、土産物として「五穀と百工と数千人の少年少女」を用意するようにと再び始皇帝をだます。始皇帝が用意した「五穀と百工と数千人の少年少女」を乗せた徐福の船団は、日本に向かって船出をしたまま帰ってこず、徐福は日本で王になったと書かれている。
 日本でちょうど弥生時代が急速に展開、水稲稲作技術が本州の最北端の青森県まで伝えられ、村々で青銅器群の祀りが行われ、医術や鉄器を始め日本全国津々浦々に様々なサイエンスとテクノロジーが突如として行き渡る「弥生時代」とちょうど重なる。
 私は、この徐福とその一団こそが、日本の国書では「国津神」と書かれ、全国の風土記には「オオクニヌシとスクナヒコ」と書かれ、民俗学的には「田の神」として日本中で祀られ、全国の各家庭では「大黒柱」として鎮座しているその集団だと判断した。
 徐福は、「百工と少年少女」をペアにして、春になると全国に出向かせ、秋になると報告のために帰らせていた。したがって、地方(風土記)では「オオクニヌシ(大人=百工)とスクナヒコ(子ども=少年少女)」と必ずペアで書かれ、民衆の中に深く溶け込み各家庭にまで入り込んだ。これらの膨大な文物や、当時日本には無かった数々の最先端のサイエンスやテクノロジーを中国から持ちこめる者がいたとしたら、そして、それを日本中にくまなく行き渡らせることが出来る者がいたら、それは徐福以外になかったであろう。

8.おわりに(日本古代史研究の重要性)

 日本古代史の謎を解く作業は、人類社会に残された最後の課題の一つで、日本だけでなく、人類社会全体にとって、極めて大きな意味のある作業である。日本の国は、世界最古・人類初の文明で、一度も王権の交代がなかったこと、さまざまな分野に情報が記録されていること、など、膨大なビッグデータ群がすべての学問分野に満ち満ちている。
 したがって、この国の歴史の解明は、人類社会の発展に貢献する事になる。これが、今日この国の古代史研究に求められる本当の使命なのである。
            以上

					最終更新 平成26年7月19日