『邪馬台国は何処にあったか? 魏の使者は帆船で博多湾に! 』

												丸地 三郎

「はじめに」

 文献史学からは解決しないとされた古代史最大の謎に、もう一度、文献から挑戦する。 その前提と考え方を示す。
① 邪馬台国・卑弥呼の名称は、中国史書にのみ現れ、それに由来する。 まず、これが前提となる。
② 邪馬台国の所在地が混迷する原因を明らかにする。
③ 原因を作った「誤った解釈」を明らかにする。
④ 魏志倭人伝を、常識に即し、実務的に解釈し、邪馬台国の所在地を明らかにする。
⑤ 加えて、見過ごせない誤った解釈:景初2年 3年の問題を正す。
 この説では、 魏志倭人伝の語句及び、方向・距離・水行/陸行を一切変更せず、全てそのままに、 邪馬台国へ到着が可能であることを示し、邪馬台国の謎 を解消する。 

1. 邪馬台国・卑弥呼の名称は中国史書にのみ

 邪馬台国・卑弥呼の名称は、魏志倭人伝(と、その成立後に記された中国の歴史書)にのみ記載されており、その根拠はこれらの書物にある。この書物上で邪馬台国の謎が解消できれば、この謎は全て解消したことになる。魏志倭人伝(と、その成立後に記された中国の歴史書)に由らない、邪馬台国論には意味が無いことになる。
 魏志倭人伝は、凡そ2000文字の漢字で記された歴史資料で、日本の古代の事象を初めて、しっかりとした内容を持って、しかも確定年代の記載された第1級の史料であることは、誰しもが認める処。この史料の解釈が問題となるが、日本のことを記した史料ではあるが、中国人の手によって、中国の視点で記述された史料であることを念頭に、理解し、解明する。
 尚、この倭人伝前半に記されている帯方郡から邪馬台国へ至る旅程は、後半に記されている帯方郡の太守弓遵の指名した建中校尉梯儁らが、詔書と印綬を持ち、倭国へ派遣された時の情報に基づいているものとして解明する。  

2. 邪馬台国の所在地が混迷する原因

 江戸時代の新井白石が、初めて合理的な魏志倭人伝の研究を開始した。魏志倭人伝の国名を日本の古典にある地名にあてはめ:対馬国→対馬国、一支国→壱岐国、末盧国→肥前国松浦郡、伊都国→筑前国怡土とした。本居宣長も研究を行い、これら比定は今日まで受け継がれている。 この時期から、九州説・近畿説に別れての邪馬台国論の論争が始まった。 その後、明治になって、有名な内藤湖南・白鳥倉吉の大論争が始まったが、両者は、伊都国までの比定に、特段の異論は示さなかった。更に、昭和から現代に至る各説、各論も、特段の異論を示していない。いずれの論も、他を圧倒する明瞭な論理と証拠で、外の説を否定して、邪馬台国を特定することはできなかった。そこで、文献史学で解明できないとし、答えを考古学に求めたが、更に、混乱は深まった。 
 何が混乱の元凶か?を考察する。唐津に上陸後、魏志倭人伝の旅程の通りに東南500里陸行することが、地形が険峻で、不可能であることから始まる。次の地点の筑前国怡土(糸島半島・前原市)へは東北になる。従って、魏志倭人伝中の方位(東西南北)及び/又は陸行・水行を変更することが必須だった。

図1

 そこで、旅程の記述が間違っていると断定し、旅程は信頼できない、(デタラメだ)とし、自説を展開するにあたり、旅程の一箇所、又は複数箇所の変更が当たり前となった。旅程の変更を前提とし、方位、距離、水行・陸行を適宜、変更すると、日本中何処へでも邪馬台国をもって行けることになった。
 この魏志倭人伝の記述は、信頼性を欠くとして、「旅程は変更すること」とした前提が混迷の原因。

3.原因を作った「誤った解釈」

 上記の如く、新井白石、本居宣長以来、旅程にある九州上陸点を唐津付近(松浦郡)としている。その理由を探ると、日本書紀及び古事記の神功皇后に関する記述の中に、両方に同じ様な記述=玉島の里で「鮎を釣る話」が見つかる。記紀の二つの話は同一であるとされ、肥前の松浦(めずらの国)と筑紫の末羅国は同じとされた。唐津には玉島神社があり、位置が明瞭なため、九州上陸地点の末盧國は、松浦(唐津)とされた。 明治時代の白鳥倉吉・内藤湖南の大論争でも、両者共、末盧國は唐津に違いないとした。先駆者、権威者がいずれもが唐津に一致したことで、これが定説となった。
 そこで、この神功皇后の「鮎を釣る話」を、日本書紀と古事記の両方の時間軸と空間を考慮し、調べてみた。
 この時期、神功皇后の主要な行動範囲は博多湾の香椎宮と筑紫平野の旧夜須・甘木地区の松峡宮(まつおのみや)を結ぶ地域にある。松浦・唐津へ訪問は、兵を募る時の一度である。新羅からの帰還後も、香椎と松峡宮の付近を行動した。

日本書紀の記述(日本書紀(二)坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋 校注 岩波文庫)。
 『夏の四月の壬寅の朔甲辰に、北、火前国の松浦県に至りて、玉嶋里の小河の側に進食す。是に、皇后、針を鉤を為り、粒を取りて、餌にして、裳の縷を抽取りて、川の中の石の上に登りて、鉤を投げて祈ひて曰はく、「朕、西、財の国を求めむと欲す。若し事を成すこと有らば、河の魚鉤喰へ」とのたまふ。因りて竿を挙げて、及ち細鱗魚を獲つ。「希見しき物なり」のたまふ。希見、此を梅豆邏志と云ふ。故、時人、其の処を号けて、梅豆邏国と云ふ。今、松浦と謂ふは訛れるなり。』

古事記の記述(古事記 倉野憲司校注 岩波文庫)を示す。
 『その懐妊みたまふが産まれまさむとしき。すなわち御腹を鎮めたまはむとして、石を取りて御裳に纒かして、筑紫の国に渡りまして、その御子は生れましつ。故、その御子の生れましし地を号けて宇美と謂ふ。またその御裳に纒かしたまひし石は、筑紫国の伊斗(いと)村にあり。また筑紫の末羅県の玉島里にいたりまして、その河の辺に御食したまひし時、4月の上旬に当たりき。ここにその河中の磯に坐して、御裳の糸を抜き取り、飯粒を餌にしてその河の年魚を釣りたまひき。その河の名を小河と謂ふ。またその磯の名を勝門比売と謂ふ。』

 日本書紀の話は、兵を募るパフォーマンスで、古事記の話は、帰国後の出産とその産後の肥立ちの良さを示す、楽しいピクニックの話で、この二つの話は、別個の良く出来たストーリーで、時間と空間を異にしている。勿論、肥前の松浦と筑紫の末羅国は違う土地となる。従って、倭人伝の末盧國を、一概に、松浦:唐津とする理由は成立しない。伊斗村・伊覩県の名称もあり、むしろ筑紫の末羅県が地名の類似性では注目される。 その場合、博多湾が上陸地点になり、陸行東南五百里も、全ルートの展開も可能となる。 
 又、古代の貧弱な舟と航海術では、目の前に見える陸地に行くのが精一杯で、壱岐の島から直接みることができない博多湾に直接航行することが、本当に可能かと云う心配する向きもある。その可能性を調べるため、魏とそれに係る国々につき、その時代の前後の行動と状況を、船舶と航海技術に注目しつつ、明らかにする。

4.魏志倭人伝を、常識に即し、実務的に解釈



図2

 日本では、卑弥呼の時代は、弥生時代が終了し、古墳時代に移行する時代。
 一方、中国の方では、三国志の終盤に近い時代。魏志倭人伝は、中国の書ですから、中国の三国の時代をまず理解する。 そのため、倭人伝から年代を確認する。
 ?西暦 238年(景初2年)6月
 卑弥呼 使節(難升米)を送る。
 ? 同 238年(景初2年)12月 魏の明帝は
 「親魏倭王」の称号と「金印紫綬」を与る。
 ?西暦239年
       記載なし
 ?西暦 240年 (正始元年)帯方郡の太守弓遵は、使節長として、建中校尉梯儁を、邪馬台国に訪問させた。
 三国志演義のハイライト場面に赤壁の戦いがある。10万とも云われる水軍の大船団が炎上する。水軍の活躍が目立つのが、この時代。その主役である諸葛孔明が未だ元気で、西方の蜀を治めていた時に、魏の皇帝の明帝を悩ませていたのが、北方の公孫氏。漢の時代から任命された地方官の公孫氏が叛乱し、独立を宣言。しかも、魏が敵対している呉と結んだ。呉は、三日もあれば、水軍を遼東半島を含むどの地域にも派遣できると豪語。明帝の派遣した軍が公孫氏に全滅の憂き目に会うなど、主な敵の蜀と呉に加えて、新たに生まれた敵に、明帝は頭を悩ませていた。

図3

 西暦234年五丈原の戦場で諸葛孔明が死亡。直ちに司馬仲達は、30万の兵を引き上げた。そして、公孫氏攻略の手が打たれた。237年(景初1年)の明帝記((注)1)に次のような記載がある。「4州に命じて、大いに海船を作る。」更に、魏書第三十烏丸鮮卑東夷傳((注)2)にあるように「密かに、船で朝鮮半島に、軍を送り込み、地域を掌握し、楽浪郡と帯方郡を立てた」。
 (一般的に南の呉は船舶は有名であるが、魏にも船舶の建造と操船の技術が存在していた。山東半島の斉の国は、塩・鉄の産地で、造船・海運・海軍の技術の最も進んだ国で、優秀な海軍を持っていた。魏はこの地を領有していた。)
 魏は遼東半島の東側を制圧したことにより、公孫氏の退路を絶った。
 魏書 二公孫陶四張傳 公孫度の景初2年の項((注)3)に記すように、司馬仲達本人が、景初2年に、公孫氏撲滅の軍を遼東の拠点の襄平に進めた。6月には、襄平の城にこもった公孫氏を完全包囲した。30日の長雨で、更に進軍することできなかった。7月には公孫氏側は、兵糧が尽き、餓死者多数との凄惨な状況となり、8月に公孫淵親子は囲みを破って脱出したが捕まり、斬殺された。
 この間、呉は援軍を出していない。魏は30万の兵を戻しているが、公孫氏討伐に向けた兵は4万で、十分な兵力を温存しており、うかつに呉も動けなかったと推察。

 6月、公孫氏の軍が襄平に完全に包囲された時期に、そこから500km以上離れた帯方郡に、卑弥呼の使者の難升米等が到着。魏の帯方郡は、落ち着いた戦況とは云え、決戦前で緊張状態のため、帯方郡の護送兵を付けて、難升米等を、魏の都・洛陽まで送り届けた。
 頭痛の種だった公孫氏を滅ぼし、終戦処理を終えた処で、明帝は、12月に難升米等と会い、卑弥呼を「親魏倭王」とし「金印紫綬」を授け、過分の贈り物を与えた。詔書と金印紫綬は、帯方郡の太守の出す使節が行き直接卑弥呼に渡すこととした。
 ここまでが、卑弥呼の使節の難升米一行が明帝に会うまでの緊迫した状態で、更に、魏の使節が出発するまでの、更に、緊迫した魏の状態を記し、倭人伝の理解と解釈の基とする。

 明帝が、難升米等に会ったのは12月。次の月の景初3年1月に明帝が突如死去する((注)4)。この混乱が乗じて、呉は、船で、遼東に派兵し、魏の守備隊を破った。これが3月のこと。(三国志・呉志赤鳥2年春三月の項に記す((注)5))
 魏は内部の問題と共に、外敵に対応を迫られた。遼東を奪回するのに、また、兵力を割いたと思われるが、特に残っている記録は見出せない。この年は、魏の使節が卑弥呼に向けて出発することはなかった。
 翌年、西暦240年(正始元年)に魏の使節は出発した。

図4

卑弥呼が使者を送ってから、魏の使者が来るまでを整理する。
 238年(景初2年6月)卑弥呼使節を帯方郡に送る。   
      帯方郡太守劉夏は都に使節を送り届けた。
 同年12月 魏の明帝は、卑弥呼使節に面会。
       詔書・金印紫綬等を帯方郡太守に託した。
 239年(景初3年1月) 魏の明帝が死去 
 239年 3月 呉は、海路、遼東に派兵、守備隊を破る。
 240年(正始元年) 帯方郡の太守弓遵は、梯儁を
            使節とし、邪馬台国へ派遣。

5.景初2年 3年の問題

ここで、先に、景初2年・3年の問題に触れる。卑弥呼が難升米を使節として送ったのは、景初2年と魏志倭人伝には記されているが、それは誤りで、景初3年とする説であり、広く認められているようである。理由は、①景初2年6月は戦乱の最中で、使節を送ることは出来なかったはず。②魏の返礼が使節の訪問が正始元年で2年後で間が開きすぎている。③日本書紀の神功皇后の処の記述、魏書に云はく、明帝の景初3年の6月に倭の女王が難升米を派遣とされる。
 3年とする説の理由を検討してみると、①の戦乱に関しては、確かに戦乱の期間中であるが、卑弥呼の使いが派遣された6月には、公孫氏の軍は、居城の襄平で包囲され、その外の地域では戦闘は行われておらず、すでに体勢は決しており、倭から帯方郡へ行くには支障がない状態。又、帯方郡が難升米等に護衛兵を付け、洛陽まで送ったことは、戦乱の期間であることで納得が行く措置で、2年6月であることを示している。 ②の2年後で間が開きすぎに関しては、翌年は、明帝の死亡とそれに乗じた呉の遼東占拠の戦乱があり、魏が使節を送ることが出来なかった十分な事情があったと云える。逆に3年6月では、呉の遼東占拠が3月であることから、将に、戦乱の最中で、危険すぎる状況で、使節は送れない。③日本書紀の記述は、明帝の平成3年6月と記し、明帝の1月死亡の事実と反する信頼性のない記述を基に、一級の史料を訂正することは、歴史研究の基本に反する。
 以上の理由で、景初3年と改める説は誤りであることを明らかにした。

6.魏の使者 一行

 さて、魏の使節について論を進める。帯方郡の太守弓遵に使節として建中校尉の梯儁が選ばれた。この梯儁の立場に立って、魏の使節について、実務的に、考えてみたい。
 使節は自国の皇帝の代理で行くものであるため、それなりの権威を示し、且つ安全に実施すべきことで、もし、金印や贈答品を他国や賊に奪われたとすると、魏の権威にかかわる失態となり、使節の長の梯儁の責任は重大で、死罪に値するものだったと想像する。帯方郡太守の責任も重い。
 建中校尉の梯儁は、最低限、この位のことは、考慮したはず。
 ●情報収集 :邪馬台国について
 ●人員数・荷物量の検討
 ●安全に・確実に到着できるか? 
 ●交通手段
 ●ルート
   ●朝鮮半島の内陸ルートは可能か?
   ●海上ルートは可能か?
   ●季節は? 
   ●航路・水先案内は?
 ●邪馬台国への事前連絡 
 実際には、女王の使者達から、邪馬台国と、邪馬台国へ行くルートなどの情報収集を実施、更に、水先案内を、女王の使者に依頼。人員数・荷物量は、正使・副使、軍事参謀の外、十分な兵員、荷物運搬員など数百名規模となったはず。
 貨物としては、贈答品、儀礼用正装・兵器・食料など大量になる。安全性を検討した結果、戦乱収束直後の朝鮮半島の陸地ルートを避け、海上ルートを採用。しかし、帯方郡は制圧したが、その南の地域は未制圧。未知の地域で危険なため、帯方郡の最大級の大型帆船を2-3隻を使用 (上陸用舟艇を用意)更に、小回りの聞く小型・中型帆船数隻。季節は、初夏(風良く、台風の時期の前に戻れる時期)。海上交通・輸送の原則に従い、ルートは、陸上通交距離の最も短い処まで、帆船で行く。上陸後は、荷物を担ぎ、徒歩(馬を船で搬送し、使用することも、当時は出来たが)。 そして、先発隊を出し、邪馬台国へ事前連絡し、受け入れ態勢を準備させた。
 戦乱の未だ最中とも云える、朝鮮半島を抜けて、未知のその先にある邪馬台国へ行くためには、万全の体勢を採っただけではなく、今後発生する不測の事態・反乱などに備え、途中の朝鮮半島領域の情報収集と分析を行う目的も持って、帯方郡の軍人は行動したと考えるのが現実的、実務的。

図5

 さて、そこで使節がどんな船舶を使用したのか? 決して、彼らは、倭の使節の難升米達の船に便乗するようなことは考えない。 勿論、自国の最適な船舶を採用した。楽浪郡・帯方郡の占拠に使用した海船も十分なサイズと装備をもっていたはずで、100人乗り以上の大型帆船が使われたと推定する。紀元前200年の頃の秦時代の船舶でも、全長30m以上の帆船が多数建造された遺跡も発掘されており、400年以上後で、赤壁の戦いなど、船軍が活躍する三国志の時代には、更に大型で進歩した帆船があったと考える。
 中国の船舶は、ジャンクと呼ばれ、かっては、たいした性能を持たない船舶と過小評価されて来たが、明の時代に鄭和が行った大航海などから見直しされている。勿論、風上に切り上がる帆走も可能で、安全性の高い船体構造も評価されている。

図6 ジョセフ ニーダム著 『中国の科学と文明』 巻11より

 又、大型の帆船は、上陸用の舟艇を搭載しており、上陸地点に港湾施設が無くとも、人員・貨物の上陸・荷揚げには支障が無いことは、常識。 魏の使節は、十分に準備を整えて、大型帆船群で出航したとみる。

7.旅程

 倭人伝の記述などから考え、使節の長:梯儁は、次ぎのような行程をとって、邪馬台国へきたものと考える。
 帯方郡を出帆した魏の使節一行は、海岸沿いを有視界航行で、日中のみ航行し、一日に約千里進む。実際の航行は7日・7回の航海で朝鮮半島の沿岸を南下、東行し、途中の港々では、Ⅰ日・2日停泊し、補給作業と共に、現地の状況把握・偵察を行いながら狗邪韓国(釜山付近)まで到着。

図7

 沿岸沿いでは無く、対岸の見えない海を渡り對馬に到着。先発隊を出し、事前に、訪問の告知をしていたため、邪馬台国・本国からの指示があったようで、對馬国は、長官・副長官が使節を出迎え、歓迎した。島内の案内を請い、実施。続いて、壱岐の国に上陸。ここも同様に、出迎えと歓迎を受ける。さて、次は倭国の本島(九州)へ上陸となる。航路案内のため乗船させた卑弥呼の使節が水先案内を行い、海流にり、島と島の間に隠れた博多湾の入り口を、指し示し、上陸点を指示した。現在今津湾と呼ばれる能古島の陰となる博多湾の西の部分。湾の状態を見ると良好で、船群がそのまま停泊し、使節がここへ戻ってくる迄の期間、安全に停泊できそうな地点。水深は十分にあり、周囲は、山がちの陸地と島で囲まれており、波浪の影響の少ない場所。海岸付近は海と山の間の狭い土地に家が並び、漁民が潜水して魚介を獲っているのが印象的だった。荷揚げ作業は、魏の使節の要請に応じて、港を管理する伊都国の役人が、地元の小船を動員し、帆船に搭載してきた上陸用舟艇と共に、作業し、無事に完了。荷揚げには、都合3日ほど掛かった。上陸地は末盧国と云い、周囲の山々に囲まれた平野にあり、水田や畑が広がり、住居がある豊かな土地と見えた。ここでは、港を管理している伊都国の役人が対応し、末盧国の役人は現れない。

図8

 魏の使節は、華麗な軍装の兵を並べ、魏の威厳を示しながら、陸上を東北へ向かう。途中、山塊の間のやや狭い平地が見えてくる。ここが伊都国。現在の大宰府市。魏の使節一行の宿泊施設があり、卑弥呼に会うまでの数日を過ごすことになるとのこと。
 伊都国の役人が魏の帝の下与品などの点検・検査を求めてくる。邪馬台国を訪れる全ての者に対して実施しているとのこと。制度の整わないはずの夷人の国から、しっかりした制度に則った措置を受けたことに驚きを感じた。
 卑弥呼の居る処は、もうすぐ近く、一日の行程とのこと、卑弥呼の側の準備が整うまで、数日待てと云い、その間、女王国手前の2国の奴国、不弥国へ訪問の手はずを整えているとのこと。
 伊都国に居る間に、伊都国、邪馬台国及び倭の外の国々について情報を収集する。伊都国は東西を険しい山に囲まれ、南北は、狭ばまった平野が伸びる要害の地で、近くの小高い山には見張り所があり、湾が一望でき、魏の船舶も監視できる。もし、叛乱があり、北側の方からの軍隊が攻めて来ても、監視が出来、山間に潜めた軍で守り易い絶好の地形。逆の南の平野には、邪馬台国を支えている奴国があり、その向うに邪馬台国がある。伊都国に置かれた人員が少ないが、要になる国。
 その南方の平野には大河が流れ、すぐ近くに海がある。河川・運河の便があり、船で南方までのルートがある由。その先に、投馬国はあると云う。

図9

 奴国へは、現在の筑前町(旧夜須町)で、一泊2日で掛けて訪問する。不弥国(朝倉市秋月地区)も一泊2日で訪問。各々、長官・副官の歓迎を受け、現地状況調査を行った。
 邪馬台国へ訪問。現在の朝倉市甘木地区。奴国・不弥国へ行く山際の道を再び行き、1時間半程で到着。西側に小石原川が流れ、南側に水田の広がる地域にある女王の住まう処は、城柵でしっかり囲まれ、樓観から見張り警備がされ、普段から厳重な警護がされている宮室が有った。

8.邪馬台国の所在地

 博多湾に上陸すると、邪馬台国までは、倭人伝の旅程の通りの方位と距離で間違いなく行き着く。その場所は、朝倉市甘木地区で、安本美展氏の提唱する地に重なる。その地は、平塚川添遺跡の近くで、遺跡も多く、鉄器・青銅器などの遺物も発掘された地区である。
 三国志・魏志の時代の技術・船舶について正しい理解を得ることで、魏の使節が大型帆船を使えたことを示し、帆船により到着した使節上陸地点を博多湾とすることで、記された旅程の通りに邪馬台国到達できたことは、古代史最大の謎と云われた邪馬台国の謎が解消したことになる。

9.幾つかの問題点

 因みに、従来の謎解きの中で問題となって来た幾つかの点について、疑問解消の試みを行う。
 a)景初2年・3年の問題 論中で解決
 b)短里の問題。
 c)周旋5千里
 d)投馬国
 e)水行10日陸行1月 12000里
 f)狗奴国
  b)の短里の問題は、魏志倭人伝の旅程で使われる里の距離は、中国の同時代で使われる1里=400m~560mに比べ極端に短い。對馬と壱岐の島の距離を千里とされることから換算すると70~75mとなる。この極端に短い里については、半沢栄一著の「邪馬台国の数学と歴史学」発行所株式会社ビレッジプレスに、中国古代天文学書「周髀算経」による里の距離と同一であることを示し、且つ、魏の明帝が即位した時に、その天文学と度量衡を採用したとのことが記されている。景初の数年間の短い期間だけに採用された特殊な度量行に準拠した短里との説が妥当なものと考える。因みに、半沢氏は、上陸地点を博多湾とし、甘木:邪馬台国説を採っていることは、アプローチの違いは有るが、同慶の至り。

図10


  c)周旋5千里をそのまま、1500里×1000里の矩形として、上記の1里=75mを当てはめ、図にする。
 邪馬台国と周辺国が入る矩形を示しており、妥当なサイズと認識していたことが判る。
  d)投馬国は、南へ水行二十日とある。運河・河川・筑後川・有明海とたどり、南に船で行けることから、南の遠い地点である沖縄又は宮崎県あたりではと考えるが確定はできない。投馬国は、魏・帯方郡に知られていた国名で有ったに違いない。
  e)水行10日陸行1月 12000里:は、魏の使者が邪馬台国へ到達するまでに要した日数が1ヶ月+10日=40日で、距離は12000里と考える。帯方郡から邪馬台国へは、1ヶ月+10日と12000里とする説が見られるが、単位の異なる数を足すことになり、論外。
 1ヶ月+10日の内容は、実移動日に加えて、卑弥呼との面会等の儀礼、地域の長官達との面談・調査、食糧などの補給、荷揚げなど、使節としての職務を実行に用いられた日数を加えてものと考える。表を参照。

表1

   尚、朝鮮半島沿岸の航行に際しても、調査を行ったものと推定。後日、反乱が発生し、帯方郡の太守弓遵が戦死したことからも、地域の調査が必須であったと考える。
  f)狗奴国は、倭人伝に記されるようにその南に存在したと考えられ、熊本地方を拠点とした国。その後裔が古事記・日本書紀に熊襲として記されたものと考える。      了


 ・魏志倭人伝:紹興本に準拠
 ・ 図6 及び 図7:思索社ジョセフ・ニーダム著 『中国の科学と文明』11巻 「航海技術」より引用
 (注)1:『三國志』魏書 明帝紀
   景初元年  七月の候に続いて
   詔青,en[冠亠脚兌],幽,冀四州大作海船。
 続いて、9月に洪水被害の件記載あり、海船建造の命令は7月から九月の間の発令と見る。
 (注)2:『三國志』魏書第三十烏丸鮮卑東夷傳
 景初中、大興師旅、誅淵、又濳軍浮海、收樂浪、帶方之郡、而後海表謐然、東夷屈服。
 (注)3:『三國志』魏書 二公孫陶四張傳 公孫度
 [四]景初元年、[五]二年春、遣太尉司馬宣王征淵。六月、軍至遼東。
 (注)4:『三國志』魏書 明帝記 三年春正月 [一]即日、帝崩于嘉福殿、[二]時年三十六。[三]癸丑、葬高平陵。
 (注)5:三國志 ?書一  孫破虜討逆傳弟一
 赤鳥 二年春    三月,遣使者羊[A155]、鄭胄、將軍孫怡之遼東,?魏守將張持、高慮等,虜得男女。

					最終更新 平成26年7月19日