『『先代旧事本紀』「国造本紀」にみる邪馬台国』


		

-仏教渡来以前の国のかたちー

志村 裕子

神道祭祀の奥深さにふれる『先代旧事本紀』

 邪馬台国は古代史研究への入り口と考える。第二次大戦の敗戦後、教科書には『古事記』『日本書紀』の神話や初期天皇の時代に関する記載がないので、文献によって日本の古代を学ぶには、中国文献から入る。しかし後代の中国文献では「天智死して、子の天武立つ」(『新唐書』)というような明らかな誤りも見受ける。究極の目標は、日本の国作りや日本人のアイデンティティーの探究にあるので、日本の古典・海外の文献・考古学・神社の祭祀や伝承・地名・自然地理などにより総合的に古代史へのアプローチを試みる。
 青山学院大学文学部日本文学科の教授をされた寺園司先生が常々おっしゃられたのは「書物の中の地名を決しておろそかにしないように。その土地の人々が書いたものを読んで足を運ぶこと」というものであった。日本神話にある「出雲」「諏訪」「沼河」などの地名に手がかりを得て、北日本や東日本の石器時代や縄文時代の日本列島の流れに及んで、古代史像を描くものである。
 上代の古典としては『日本書紀』『古事記』『先代旧事本紀』『古語拾遺』『万葉集』『高橋氏文』『風土記』など氏族や地方の伝承を記した古典が残されて、情報を補い合う。それぞれの氏族の立場の見解の相違はあるものの、天皇家の先祖は九州からきた、神武天皇は天照大神の後の時代の人である、天照大神の時代の都は大和にない、というストーリーの本質は矛盾しない。
 中でも『古事記』『日本書紀』とならび三代通史書とされながら、戦後は偽書とされて顧みられることが少なかった『先代旧事本紀』であるが、少なくともこの書物が“仏教渡来以前の国のかたち”を他の古典よりも鮮明に伝えているように思われるのは、これを編纂した物部氏をはじめとする古来の氏族が、日本列島各地の神社の神職や祭祀と関わり、その由緒を知る機会に恵まれることによる。仏教が渡来してから1500年以上が経過してなお、その信仰以上に日本人の精神生活に根付いている神道祭祀の歴史の奥深さは、縄文時代のアニミズム信仰に遡るのは確かであろう。日本神話の始まりに自然神として現れる。

「国造本紀」にみる河川と神社の重要性

 古今東西、河川は戦場となり、国境となり、あるいは反対にコミュニティを形成した。列島の背骨にある山地の森林からは無数の河川が流れ出し、それぞれの役割を担った。
 『先代旧事本紀』「国造本紀」には、主に第十三代成務天皇の時代に、日本各地へ派遣された135の国造のことが記される。中でも郷土千葉県は最多の国造が置かれ、古代の国作りの様相を知る手がかりを与える(表1-1、1-2)。洪水被害に見舞われがちな江戸川・利根川などの大河川下流域に国は少なく、中小河川ごとに国が形成されて、国造が配置される。各地の国造の状況も同様で、河川を上手に利用した国作りをする。大河川は上流下流、右岸左岸で国境となり、むしろその支流に国が形成されて国造が派遣される。その名称は地名になって、現在まで残る。
 また国造が委任された時代は、仏教渡来以前の時代であり、国造の由緒に因む古い神社がある。各地の国造は祭政一致の時代から、政治権を他者に奪われても、祭祀権のみは継承して、今日までおよんでいる例がしばしば見られる。さらに国造一族と伝承される古墳群などがあり、成務天皇の時代頃の活躍年代を想定しても、矛盾がない。
 こうした国造に関する河川・神社の配置は、それより1~2世紀遡る邪馬台国時代の国々の様相に示唆を与える。すなわち『魏志倭人伝』に記された国々のうち、対馬・壱岐などの地名は現在まで残り、末羅国の松浦川・奴国の那珂川・不弥国の宇美川・伊都国の旧糸島水道(古くは海峡)など、玄海灘に注ぐ河川流域の国々の地名が認識されるにつれて、残りの遠賀川の重要性を考えることになる。





朝倉地方と遠賀川流域は後世を通じて同じ国

 安本美典氏は古代の天皇一世代約十年という年代論により、卑弥呼と天照大神は同時代の人物である、と導かれた。そうであるならば、当時の日本列島に別々に存在した、とするよりも、同一人物としてとらえた方が、さまざまな事象を上手く説明できる、という仮説を立てられた。そして天照大神が活躍した高天の原の天の安河の地名を手掛かりに、筑後川流域の朝倉市・筑前町を掲げた。
 この朝倉市というのは、地理的に筑後平野と一括してくくるには、歴史的には微妙な地である。後世に吉野ヶ里のある肥前の国とは一線を画し、筑後川を隔てて筑後の国と分割された。むしろ遠賀川流域とは筑紫の国、筑前の国として古来一度も分かれていない。朝倉市周辺は、弥生時代の当初に遠賀川流域から入った立岩式石包丁と、奴国の版図から入った今山製石包丁による開拓が行われた。さらに金印奴国の時代の豪華副葬品をもった甕棺墓から、邪馬台国時代には北部九州の東部地域の文化である箱式石棺墓へ移行する。この朝倉市・筑前町が、『魏志倭人伝』に記された7万戸の「邪馬台国」と考えれば、筑紫の国として古来一度も国が別れたことのない、遠賀川流域と結びつけるのが妥当ではないか。

筑後川と遠賀川

 自然環境は類似するが、大動脈が河川であるエジプトと、山脈である日本では、国家統一日本列島でいち早く弥生の農耕社会が到来した北部九州には、肥沃な穀倉地である筑紫平野を形成する筑後次郎と呼ばれる筑後川がある。それに続いて流域面積では、九州第二の河川が、日本列島の本州方面に地理的優位性のある遠賀川である。遠賀川は馬見山・英彦山に源を発し、筑紫の国といわれた福岡県中部を縦断して、河口の古代の崗(遠賀・おか)の湊である芦屋町で、日本海の響灘に注ぐ。「古代以来の遠賀川の水運は、明治になり官営の八幡製鉄所をはじめとする各所に石炭を輸送してエネルギー革命の拠点となり、日本の近代産業発展の礎となった」(香月靖晴『遠賀川』)のである。
 ギリシャのヘロドトスは「エジプトはナイルの川の賜物」という言葉を残したが、エディンバラ大学のビル・マンリー教授はそれを次のように解釈している。「エジプトの生命の源泉はナイル川であり、古代の季節の循環を決めたのはナイル川の増減だった。しかし国民の富は商業から生まれた。・・・こうした富によってこそエジプトはその立地条件をアフリカと近東を結ぶ絆とすることができた」(『地図で読む世界の歴史―古代エジプト』)というものである。このようなナイル川のもたらした肥沃な穀倉地帯の形成という側面が筑後川にあったとすれば、もう一方の地理的優位性にもとづく交易による富の形成という側面は、むしろ遠賀川にあったといえるのではないか。そして外的の侵入を受けにくいというのあり方に相違があるようである。海洋民族と農耕民族という日本民族の二つの性格を発揮して国家統一を成し遂げた人々を生み出したのは筑後川と遠賀川という河川の相乗効果ではなかったろうか。

日本列島に伝播した遠賀川文化

 2008年版『詳説日本史研究』(山川出版社)では、「遠賀川文化」という項目を掲げて以下のように解説する。「弥生時代前期の西日本の文化を、遠賀川文化と呼んでいる。遠賀川文化は、福岡県立屋敷遺跡の遠賀川の川底からみつかった遺物に基づいて名づけられた。遠賀川文化に指標は遠賀川式土器であり、へら先でつけた簡素な文様を特徴とする。遠賀川式土器は、壷・甕・鉢・高杯からなり、このセットは福岡県から愛知県まで及んでいる。愛知県の遠賀川文化の遺跡としては、名古屋市西志賀貝塚などが知られているが、その土器を福岡県の土器と比較しても、その間の距離を感じさせないほど均一であり、弥生文化が西日本一帯に急速に広まったことを物語っている。遠賀川式土器の特徴をもった土器は青森県にいたる東北地方にまで遠賀川文化の影響が及んでいたことが確かめられた。また中部高地や関東地方からも遠賀川式土器はみつかっている。」
 次の時代に倭国をある程度統一し、連合国の王としての使者を中国王朝へ派遣するルートを確保した倭人たちであれば、日本列島を安全な海岸線沿いに可能なかぎり航行するルートを確保していたと考えるのが自然であろう。そして遠賀川の人々にとって致命的な欠点である、大陸への安全なルートでは、金印奴国に阻まれ遅れをとったとはいえ、本州への地理的優位性により、他地域に先駆けて国内各地に入植し開拓しつつ、列島各地のさまざまな地と交易をし、多くの情報や物資を入手し、それゆえに数多くの物づくりの職業集団である「部」を、他に先駆けて組織化できたのではなかったろうか。『古事記』『日本書紀』では、遠賀川河口の崗(遠賀・おか)の湊は、第一代神武天皇の東征の寄港地になり、第十五代応神天皇の母である神功皇后の三韓征伐でも登場する。さらに『先代旧事本紀』の巻三では、遠賀川流域の鞍手郡を中心に、饒速日の尊とともに三十二神や物部二十五部の人々が天下る。
 古典を尊重して史実の反映を認め、北部九州からの数度に及ぶ東遷があったという考察は、皇学館大学の田中卓氏、安本氏が説かれる。世界や日本の歴史においても、少数の支配者層のダイナミックな移動が、歴史の転換点を作ったことは周知のとおりである。

倭国の伝統の矜持を持った北部九州東地域

 同志社大学名誉教授をされた森浩一氏は、北部九州を東地域と西地域にわけて対照的に考える(『列島の地域文化』『記紀の考古学』)。北部九州東地域は、西部地域に特徴的な大型甕棺や青銅製品の墓への埋納は貧弱であるものの、遠賀川式土器や宗像社の信仰で代表されるような、かたくなに縄文以来の伝統や弥生の前期的状況を継承した地域として捉えておられる。考古学的には箱式石棺の文化をもち、鉄器の出土が顕著である。そのまさに東地域の人々こそが、日本神話の先祖ではないかというのが積年の思いである。
 日本神話では当初から瀬戸内海や出雲・越など日本海側の記憶は深い。わが国の国家統一の過程は、ギリシャの殖民都市の様相も想起すべきではないか。また天つ神の先祖は、国土の委任の証しとして伊弉諾・伊弉冉の尊に天の瓊矛(玉飾りの矛)を授ける。そして伊弉諾・伊弉冉の尊は、天照大御神に高天の原の統治者の証しとして首飾りの玉を授ける。
 けれども天照大御神は孫の瓊々杵の尊に「わが御魂としての鏡」を授けるのである。本来先祖から継承した宝物をそのまま子孫に伝えてこそ家宝としての価値を持つのであるが、神話を創造した人々が当初は鏡を欠いていたというのは、その時代性や地域性を伝えたものではないか。神話を形成した人々は「十拳の剣」という鉄剣をおもわす長い剣や、ヒスイとみられる「八坂瓊の勾玉」を所有していたが、天照大御神の時代の最後まで、神器としての鏡を所有していたようにみられない。「たまほこの」は『万葉集』では枕詞となる。
 天の岩戸神話については、『古語拾遺』が最も詳細であるが、天照大御神の死を思わせる岩戸の前に、当時の最高の技術と可能な力を尽くして創意工夫をこらした国産の品々を供えたように見て取れる。後世の践祚大嘗祭の状況に類似する。それは神話を形成した人々は、金印奴国に阻まれ、中国の王権と密接な鏡を入手することに遅れをとったものの、むしろ縄文時代以来の日本列島の伝統を継承した地域、すなわち倭国の伝統の矜持をもった地域であったという記憶伝承ではないだろうか。

東地域にみられる神話と大和地名の残照

 東地域の弥生時代の旗手遠賀川・筑後川流域の人々は、真の勝利者として西部地域を治め、日本列島の統一勢力になったのではないか。神話のふるさととしての見地から東地域をみると、伊弉諾の尊と由緒のある多賀神社や日若神社、さらに禊の風習と密接なお汐井取り、お汐井取りの神事を伝える英彦山神社や祇園山笠、皇室と由緒深い宇佐神宮、その宇佐神宮に奉納する神鏡の銅を採取した香春岳は天の香山や金山のイメージさえある。日本の国宝・重文の宝庫の宗像大社沖ノ島・・・北部九州東地域には、大和政権の祭祀と密接な神社や習俗がある。
 さらに遠賀川流域には大和地方の飛鳥・山の辺・葛城地域の地名が濃厚である。飛鳥の中心の岡(遠賀)をはじめ、島(島戸)、剣池(剣岳)、倉橋(鞍梯)、栢の森(柏の森)、布留(古門・古月)、川原(香春)、山田、高取(鷹取山)、宇智(内野)、長谷、金剛山、馬見山、八釣(釣川)・・・「水茎の岡の水門(みなと)」と『万葉集』の枕言葉にもなり、山や川の自然とより密接なのは遠賀川流域の大和地名といえる。畿内の和泉国・河内国に比する泉河内川、伊勢神宮内宮のある宇治・外宮の山田原のような地名も遠賀川の上流部の安定した穀倉地にある。人々の移動によって畿内にもたらされた地名とみられる。

博多の住吉神社は奴国の神祭りの地

 『先代旧事本紀』「国造本紀行」の、第十三代成務天皇時代に派遣された国造と同様に、それから1~2世紀遡る邪馬台国時代の北部九州の国々も、それぞれに神祭りの地があったであろう。そして高天の原勢力が、征圧した氏族の神祭りの地をその後も大切にしたことは、出雲大社や諏訪大社の例からも明らかである。
 天孫降臨の際に天照大神と高皇産霊尊がともに「天つ神籬(神が降臨される場所として常緑樹などでしつられた一画)と天つ磐境(神の降臨の場として石で囲んだ祭壇、磐座)を築いて、子孫のために潔斎して祭ろう」(『先代旧事本紀』「天神本紀」)と記している。
 鳥居や社殿が建造されたのは、後代であるとしても、それ以前に常緑樹や巨石などの自然物をご神体として奉斎したであろうことは、各地の神社へ足を運べば理解されよう。
 九州産業大学の講師で歴史研究家の河村哲夫氏は『神功皇后の謎を解くー伝承地探訪録―』の中で、神功皇后の足跡を詳細に辿りつつ各地の住吉神社の考察を行い「筑紫の博多湾岸で生まれた奴国の住吉三神」について言及して次のように述べておられる。
 「住吉神社は福岡平野の大動脈ともいえる那珂川の河口に位置し、博多湾に面した奴国の最も重要な地に位置している。まさしく奴国の守護神―氏神を祀る神社としての風格を備えている」。
 奴国の神祭りの地が住吉神社である、との見解に賛同したい。さらに邪馬台国とその周辺の国々の求心力になった神社を考えると、河川の中上流や海岸部など何社か考えられるが、不弥国―志賀海神社、投馬国―高良大社、邪馬台国―英彦山神宮などを想定する。

筑後川流域は3か国以上か

 そして筑紫平野は人々の救心力になる神社や信仰、地理的状況、後世の歴史から考えて、邪馬台国(大和)・支惟(きい)国(基肄・紀伊)国・投馬(妻)国など少なくとも3国以上あったとみる。『肥前国風土記』では「曰理の郷―郡の南にありき。むかし御井川(筑後川)の渡瀬(渡河地点)、いと広く、人も獣も渡りにしき(渡ることが困難であった)」とある。また『紀』継体天皇二十二年の筑紫国造磐井の軍と、物部麁鹿火の軍は「筑紫の御井の郡」で決戦に及ぶ。筑後川は利根川や木曽三川のように国境や戦場タイプの川であろう。
 安本氏は、地名学者の鏡味完二氏の説をふまえて、九州と近畿とのあいだで地名の名づけ方がよく一致しており、大きな集団の移動があったことを指摘しておられる。すなわちヤマトの西側は奴―基肄―熊(九州)、難波―紀伊―熊野(近畿)のごとくである。
 こうしたことから考えると、筑後川を隔てた神崎・吉野ヶ里地区を含む筑後川北岸は、『魏志倭人伝』の傍国にある「鬼国」あるいは「支惟国」、すなわち畿内の「紀伊国」に対応する地域のように考えられる。『肥前国風土記』では「肥前の国は、もと肥後の国と合わせて一つの国たりき」とある。狗奴国や熊襲にも通ずる西側の国々は、邪馬台国の最強の敵国であった奴国側の勢力として、滅ぼされ分断されてしまったのではないか。
 神埼・吉野ヶ里地域は考古学的には、甕棺と鏡の出土が目立つ。鏡というと、魏王朝から卑弥呼へ下賜された鏡を想定するむきもあるが、「豊国の鏡山に岩戸立て隠りにけらし待てど来まさず」(『万葉集』巻三・417)のように、むしろ死者への鎮魂と結びつけたい。天照大御神の御魂である鏡を祭り、滅ぼした氏族の鎮魂をした地域と考える。
 そして吉野ヶ里背後の日の隈山の名が示すとおり、畿内の紀伊国一の宮の日前国懸神宮に対応する地のようである。神宮の神主家の先祖は、饒速日の尊とともに天下り神武天皇に国造に任命されて以来の名族とされる。
 また投馬国は上妻・下妻・三潴の地名を残し、高良大社を奉じる筑後の国と考える。筑後国の霊場には高良大社の聖地として「朝妻の泉(御井町字朝妻)」とよばれる御井郡名起源の泉があり「朝妻七社」がある。5万戸に及ぶ「投馬国」の名残の地名と考える。
 そして筑後川は近畿地方では、紀ノ川のポジションとみる。大和政権の人々から聖地と崇められた紀ノ川上流の吉野川と大和川の支流の初瀬川の間の地域に、初期大和政権の多くの都が築かれたのである。本流支流の差が顕著でなく、中上流部で同じ流量の河川が集まる大和川に比するのは、九州では遠賀川である。川筋の水運にそって道がいくつにもわかれる状況が「ヤチマタ(八街)」すなわち「ヤマタ(八岐)」である。
 卑弥呼の時代は朝倉市に都があったであろうが、「男子をもって王」とした時代の宮は、
 筑後川の中流の朝倉市と遠賀川流域にいくつか築かれたのではないか。遠賀川上流部の山田川・上山田・下山田・内山田などが邪馬台国の遺称地と考える。

卑弥呼と天照大神の原型は越の沼河姫か

 縄文時代の始まりから東日本で盛行したヒスイ製品は、弥生時代になると北部九州方面へと分布を移す。西日本ではいち早く、遠賀川河口の山鹿貝塚で、新潟県糸魚川産のヒスイを思わせる緑色の大珠を身につけた女性が発見された。古典と真摯にむきあえば天皇名や将軍名に取り入れられた「ヌナカワ」の大きさや、三種の神器の一つ八坂瓊の勾玉への尊崇や執着が理解できる。筑紫島といわれた九州に、“巫女”の概念をもたらしたのは、大陸由来のものではなく、縄文時代以来の倭国の伝統であることを理解すべきである。
 卑弥呼が魏王朝から金印を授受される十年前に、中国のはるか西域からやって来たクシャン帝国のヴァースデーヴァⅠ世の使節が洛陽に到達し「親魏大月氏王」に封じられ金印を授かった。今のアフガニスタン、北インド、旧ソ連領のトルキスタンにわたって勢力をふるった大帝国である。月氏はもともと世界の尾根といわれるパミールの東側に居住した遊牧民で、匈奴に圧迫され西方へ移動したとはいえ、シルクロードの「玉の民」「鉄の民」「絹の民」としてシルクロードを掌握した大民族である。その月氏の後裔として魏王朝から承認された「大月氏王」と並んで、東方の大国と認知されたのがわが国の女王卑弥呼である。魏王朝が、東西に大国を従えるという構図のもととに金印を授けた政治的配慮は確かであるが、わが国の古典から、卑弥呼に最も人物像とモチーフが似ているのは天照大神である。
 一方、全国におよそ二万五千社の分社をもつ、長野県の諏訪大社の祭神の建御名方神は、高天の原勢力に最後まで抵抗して敗れたものの、日本一の軍神として崇敬される。『古事記』では、出雲の大国主神の御子であるとするが、さらに『先代旧事本紀』ではその母神を、の沼河姫(奴奈川姫)と記す。諏訪大社最大の祭祀である、七年に一度の御柱祭において、最高神官の大祝は、その前年に信越国境のご神木に「薙鎌打ちの神事」に神幸する。諏訪から日本海へ黒曜石やヒスイが往来した道、いわゆる「塩の道」を辿り、まさしく母子の故郷の神籬、すなわち本来の御柱を尋ねる神事が継承されている。
 いわゆる三種の神器の鏡・玉・剣の中で、日本列島内での最も古い祭祀具は、玉である。玉は魂に通じ、玉振り・玉鎮めの祭りなども宮中祭祀にある。すなわち、もとは男王であった邪馬台国で、卑弥呼を擁立することで国中がおさまったというのは、女王卑弥呼の素質もさることながら、日本列島内に縄文時代以来続いてきた、ヒスイなどの玉類を神祭りする越の沼河姫で象徴される巫女王・祭祀王を崇拝する伝統があったからではないか。
 古代ローマ地中海世界で信仰されたキリスト教のマリアの原像には、エジプトの女神イシス神があったとされる。東アジアで特異な女王、卑弥呼や天照大神の原型に、縄文時代以来の倭国の伝統の越の沼河姫をみるものである。





奴奈川姫と建御名方命(新潟県糸魚川市海望公園)

					最終更新 平成26年7月19日