『魏と呉の覇権争いからみた「女王国の争乱」』

												金田 弘之

1 はじめに

「倭人は自ら太白の後(魏略・逸文)」と伝えるが、弥生時代の早期から倭は江南(揚子江流域)との交流があった。 たとえば、稲作をはじめとする習俗・文化は江南的で、貝札の発掘(種子島)は海上ルートを通じ呉(孫権)との交流を示している。
 ところが三国時代、西(蜀)の脅威がなくなった魏(司馬懿)は東方に矛先を向け(234)、遼東の公孫氏(呉派)を滅ぼし(238)、帯方・楽浪の二郡を設置した。 ここに魏・呉による支作戦正面(韓諸国・倭国)の戦いが本格化することになった。
 ここでは、魏志倭人伝(以下、魏志)がしるす女王国(邪馬台国連合)の所在地と主要人物を明らかにすると共に、魏・呉対立の構図(覇権争い)から倭国の力学構造を解明し、女王国争乱の真相に迫ってみたいと考える。

2 女王国(邪馬台国連合) 倭の国々

 魏志が記す「倭人在帯方東南大海中(倭人は帯方郡・東南の大海のなかにある)」の領域は、関門海峡を中心に広がる国々を指しており、所在地を特定できる国は6カ国ほどあるが、いずれも九州北部沿岸と対馬海峡に点在する国々でこの領域に含まることになる。
魏志は「自郡至女王国萬二千余里(帯方郡より女王国にいたるまで一万二千里余里)」としるすが、帯方郡から狗邪韓国までの距離(七千余里)を差し引くと、狗邪韓国から女王国(邪馬台国)までの距離は五千余里と計算される。



 このうち、狗邪韓国~伊都国間は三千五百里(対馬・壱岐島の七百里を加算すると四千二百里)であり、伊都国~女王国の距離は千五百里(または八百里)と計算される。
 ところで、釜山(狗邪韓国)から北部九州(末蘆国)までの距離を現代地図で読むと200Km程度となる。 魏志はこの間を三千里としているから、単純計算で一里は約66mとなる。しかし島と島の間隔にばらつきがあり、概数として、一里は50~70mと捉えておきたい。
 したがって、伊都国~女王国の距離・千五百里(または八百里)は、75~105Km(または40~56Km)と換算され、女王国は北部九州の中に存在していたと考えられる。
 なお、「南至邪馬台国、女王之所都、水行十日陸行一月」の意味は、帯方郡から邪馬台国(女王之所都)までの日程で、「水行で十日、陸行で一月」の意味と解釈する。 ちなみに公孫氏攻略時、司馬懿は明帝に「軍の移動に100日必要」と説明しているが、洛陽~遼東の距離は帯方郡~狗邪韓国の3倍強である。 張政は軍人で、「軍(集団)の移動」を前提にした日程と考えられ、陸行一月は韓半島(帯方郡~狗邪韓国)の移動と考える。

邪馬台国(女王之所都) 魏志は「女王国以北其戸数道里可得略載(女王国より以北はその戸数と道里の概略を記載できる)」として6カ国を略載している。 したがって、女王国(邪馬台国を含む)はこれら6カ国の南側に位置し九州内に存在していた。
 また「参問倭地…周旋5千余里(倭地を巡ると250~350km)」は、直系100kmの円内に諸国が収まる程度の範囲であり、やはり女王国(邪馬台国)は九州内に含まれていたと考えるのが妥当であろう。

狗奴国 そして「其南有狗奴国」とするから、狗奴国は女王国の南に位置しており、九州南部に存在していたと考えられる。 狗奴は熊に、男王官名・狗古智卑狗は菊池彦に通じ、熊本県の古地名にその名残が認められる。

倭種 「女王国東渡海千余里復有国皆倭種(女王国の東、海を千余里渡るとまた別の国があり皆倭人)」としるす領域は、関門海峡の東に広がる国々で、復有国のなかには女王国の統治権が及ばない出雲国が含まれていたことを示唆する。

種人 いっぽう、明帝が卑弥呼に伝えた「其スイブ(種人を安んじていたわるように)」(239.12)の「種人」は「倭種」と同意で、女王国と対立する狗奴(熊)国や出雲国であろう。 いずれも魏志がしるす「東南大海之中」の領域内の国々でもある。
 ちなみに出雲国はスサノオ命が統治した国で、記(誓約)は天照大神との戦いを記し、  出雲・熊国の両国に残る同一古地名・神社名は、同族が統治した名残とみられる。

3 人物対比(魏志と記紀) 卑弥呼と天照大神 

卑弥呼と天照大神 卑弥呼(魏志)と天照大神(古事記⇒記)を8個のキーワード(巫女・戦争・死・弟・一族・首長・内乱・再生)で比較すると、その内容がほぼ一致していることが確認できる。 これに対して、卑弥呼に比定される神功皇后やヤマトトトソモモソヒメの一致キーワードは2個程度で、魏志の記述内容とは異なる。
 たとえば魏志の「相攻撃状(卑弥呼は狗奴国男王と互に攻撃しあった)」は、記(誓約)の「天照大神はスサノオ命の進軍に神懸り…雄叫び…」とする内容に一致する。
これに対し、神功皇后は海外(新羅)で戦い、ヤマトトトソモモソヒメには戦ったとする記述がない。
このようにキーワードとその内容は、卑弥呼と天照大神が同一人物であることを示している。

主要人物 魏志の主要人物を、倭人語に漢字をひとつあてた音訳、すなわち、「倭人発生の1音⇒漢字1文字」を基準に対比させると、記がしるす主要人物に良く一致する。
 とくに久須毘(くすひ)、⇒狗古智(くくち)、忍穂耳(おしほみ)⇒難升米(なしみ)、豊(とよ)⇒台与(とよ)などは良く一致する。
 難升米は一般にナンショウマイと読まれているが誤りであろう。 また、忍穂耳や豊の正式名は大変長く、張政(中国人)には把握(記録)が難しい。そこで特徴のある部分を抽出して名前(イミナ)を記したのであろう。

熊野久須毘命(以下、久須毘)と天忍穂耳命(以下、忍穂耳)は、系譜上スサノオ命の子で、誓約(条約)により天照大神の養子になった。 豊は忍穂耳との結婚によって、天照大神の養女となり、魏志が記す卑弥呼の宗女・台与とは系譜上の同一位置にあたる。
 これら人物対応を認めると、魏志と記(誓約・天岩戸)の真相が浮き彫りになる。

4 対立の構図(東アジア)

 邪馬台国時代、大陸では魏・呉・蜀が覇権を争う三国鼎立の状態が続き、韓半島では小国家群が分立していた。「南船北馬」と言われるように、当時(230~249)、呉帝・孫権は、海上ルート(水軍)で倭国や韓半島諸国に進出し、背後から魏を攻略する態勢をとった(支作戦正面の戦い)。
 孫権は捕虜を求め、二将軍を夷州・壇州(将軍は帰国し徐福伝承を報告しており、壇州は倭国を指す)に船出させ(230)、高句麗(東川王)には使者を派遣した(235)。 また、遼東の公孫氏に兵一万を送り(233)失敗、その後(237)魏の脅威が切迫した公孫氏から援軍を要請されたが、外交レベルの友好(深入りせず靜観)に留めている。
 いっぽう魏(司馬懿)は、諸葛孔明が陣没(234)し、西(蜀)の脅威が解消されると、東に矛先を向けて公孫氏を滅ぼし(238.8)、帯方・楽浪の二郡を設置した。
 これによって、魏と呉の支作戦正面における覇権争いが本格的になるが(238~)、魏志は、女王・卑弥呼が帯方郡に難升米らを派遣(238.6)、天子に謁見(238.12)と記している。
 その後、韓半島では、魏・出先機関の楽浪・帯方郡が韓諸国(?・貊など)を、玄菟郡が高句麗を平定した(244~246)。 ところが倭国ではその後も、魏派と呉派が戦争を継続(245~247)し、同族が対立抗争する内乱へと発展していった(~248)。
 朝鮮半島と倭国で、同時(244~246)に戦争が勃発した背景には、司馬懿(皇帝を庇護する立場)と孫権(呉帝)による最後の激しい争奪戦が展開されたことを示している。
 韓半島の紛争終結(~246)後、倭国で戦争が本格化(247)したのは、韓諸国を支援していた呉(水軍)が、韓半島から倭国に後退し狗奴国を支援したことを示している。

5 女王国の争乱 伊都国

 魏志は「伊都国には代々王がいて郡使が常駐、大率が諸国を検察、王を帯方郡・諸韓国に遣わす…」と記す。いっぽう記は、「伊都の尾羽張神(黄泉国・国譲)」を記述するが、「伊都国に所在した水軍の支配者(=天鳥船神)」を指している。
 伊都国は女王国の出先機関・外交の窓口で、魏に派遣された難升米(なしみ)(=忍穂耳(おしほみ))は大率とみられ、「灘の潮見(なしみ)(荒海を見極める)」説もあるように、「伊都国・水軍の支配者」と考えられる(米・耳は水⇒水軍)。 伊都国には港が存在し、郡使・張政が常駐したところで、紛争解決の際、ここに諸国の首長が招集されたと考える。
倭国対立 魏・呉の覇権争い(支作戦正面)に巻き込まれた倭国は分裂し、女王国(魏派)と狗奴国(呉派)は、約10年間にわたり対立・抗争を繰り返した(238~248)。
 呉派の中核は出雲国(スサノオ命)で狗奴(熊)国を支援していたと考えられる。 伊都国(難升米)は両派の狭間で微妙に揺れ動き、投馬(投与=豊)国は事態を静観していたが、紛争終末期(248)に台与を擁立して主導権を握ったと考えられる。

女王国争乱 戦争 帯方太守・弓遵が戦死(245)し、玄菟太守の王欣が帯方太守に任命され張政を倭に派遣した(247)。 王欣は高句麗を征討した(246)人物で、張政は塞曹援史(要塞司令官)として王欣の配下で作戦に参加した歴戦の雄(武人)とみられる。
倭の使者が郡に詣で「相攻撃状(247)」と説明した背景には、韓半島諸国を支援していた呉(水軍)が倭国に後退し、呉派(狗奴国)を支援していたことを示している。 張政を派遣した訳は、女王国がすでに敗勢に陥っていたからである。
 これを示す根拠として、白川流域(熊本・菊池)や筑後川流域(福岡)に、弥生時代の鏃が多く分布するのは、魏志のいう「相攻撃状(女王国と狗奴国が互いに攻撃しあった)」の痕跡とみられ、狗奴国側より女王国側に多く分布し、「主戦場が女王国側にあった」ことを示している。 狗奴国が越境して女王国を侵略した証拠であろう。
 張政が難升米に詔書と黄憧(軍旗)を拝仮し檄をつくって告喩(説得)した訳は、早期鎮静化を図るために呉派との妥協点を模索した結果であろう。 告喩の真意は「卑弥呼の殺害・難升米の男王擁立(司馬懿の意図)」と考える(247~248)。
記によれば、天照大神とスサノオ命は、天安川を中に置き誓約(条約締結)をするが、「天安川」は土俵の仕切りで行事は「張政」であろう。つまり、早期鎮静化を図る張政の調停で、天照大神はスサノオ(呉派)の子(忍穂耳・久須毘)を養子として受け入れたものであろう。
筑後川支流の夜須や安川とする古地名は誓約の行われた場所と考える。
スサノオ命が「吾の勝ち」(記・天岩戸)と宣言した理由は、系譜上の子・忍穂耳(難升米)が男王に擁立され、事態が有利に進展すると判断したからである。 スサノオ命が祭祀施設を破壊し衣織女を殺害するに及び、天照大神(卑弥呼)は岩戸に籠った(死⇒殺害)。
難升米は忍穂耳と考えるから、久須毘(狗古智卑狗=呉派)とは同族の関係(系譜上・兄弟)にあり、争乱は鎮静化するかにみえた…。

内乱 ところがその直後、皆既日食が發こり(248.9.5)、「卑弥呼を殺害したため黒い太陽が出現、男王の擁立は誤りであった」と女王国の内部で殺戮(内乱)がはじまった。
 そこで張政は、中立的立場の投馬(投与=豊)国を魏派に引き込み、台与(萬幡豊秋津師媛)を女王に擁立、男王・難升米(忍穂耳)と結婚させ、内乱の収拾に漕ぎつけたとみられる(248.11頃)。 すなわち、「力学的に優位な態勢(邪馬台国+投馬国 対 狗奴国)をつくり、呉派(狗奴国勢力)を排除した」と考える。
いっぽう、記(天岩戸)は、「高天原皆暗く…萬の神の声は、さ蠅なす満ち、萬の妖すでに發り…常世の長鳴き鳥を集めて鳴かしめて…」としるすが、「萬の妖」は天照大神の岩戸隠れ(殺害)で暗黒の世界(日蝕)に陥り内乱が発生したことを、そして「長鳴き鳥」は夜明け(日蝕終了)で内乱終息を意味し、あらたな天照大神(2代目)の出現をみる。
… 卑弥呼(天照大神)は太陽信仰の象徴である。皆既日蝕の発生は女王殺害の報いと人々は信じたであろう。 天文学者の計算では皆既日蝕はAD248.9.5に發ったとされ、その信頼度は高い。 魏志と記がしるす内容は、「皆既日蝕」を認めることで一致する。   
なお細部は省略するが、皆既日蝕から4(旧暦の場合5)ヶ月後(249.1.6)、司馬懿はクーデタで魏の略奪に成功、これにより倭国を高く評価し魏志に詳述した …
福岡県田川市(豊=投馬国)・英彦山神社(祭神:忍穂耳=難升米)にのこる「魏曹修行」伝承は、魏帝に謁見した難升米が台与と結婚し、伊都国から豊国(福岡県東部~大分県)へ移ったことを示し、力学構造(邪馬台国+投馬国 対 狗奴国)を実証する。
いっぽう呉は、孫権の後継者問題で内政が混乱(248頃)し、台与の擁立(内乱終息)を機に海外(倭国)から撤退。これが呉派への打撃になったと考えられる。
呉派・スサノオ命は追放されて出雲国へ(記・天の岩戸)、また、久須毘は菊池(熊本)から大隅(紀は久須毘⇒忍隅、大角と記す)へ、それぞれ後退したことを示している。 海幸(記)は隼人の敗退を示しているが、隼人は南の人(江南⇒呉)とする説がある。
力学構造(邪馬台国+投馬国 対 狗奴国)は、魏志や記・紀の内容を合理的に解釈でき、邪馬台国九州説を肯定する。 魏志が、邪馬台国、狗奴国とともに伊都国、投馬国を重視して記述したのはこのような理由があったと考える。

6 おわりに


 あるTV番組(H25.4.18)で、魏呉蜀・三国鼎立が倭国(邪馬台国)に及ぼした影響を放映していた。しかし魏志のみでは、曇りガラスを透して邪馬台国をみているようなもので、真の姿はみえてこないであろう(群盲象をなでる議論)。
魏志を中核に据えながら、記・紀や考古学、地勢、伝承、習俗など幅広い視野から洞察することにより、はじめて邪馬台国の実像を読みとることができると考える。
今回は、「卑弥呼の墓と殺害理由」については言及できなかったが、司馬懿の立場(狙い)を分析すればその理由がはっきりする。機会が与えられれば真相を明らかにしたい。  
 了 
					最終更新 平成26年7月19日