『邪馬台国へ至る二つの道』

												河野 俊章

目次

 Ⅰ、常識で考える邪馬台国
 Ⅱ、魏志倭人伝で辿る
 Ⅲ、日向と邪馬台国

Ⅰ、常識で考える邪馬台国
   1、邪馬台国は大和朝廷の前身である
     多くの人がそう考えており、中国古史もこう記録しており(参照)、これは確実なことである。
     別の表現で言えば「邪馬台国は天皇家のふるさと」である。

   2、時期的にみると下記である。
     邪馬台国(魏志倭人伝)は3世紀半ば、
     大和朝廷が一応安定した政権になったと思われるのは5世紀初めと思われる。(参照
     古事記が書かれたのは8世紀初め

     つまり邪馬台国は大和朝廷成立の、推定200年ほど前の「天皇家のふるさと」を魏の使者が訪れた記録である。
    「天皇家のふるさと」と言えば、ほぼ誰にも異論はないであろう。それは「日向」である。邪馬台国は日向である。
     そのことは古事記も日本書紀も記録している。

   3、いやいや、何百年も偉い学者たちが悩んできたその答えが、こんな簡単な推理で分かる「日向」とは!そんなことでいいのか?と多分誰でも思う。
     ならば、この単純きわまりない、数行で済んだ推理のどこかに間違いがあるのではないか、と思われるだろうが、どうも間違いはないのである。
     もっと言えば、日向は、終戦までの長い歴史の中で、日本人ほぼ全員が「天皇家のふるさと」と信じていた場所である。

     まあ、傲慢な表現はさておいて、謙虚に、ひかえめに「日向が邪馬台国ではないか」と考え、あれこれ他の面からも考えてみる価値がある。
     (以上のWEB版、より詳しい解説)

Ⅱ、魏志倭人伝の旅ルートを辿る
   1、先ずこの倭人伝には「微細だが重要な間違い」がある。それは「陸行一月」は「陸行一日」の間違いである。(判断の根拠)
   2、当時の船は丸木舟を少し改造した「準構造船」であり、もちろん手漕ぎ、航法は沿岸航法、夜は上陸して休んだ。(詳細)
   3、船の一日の平均走行距離(速度)は約20キロ程度(時速2キロ程度)である。(詳細)
   4、陸地を歩いて「乗船地」まで行っているが、それはその地が天然の良港だったからだ。不彌国は北九州の洞海湾と思う。
     (現在の洞海湾は埋め立てられているが、埋め立て以前の地図)
   5、洞海湾から20日で投馬国に至る。投馬国は現西都市である。(根拠 投馬国の所)
   6、投馬国(西都市)から「水行十日陸行一日の所に邪馬台国がある」。これが人々を悩ませた。
     そんな所に古代の大国が存在した痕跡が全くないからであった。
     しかし20世紀も終わりに近いころ、鹿屋市で道路工事中に主として弥生時代中期以降の大規模遺跡、王子遺跡が発見され、人々を驚かせた。
    (発掘調査報告書は文末参照)
     これこそが邪馬台国の一部(南北40m東西250m)のはずである。人々がビックリしたということは、この地に大国(邪馬台国)があった、
     と言うことがすっかり忘れられていた証拠である。
   7、投馬国(西都市)から「水行十日陸行一日」の旅ルートをたどれば次のようになる。
     なお船を下りた港は、本論で繰り返し主張するように、「天然の良港」でなければならない。
    「水行十日」で下船したところは、鹿屋市から流れ下る肝属川河口である。(判断の根拠)そこから陸行一日が邪馬台国である。
     それは正に上記王子遺跡あたりである。
    「昔の大集落は現在は大都市になっている」という可能性からすると、邪馬台国は現鹿屋市の下敷きになっている、と思える。
     他の状況を勘案すると邪馬台国は肝属平野を含む、大隅半島を横断する場所で(航空写真)
     中心(魏志が書いている都)は鹿屋市であった、と思える。

Ⅲ、日向と邪馬台国
   1、第一に、歴史家なら誰でも知っていることと思うが、古い時代の「日向」は現宮崎県と島嶼部を除く鹿児島県の広範囲であった。
     (参照,古日向の所)古事記が書いている「日向」はもちろん大隅半島も含んでいる。
   2、私論から日向の歴史状況を推測すれば、三世紀までは地理的には不利な九州南端であったが、ほぼ九州全域を支配する勢力を持っていた。
     しかし奈良への引っ越し(東征)以後はすっかり寂れた。いわゆる「文明」も北九州、中国地方にすっかり遅れをとった。
     つまり文明が遅れた地域、失礼な表現であるが「僻地」となった。
     その状況を見て、「南九州には邪馬台国はない」と決めつけた複数の論を見たことがある。
   3、大隅半島、とりわけ肝属平野には、過去の文明の遅れた僻地とすれば、異様に多くの古墳がある。(参照)
     そしてそれらの古墳からは「弥生時代のものが出る」のだ。
     この現象は「ここは僻地なので弥生時代が他よりも長く続いたのだ」と苦しい説明がなされている。
   4、その気になって周囲を見渡せばいろいろ出てくる。列挙してみよう。矢印は私の見解である。
    (ア)鹿屋市から約20キロの所の唐仁古墳群からは、「弥生時代のもの」が出て学者を悩ませている。前方後円墳がいくつかある。
     →この古墳群は邪馬台国の墓地だ。ここの前方後円墳は後に邪馬台国のシンボルとなるのだが、その最古のものだ。
    (イ)この邪馬台国の墓地と見なされる古墳群の中に径155mの古墳(大塚)がある。
     これは魏志倭人伝に書かれている卑弥呼の墓(径百余歩)にピッタシのサイズだ。(参照)
     (ただし現考古学の鑑定は5世紀としている→そんなはずはない。他には日本中どこを捜しても卑弥呼の墓の候補もない。)
    (ウ)吾平山上陵(神武天皇の両親の陵)など神武天皇にかかわる伝説地が多い。その生育伝説地、東征に同行しなかった神武天皇の妃の神社など。
    (エ)鹿屋市付近から流れ下る肝属川河口は天然の良港であり(参照 邪馬台国の良港の所)
     また神武東征出発地と伝える伝説(記念碑)がある。(参照)
    (オ)この海岸の名は「カシハラ」である。→奈良の重要地名「カシハラ」との一致は偶然とは思えない。

拙著は下記である。
   1、大隅邪馬台国(2006年)  地元印刷所(パンフレット程度のもの)
   2、予言 大隅邪馬台国(2008年) 牧歌舎 (全文)
   3、古日向邪馬台国(2016年) 牧歌舎 (全文)

主要書籍の写真

順に
   1、本論の基盤となった二種の「唐仁古墳群」
     いずれも東串良町教育委員会が1990年代に作られたもの。表紙の写真は大塚(比定卑弥呼の墓)の測量図。

   2、「九州文化大観」(1940年)
     厚さ7cmの大冊。もうボロボロ、表紙はなく紙は茶化。やや古い九州をあらゆる面から網羅したもので邪馬台国論に関係はないが
     無知な私に「大隅は日向であった」と教えてくれた本。

   3、私の書





   王子遺跡発掘調査報告書






					最終更新 平成28年12月30日