『騎馬民族説の復活『扶余族に征服された邪馬臺国』』

												槌田 鉄男

1、初めに

 自動車会社の開発エンジニアであった私は定年後、韓国の大学で3年間教鞭を取り2012年末の帰国までの間、日本人とは大きく異なる民族性を感じながらも多くの親しい友人を作る事が出来ました。そして、日本生れの伝承を持つ百済の武寧王の棺が近畿地方にしか自生していないコウヤマキと知って、百済と大和朝廷のただならぬ関係を感じた事が、古代史への興味を膨らませたのです。
日本史の出発点は邪馬臺国を外しては解明できません。邪馬臺国が何であったのかが分かって、初めて大和朝廷の原点が分かり、それに続く日本の歴史が分かって来ます。 では近畿説と九州説、この江戸時代から続く邪馬臺国論争は何故終わらないのでしょうか?近畿説では纏向遺跡を筆頭に遺跡・遺物が物語る考古学的事実が魏志倭人伝の記載内容と一致しません。九州説では邪馬臺国が大和朝廷に繋がるものなのか、それとも別のものなのか充分に説明出来ていません。そして何が決まれば邪馬臺国と断定出来るのかと言う議論がきちんとなされないまま、不毛の論争が続いているかのように思えます。今回の解明に当たっては、邪馬臺国を決定するのは何であるかと言う事に重点を置いて進めました。 邪馬臺国決定の要件は大きく2つです。

1、魏志倭人伝の記載内容と考古学で判明した事実が一致する事

2、大和朝廷成立に向って、事実関係と矛盾しない合理的なストーリーが構成出来る事

当然ですが、邪馬臺国は魏志倭人伝に書かれた国であり、記載内容との一致がない限り、邪馬臺国とは決定出来ません。記載内容一つ一つに対する考古学的検証が必要です。
一方で、邪馬臺国が何かを知る目的は要件2にあります。大和朝廷がどのようにして成立したのか、その事が説明できない限り、要件1の答えが出ても多くの支持を得る事はできません。その点、近畿説はストーリー作りが容易です。多くの考古学者が近畿説に傾いているのも、そのためだと思います。しかし、現在の近畿説で弥生時代から古墳時代にかけての急激な変化を充分説明できているのでしょうか。この時代の変化は明治維新に匹敵し、短い期間に前方後円墳と言う全く新しい墳墓が現れて日本列島各地に瞬く間に伝播し、環濠集落、銅鐸文化が消滅したのです。これ程大きく、かつ急激な変化を誰がどのようになし得たのか、従来説ではこのことを充分に説明出来ているとは思えません。
そこで、私は現在判明している考古学的事実と魏志を中心とする文献を自分なりに整理検証し、新たな視点から見直し、考古学的事実と文献が矛盾しない合理性に富んだストーリーが出来ないかトライしました。そこから得られた結論は下記のようになります。

1.邪馬臺国を含む女王国は熊本中部以北の北部九州に存在し、一方で狗奴国は熊本中部以南に存在した。
2.纏向遺跡を造ったのは朝鮮半島を南下した騎馬民族の扶余一族とそれに担がれた公孫氏である。

 従来、騎馬文化が日本に来たのは4世紀後半から5世紀が通説でした。江上波男さんの騎馬民族征服王朝説もそのことが前提です。しかし私の仮説では馬が来たのは、これを遡ること100年から150年以上も前と言うことになります。弥生時代から古墳時代初頭にかけての大きな変化が日本列島に急速に拡がったのは馬の利用なしでは為し得ないと考えたのです。
元々の発想は広開土王碑や、倭王武の上表文にあるように統一後間もない大和朝廷が積極的に朝鮮半島へ進出し、その覇権を唱える事が何故出来たのか。また、唐と新羅の連合軍を相手に、国家存亡のリスクまで犯して白村江に何故臨んだのか。これらの疑問に答えてくれるのは騎馬民族説しかないと考えるからです。
現在、騎馬民族説は下火になっています。しかし、今回の結論は多くの考古学者が主張している最新の事実を、文献資料に照らし合わせて導き出したものです。大きな間違いはないと考えています。

2.近畿、九州それぞれの遺跡の特徴

 まず両方の遺跡の特徴を見てみましょう。近畿説では最大の有力候補、纏向遺跡を中心に、九州説では北部九州全般の遺跡について列記します。

【纏向遺跡とその近隣の遺跡】

①纏向遺跡は3世紀中頃、それまで弥生時代の遺跡のない所に突然出現し、4世紀後半に突然消えた。

②日本独自の墳墓である前方後円墳が出現。箸墓古墳は当時として破格の大きさである。

③それまで近畿にはなかった大陸の影響の強い遺物が出た
初期型前方後円墳は木棺木槨墓を伴い、副葬品として中国や朝鮮半島製と思われる素環頭太刀、画文帯神獣鏡や内行花文鏡などの銅鏡・鉄剣・鉄鏃・鉄農具
箸墓古墳の近傍からは4世紀初頭のものと思われる日本最古の木製の鐙。

④多くの鉄器や木器などの製造に関わる職人の存在
鉄製品を作る為の工房跡、フイゴ
それまで国内に自生していなかったベニバナの花粉から推測される染色

⑤都市計画に基づき作られた最初の遺跡。環濠が無く、住居跡がない政治的色彩の強い都市と大型建築物。

⑥東海、北陸、山陰や関東までの広い範囲の土器

⑦初期前方後円墳から多数出土する三角縁神獣鏡は日本製か中国製か判明していない

纏向遺跡は近隣遺跡の状況を見ても、どのような過程を経て出来たのか解明されていません。

⑧纏向遺跡が出来る直前まで存在した奈良盆地の唐子・鍵や河内の池上・曽根遺跡には大型建築物はあっても、鉄器の出土がなく、銅鐸を除き、銅鏡など銅製品も少なく、纏向遺跡に直接繋がるとは思われない

⑨繋がりが濃厚と思われる吉備の楯築墳丘墓は2世紀末に突然出現し、その後、吉備に同類の古墳は続かない。墳墓は双方中円墳で、木槨墓や埴輪のルーツと言える特殊器台などから纏向の前方後円墳に大きく影響したと思われる。副葬品は一振りの鉄剣とヒスイの勾玉3連と、30㎏に登る多量の水銀朱など大陸の影響が強い。

【九州の遺跡】

①倭人伝に記載のある末慮国、伊都国、奴国などが想定出来る遺跡が実在する。

②北部九州から熊本中部以北は弥生時代全般に渡って多くの大規模環濠集落が存在する。

③筑紫平野を中心とする北部九州と熊本北部は異なる特徴を持つが、双方に互いの土器が出る。

④同地域は1世紀中頃から3世紀中頃にかけて鏃を始めとする多数の様々な鉄器類が出土し、数量としては全国的に見て抜きんでている。

⑤多数の後漢鏡が出土し、副葬品の豊かさでは王墓に相応しい墳墓が複数存在する。ただ墳墓の大きさは最大40mあまりで比較的小規模である。

⑥北部九州は朝鮮半島との関係が密接で、遺伝子学的にも渡来人の要素が大きく、多くの戦闘による死者が見られることや甕棺が弥生時代後期に無くなること等から、住人の入れ替わりはあっても紀元前から3世紀中頃まで継続性がある。

3、魏志倭人伝の記載内容と各々の遺物の比較

 それぞれの遺跡が倭人伝とどちらが一致するか検証しました。倭人伝の文面を整理すると、邪馬臺国の決定要素は3つあります。これらを満たさない限りこれが邪馬臺国だと言う事にはなりません。

A)時代;2世紀初頭から3世紀中頃まで継続して存在していた

B)位置;旅程や帯方郡からの距離が示す位置にあった

C)遺跡、遺物が記載内容と一致する事


A)① 時代


 この中で、時代が一番重要です。他が合っていても時代が異なれば、似たものが別の時代にあっただけになります。倭人伝の『倭国乱れ』の時期は後漢書などから180年前後とされ、邪馬臺国はそれを遡る7、80年前の2世紀初頭には、すでに存在していたはずです。
 この点から言って、纏向遺跡は候補として失格です。この遺跡は3世紀中頃、卑弥呼の死の前後に突然出来たもので2世紀初頭には影も形もありませんでした。では別の場所から移動して来たのでしょうか。しかし、近隣の唐子・鍵や河内の池上・曽根遺跡はその遺物を見る限り、纏向遺跡に繋がる要素が少なく、そこからの移動は考えられません。吉備の楯築遺跡が注目されるだけです。と言う事で、纏向は最初からB)、C)の検証には値しないのですが近畿全般を含めて仮設定して進めたいと思います。
 一方で、九州説も具体的な候補地はありません。しかし、北部九州には候補の遺跡が複数存在するため、ここでも北部九州全般と仮定してみます。


B)位置
 位置の記載は2ヶ所あります。魏の使節が帯方郡から倭国に来た時の旅程を示したものと、帯方郡からの距離で示したものです。多くの人が挑み、未だに確定していない訳ですが、位置特定には、この検証は欠かせません。自分なりの検証をしてみました。

② 魏の使節の旅程からの推測


『郡より倭国に至るには、海岸に循って水行し、韓国を歴るに、たちまち南し、たちまち東し、其の北岸狗邪韓国に到る七千余里。始めて一海を度り、千余里にして、対馬国に至る。 ・・・。又た南へ一海を渡ること千余里、名づけて瀚海と曰い、一大国に至る。・・・。 又た一海を渡り、千余里にして、末慮国に至る。・・・。東南に陸行すること五百里、伊都国に到る。東南して奴国に至る百里。・・・。東行して不弥国に至るに百里、・・・。南して投馬国に至るに、水行二十日。・・・。南、邪馬臺国に至り、女王の都する所にして、水行十日、陸行一月。』
この文章の中で決めなければならない要素が3つあります。『国』が現在のどこに相当するのか、国と国間の『方向』が正しいか、『里』が当時一般的な434mなのか、80m前後と言われる短里なのかと言う3つです。

(国の場所の特定)
不弥国までは異論はあるものの、おおよその場所を当てはめる事が出来ます。帯方郡はソウル近郊、狗邪韓国は釜山近くの金海市、対馬国は三根遺跡、一大国は壱岐の原の辻遺跡、末慮国は唐津でしょうが、上陸地点は呼子だと思います。伊都国は糸島市の三雲南小路遺跡、奴国は春日市の須玖岡本遺跡、不弥国の特定は困難ですが糟谷郡粕屋町辺りが妥当でしょう。

(方向と里の検証)
記載内容の方向と距離を現在の地名の位置関係から対応させ、1里が何kmだったか計算した結果は下記のようになります。
⇒に示したものが現在の地名からの推測です。

  帯方郡 海岸にそって南や東7000里 狗邪韓国
    ⇒ ソウル 南から東700km 金海市  1里100m

  狗邪韓国 海を渡る1000里 対馬国
    ⇒ 金海市 南100km 三根遺跡    1里100m

  対馬 南に海を渡る1000里 一大国
    ⇒ 三根遺跡 南100km 原ノ辻遺跡  1里100m

  一大国 別の海を渡る1000里 末羅国
    ⇒ 原ノ辻遺跡 南60km 呼子     1里60m

  末羅国 東南に陸行500里 伊都国
    ⇒ 呼子 東南から東北 45km 三雲南小路遺跡 1里90m

  伊都国 東南100里 奴国
   ⇒ 三雲南小路遺跡 東南東20km 須玖岡本遺跡 1里200m

  奴国 東100里 不弥国
    ⇒ 須玖岡本遺跡  東15km 糟谷郡;粕屋町  1里150m

  呼子から三雲南小路遺跡の方向は真東ですが、最初の20kmは唐津方面に東南に進むのでおかしくはありません。その他の方向も不正確ですが、それ程おかしくはありません。
 距離については1里のバラツキが海上に比べ、陸路で大きい事が分かります。特に伊都国から先の奴国、不弥国のバラツキが大きいと言えます。しかし、いずれにしても1里は434mよりはるかに小さく短里説が妥当と言えます。

(邪馬台国の位置を考える)

では本題の邪馬臺国について考えてみましょう。
不弥国(糟谷郡;粕屋町)南に水行20日で投馬国 南に水行10日陸行1月で邪馬台国
 水行1日をどの程度の距離とするかについては熊本の宇土市から継体天皇陵と言われる高槻市の今城塚古墳まで、再現した6世紀の石棺を手漕ぎの船で運んだ実績から1日16kmとして20日は320km。10日は160kmと言えます。
 近畿説では東日本を南に延ばした15世紀の朝鮮の古地図を基に南を東とするため、投馬国を出雲とすれば、粕屋町から出雲まで300km、それから東に水行10日で丹後半島辺りに上陸し、陸行1月で奈良盆地までおかしくはありません。しかし、1000年以上も後の地図を根拠とし、また、方向を定め易い海上ルートで南を東とする事自体に大きな疑問が残ります。5世紀の宋書の倭王武の上表文には東西に多くの国を征服したとありますし、7世紀の北史や隋書には東西5ヶ月、南北3カ月とあり、古代中国では日本列島は南北より東西に長いと言う認識があったのは確実です。南を東に取るのは明らかに無理があります。
 一方、九州説では魏の使いが滞在した伊都国から放射状に取るのが一般的ですが、多くの候補があって結論は出ません。自分でやっても、吉野ヶ里や平塚・川添遺跡など、いくつもの候補地が浮かび上がって来るだけです。
一方で、水行10日陸行1月は卑弥呼の使いが魏の役人に対し、帯方郡から邪馬台国に行く全体の日数を言った事だとする説があります。それまでの里程が日数に変ることや、中国の北史にも『倭人は里数を知らず要した日程で計っている』とあるため、この考え方の方がより合理的です。しかし、この場合も場所の特定には到りません。
結局、両説とも旅程から邪馬臺国の場所を推し量るには疑問が残ると言う結論になります。

③ 帯方郡の距離から邪馬臺国の位置を推測する

   倭人伝には『郡より女王国に至る萬二千余里』とあります。帯方郡から狗邪韓国まで7000里、狗邪韓国から伊都国までの距離は累計で3500里ですから、伊都国から邪馬臺国まで残り1500里となります。これに1里80mを当てはめると、120kmとなり、熊本の中央辺りになります。
一方、糸島市から120kmでは近畿には届きません。仮に434mで計算すると、12000里は5000kmとなり近畿説では成り立ちません。

C)記載内容と遺跡や遺物の状況の対比

④ 国の数

  『旧百余国。漢の時朝見する者有り。今、使訳通ずる所三十国』とあります。先述した倭王武の上表文には東に55国。西に66国とあります。近畿に邪馬臺国があった場合、西日本は既に征服していたはずです。30国だと近畿説では少な過ぎます。

⑤ 構成される国々の配置

   『女王国自り以北、其の戸数道里得て略載す可きも、其の余の旁国は遠絶にして、得て詳かにす可 からず』とあり、続いて『次に斯馬国有り、・・・、次に奴国がありて、此れ女王の境界の尽くる所なり。』と21の国名の後、更に『 其の南に国有りて・・・』と続きます。つまり、狗邪韓国から投馬国までの9国以外に南側の遠く離れた所に21の国々があり、その南に狗奴国がある訳です。

   近畿説では纏向遺跡の南側には有力な遺跡はありません。一方で東に目を転じると、濃尾や東海に大規模な弥生遺跡も複数点在しますが、鉄器の出土は少なく、北部九州の遺跡群と比べると明らかに見劣りします。
一方、九州説では邪馬臺国のあったと思われる筑紫平野の南には耳納山脈とそれに連なる山々が続いた後、熊本平野にはいくつもの大規模弥生集落あります。その様は正に倭人伝記載の遠絶の地にある21国を思わせます。南を東に取る近畿説への疑問と共に九州説が有利です。

⑥ 伊都国の重要性

   『女王国の以北には、特に一大率を置きて、諸国を検察し、諸国之を畏れ憚る。常に伊都国に治し、国中に於いて刺史の如き有り。』とあります。伊都国のあった糸島市に諸国の検察を行い、諸国が畏れ憚る程の重要な機関を置き、国中を管理していた訳です。近畿説だと遠い西の端に重要な機関を置いたことになり不自然です。

⑦ 戸数

   『対馬国1000余戸、一大国3000の家、末盧国4000余戸、伊都国1000余戸、奴国20000余戸、不弥国1000余戸、投馬国50000余戸、邪馬臺国70000戸』とあります。1戸5人とすると邪馬臺国だけで35万人になります。しかし、鬼頭宏氏の人口学では1800年前の奈良、京都、大阪を含む畿内の人口を約3万人、福岡、佐賀、長崎、大分を含む北部九州は4万人と推計しています。畿内、北部九州とも記載されている内容の10%程度となり、この数字は明らかに誇張されています。重要な機能を持ち、多くの遺跡のある伊都国が1000戸とある事からも3国の数字の誇張が分かります。 魏の役人が実際に来た伊都国までは本当の数字を報告し、不弥国を除く、それ以降の国は何らかの理由で大きく誇張する必要があったのでしょう。従って、戸数からは優劣がつけ難いと言う事になります。

⑧ 産物;鉄・絹  ⑨ 丹(水銀)

『・・・竹箭は或いは鉄鏃・・・』『養蚕して絹織物を紡ぐ』とあります。邪馬臺国では鏃には鉄を使い、絹を産していました。3世紀前半までの奈良盆地からはほとんど鉄も絹も出ていません。一方で熊本平野以北の北部九州では1世紀から3世紀半ばにかけて鏃を含む多量の鉄製品が出土し、佐賀、福岡では多くの絹が出ています。圧倒的に九州が有利です。
   『そこの山には丹があり』と記載があり、243年の朝貢時の献上品にも丹が含まれています。この時代、近畿地方では徳島県若杉山辰砂鉱山遺跡が多量の水銀を産し、水銀と関係する丹生神社も和歌山県に圧倒的に多いと言われています。
   一方、九州では水銀を輸入に頼り、産出には疑問がありますが鉱脈となる中央構造線が九州、四国、奈良を貫いているので、充分採取できたはずです。大分地質学会長の野田雅之氏は大分県でも水銀朱の製造地発見の可能性を示唆しています。九州でも昔は自然に水銀がにじみ出ていたが、現在では自然に出る事はまれになったのでしょう。このような事から丹は近畿説が有利ですが九州も否定は出来ないと言う事になります。

⑩ 埋葬形式

『其の死するや棺有りて槨無く、土を封りて冢を作る。』とあります。弥生時代の近畿の墓は木棺のみですが、纏向の初期型前方後円墳には木槨が使われ、その中に木の棺を入れてあり、記載内容と一致しません。
一方、3世紀前半までに九州で発見されているいずれの墳墓にも木槨はなく、甕棺または木の棺のみであり記載内容と一致します。

⑪ 墳墓の大きさ

『卑弥呼以て死し、多いに塚を作るに、径百余歩』とあります。近畿説では箸墓古墳の後円部が145mあり、約100歩で卑弥呼の墓の有力候補です。そしてこれ程の大きな墳墓は弥生時代の九州にはありません。しかし、箸墓は全長270mを超える巨大な前方後円墳です。この特異な形状に触れず、後円部の直径しか書かないのは不自然です。
   魏志倭人伝の中には100と言う数字が6回も出て来ます。一つ目、二つ目は伊都国から奴国、伊都国から不弥国までの距離が共に100里、三つ目が長寿の100年。四つ目が魏の皇帝が賜った銅鏡100枚。五つ目が卑弥呼の墓100余歩で、六つ目が殉葬した奴婢100人です。この中で、銅鏡は魏の王が授与したものですから、信憑性は高いでしょう。しかし、奴国と、不弥国までの距離や長寿は魏の使いが倭人から聞いたものです。
千や百はチトセやモモセのように『大きい』とか『多い』を意味します。また熊本の方保田東原遺跡の土器には6から10まで数えた印があります。更に『ひふみよ』の数え方には11以上はありません。弥生人は大きな数字を知らず、墓百余歩も奴婢百人も倭人が単に大きい墓、たくさんの奴婢と言った事だと考えるべきです。従って、墳墓の大きさから邪馬臺国を判断する事は出来ないと言う結論になります。

⑫ 宮殿・楼観・城柵

『居処の宮室・楼観・城柵、厳しく設け、常に有りて、兵を持して守衛す』とあります。建物が柵で厳重に囲まれていたのです。唐子・鍵遺跡には楼閣はあるものの、弥生中期初頭のものであり、環濠にも城柵はありません。池上・曽根遺跡も同様です。纏向遺跡には環濠さえありません。
一方で吉野ヶ里には宮殿や楼観と思われる建物があり、敵の侵入に備えた為か深い環濠と共に柵もあります。ここでも九州説が有利です。

⑬ 国の周囲

  『倭の地を参問するに、海中洲島の上に絶在し、或いは絶え或いは連なりて、周旋5千余里可りなり』とあります。国の周囲は5千里、短里で言えば400km程になり、これだと後述する邪馬臺国のエリアに相当します。近畿説では九州まで含めて周囲数千kmになり、434mでは成立しますが、ここだけ単位を変えるのは疑問です。

【近畿説 対 九州説の優劣比較】

上記の項目を優位性を比較し、列記すると下記の表のようになります。
結果は九州説が圧倒的に有利です。纏向は邪馬臺国最後の時代に突然、奈良盆地に出現した全く別の遺跡だと言う結論になります。


表1(【表】 近畿説 対 九州説 優劣比較)

では、邪馬臺国が九州のどこにあったのか、その為のヒントになる狗奴国はどのようなものか考えてみました。

4、魏志倭人伝から読む狗奴国とは

狗奴国は女王国の南に位置し、邪馬臺国の位置を決める上で重要です。水野裕氏は『群より女王国に至る萬二千余里』の文章を狗奴国の説明の直後に出て来るため、萬二千里は女王国と狗奴国の境界の事だとし、それ以降の説明は全て狗奴国の事だと言っています。その事を森浩一氏は6割程そうだと思うが、後半部分にある絹などは南部九州では出ないし、おかしくもあると言っています。

狗奴国の説明はどこかで終わり、再び女王国の説明に戻っていると考えられます。倭人伝で狗奴国に関係すると思われる箇所が下記の文章です。



『・・・次に奴国がありて、此れ女王の境界の尽くる所なり。《其の南に狗奴国有りて、男王と為し、其の官に狗古智卑狗有り、女王に属さず。郡より女王国に至る萬二千余里。 男子は大小と無く、皆鯨面文身す。古より以来、其の使中国に詣るや、皆自ら太夫と称す。夏后小康の子、会稽に封ぜられ、断髪文身して、以て蛟龍の害を避けしむ。今、倭の水人、好んで沈没して魚蛤を捕え、文身し亦た以って大魚・水禽を厭わしむるに後、ようやく以て飾と為す。諸国の文身各おの異り、或いは左にし或いは右にし、 或いは大にし或いは小にし、尊卑差有り。其の道里を計るに、当に会稽の東冶の東に在るべし。》其の風俗淫ならず。男子は皆露ケイし、・・・。』


狗奴国の説明の始まりは『其の南に狗奴国有りて・・』からです。「 」内の文中に『其の』が5回出て来ます。最初の『其の』が女王国の事であり、ここから『女王に属さず』までは狗奴国の事として疑いようがありません。所が、次に『郡より女王国に至る萬二千余里。』とあり、突然、女王国までの距離が出て来るのです。これでは文脈上おかしいので、本来『郡より女王国の境界に至る萬二千余里』のはずが『境界』が抜けたのだと水野裕氏は考えたのです。しかし、それだと以降の文章は全て狗奴国の説明になってしまい、これもまた先に述べたようにおかしいのです。
引続き、『其の』に注目して読むと『古より以来、其の使中国に・・・』の『其の』も文脈上、狗奴国のことになります。その後、風俗の説明があり、次に出て来るのは『其の道里を計るに、当に会稽の東冶の東に在るべし。』です。この『其の』は明らかに『萬二千余里』を意味します。すると『萬二千里』と『其の』を対応させ、その間の文章は狗奴国の事として括っているように読み取れます。続いて『其の風俗淫ならず・・・』ですが、その前の風俗『男子は大小と無く、・・・』には『其の』を省いて引続き狗奴国の説明をし、今回は『其の』をつけて女王国を指し、女王国の説明に戻しているようです。つまり、《 》内の部分が狗奴国の説明になります。
こう解釈すると、狗奴国の事がはっきりして来ました。男子は身分の差に関係なく皆が顔や体に鯨面(入れ墨)をしていたのです。後述に『朱丹を以て其の身体に塗ること、中国の粉を用うるが如きなり。』とあり、入れ墨が女王国のことなら、入れ墨の上に更に朱丹を塗ることになり矛盾します。要は狗奴国では男は皆入れ墨をしているが、女王国では中国人のように身体に朱丹を塗っていると言う訳です。この文章は女王国と狗奴国との際立った風俗の違いを説明しているのです。入れ墨は縄文時代の土偶で多く見られます。狗奴国は縄文色が強く、女王国は渡来人的要素の強い国だと言う事が窺われます。
古墳時代の近畿地方では身分の高い人を表す埴輪には入れ墨がなく、身分の低い人を表す埴輪には入れ墨があります。この事は古墳時代の下層階級には、まだ縄文時代の風習が残り、民族的に平準化していなかった事を意味すると思います。
更なる注目点は『其の使中国に詣るや、皆自ら太夫と称す。』とある事です。狗奴国は魏に使節を送っていた事になります。倭人伝には狗奴国の男王を『卑弥弓呼』と呼んでいますが、使節を送っていたからこそ、魏は狗奴国の王の名を知っていたのです。そして中国で言う『王』とは皇帝が冊封体制化に置いた場合に使います。王名が出て来るのは邪馬台国と狗奴国だけです。魏は日本に二人の王の存在を認めていた事になります。

5、邪馬台国はどこにあったのか


図(【図】 女王国と狗奴国)

 狗奴国がどのような国だったのか明瞭になって来ました。狗奴国は縄文色の強い国であり、女王国は弥生渡来人の国だと言えます。倭人伝では女王国は位置や戸数を示した9国と、南の遠絶の地の21国で構成されています。そのことを前提に狗奴国と女王国の境界が九州のどこかを考えると、有力候補は熊本の中央を流れる緑川に当てはめる事が出来ます。
緑川以北には大規模な弥生集落が多く見られ、多くの鉄製品が出ます。一方、南側では出ていません。熊本中部の益城町では弥生時代としては珍しい入れ墨をした土偶が出ています。
このように境界を設定すれば、萬二千里が熊本中部辺りだったと言う説とも一致します。『会稽の東冶の東』にあったのは狗奴国を指すことになります。東冶は諸説あって確定していませんが、夏后小康が封じられた会稽郡は現在の浙江省から江蘇省に当たり長江河口付近になります。南部九州はそこからほぼ東です。肝心の邪馬臺国自体は特定するのが難しいのですが、前述したように筑紫平野中部から南部に存在し、耳納山脈より北にあったのは間違いないでしょう。図に女王国を赤の点線の範囲で示し、狗奴国をピンクの範囲で示します。
投馬国は南九州で唯一多くの鉄器を産出する川床遺跡周辺だと思います。後に九州最大の古墳群を構成する西都原の近くです。

6、纏向遺跡は誰が造ったのか

 では纏向遺跡は誰が何のために造ったのでしょうか? 後に大和朝廷へと発展するこの遺跡の解明が古代日本を知る鍵になります。この事を考える上で重要なのは、纏向遺跡の特徴と3世紀中頃から後半に起きた大きな変化です。次の4つが何故可能になったのかがポイントです。


1.纏向は3世紀中頃、弥生時代の痕跡の無い場所に突然出来た都市計画に基づく大規模遺跡である。

2.それまでの近畿には無かった大陸色の強い鉄器や漢鏡などが出ている

3.纏向で発生した前方後円墳と言う全く新たな墳墓が南は鹿児島から北は福島までの日本各地に短期間に広まり、新たな権力者の威光が、それまでにない広い範囲に届いた。

4.各地の環濠集落が無くなり、銅鐸が廃棄され、祭祀の方法が銅鏡を中心にしたものに変った。

 纏向遺跡はそれまで何の痕跡もなかった所に出来たのですから、その地にいた倭人が造ったものでないのは明らかです。また、近隣の鍵・唐子遺跡や河内の池上・曽根遺跡は大陸色の強い纏向遺跡とはギャップが大き過ぎます。近畿説では吉備や濃尾、東海、出雲まで含めた広範囲の勢力が鉄と言う共通の目的を持って、まとまり協力し合って纏向と言う大きな遺跡を造ったと言う説があります。確かに纏向遺跡からは広範囲の土器が出ており、土器を見る限り大きな勢力圏が出来上がったように思われます。しかし、鍵・唐子遺跡からも広範囲の土器が出ており、纏向遺跡の初期段階では鍵・唐子遺跡とほとんど同レベルです。広範囲の土器が出るようになるのは纏向の勢力が拡がった結果であり原因ではないと思います。また、それまで鉄のほとんどなかったこの地域で、鉄が何故有効であると言う事を知り得たのでしょうか。環濠集落を作りお互いが反目し合っていた時代に協力し合えたと言うのも変です。

では九州説の主流である邪馬臺国東征説についてはどうでしょうか。私は次の事から、それはなかったと考えます。


①倭人伝では邪馬台国は長年狗奴国と対峙していたとあり、また、移動したと言う一大事が記載されていない。従って、文献上は卑弥呼の時代までは東征していないことになる。

②北部九州の墳墓形式が纏向に引継がれた形跡がなく、纏向の初期型前方後円墳は吉備にその原点を見出す。

③纏向からは九州の土器が出ていない。

④鉄の供給元であった朝鮮半島から遠く、当時、後進地域であった奈良盆地に移動する動機がない。


 私は新たな支配者がある土地を支配した時、その墳墓は出自のものを使い、一方で支配された人間は生活の道具はそのまま使い続けるため土器類の変化はないと思います。上記②、③は纏向遺跡の支配層も、支配された層も九州に関係ない事を示しています。邪馬臺国東征説の根拠として弥生時代、北部九州を中心に出ていた3種の神器で代表される鏡が3世紀半ば過ぎから近畿で多く出るようになることや、ほぼ同時に韓半島からの鉄ルートが北部九州から近畿に移る事等が上げられます。しかし、この事は後述する私の説でも充分説明出来ます。

 このように纏向近隣の倭人が造ったものでもなく、邪馬臺国が東征して造った物でもないとすれば、新たな侵入者を考えなければなりません。そして、日本各地の広い範囲に短期間で纏向型前方後円墳を造り得たのは、新たな輸送手段がもたらされたと考えるべきだと思います。これらのことから馬を伴った集団が外から来たと言う結論に至ったのです。
私は、この新たな侵入者を考える上で墳墓に着目しました。墳墓は埋葬された人間の出自に関係するため重要です。纏向遺跡の墳墓、前方後円墳は、この地で初めて出現し、そのユニークな形状は日本で発明された物です。そして、そのルーツは吉備の楯築墳丘墓だとされています。この弥生時代最大の墳墓は長さ80mの双方中円墳ですが、形状的に見て前方後円墳のルーツとされ、日本固有のものです。そして注目すべきは纏向と同じく木棺木槨墓であり、30㎏に登る水銀朱などから朝鮮半島や中国の影響が強いと言われています。
この墳墓を現在の多くの考古学者は倭人が造ったものだと考えているようです。理由は同時に出た特殊器台は元々吉備にあった器台を改良したもので、周辺地域の土器にも変化が見られないためです。しかし、土器の変化が無い理由で支配層に変化がなかったと言い切れないのは先に述べた通りです。
 木槨墓が楽浪郡など中国東北部に出現したのは紀元前2世紀後半です。そして2世紀前後には朝鮮半島南部の釜山市近郊に出現し、更に殉葬を伴う木槨墓が3世紀中頃に現れます。この時期に南朝鮮で殉葬を伴う木槨墓が出現する事などから、釜山大学の申敬澈氏は韓国版騎馬民族説とも言える説を唱え、扶余族が移動して来て金官伽耶を造ったと言っています。この説も江上説と同様、多くの反論を得ていますが、その要点は轡の製法の違いや、多数の土器類は金官伽耶成立以前から変化していないと言う点などです。しかし、墳墓の形態が変り殉葬と言う特異な習慣が始まった事は支配層が変化した可能性を意味していると思います。
私は楯築墳丘墓で同時に出た特殊器台に着目しました。この器台が殉葬に由来すると考えたからです。特殊器台は埴輪のルーツだと言われています。日本書紀には埴輪の起源について、第11代垂仁天皇が皇后逝去の折、生贄が可哀そうだと殉葬を止めさせ代わりに埴輪を使ったとあります。この記述は埴輪のルーツだった特殊器台が生贄の代りだった可能性を示唆しています。仮にこの推論が正しいとすると朝鮮半島南部より少し早い時期に本来殉葬を伴うはずだった木槨墓が吉備に出現した事になります。
南朝鮮に出現するより早い時期に遠く離れた吉備で同じ墓形式を倭人が採用する事が可能でしょうか。中国東北部から朝鮮半島を南下した人達が、そのまま海を渡って来て楯築遺跡を造ったと考える方が自然です。その頃の弥生時代の吉備は豊かな所で、環濠集落も少なく戦闘もない平和な場所だったようです。平和な場所に突然、弥生時代最大の巨大な墳墓を造り権威を示す必要は倭人にはなかったはずです。
史書では殉葬の風習は扶余族にしか出て来ません。扶余族の事を史書でみると、後漢書に『安帝の永初五年(111年)、扶余王が初めて歩兵と騎兵七、八千人で楽浪郡に侵攻し、官吏や民を殺傷した。』とあります。扶余族はこの時代に中国東北部を馬で荒らしまわっていたようです。扶余族が騎馬民族であった事が分かります。この時代、馬具は少なく扶余族が騎馬民族であることは文献上確認出来るものの、考古学的裏付けデータは多くありません。恐らく、扶余族は裸馬に乗り、時にはタテガミを手綱代わりにしていたのでしょう。次に『167年に、扶余王の夫台が二万余の軍勢で玄菟を侵略。玄菟太守の公孫域は、これを撃破、斬首千余級を挙げた』とあります。扶余族は公孫氏に敗れ征圧されます。更に184年黄巾の乱が起きると、公孫氏はこれに乗じて遼東半島を制圧し、扶余王は懐柔させられて公孫氏の娘を妻に迎えます。そして魏志には『桓帝と霊帝の末(146年-189年)、韓と濊が強勢となり、郡県では制することができず、多くの民が韓国に流入した』とあります。韓人が韓国に流入と言うのはおかしく、また扶余王は『濊王之印』を持っていたため、ここで言う韓も濊も扶余族のことだと思われます。つまり、扶余族が南下し朝鮮半島に侵入した事が文献上からも窺われます。
このように考えると楯築遺跡を造ったのも扶余族だった可能性が見えて来ます。双方中円墳と言う独特な墳墓形式も大陸の円墳と日本の方墳を合体させた形状ではないでしょうか。人数的に倭人に劣る扶余族が生贄に対する反発を恐れて、吉備に以前からあった器台をヒントに特殊器台を作らせ、生贄に代えて祭祀の道具として使ったのではないでしょうか。
以上のことから、楯築墳丘墓を造ったのは、扶余族であり、更に彼らが奈良に移動し、纏向遺跡と前方後円墳を造ったと言う考えに至ったのです。

7、扶余族による奈良盆地の征圧

 楯築遺跡や纏向遺跡を造ったのが扶余族だと仮定すると、魏志倭人伝に大胆な解釈が出来る事に気付きました。
倭人伝には180年前後の事と思われる倭国の乱について書いてあり、このことは一般的に弥生時代の国々が発展に伴い互いに相争った内乱とされています。しかし、私はこの乱こそが扶余族が北部九州を襲った事ではないかと思ったのです。扶余族が南下したであろう韓と濊が強勢になった時期と倭国大乱の時期は後漢書では共に桓帝と霊帝の間(146-189年)としています。そして倭人伝では狗邪韓国は倭国の一部です。扶余族が狗邪韓国経由で北部九州に攻め入り、相攻伐する状態になったのなら内乱と言ってもおかしくはありません。倭人伝では只、『乱』とあり、大乱とはなっていません。この時期、北部九州で大きな戦闘の跡はありません。
魏志倭人伝を基に少し創作を加えてストーリーを考えました。
2世紀末、公孫氏は戦闘に優れた扶余族を邪魔者扱いにし、朝鮮半島を南下し安住の地倭国に向って旅立てと扶余族のリーダーの一人に命じました。この時代、徐福の話しは中国で広く知られ、倭国はユートピアと思われていたのです。
彼等は南下を始め、狗邪韓国を経由して、そのまま海を渡り、北部九州の倭国に襲いかかり上陸を図りました。突然の外敵襲来に危機感を抱いた北部九州の国々は霊力を持った卑弥呼を共立し結束力を高めて反撃します。多量の鉄製武器を有する女王国は強力で、戦争に慣れた扶余族もその反撃に上陸を諦めます。そして、東に目を転じ、瀬戸内海を進み吉備に上陸したのです。
吉備は平穏で有力な倭人集団もおらず、易々と制圧し定住を試みました。しかし、やがて北から出雲の攻撃が始まります。婚姻関係まで結びましたがうまく行きません。福本明氏は特殊器台や特殊壺が出雲の弥生墳丘墓からも出ていて、吉備勢力との婚姻関係が考えられると述べています。しかし、それらの努力も虚しく吉備での定住は出来ませんでした。扶余族は更に東に向い、今度は近畿に上陸を図ります。池上・曽根遺跡など有力な勢力のいる河内を避け、紀伊半島の南から上陸し、そこから奈良盆地に入りました。

8、大和朝廷の成立

 奈良盆地には唐子・鍵遺跡以外の有力な集団もなく易々と征圧し、何もなかった纏向を定住の地に選びました。3世紀前半の事です。
 纏向に定住した扶余族は纏向型前方後円墳を造り権威を示しながらだんだん強大になりました。そして半島からの鉄のルートを確実な物にするため北部九州の邪馬臺国に再度挑んだのです。困った卑弥呼は公孫氏に救いを求め、帯方郡に使いを送りますが、扶余族の後ろ盾である公孫氏は彼らを冷たくあしらいます。 一方で、公孫氏は蜀の諸葛孔明の死で勢いを増した魏から激しく攻撃されます。景初2年(238年)6月、滅びかけた公孫氏に見切りをつけた卑弥呼の使いは、訴状を持って、そのまま魏の都に向いました。結果的に公孫氏が滅びる直前と言う絶妙の時期に魏に使節を送る事が出来たのです。
 敵の背後から突然現れた卑弥呼の使いに魏の明帝は非常に喜び、詔書して卑弥呼の要望を直ちに聞き入れ、倭王に任命し印綬を行うと言う破格の待遇をしました。その後、何回も使節のやり取りを行い、魏との密接な関係が続きます。卑弥呼の使いは邪馬臺国を大国に見せる為、戸数を誇張し、扶余族に知られるのを恐れて邪馬臺国の位置は曖昧にしか報告しませんでした。その事が、邪馬臺国の位置特定の妨げとなってしまったのです。

 状況が変わるのは247年のことです。倭人伝には帯方郡の太守が魏の都に赴き倭国が狗奴国と争っている間に卑弥呼が死んだとあります。帯方郡は張政に錦の御旗を持たせ、倭国に派遣します。しかし、張政はおろおろと早く戦いを止めろと言っているだけかのようです。もっと大変な事があったのです。
 少し時間を戻します。景初3年(238年)9月、魏は公孫氏一族を皆殺しにしました。しかし、公孫恭と言う前王が、それまでの魏への忠義を認められ生き残ります。彼が扶余族を頼って、纏向に来たのです。纏向遺跡は大規模な都市計画に基づいたもので、扶余族だけで造れるようなものではありせん。楽浪郡の古墳の副葬品に対応する後漢式銅鏡や天理市東大寺山出土の『中平』年銘を持つ鉄剣など纏向遺跡には公孫氏の強い影響が見られます。
 その公孫恭が卑弥呼に王位を譲れと迫ったのです。扶余族だけの時は何とか凌げました。しかし扶余族に担がれた公孫恭が王位を求めたため卑弥呼は困りました。嘗て朝貢をした相手であり、燕王まで名乗った家柄です。そして、その隙を衝いて元々不仲であった狗奴国が南から攻めて来ました。窮した卑弥呼は魏に助けを求めました。それが247年のことです。しかし、助けが来る前に卑弥呼は死にます。張政が救援に駆け付けたのはそんな時でした。卑弥呼はすでに死に、狗奴国とは争いを続けています。狗奴国も魏の朝貢国です。朝貢国同士が争うのは認められません。『檄を為りて告喩す』、直ちに争うのは止めよ(こんな時、狗奴国なんか相手にするな)と張政は言ったのです。
 倭人伝にある『卑弥呼以死』のことを森浩一氏は非業の死を遂げたと言っています。卑弥呼は扶余族に殺害されたのだと思います。彼女は百余歩もある大きなお墓に丁寧に弔われ、多くの人が殉葬しました。魏志では扶余伝にのみ殉葬の習慣があり、倭人伝にはありません。また弥生時代の日本には殉葬の習慣は見つかっていません。卑弥呼が殉葬されたとあるのは彼女の葬儀が扶余族的方法で執り行われた事を示唆しているのだと思います。
 そして、倭人伝には『更に男王を立つるに、国中服せず。更に相誅殺し、時に当りて千余人を殺す。復た卑弥呼の宗女を臺与、年十三なるを立てて王と為し、国中遂に定まる。』とあります。卑弥呼が死んだ後、倭王になろうとした公孫恭に女王国の国々は従わず、激しく抵抗したのです。多くの死者が出ました。狗奴国との戦いの最中に男王が立った事でそこまで抵抗するでしょうか。倭王になろうとした公孫恭に女王国の国々が激しく抵抗したと考えられます。公孫恭は仕方なく卑弥呼の縁者にあたる13歳の臺与を女王に立てて、国々を落着かせました。以来、臺与政権は公孫氏と扶余族の傀儡になったのです。この状態に張成は『檄を以って臺与に告喩す』と激しく罵りました。臺与は怒れる張政を『臺与、倭の太夫率善中郎将エキ邪狗等二十人を遣わし、政等の還るを送らしめ、因って臺に賜り、男女生口三十人を献上し、白珠五千孔、青大勾珠二枚、異文雜錦二十匹を貢す。』とあるように、多くの貢物を持たせて丁寧に帯方郡に送り返しました。その後、頻繁だった魏とのやり取りはなくなってしまいます。
 張政は事の顛末を報告していません。たくさんの貢物を持って帰還し、倭国は今後も忠義を尽くすと報告したはずです。嘗ての敵に倭国が乗っ取られてしまったと言う事を報告できるはずもありません。
 次に邪馬臺国が史書に現れるのは266年のことです。魏は265年に滅び、臺与は直ちに西晋に使節を送り爵位を得ています。この時、男の王が一緒に爵位をもらったとあります。その王こそ公孫氏でした。公孫氏が正式に倭王となったのです。
 倭王となった公孫氏はその権威を確固たるものとするため、邪馬臺国の慣わしを全て引継ぎます。国名を奪い取りヤマト国(=邪馬臺国)とします。卑弥呼をモデルに天照大神を祖先神とし、銅鏡・勾玉・剣の三種の神器を祭祀の道具として銅鐸を止めさせます。連れて来た職人達に三角縁神獣鏡を作らせ、新たな王権の象徴として各地に下賜するのです。邪馬臺国のあった筑紫平野周辺の地名も倣い位置関係を同じくして奈良盆地に移し、そこを新たな国の都として発展させます。
 日本列島に大和朝廷と大王が生れたのです。それまでの倭王は同族の首長レベルでしかありませんでした。邪馬臺国が狗奴国を従える事が出来なかったように、習慣の異なる民族的壁を越えて支配することは出来なかったのです。中国の王朝は違います。多くの言葉の異なる民族を従え、領土を拡張します。公孫氏と扶余族も同様に列島制覇に乗り出しました。各地に遠征隊を送り、その地に前方後円墳を造り、全国の集落の環濠をつぶして無防備化させます。しかし、倭人の風習が変った訳ではありません。中国は数百年に渡って少数の騎馬民族による支配体制が続きましたが、漢民族の文化はずっと持続しました。日本でも同じです。少数の騎馬一族による支配体制が構築されても縄文(狩猟文化)、弥生(農耕文化)と変化しながら続いてきた倭人の文化は、その延長線上に進化し騎馬民族的要素が加わって、日本独自の文化や技術となって発展したのです。
 全国制覇にはもちろん馬を利用しました。纏向型前方後円墳は海岸線だけでなく、かなり内陸にも存在します。船を使ったとしても、馬の利用なしでは考えられません。山河の多い日本では馬車は不便です。騎馬民族とは馬に乗る民族です。指揮官が騎乗し、馬の背に荷物を積むだけでも行動半径は大きく拡がります。兵馬傭には馬車はありますが、騎乗の姿はなく漢民族はあまり騎乗しなかったようです。
 箸墓古墳からは4世紀初頭のものと思われる東アジア最古級の木製の鐙が出ています。鐙は上手に馬を操るための道具として必須です。遅くとも4世紀初頭の段階で騎馬民族が来ていた可能性は考古学的にも充分考え得る事なのです。この時代より前、3世紀の段階では馬具は殆どありません。金官伽耶でも馬具が出るのは4世紀になってからです。現代の考古学は馬具の究明から日本列島での騎馬文化を考えて来ました。鐙が木製だったことと頭数が少なかったため3世紀における馬の遺骸・痕跡は見出す事が出来なかったのだと思います。馬がミッシングリンクとなり騎馬民族説を不十分なものにしてきたのです。4世紀中頃までには少数ですが馬はすでに全国に拡がっており、そのため中国東北部で発明された馬具が4世紀末に伝わると、馬具が日本各地で一斉に見つかるようになったのだと思います。
 馬上から見下ろす武具を身に纏った武人を見た時、初めて馬を見る倭人には神のように思えた事でしょう。抵抗もせず、ただひれ伏すだけでした。列島全体への大和朝廷の支配体制は急速に進み、それと同時に大陸への回帰にも力を注ぎました。箸墓古墳は同時代で世界最大クラスの墓です。同じ扶余族が造った金官伽耶より大和朝廷の方が国造りで先行していたのは一目瞭然です。同族として、金官伽耶の国造りにも積極的に加担したと思います。恐らく同じ扶余族王家の百済の国造りにも手を貸したはずです。百済や金官伽耶を足がかりにすることで大陸の文化や鉄がスムースに日本に入る体制が出来あがったのです。
 公孫氏の王は、どこかで扶余族の王家に変ったのだと思います。百済、金官伽耶、大和朝廷の王族は親族関係にありヨーロッパ各国の王家のように、互いに王を出し合っていたのではないでしょうか。5世紀になると朝鮮半島への進出は一段と大きなものになって行き百済との密接な関係は続きます。

しかし、663年事態が一変します。白村江で破れ、必死の思いで帰還した大和朝廷は朝鮮半島からの決裂を余儀なくされます。軸足を列島内に置く事を決意し、国名を日本とし、新たな国をスタートさせました。記紀編纂に当っては九州から奈良に到る行程を神武東征として記しました。しかし、先祖が朝鮮半島から来た事を消すため、スタート地点として最初に征服した南九州を選び、その地で一番神々しい山、高千穂峯を天孫降臨の地とし、北に聳える一番の高峰に韓国岳(からくにだけ)と命名しました。降臨した地の北に加羅国(からくに=金官伽耶)があると言う訳です(写真)。

写真
(【写真】 高千穂峯を韓国岳から望む
(霧島市ホームページより))

9、終わりに

 私の今回のストーリーは騎馬民族説を土台にしています。戦後すぐに江上波男氏が騎馬民族説を唱えた後、様々な否定論が出ました。しかし、私はその否定論はほとんど論破できると考えます。
例えば、日本では馬の去勢の習慣がないと言う指摘に対しては、去勢する必要がなかったからです。草原を疾走する騎馬民族は群れで馬を飼いますが、草原のない日本では多くは1頭ずつ飼育するため去勢の必要はありません。また、当時貴重品であった馬を去勢するはずもありません。
公孫氏と騎馬民族である扶余族によって纏向遺跡が作られ、それが大和朝廷となったと考える事で、それに続く3世紀から4世紀初頭にかけての日本の古代史の急激な変化を一番合理的に説明出来ると思います。何故3世紀の近畿で呉鏡が見つかるのかと言う事も、一時、呉と同盟を結んだ公孫氏なら容易に説明がつきます。纏向遺跡に竪穴住居跡が無い事は公孫氏や扶余族であれば当然です。
このストーリーは現在の考古学が発信している最新の事実を文献に当てはめ、自分なりに合理的に組み立てたつもりです。倭人伝の読み方は飛躍があるかもしれませんが、これも考古学的背景の基、考えたものです。まだ古代史に取り組んで日も浅いため、事実誤認や間違った解釈があるかも知れません。その場合、当然このストーリーは崩れると思っています。多くの方の御指摘とご教授を賜れば幸いです。

参考文献(引用ではなく否定材料がなかったと言う意味で記載した書籍が含まれます)

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洋泉社編集部『邪馬台国』洋泉社2015年
松尾 光 現代語訳『魏志倭人伝』新人物文庫2014年
白石 太一郎『倭国の形成と展開』敬文舎2013年
片山 一道『骨考古学と身体史観』敬文舎2013年
土生田 純之『古墳』吉川弘文館2011年
若井敏明『邪馬臺国の滅亡』吉川弘文館2010年
寺沢 薫『王権誕生』講談社学術文庫2008年
鬼頭 宏『人口から読む古代史』講談社学術文庫2000年
朴 天秀『伽耶と倭』講談社選書メチエ2007年
福本 明『吉備の弥生大首長墓』新泉社2007年
篠田 謙一『日本人になった祖先たち』 NHK出版2007年
江上 波夫・佐原 真『騎馬民族は来た?! 来ない?!』 小学館
日高 正晴『西都原古代文化を探る』鉱脈社2003年
安本 美典『「邪馬台国=畿内説」「箸墓=卑弥呼の墓説」の虚妄を衝く!』宝島社新書2009年
森 浩一『語っておきたい古代史』新潮文庫2002年 
NHK「日本と朝鮮半島2000年」プロジェクト『日本と朝鮮半島2000年』NHK出版2010年
菊池 秀夫『邪馬台国と狗奴国と鉄』彩流社2010年
藤井 游惟(ゆうい)『白村江敗戦と上代特殊仮名遣い』東京図書出版会 2007年
奈良県立橿原考古学研究所付属博物館『海でつながる倭と中国』新泉社2013年
石野 博信『邪馬台国の考古学』吉川弘文館 2001年
伊都国歴史博物館『海を越えたメッセージ・楽浪交流展』2004年
伊都国歴史博物館『狗奴国浪漫 ~熊本・阿蘇の弥生文化~』2014年
伊都国歴史博物館『玄界灘続倭人伝-末慮・伊都・奴の古墳文化』2013年
伊都国歴史博物館『邪馬台国を支えた国々 ~今使訳所三十国~』2011年
田原本町教育委員会『唐子・鍵遺跡』1998年
安川 満 『特殊器台から埴輪へ』岡山市埋蔵文化財センター定期講座 2008年
橋本 輝彦『日本における都市の初現‐纏向遺跡の調査から』Nara Women's University Digital Information Repository 2008年
野田 雅之『丹後国丹生の郷に古代水銀朱を追う(略報)』熊本大学学術リポジトリ2007年
宇垣 匡雅『吉備における古墳時代の政治構造 第4章 特殊器台型埴輪に関する若干の考察』総合研究大学院大学 2008年
野島 永『弥生時代後期から古墳時代初頭における鉄製武器を巡って』「河瀬正利先生退官記念論文集 考古論集」2004年収蔵
野島 永『弥生時代における鉄器保有の一様相』第58回埋蔵文化財研究集会「弥生時代後期の社会変化」2009年
平成26年度 伊都国歴史博物館 開館10周年 特別展開催について(ご案内)

					最終更新 平成27年12月30日