私の古代史論  『オノゴロ島祭祀=前方後円墳祭祀起源説』

												淤能碁呂太郎(おのごろたろう)
   --------目次---------

 1.日本神話上もっとも重要な島、淤能碁呂(おのごろ)嶋とは?

 2.小呂島(おろのしま)とは・・・淤能碁呂(おのごろ)嶋との接点とは?
   ①神話との関係 
   ②国生み神話を読み解くキーワード「末子相続」 
   ③国生み神話 玄海灘制圧史起源説
   ④高千穂神社に残る、「オノコロ島祭祀」と小呂島、能古島の関係
   ⑤小呂島に存在する巨石信仰のなごりか?
   ⑥小呂島にビロウが自生している意味とは?
   ⑦仁徳天皇御製の詩はどこで詠まれたものか?登場する島々は何という島か?
   ⑧国生み神話の原像・・・玄界灘制圧史の実像にせまる

 3.小呂島の姿が前方後円墳の起源とは・・・?
   ①小呂島をモデルにした?糸島の井原1号墳と弥生時代の糸島陸橋
   ②筑後平野の巨大古墳と小呂島方位
   ③宮崎県の巨大古墳・出現期古墳と小呂島の関係

 4.オノゴロ島祭祀=前方後円墳祭祀とは?

 5.まとめ

1.日本神話上もっとも重要な島、淤能碁呂(おのごろ)嶋とは?

 古事記の冒頭の国産み神話は、イザナギ・イザナミによる国生み神話にはじまります。天の橋立から天の沼矛を海に突き刺し、「こおろこおろ」とまぜ引き上げたところ矛から滴った塩でオノゴロ島ができるのです。ここにイザナギ・イザナミが降り立ち、天の御柱と八尋殿を見立て、2神が柱のまわりを回って出会ったところで、まぐわったといいます。このオノゴロ島は、いままで伝説上の島と考えられていました。インターネットで調べても、いくつもの候補がありどれが定説ということはないようです。そもそも、神話上の島であり、実在しない架空の島ということが定説のようです。
 実在しないと考えられている理由のひとつが、仁徳天皇御製の淡路島から詠ったとされる、次の詩です。

 『淤志弖流夜(おしてるや)、那爾波能佐岐用(なにはのさきよ)、伊傳多知弖(いでたちて)、和賀久邇美禮婆(わがくにみれば)、阿波志摩(あはしま)、淤能碁呂志摩(おのごろしま)、阿遲摩佐能(あじまさの)、志麻母美由(しまもみゆ)、佐氣都志摩美由(さけつしまもみゆ)』

 この口語訳は「古事記(講談社学術文庫)」によると以下のとおりになります。
 『(おしてるや)難波の崎から、出で立って、わが領有する国をながめると、淡島や島、また檳榔の島も見える。佐気都島も見える。』
 注釈には「おしてるや」は難波の枕詞、「淡島はイザナミ・イザナギの二神が国産みの最初に産んだとされる産み損じの島」であり、オノゴロ島は「神話上の島」、檳榔の島は「空想上の島」であるらしい、さけつ島も「実在の島ではあるまい」としています。
 檳榔とはビロウの古名であり、ビロウは熱帯性のヤシ科の植物なので、南九州や四国太平洋岸には自生していても、淡路島周辺の瀬戸内海には見ることができない植物です。これがネックとなり淡路島周辺のどこを見た風景なのかわからなくなってしまい、結果「オノゴロ島」も「淡島」も「さけつ島」も全て「実在ではない島」となってしまっています。
 ところが、この詩がそもそも淡路島から見て詠われたものではないと仮定して、淤能碁呂嶋候補と言われている島の中から、自生ビロウが存在する島に絞って考えてみると、以外にこの詩のなぞが解けてくるのです。淤能碁呂島候補でビロウが自生している島とは、唯一『小呂島』しかありません。

2.小呂島(おろのしま)とは・・・淤能碁呂(おのごろ)嶋との接点とは?

①神話との関係
小呂島は玄界灘の孤島で、北は沖ノ島、対馬島、東は大島、相島、志賀島、玄界島、南は糸島半島、姫島、西は壱岐島があり、天気が良ければその島影が見渡せます。これらの島々には、国生み神話に出てくる島や、それに似た名前の島が多いことに気がつきます。案外と、国生み神話の舞台は玄界灘だった可能性もあるのです。大陸から渡ってきた渡来人が、まず足を踏み入れたのが北部九州だとするなら、あながちこの推論も外れていないと思うのだがどうでしょうか。
さらに、小呂島の近世までの表記は『於呂島』であり、『淤能碁呂嶋』に表記上も非常に近いことがわかります。
となりの筑前沖ノ島は多紀理毘売命別名 奥津島比売命を祀り、この神は古事記に登場します。
伊耶那岐神の子である素戔嗚尊と天照大御神の誓約によって、この女神は産み出されたのです。まさにその沖ノ島の隣にあるのが小呂島です。小呂島が「オノゴロ島」であっても、神話上全く自然なこととさえいえるのです。

②国生み神話を読み解くキーワード「末子相続」


しかし、「イザナギ・イザナミ神はオノゴロ島で国生みをしたので、最初に生まれたとされる淡路島のそばにあるはずだ」という考えに対する反論はどうなるのでしょうか。
ここで古代の相続権に対する考え方を紹介したいと思います。それは、「末子相続」という考え方です。つまり、財産を相続するのは末っ子であり、子どもの中で最も尊い子は末っ子であるという考え方です。
古事記の冒頭からこの思想は貫かれています。イザナギ神が禊をした際に生まれた数多くの神々の中で、アマテラス、ツクヨミ、スサノオの三尊子が生まれるのは一番最後です。初代天皇の神武天皇も四兄弟の末っ子だし、その祖父のホオリノ尊(山幸彦)も三兄弟の末っ子です。オホアナムヂ(大国主命)も大勢の兄たちから命を狙われますが、弟がいるという話はありません。日本武尊も三人兄弟(日本書紀では二人兄弟)の末弟であり、兄を殺したことに対する咎めはありません。熊襲遠征を命じられたのは、日本武尊の凶暴性に恐れを感じたためであって、懲罰や左遷とは性質が異なります。
こうして見てみると、神々や天皇が「末っ子が最も正当な相続権を持っている」と考えていたことが読み取れます。
この考え方、つまり「末子相続」は、国生み神話においても同様だった可能性があります。つまり、もっとも後の方に生まれたと書かれているところほど、実は最も「尊い神聖な」=「淤能碁呂嶋に近い」可能性があるのです。では、国生み神話でもっとも最後に生まれたとされるのは、どこかというと大八島のなかでは大倭豊秋津島(本州・大和国・豊前等の説あり)です。しかし、あまり注目されていませんが、その後に六つの小島を産んだと記述されています。すなわち、吉備児島(又の名を建日方別)、小豆島(又の名を大野手比売)、大島(又の名を大多麻流別)、女島(又の名を天一根)、知訶島(又の名を天之忍男)、両児島(又の名を天両屋)の六島です。これらの島をまとめて小六島といいます。
末子相続の考え方が国生み神話にも適用されるならば、特に、この中でも最後に生まれた「両児島(天両屋)」こそ、最も神聖な島とされたにちがいありません。この両児島(天両屋)と淤能碁呂嶋は密接な関係にあったはずです。
通説では、両児島(天両屋)は長崎県の離島である男女群島ではないかとされています。しかし、これに確定的な証拠はなく、江戸時代の本居宣長の比定地が無批判に受け入れられているだけの話です。これらの島の私の比定地をご紹介しましょう。

③国生み神話 玄界灘制圧史起源説

私は、これらの6つの島は実は全て玄界灘の島々であった可能性が高いとみています。順番に上げると、
吉備児島(建日方別)=新宮町相島、
小豆島(大野手比売)=福岡市玄界島、
大島(大多麻流別)=宗像大島、
女島(天一根)=糸島姫島、
知訶島(天之忍男)=福岡市志賀島、
両児島(天両屋)=糸島二見ケ浦(+今山)
となります。これらについて、その理由を長々と書くとそれだけで字数を消費するので、簡単に理由をそれぞれ2・3あげておきます。大八島の国に続いて9番目からあげていきましょう。

9番目 吉備児島=相島
理由① 相島の古名は「阿閇島」。古事記が奏上されたときの元明天皇の諱が「阿閇皇女」で同じ名なのです。さらに、3人の子どもの末っ子が「吉備皇女」です。つまり、いいかえれば「吉備児」です。
理由② 元明天皇(古事記が奏上されたときの天皇)の勅命によって脊振山に九州一の大伽藍となる霊仙寺が建てられました。唯一現存する乙護摩法堂は、その主軸を相島に向けています。乙護摩法堂をお参りすると相島にむけてお参りしたことになり、相島に向けて祭祀を取り行っていた形跡である可能性があります。
理由③ 相島の古事記中の又の名が「建日方別」となっています。古事記の国の名称で「建日」がつくものに、「建日向日豊久慈日根別=肥国」があります。肥国といえば、吉野ヶ里が思い浮かびます。実は、相島と吉野ヶ里遺跡は、正確に南北の関係になります。また、「建日別」もあります。これは熊襲のことをあらわしています。全て南北に並ぶことになり、「建日」の意味が鮮明になります。つまり、「建日」とは南中した太陽=子午線をあらわしていると思われます。

古事記の記述と、相島の相関性は驚くほど高いことになります。相島(=当時阿閇島)が「吉備児島」とは、古事記編纂時の元明天皇のことを知っていれば、簡単に導き出せる暗号となっていた可能性が高いと思われます。
 10番目 小豆(あずき)島=玄界島
理由① 玄界島の古名は、月海島。これを逆にすると、海月島⇒あまつき島⇒あづき島⇒小豆島となります。古事記には小豆島を「しょうどしま」とは記述していません。あくまで「あずきしま」としか記述されていません。
理由② 玄界島に残る伝説、百合若伝説の百合若の妻を春日姫といいます。現在も玄界島の小鷹神社には、春日姫の硯が伝わっています。一方、古事記に記載される小豆島の又の名が大野手比売です。福岡の春日市と大野城市は、隣接しお互いに入り組んでいます。大正時代までは、それぞれ春日村と大野村でした。春日姫=大野村出身の姫と考えることができるとすると、島の伝説と古事記記述の小豆島の「又の名」が一致します。

11番目 大島=宗像大島
理由 古事記での大島の又の名は「大多麻流和気」=「大霊流別」の意味と思われます。宗像三女神は、天照大御神と素戔嗚尊の誓約によって生まれたのですから、「大霊が別けられた」の表現にとてもよく符合すると思われます。

12番目 女島=糸島姫島
理由① 姫島神社の相殿、生島神社の祭神は「天一根」で、これは古事記表記の女島の「又の名」と一致します。大分姫島にはこのような祭神を持つ神社はありません。
理由② 大分姫島には古事記の国生み神話とつながる伝承もありませんが、糸島姫島には、山幸彦の妻である豊玉姫の誕生伝説があります。
理由③ 昭和天皇即位時の祭祀に使った主基田(福岡市早良区脇山)の祭殿は、姫島に向けて祭祀を行った形跡があります。昭和天皇即位にあたって、天皇家の始祖である豊玉姫にご報告する意味が込められていたとすると、天皇家は糸島姫島こそ古事記記述の女島=「天一根」であることを知っている可能性が高いのです。

13番目 知訶島=志賀島
理由① 志賀島を古来、チカノシマと呼んだ形跡があります。もちろん知訶島と志賀島が音韻上近いということはうまでもありません。そもそも志賀島の名前由来が、神功皇后が志賀島を「近い島だからチカノシマと呼んだ」ことによるもので、「チカノシマ」が五島列島の専売特許ではないことを示しています。また、博多古図(伝承を基に江戸時代に書かれた「鎌倉時代の博多」地図)には、現在の博多湾西公園付近に「千賀浦」という港があることが記されており、志賀島の対岸にあたることから、志賀島行きの船が出る港だったため「チカノウラ」名がついたことが想像されます。
理由② 志賀島には「君が代」の意味が解る神事「山誉め祭」が行われています。安曇の長を褒め称える詩となることがわかります。つまり、「君が代」の意味を知る島=「詞」を「知」る島の意味となります。古来安曇族の本拠地で、白村江の戦い前は、安曇族は朝廷に絶大な影響力を持っていました。

 14番目 両児島(天両屋)=糸島二見ヶ浦(今山)
理由① 古事記表記では「両児島、又の名を天両屋」となっている。この二つの名をあわせると「天児屋根」命となる。「天児屋根命」を祭るのは春日神社であり、福岡春日市の春日神社の参拝方位は、なんと正確に糸島二見ヶ浦を向いています。
理由② 伊勢二見ヶ浦の伝承は、糸島の桜井二見ヶ浦の伝説が元である可能性が高い。
 その1 夫婦岩の向こうから天孫降臨⇒糸島の方が適切
 その2 夫婦岩の向こうに沈む宝が眠る興玉神石 ⇒ 宗像沖ノ島のことと思われる(糸島海岸からは水平線の下で見えない=夫婦岩の向こうに「沈んで」いる)。
 その3 神の使いがなぜか「カエル」 ⇒ 夏至の夕日が沈む(=かえる)のは糸島の桜井二見ヶ浦です。伊勢二見ヶ浦は、夏至の日に朝日が「昇る」のであって、「かえる」とは結び付きません。
理由③ 今山は弥生時代前期から中期に至る石斧製作遺跡であり、ここの石斧が九州北部の広い範囲に交易によって伝わっていることが分かっている。今山は元々二つの峰を持つ独立丘陵であったので天両屋の名にふさわしい。しかも、山幸彦がこの山の頂上から弓矢で夷魔をたいらげたという伝承から「夷魔山」→「今山」の名がついたとあり、古代から戦略的にも重要な山であったと同時に、今山産石斧が古代人のブランドであったことがうかがわれる。

このように、これらの小六島を玄界灘の島々と考えたとき、古事記の記述と矛盾しない伝承や古名がつたわっていることがわかります。
では、これらの島以外で、淤能碁呂島のことを解き明かす証拠はないでしょうか。次は、玄界灘から離れた遠く九州山地の奥、高千穂の「オノコロ島」にその謎があります。ここについて見ていきましょう。

④高千穂神社に残る、「オノコロ島祭祀」と小呂島、能古島の関係

 宮崎県の高千穂神社は天孫降臨の伝説が残る九州随一の古社のひとつですが、ここにオノコロ島祭祀が残っています。毎年4月16日に行われる春の大祭において、高千穂にあるオノコロ池にある2mくらいのオノコロ島の周囲を、お神輿が3回周るという神事です。高千穂神社で直接話を聞くと、なんでも平安時代の文献からこの祭祀は確認されるらしいです。このオノコロ島祭祀が行われる高千穂神社の位置が、なんと小呂島と能古島を結んだ直線上にあるのです。そして、高千穂神社自体も参拝方位は小呂島・能古島方位を向いています。つまり、オノコロ島とは、於呂島+能古島であることを、この神事と高千穂神社は暗示していることになります。
 オノゴロ島の「オ・ロ」が、小呂島だとすると、「ノゴ」は能古島ということになります。 日本書紀では、磤馭慮島=オノコロ島と表記されており、音韻上「オ・ロ」と「ノコ」で問題なさそうですが、古事記では淤能碁呂嶋=オノゴロ島ですので、音韻上問題が残りそうです。では、能古島は古代において何と呼ばれていたでしょうか?
能古島の古文書の初見は、「平安遺文」平安時代731年ごろの住吉神社の四至についての記述であり、その表記は「能護島」となっているそうです。これを素直に読めば、「ノゴ島」となるのがおわかりだろうと思います。音韻的にも、オノゴロ島=小呂島+能古島といえるのです。
さらに、小呂島⇒能古島⇒高千穂神社の方位は、ほぼ正確に南東を示しています。これを延長すると、日向市最大の円墳である富高古墳にあたり、この富高古墳の上にある若宮神社も参拝方位は、小呂島+能古島方位となります。
このライン上を北西から南東へとたどっていくと以下のような順になります。すなわち、小呂島(嶽宮神社)、玄界島(若宮神社)、能古島、西新遺跡、基山(404m)・基肄城跡、小郡官衙遺跡、阿蘇山(高塚・本塚)、高千穂神社、富高古墳(若宮神社)となるのです。ちなみに、このラインのいきつく日向市のすぐ近くには速日の峰(868m)や、ごろ山(352m)等の神話と関係がありそうな名称の山があるのはとても暗示的です。たとえば、小呂島の山頂から、ごろ山の山頂にラインを引くと、ちょうど能古島の中心をとおるばかりでなく、阿蘇山最高峰の高岳(1592m)をへて高千穂オノゴロ池・オノゴロ島上も通ります。このように、小呂島と能古島を基準に九州を横断するような測量した結果、ある山に行きついていたため、小呂島の「お」、能古島の「の」に続いて、「ごろ」山と名付けられた可能性が高いと思われます。その途中に高千穂のオノゴロ池とオノゴロ島があるのですからこんな偶然はありません。これは古代において恐ろしく正確な測量方法があったことを暗示しています。

図1

この古代の測量の方法については、測量技師であった古村豊氏の著書「卑弥呼の道は太陽の道」(1983)、渡来人研究会会報4号(2013)に、方法論が提案されています。また、私も中学生と「鏡」と「矛」と「磁鉄鉱」を用いた測量実験を行い、一つの仮説を提出しています。日本測量協会機関誌『測量』2014年3月号に掲載されていますので、興味があればぜひそちらもご覧下さい。
(http://www.fuku-c.ed.jp/schoolhp/eloro/2010/jidouseitonokatudou/sokuryoukyouiku.pdf)

⑤小呂島に存在する巨石信仰のなごり?

では、小呂島がオノゴロ島である物的証拠である遺物や遺跡などが発見されているのかというと、残念ながらまだありません。理由は簡単です。つい十数年前までは1日1便、渡船に3時間かかり、小さな低気圧ですぐ欠航する市営渡船が、小呂島への唯一の交通機関だったのです。調査すらおぼつかなかったのは想像に難くありません。

図2
しかし、では全くそれらしきものがないのかというと、私は島内をくまなく歩き回った結果、たくさんの遺跡らしき痕跡を発見することができました。一つだけ例をあげておきます。
 写真は小呂島のほぼ最高点に位置する嶽宮神社横にある大岩です。岩の大きさは縦2.5m横1.5m厚さ80cmの大きさがあり、走理面が水平になるように敷き岩で調整し、岩の長辺を南北にあわせて向けたようにみえます。これは「自然崇拝の依り代としての磐座」であった可能性を九州大学西谷正名誉教授が指摘しています。
他にも本格的に調査すれば、たくさんの遺跡らしき痕跡を見つけることが出来ますので、早期に小呂島の全島遺跡調査が本格的になされることを願ってやみません。

⑥小呂島にビロウが自生している意味?

また、巨石以外にも有力な手掛かりがあります。島内村落の産土神である七社神社の境内に自生しているビロウです。小呂島のビロウは、国内自生地では北限である沖ノ島につぐ自生地です。
つまり、これほど高緯度にビロウが自生しているのは、沖ノ島を除いて存在しないのです。
なぜ、ビロウが手掛かりになるのかというと、このビロウという植物の古代天皇制から現在の天皇家にいたる祭祀上の特殊な位置づけがあるからです。
まず第一に、古代天皇制においてビロウは「最も神聖な植物」とされたということです。
皇族の中でも特に高貴なものに許された乗りものに、ビロウ毛の牛車というものがあります。屋根材をビロウの葉で覆っているものだそうです。なぜこのような牛車が高貴なものしか許されなかったのか?おそらくそれは、天皇の即位式である大嘗祭に由来しているのではないだろうかと思われます。大嘗祭においては、天皇として即位する儀式のため百子帳という小屋を建て、そこが天皇になるための禊の場となるのだそうです。この百子帳の屋根材は、なんと今でもビロウの葉でなくてはならないのです。ビロウ毛の牛車とは、おそらくこの百子帳を日常にアレンジしたものであろうと思われます。ならば、その使用は天皇にごく近い血筋をもったものしか許されなかったことは、想像に難くありません。
第二に、ビロウは古代から続く信仰のシンボルでもあった可能性があるということです。
折口信夫によると、ビロウの葉は風を起こす呪具であり、扇の元となったといいます。風は航海や海戦にとって、命を左右する自然現象です。古代において、呪術と科学は同じですから、ビロウの葉はシャーマンにとって風をあやつることができる(とみせることができる)、重要なアイテムだったのです。
また、吉野祐子によるとビロウの葉は扇の原型でもあるが、幹は男根の象徴であり、蛇信仰のシンボルでもあったといいます。実にビロウは、日本の風土と信仰に深く根ざす植物でもあるのです。
そもそも、ビロウ祭祀を行っていたのは、南方から流入した系統の民族であり、沖縄・南西諸島のには必ずビロウが自生しています。宮崎県の天孫降臨伝説が残る青島は、まさに北半球最大のビロウ自生地であり、青島神社の元宮は縄文時代からの遺物が発掘されます。古代天皇制に南方の習俗・祭祀が取り入れられているのは、古墳時代の遺物からもゴホウラガイの腕輪などからも推測されますが、山幸彦・海幸彦伝説の起源を考える上でもとても興味深いのです。

図3

さて、このようなビロウが沖ノ島や小呂島に自生しているのは、どんな意味があるのでしょうか?沖ノ島は4世紀から9世紀までつづいた天皇家による古代祭祀が行われた場所として、当然祭祀目的で持ち込まれたことが推測できます。なぜなら、沖ノ島のビロウは海岸からは遠い崖の上に自生しているので、とうてい海流による自然分布とは考えられえないからです。このことは、総合地球環境学研究所の秋道尚彌名誉教授が沖ノ島世界遺産関連の論文の中で指摘しています。しかし、小呂島のビロウについては七社神社の境内に自生しており、七社神社自体は海岸から10mの高さにあるため、自然分布の結果とも考えられなくもありません。
 しかし、このビロウが自生している七社神社は、拝殿を長崎平戸に向けています。なんと、平戸は九州本島におけるビロウ最北端の自生地である野田熊野神社があるのです。平戸のビロウは長崎県の天然記念物となっています。さらに小呂島から冬至の日没方位に進むと大分県側のビロウ自生地である竹野浦があります。これらの位置関係は偶然とは思えません。おそらく古代祭祀上のビロウ移植が行われたのではないでしょうか。
このことが証明できれば、小呂島が古代天皇家の祭祀上、沖ノ島と並んで重要な島であったことを証明できるかもしれません。ビロウの遺伝子を解析すれば、この点がはっきりすると思われます。

⑦ 仁徳天皇御製の詩はどこで詠まれたものか?登場する島々は何という島か?

さて、冒頭に紹介した仁徳天皇が詠んだ歌が歌われた場所を、瀬戸内海でなく玄界灘として、淤能碁呂嶋を小呂島(+能古島)と考えると、詩の情景が解ります。もう一度、詩を見直してみましょう。

『淤志弖流夜(おしてるや)、那爾波能佐岐用(なにはのさきよ)、伊傳多知弖(いでたちて)、和賀久邇美禮婆(わがくにみれば)、阿波志摩(あはしま)、淤能碁呂志摩(おのごろしま)、阿遲摩佐能(あじまさの)、志麻母美由(しまもみゆ)、佐氣都志摩美由(さけつしまもみゆ)』

小呂、能古、沖ノ島を見渡せるとするなら、糸島の北端、『灘山(209.5m福岡市西区宮浦)』から詠んだと考えるのが妥当です。「糸島北端『灘山』=難波の先に出で立ちて」なのです。
もちろん、オノゴロ島=小呂島(+能古島)、アジマサ(ビロウ)の島=沖ノ島といえるでしょう。
そして、私は「佐氣都志摩」を「さけつしま」ではなく「さきつしま」と読むべきと考えます。これら玄界灘の島の「先に対馬」がみえる。つまり「さきつしま」です。さらに「さきつ」という言葉には「先祖の」という意味があります。つまり、「佐氣都志摩」=「水平線の先に見える対馬」+「先祖の島」という2つの意味をだぶらせた掛詞になるのです。こう考えると、いかにも短歌らしくなってきます。
では、「あはしま」はどの島なのか?これについては、「あはしま」が古事記の中でどのように登場してくるかを見直さなければなりません。「あはしま」は、イザナギとイザナミの国生みの際、ヒルコとともに生まれます。
この場面は、イザナギとイザナミが最初に淤能碁呂嶋(=小呂島)を手に入れた後、「天の御柱」を両側からまわって、出会ったところで「まぐわって」子どもを産んだくだりで登場します。
でも、最初の国生みは失敗してしまいます。つまり、手足に骨がなくぐにゃぐにゃの身体として生まれた「ヒルコ」と、なぜか特に記述のない「あはしま」を産んでしまいます。これはヒルコとともに「子の数に入れない」とされてしまうのです。どういうことか?それは、神話のもとになった情景を推理することで解決していきましょう。

⑧ 国生み神話の原像・・・玄界灘制圧史の実像にせまる

私は、イザナギとイザナミ勢力が、最初に小呂島を獲得したとしたら次にどこを手にいれたいだろうかと考えました。イザナギとイザナミ勢力が、渡来勢力なら小呂島を獲得する前は「対馬」が本拠地だったでしょう。まさに「さきつしま(先つ馬=先祖の島)」です。その勢力が次に手に入れたいとすると、そこは「壱岐」に違いありません。「壱岐」は今でも長崎県最大の平野をもつ、米が取れる島です。きっと、渡来勢力は「壱岐」をほしかったから「小呂島」を手に入れたのです。その証拠に、淤能碁呂嶋で二神が「見立てた」という「天の御柱」と、国生み神話で生まれたとされる「壱岐」の又の名がそっくりです。古事記に登場する「壱岐」の又の名は「天の一つ柱」なのです。
ならば、イザナギとイザナミが「天の御柱」を両側から回って国生みしたとは、イザナギ水軍とイザナミ水軍による「壱岐島挟み撃ち作戦」ということになるのではないでしょうか。これが一回目は失敗してしまうのです。つまり、多くの戦死者を出してしまった。これこそ「ヒルコ」なのではないか?「ヒルコ」を水に流したとは、まさに「戦死者」を「水葬」したことに他なりません。
ならば、「あはしま」はどうなるか?「あはしま」は「しま」であることは間違いありません。しかし、それは「子」とは数えられないほど、役に立たない小島なのではないでしょうか?ならば、それは「淤能碁呂嶋=小呂島」と「天の御柱=天一柱=壱岐」の間にあるはずです。地図をひらくと確かにあります。それは「名島」です。「壱岐」の南東にあり、「鯨島、糞島、本島、前島、平瀬」の五島がありますが、一番大きな本島で高さ20m、長さ400mほどしかない小さな島で、まさに役に立たず、ちょっと高波がくれば、波の泡に消えそうな島、まさに「あはしま」の名にぴったりな島なのです。私は、「あはしま」はここ「名島」であると考えています。
次に、壱岐を手に入れた渡来軍はどこを手に入れたいでしょうか?それは、博多です。博多を手に入れるためには、博多への物流をストップさせ、孤立させなくてはなりません。当時の物流の主役は、船での交易です。陸は道が発達しておらず、移動にも時間がかかります。それに比べ、海は危険は伴いますが、労力に比べ移動可能距離が格段に伸びます。運べる物量もケタ違いです。博多を孤立させるためには、海の物流をストップさせればよいのです。まさに海上封鎖です。
ならば、博多を孤立させるため海上封鎖するには、どこを占領すればよいでしょうか。答えは簡単です。博多の入り口の島を占領すればよいのです。つまり、博多湾の出口である玄界島・志賀島・志摩(糸島半島は当時陸継島でした)、そして、志摩への足掛かりの姫島、北からの進入路の宗像大島と相島です。これこそ、先に私が比定した国生み神話の小六島となります。つまり、渡来勢力が「対馬」から「博多」に進出するにあたって、占領した島々が最初の国生み神話に記述されていたと考えると、非常に納得がいく話になるのです。
しかし、物流をストップさせるといっても、博多は土地があるではないか、食料に困ることはないではないかと思うかもしれません。確かに、食料は困らないかもしれません。しかし、武器はどうでしょう?鉄の矢じりは戦うたび消費します。では、鉄はどこで産出されるのか?当時の鉄の最大の産地は朝鮮半島南部プサン周辺です。朝鮮の金官伽耶国は豊富に産出する鉄鉱石を元に交易をおこない、その鉄は玄界灘を越えて北部九州にも流入していました。博多では鉄はとれないのです。海上封鎖の狙いはまさにそこにあります。ちなみに日本最古の製鉄工房跡であるカラカミ遺跡は壱岐にあります。壱岐が当時から製鉄していたかどうかはわかりませんが、もしかしたら、武器生産工場を手に入れたいがために、前線基地として小呂島を獲得する必要があったのかもしれません。
しかし、当然博多に上陸するに当たっては、相当な抵抗があったでしょう。博多湾岸を抑えるには、その真ん中に基地があればとても便利です。博多湾の真ん中の島とはどこか?それこそ能古島、つまり淤能碁呂嶋のもう一方の島なのです。
こうして、渡来勢力が「対馬」を後にし、「博多」を手に入れるにあたって、もっとも重要であったのが、最初に獲得した「小呂島」と最後に獲得した「能古島」だと思われるのです。だから、この二つを合わせて伝説の島「淤能碁呂嶋」の観念が出来上がったと考えられないでしょうか?
そうして二島をみてみると、小呂島の形と能古島の形は、まるでそっくり相似形をしていることに気がつきます。これも、この二つの島をセットとする発想に影響したに違いありません。
しかし、やはりどちらが伝説の淤能碁呂嶋としてよりふさわしいかと考えるなら、やはり最初に獲得した「小呂島」の方でしょう。このことが、後の時代の墓制に大きく影響したと私は考えています。それは、前方後円墳の造営です。

3.小呂島の姿が前方後円墳の起源とは・・・?

小呂島の姿を遠く志賀島方向から眺めると、その姿はまさに前方後円墳を横から見た形をしています。それも卑弥呼の墓としてのよび声が高い、奈良県桜井市纏向遺跡の箸墓古墳とよく似ているのです。箸墓古墳が卑弥呼の墓であるかどうかは別として、志賀島は金印が発見された島であり、古代の海神族である安曇族の本拠地です。安曇族が信仰した綿津見神を祀る総本社「志賀海神社」は今でこそ島の南東に位置していますが、その元宮は島北端の「勝間」にあったのであり、そこから小呂島は存在感をもってはっきりと見えます。

図4

また、糸島二見ヶ浦から見る小呂島は、まさに前方部1:後円部2:全長3の纏向型前方後円墳のそれです。さらに、男狭穂塚古墳をはじめ、九州の大型帆立貝形古墳(纏向型に最も近い形)は、その主軸が小呂島に向いているように見えます。それはまるで九州には小呂島信仰があったかのようです。
 糸島は魏志倭人伝に登場する一大卒がおかれた伊都国があった場所であることはいうまでもありませんが、糸島二見ヶ浦がある場所の地名は「桜井」であり、二見ヶ浦自体「桜井神社」の末社でもあります。そして、纏向遺跡が存在するのも「桜井市」です。纏向型前方後円墳を「桜井」から見た形が、糸島の「桜井」から小呂島を見た形と同じなのです。これは、糸島の勢力が、自らの伝説の島である「小呂島」を神聖な「淤能碁呂島」として祭祀していたが、東遷して勢力が奈良に移った時、そこに「淤能碁呂島」を造って祭祀を始めたと考えると、なんの矛盾なく古代遺跡と古事記の記述と玄界灘の島々の伝承が一致するのです。
前方後円墳の形は、伝説の「淤能碁呂島」である「小呂島」をかたどったものだった可能性があるのです。では、そのことを実感させる九州のいくつかの古墳の例について見ていきたいと思います。

①小呂島をモデルにした?糸島の井原1号墳と弥生時代の糸島陸橋

まずは、小呂島に近いところで、糸島の出現期前方後円墳である、井原1号墳と御道具山古墳を見てみると小呂島との強い関係性が見えてきます。井原1号墳と御道具山古墳の主軸方位は一致しており、前方部はお互い向かい合っているのですが、この二つを結んだ延長上に小呂島は存在しています。さらに、井原1号墳は田んぼの中の標高5mほどの小山の上にあるのですが、この小山自体が小呂島を正確に立体的にかたどったものである可能性が高いと思われます。この二つの古墳を具体的に見てみましょう。

図5
図6 井原1号墳は伊都国最古級の3世紀後半に造られたと考えられている前方後円墳。全長は約43m、後円部の直径約25m、前方部の長さ約20m。墳丘は前方部2段、後円部3段に造られていて、葺石も施されています。埋葬施設は大型の箱式石棺で、後円部の中央に位置しています(糸島市hpより)。


 墳丘上には石棺の蓋石と思われる板岩がありました。地震で崩れた墓石が無残にもそのままになっています。鉄剣・鉄鏃・鋸・斧・ヤリガンナ・錐などの鉄製品が発掘されています(掲示板より)。





写真内の矢印をつけたところが、井原1号墳の地形と小呂島模型で対応する特徴をしめしています。


小呂島等高線模型は小呂島に赴任されていた中学教師の原田達男先生が昭和51年に島を離れる際、残されたものです。長年、小呂小中学校玄関に飾られています。


 井原1号墳があるこの墳丘自体が、小呂島の方位に向いていますし、模型と写真との比較から、小呂島をモデルに造られたことが推測されます。

また、この方位上に、もうひとつの糸島最古級ばち型前方後円墳である御道具山古墳があります。御道具山古墳は、3世紀後半築造と考えられている古墳で、主軸後円部方位が小呂島方位になります。現在は竹林に覆われその姿はうかがい知れませんが、発掘当時の航空写真からは、ばち型の姿がはっきりみてとれます。
この御道具山古墳と井原1号墳は、小呂島方位に沿ってお互いに向き合うように造られています。また、このラインのすぐ東西に、志登支石墓群と志登神社があります。つまり、弥生時代にはこのラインが「イト」と「シマ」をつなぐ陸橋だったところなのです。弥生時代からの糸島の聖地と小呂島を結ぶように、糸島最古の二つの古墳は造られていることになるのです。

図7

②筑後平野の巨大古墳と小呂島方位

その1 御塚・権現塚古墳について
 御塚・権現塚古墳ともいわゆる後円部を脊振山の方位に向けています。その向こうは小呂島方位となります。そもそも脊振の山頂にある脊振神社上宮も参拝方位は小呂島方位です。これは偶然 にしてはできすぎています。前方部1:後円部2:全長3の纏向型前方後円墳に一番近い形の前方後円墳が帆立貝形です。御塚古墳は帆立貝形前方後円墳では九州で2番目の大きさを誇ります。
これらの古墳は日本書紀に記述がある、水沼の君の墓ということであるらしいのですが、権現塚古墳も、円墳としては九州で2位の大きさ(外堤まで含めると九州最大か)を誇ります。主体部も未発掘ということなので、発掘結果によっては再考される可能性もあります。
図の青ラインは小呂島からひいているラインです。御塚古墳の方は前方部が県道をつくった時に失われていますが、これも主軸は同じ、小呂島方位となります。

その2 岩戸山古墳に付帯する神社-吉田大神宮
岩戸山古墳は、北部九州で最大の前方後円墳です。古代史上最大の内紛を起こした「筑紫の君磐井」の墓とされています。ここも未発掘ですが、古墳の主軸に対して吉田大神宮は斜めにつくっており、その方位が小呂島方位となります。吉田大神宮の伝承によると、天照大神が日向国から糸島に向かわれる際、休憩した場所であるとのことです。
このように、筑後平野を代表するこれらの古墳が、いずれも小呂島と方位関係で結びついていたのは、何を意味するのでしょうか。
 さらにこのラインを、ずっと南東に延長すると、これがまた九州で代表的な古墳に行きあたります。

図8 御塚と権現塚の両古墳は、久留米市街地の西方筑後川の左岸の低台地上に相接して営まれた三潴地方の代表的な古墳である。西方の御塚は、帆立貝式前方後円墳で墳丘主軸長76m、後円部高さ約10m外周に3重の外濠外堤をめぐらしていて、外堤外径が123mに達することが判明した。東の権現塚は御塚と約20mを隔てて営まれた円墳で直径51m、高さ9m、2重の外濠外堤とその外側に空濠を伴い、その外径は150mに達することが判明した。両墳には円筒埴輪片が認められ、両古墳が相前後して営まれたこともわかった。

(hp国指定文化財等データベースより)



八女の岩戸山古墳の「大神宮」は中世の創建いらい「今伊勢」と呼ばれて、もとは古墳後円部の頂きに鎮座していた。大正十四年現在地に動坐して以来「大神宮」と呼ばれている。「今伊勢社」時代の天文二十四年四月二十五日、八女地方の二十四名の豪族の百首の歌を兼松城主豊饒美濃守が書いて一巻にし奉納した。八女市は文化財専門委員会の答申にもとづき平成七年一月二十五日付でこれを有形文化財に指定した。指定名称は「天文二十四年源鑑述ら今伊勢奉納百首和歌」。(hpかささぎの旗より)

③宮崎県の巨大古墳・出現期古墳と小呂島の関係



図9
その1 宮崎県 西都原古墳群について

これら西都原古墳群は、小呂島から岩戸山古墳(八女古墳群)の方位を延長したところにあります。そして、この古墳群にとって最も象徴的な、最大級の古墳と最古の古墳がともに小呂島に主軸を向けているのです。ちなみに男狭穂塚古墳の主軸は、公式的には前方部端の不規則に突出した部分から計測した方位となっています。しかし地図をご覧の通り、小呂島からひいたラインの方が主軸にふさわしいことがわかります。

その2 青島―小呂島レイライン上の前方後円墳・・・生目古墳群3号・14号・22号墳


図10

生目古墳群 3号墳(生目古墳群最大143m)は古墳時代前期(4世紀中頃)では九州最大の前方後円墳となります。また、同時期5世紀初頭の14号墳(63m),22号墳(114m)もほぼ同じ方位に後円部が向きます。



図11(生目古墳群パンフレットより)

そして、この生目古墳群に引いたラインは、青島-小呂島を結ぶラインなのです。
 そこで、青島神社を拡大するとやはり、小呂島を参拝する方位に建立されていることがわかります。

○青島-青島の島内の植物の約80パーセント余の面積を亜熱帯性植物のヤシ科に属するビロウが占める。自生栽培植物は226種で熱帯及び亜熱帯植物27種を算し、その代表的な植物ビロウ(ヤシ科)の成木は約5000本である。ビロウの純林は群落地の6分1を占め、最高樹齢350年を越える。北半球最北の貴重な群落である。ビロウ樹の成因は古来の遺存説と黒潮にのり漂着したとする漂着説がある。

図12 ○青島-青島の島内の植物の約80パーセント余の面積を亜熱帯性植物のヤシ科に属するビロウが占める。自生栽培植物は226種で熱帯及び亜熱帯植物27種を算し、その代表的な植物ビロウ(ヤシ科)の成木は約5000本である。ビロウの純林は群落地の6分1を占め、最高樹齢350年を越える。北半球最北の貴重な群落である。ビロウ樹の成因は古来の遺存説と黒潮にのり漂着したとする漂着説がある。 ○青島神社-青島神社は彦火火出見命が海積宮からご還幸された御宮居の跡といたしまして「彦火火出見命・豊玉姫命・塩筒大神」の三神をおまつりいたしております。元宮跡から、弥生式土器、獣骨等が出土し、古い時代から小祠があり、祭祀が行われたものと推定されます。 (いずれも青島神社hpより)

4.オノゴロ島祭祀=前方後円墳祭祀とは?

さてこれらの前方後円墳は、いずれもその地域や時代の、最古の前方後円墳であったり、最大の前方後円墳であったりするのです。これをどう考えたらよいでしょう。
私は、この地域に最初に移住してきた人々が、祖先の地の象徴として、淤能碁呂嶋(小呂島)をかたどった古墳をつくったと考えるのが自然な考え方ではないかと思います。
おそらく、最初に移住してきた人々は、故郷への望郷の念から、なんとか故郷の方位に自らの墓である前方後円墳の主軸をむけたかったのではないでしょうか。おそらく淤能碁呂嶋(小呂島)方位の地形を選んだり、造営をしたりしたことでしょう。しかし、次の世代は、あまりこの観念に縛られていません。なぜなら、淤能碁呂嶋(小呂島)が見える糸島に行ったことがないし、小呂島を見たこともないからです。糸島=小呂島方位に向ける必要がなくなってきます。そうしたら、次の基準は生まれ育った地から見て、山などの地域の信仰の場であったり、親の古墳の位置に方位をあわせたかもしれません。結果的に世代を重ね古墳が多くなるにつれ、それがもともと淤能碁呂嶋をかたどったものであったことが、わからないような状態になっていきます。
そうして、年月が過ぎて勢力が力をつけてくると、ある時その地域最大の古墳をつくることになります。地域最大の古墳をつくるのに、ふさわしい方角に前方後円墳の主軸をもっていくとするなら、やはり先祖が来た小呂島方位がふさわしい、ということになったのでしょう。
かくして、男狭穂塚古墳や生目3号墳、御塚・権現塚等の大型古墳が小呂島方位に造営されることとなったのではないでしょうか。

 先祖の方角に向けるという方法は、何も主軸を向けるとは限りません。土地の状況によっては、それができないこともあるでしょう。そういう場合、福岡県桂川町の王塚古墳や、熊本県チブサン古墳のように、羨道の方位を小呂島に向けるという方法をとったこともあったかもしれません。岩戸山古墳の場合、大正時代につくられた吉田大神宮が小呂島方位にしたのかは、天照の伝承を基に糸島方位にしたのかもしれませんが、もしかすると王塚古墳やチブサン古墳のように、神社の方位が羨道の方位なのかもしれません。

 さて、ここでとりあげた前方後円墳だけをあげて、「オノゴロ島祭祀=前方後円墳祭祀説」を説くのは、無理があるという方もいらっしゃるかと思います。しかし、ここにあげた前方後円墳は、どれも九州においては代表的な古墳ばかりであることに異論はないとおもいます。しかも、方位関係が事実であることはインターネット地図を開いてご自分で確かめてみれば簡単にわかることです。ぜひご自分で確かめていただきたいと思います。もちろん、九州の全ての地域最大・最古の古墳が小呂島を信仰するためであったとは思いません。中には、沖ノ島方位を向いていたり、相島方位を向いていたりするものも見受けられます。しかし、これらの発想の大元は、やはり小呂島に向けた祭祀だったのではないかと思うのです。なぜなら、小呂島に対する祭祀の痕跡は、おそらく沖ノ島祭祀が始まる4世紀より古く、糸島においては弥生時代までさかのぼる可能性があるからです。例えば、糸島に残る支石墓出現期の3つの支石墓(井田用会支石墓・井田御子守支石墓・三雲加賀石支石墓)の位置をつなぐと、小呂島方位になるのです。さらに次の時代の石ヶ崎支石墓と志渡支石墓群をつないでも、小呂島方位となります。これらの支石墓は、朝鮮半島南端の支石墓の形式と同じ基盤型支石墓です。つまり、弥生時代の初めから、朝鮮からの渡来人がすでに小呂島祭祀を行っていたものと私は考えています。それは、朝鮮半島から九州に渡来するにあたって、小呂島がいかに重要であったかを物語っているとも言えると思います。
その糸島で育った伊都国勢力が機内に東遷したのであれば、当然、今まで祭祀の対象にしてきた小呂島に代わるものをつくる必要があります。それこそ、前方後円墳だったのではないでしょうか。
前方後円墳の初期型とされる纏向型前方後円墳を提唱した寺澤薫氏によると、纏向型前方後円墳は北部九州・出雲・吉備・近畿を中心とした各勢力の墓制を取り入れ、それを「飛躍的に継承」したものであり、それゆえ「創造的産物」と呼びうるものであるとのべています。そして、その勢力の中心は「吉備」であっただろうと論じています。しかし、墳丘の形がそもそも「小呂島」をかたどった「淤能碁呂嶋」であったのなら、纏向型前方後円墳の解釈に変更が付け加えられることになります。その中心勢力は、「北部九州」とりわけ「伊都国」だったということになりそうです。そもそも、寺澤氏が認める通り、纏向型前方後円墳には大量の朱をつかった石室、鏡・剣・腕輪等の大量の副葬品、鏡を破砕して副葬する儀式形式など埋葬者に直接かかわる部分の形式が北部九州を受け継いでいるのならば、それは古墳の心臓部が北部九州の形式と言っていたようなものです。それだけでなく、形状が小呂島をかたどったものであるとするなら、「心臓」のみならず「体」までも北部九州の形式だったということになります。これは、北部九州が主体になって、他の形式をおりまぜて前方後円墳を作り上げたと考える方が妥当ということになります。
しかし、それを可能にしたのは、日本の各地にあった勢力が、淤能碁呂嶋伝承を自らの祖先の物語として共有していたからではないかと私は考えています。
そして、小呂島を模った古墳をつくるという発想の萌芽は、すでに前方後円墳より前、東海地方で広がり始めていた前方後方墳にみられると考えています。なぜなら、前方後方墳も小呂島を模ったものである可能性があるからです。それは、小呂島を北から近づいた時の姿であり、小呂島を南から見る機会がすくなかった勢力=小呂島の北を航行して交易していた勢力の墓制だった可能性があるのです。小呂島の北を航行する勢力とは、対馬・出雲・瀬戸内・畿内・東海です。特に東海地方では、小呂島に対する信仰があつかったのかもしれません。愛知県から静岡県にかけて、於呂町・小呂町・於呂神社など、ほとんどここにしか見られない地名が沢山あるのです。そして、名古屋平野から東海にかけてが、まさに前方後方墳の発祥の地とみられています。
安曇族研究家の亀山勝氏によると、東日本に広まっていた弥生人も、元々は安曇族による入植の斡旋によって中国から戦乱をさけて流入してきた人たちではないかといいます。その痕跡は、阿曇・安曇・厚見・厚海・渥美・阿積・泉・熱海・飽海などの地名として残されており、九州から山形に至る日本各地に残されています。
紀元前500年ほどに滅びた「呉」、その後紀元前300年頃に滅びた「越」などの難民が安曇族となり、仲間の勧めではるか日本に入ってきました。
海上自衛隊の研究では、中国・朝鮮から海流に乗るとどこにボートピープルが流れ着くか調べた研究があります。それは、ゴミの漂着を調べることでわかるそうですが、その研究の結果もっとも漂着の確率が高いと考えられるのは、鹿児島でも長崎でもなく福岡県だったそうです。ですから、安曇族の本拠地が、博多湾の志賀島なのはとても自然なことなのです。
彼らの祖先は「小呂島を目印に志賀島にたどりついたという共通した経験をもつ」人々なのです。そんな祖先をもった人々が、なんらかの小呂島に関する伝承をもっていたとしても何の不思議もありません。
古代の人々を結びつけ、一つの大きな国である「倭」をつくりあげることができたのは、まさに祖先が命がけで大海を渡った経験にうらうちされた「小呂島=淤能碁呂島」伝説を共有していたからかもしれないのです。

5.まとめ

①様々なオノゴロ島候補地の中で、仁徳天皇御製の詩にあるビロウが自生している島は小呂島だけであり、仁徳天皇の詩も糸島灘山から謡ったものであると解釈することが出来る。

②国生み神話は「末子相続」の考え方が踏襲されており、玄界灘制圧史ととらえることが出来る。特に、小六島は全て玄界灘の島々と考えることの方が妥当性がある。

③小呂島に存在する自生ビロウや巨石群は、古代信仰の名残である可能性がある。

④高千穂神社に残る「オノコロ島祭祀」は、オノゴロ島が小呂島と能古島であることを示している。小呂島から日向市に至るライン上に、重要遺跡や祭祀の痕跡が多く存在する。

⑤出現期前方後円墳は、小呂島を志賀島や糸島半島からみた形をかたどったものであり、九州の大型前方後円墳や出現期古墳には、主軸を小呂島の方位に合わせたものが多く見られる。

⑥特に伊都国の出現期古墳の一つである井原1号墳(3世紀後半)は、小呂島を立体的に模倣した可能性が高く、主軸方位が小呂島に向いているうえ、四方から見てその形状の類似性が指摘できる。

⑦以上のことを可能にしたのは、古代における未知の正確な測量技術であろう。

⑧纏向型前方後円墳は北部九州・伊都国勢力が中心となって、各地の勢力の墓制を取り入れて整備されていったものである可能性が高い。

⑨前方後円墳だけでなく、前方後方墳も小呂島を模ったものである可能性がある。濃尾平野から東海地方にかけて小呂や於呂の地名が多く残されているのは、その名残だろう。

⑩北方の朝鮮半島から流入した朝鮮系渡来人にとっても、南方からの流入してきた「呉」「越」の難民を中心とした中国南部系渡来人勢力にとっても、小呂島は重要かつ神聖な島として認識されていた可能性がある。

≪参考文献≫

(1)古事記(上)全訳注         次田真幸  講談社学術文庫 1980
(2)卑弥呼の道は太陽の道 邪馬台国編  古村豊  実験古代史学出版部 1982
(3)扇-性と古代信仰-            吉野裕子  人文書院 1984
(4)前方後円墳集成 九州編          近藤義郎[編] 山川出版社 1992
(5)日本の歴史02 王権誕生      寺澤薫   講談社学術文庫 2008
(6)安曇族と徐福 弥生時代を創りあげた人たち 亀山勝  龍鳳書房 2009
(7)福岡県の希少野生生物 -福岡県レッドデータブック2011  福岡県 2011
(8)「倭国」とは何かⅡ  九州古代史の会[編] 不知火書房 2012
(9)日本史の謎は「地形」で解ける  竹村公太郎 PHP文庫 2013
(10)渡来人研究会 会報4号「①古代測量と方位区画」 下枝広明  渡来人研究会 2013
(11)九州倭国通信№166~168 「古事記の国生み神話に玄界灘の島々を見た(上)~(下)」   淤能碁呂太郎 九州古代史の会 2013.5~8
(12)月刊『測量』2014年3月号 「小呂島のビロウが語る古代史の謎にせまる~銅鏡と矛は古代の測量器具だった!?~」 山口哲也 (公)日本測量協会 2014.3(http://www.fuku-c.ed.jp/schoolhp/eloro/2010/jidouseitonokatudou/sokuryoukyouiku.pdf)
(13)東アジアの古代史を楽しむ会 会報『鼎』vol.13「小呂島見聞記」 西谷正 2014.7
(14)電子版『歴史研究』「玄界灘の小呂島こそ淤能碁呂島である」 淤能碁呂太郎 歴研 2014
(http://www.rekishikan.com/denshiban/)
(15)Ocean Newsletter第338号「海を隔てるビロウ自生地と古代太陽信仰」 笹川平和財団海洋政策研究所 山口哲也 2014 (https://www.sof.or.jp/jp/news/301-350/338_3.php)

(了)

					最終更新 平成27年11月5日