『倭国大乱と崇神擁立は同時進行していた』

												たかみやしんじ


起の章 中華思想で明らかになった倭人

古代の日本は「倭」と呼ばれていた。 「倭」についてはじめて書かれた中国の歴史書は、後漢(AD25年~AD220年) の学者王充による「論衡」とされている。「論衡」には、”周の時、天下太平にして 倭人来たりて暢草を献ず”などと記されているという。「論衡」においては倭を中国 の呉越地方(揚子江の下流域)の南方と認識していたらしい。 周の時代はBC1100年頃からBC256年にあったされているため、この倭人の ことは少なくてもBC256年以前のこととなる。 縄文人が朝貢することは考えにくいので、この頃から初期の大陸或いは朝鮮半島 からの渡来人が日本においてある程度の基盤をつくりあげ始めていたと考えられる。 そしてその地域は稲作の伝来などから九州地区と考えるのが妥当ではなかろうか。 呉越地方の南方は方位的には琉球諸島にあたるが、一部渡来はあったかもしれ ないものの、琉球諸島には遺跡などその痕跡がなく「論衡」でいう倭人とはしがたい のではないだろうか。 又、後漢の初頭に歴史家班固らによって編纂された「前漢書」。 ”楽浪海中に倭人あり、分かれて百余国、歳時をもって来たりて朝献すと云う。” 楽浪郡は前漢の武帝がBC108年に衛氏朝鮮の地に設置した直轄領四郡の 一つで今の平壌付近とされる。 前漢の時代はBC202年からAD8年とされている。この頃になると倭人の認識 や情報も多くなってきているようである。 この時代の日本列島は楽浪海中(北九州から朝鮮海峡)だけでなく、南九州、 山陰から北陸、瀬戸内、近畿、東海、信濃、関東なども独自に発展の途上にあった はずである。しかしながら、「前漢書」にはそれらの記述がない。そのことの本質は 中華思想にあるような気がしてならない。即ち、朝鮮半島を含めて東方の人たちは 東夷なのである。それらの中でも漢人が認めるのは朝貢してくる国の人が倭人で あり、それ以外の人と国は仄聞はしていても、記されることはなかったのであろう。 中国史書で記述されるのは東夷伝・倭人条とされているようである。 AD432年に成立した「後漢書」。その「東夷伝」「倭条」にも倭の記述がある。 建武中元二年(AD57年)、後漢に倭奴国の遣いが朝貢して印綬を賜った。この 奴国、位置は倭国の極南界とされている。倭国の南の行き止まりと理解される。 倭奴国王が後漢光武帝より賜った金印と思われるものが、福岡県博多湾の志賀 島から出土した「漢委奴國王印」とされている。 ここにおいても奴国が倭国の最も南の国である。奴国が北九州にあったとするの は多数の認めることであろうから、朝鮮海峡から北九州の国々以外は未だ東夷 にも入れてもらえないのである。 又、安帝永初元年(AD107年)、倭国王師升等が生口160人を献上したとある。 これについては、或る倭国王が随行員を引き連れて生口160人を献上したという 解釈も出来るし、幾つかの倭国王が夫々朝貢し献上した生口は合計160人にな ったとも解釈できるが、ここは幾つかの倭国王が合同で生口160人を献上したと いう風に理解するのが妥当ではなかろうか。 とすればこのことは多くのことを示唆しているものと思われる。一つはこの頃国々の 連合体のようなものが萌芽していたのではないかということである。又、AD57年に 後漢朝から金印を授与された奴国であったが、これらの動きは奴国にとって替わ ろうとする動きではなかったかと思われることである。そのことは又、奴国の弱体化 をも意味することにならないだろうか。 「後漢書」には邪馬台国の記述もあり、後漢の桓帝・霊帝の時代(AD146年~AD  189年)に倭国中が乱れた。そして、女王の卑弥呼を擁立することで治まった とある。 曰く、”倭国大乱。互いに攻伐し、長いこと王がいなかった。一人の女子があった。 名を卑弥呼という。年長になっても嫁していない。鬼神道を用い妖しく衆を惑わす。 ここにおいて王に共立した。” 倭国が大いに乱れたのは上記に記述したように、奴国の弱体化そして奴国にとって 代わろうとする国々の台頭が背景にあった。そして、それらの国々は競って中国 に朝貢した。それは当時文武、技術を含めて強大であった中国朝廷の後ろ盾を 求めていたものであったろう。その本質は中国及び朝鮮半島との交易権を安堵 するものであり、それが、領土争い覇権拡大に欠くべからざるものであったからに 他ならないだろう。しかしながら、傑出した国が中々現れることがなかったことから 争いは長引くのであった。 さて、「魏志倭人伝」。 西晋の時代AD285年頃完成したとされる「三国志」の「東夷伝~倭人の条」。 「三国志」の編者陳寿が「魏略」をもとに著わしたとされる。 「魏略」は三世紀はじめ(AD239年~AD248年)、魏が朝鮮に置いていた帯方郡 (現ソウルの北方)の使者が「倭国」に行った時の報告をもとに魚豢という魏の 史官が書いたとされる。その中に次のような件がある。 "”その国(倭国)、本亦男子をもって王となす。住まること7,80年。倭国乱れ、相攻" 伐すること歴年、すなわち共に一女子を立てて王となす。名を卑弥呼という。鬼道 に事え、能く衆を惑わす。年既に長大なるも夫壻なし。景初2年(AD238年)、帯方 郡に遣いを送り、親魏倭王卑弥呼として金印紫綬を得る。” 大塚初重氏がその著「邪馬台国をとらえなおす」で記述されているように、 ”紀元2~3紀にそのような国があり中国の魏と国交をもっていたとすれば、邪馬 台国と女王卑弥呼の動静は古代日本の国家体制の形成を解く重要な鍵となる。” しかしながら、日本の歴史書の中には女王卑弥呼の名も邪馬台国という国の名も 表われない。これはどういうことであろうか。実在の人であったのか。又、邪馬台 国の所在地についても、「魏志倭人伝」の表現の曖昧さや物的な証左が出てこな いことなどから、江戸時代以降議論百出しているようであるが結論はでていない。 大きくは九州説と畿内説に分かれているようであるが、それとて多数派というだけ で決定的なものではないと思われる。 本稿ではそれらの謎に答えるべく、自分なりの視点で考えてみたい。

承の章  邪馬台国は徐福一行の築いた国

      邪馬台国はどこにあったのだろうか。先ずはこのことから検討してみたい。     起の章で記述したように、邪馬台国の所在地は諸説あるものの、大きくは 九州説と畿内説に分かれている。     「魏志倭人伝」には魏の帯方郡から邪馬台国に至る里程が記されているが、     多くの指摘があるように邪馬台国の所在地をその記述どおりに求めていくと、     女王国は九州の陸地を越えてはるか南海に達してしまう。     これを解決したのが、東京大学の榎一雄氏が戦後発表された放射式の読み方     であった。それによると、伊都国をセンターにして各国と通じるというとらえ方で     邪馬台国を九州内に納めたのである。     畿内説の場合は、魏志倭人伝の「南、投馬国に至るには水行二十日」、「南へ     邪馬台国に至る」という記述に対し、”南”を”東”に読み替えることで邪馬台国の 所在地を近畿方面に比定した。 これは、明の建文四年(1402年)に朝鮮で作られた「混一疆理歴代国都之図」 (こんいつきょうりれきだいこくとのず)が後押ししているようである。この図に描か れる日本列島は、実際より相当小さく、全体が南寄りであり、かつ列島全体をほぼ 90度南に回転させて描かれているのである。これだけをとらえると南から東への 読み替えは根拠があるように思えるが、果たしてどうであったのだろうか。     いずれにしても、邪馬台国の場所を比定するにあたっては、「魏志倭人伝」の     記述の中にそれを求めていくしか方法はないように思われる。     先ず最初に、魏志倭人伝の記述にそって両説を比較して著わしてみる。 (下表は大塚初重氏がその著「邪馬台国をとらえなおす」の中で示されたものを  参考にして作成したものである。) 図1(図1) 畿内説においても九州説においてもその他の説においても、魏志倭人伝に記述 される邪馬台国までの上記の里程を、現在の地図の概念に照らして計算して、 邪馬台国の場所を比定しようとしているように思われる。 しかしながら、当時の地図の概念は上記の朝鮮の地図のようにそれほど精緻な ものではなかったと考えられるので、魏志倭人伝の記述する里程をトレースする だけでは邪馬台国の場所の比定は難しいものと思われるのである。 それでは、邪馬台国の場所をどこに比定するか。魏志倭人伝の里程以外の記述の 中に手がかりを求めていく。 1)”倭人は帯方東南の大海の中にあり。” 倭人伝であるから、倭人の住む場所を著わしているのであり、それを特定する   位置として、帯方郡の東南の海の中としているのである。   起の章で論証したように、倭人は漢人からみると東夷であった。そして、それ   以外の倭種は倭人とはしてくれないのである。従って、この記述も極めて限定   した地域を指しているものと理解しないとならないだろう。概ね朝鮮海峡から   北九州あたりとするのが妥当ではなかろうか。 2)”郡より女王国に至るには万二千余里なり。”   中田力氏がその著「日本古代史を科学する」の中で、短里をより現実的に魏志   倭人伝に記述されている「里」を分析され、1里60m位と推論されている。   仮にこれを採用すれば、帯方郡から邪馬台国まではおよそ720Kmとなる。   因みに、直線距離でソウルから北九州までは550Km位である。北九州から   畿内までは大体同じで550Km。都合1,100Kmである。邪馬台国が畿内にあっ   たとするにはやや遠すぎるのではなかろうか。 3)”女王国の東、渡海千余里にしてまた国あるも、皆倭種なり。”   邪馬台国の東にも海を隔てて別の倭種の国がある。漢人が認知した倭人の国   ではないので、倭種と言い意識して分けて考えていたのであろう。   おそらく優秀な中国の吏官は列島の状況は或る程度把握していた。しかしながら   、朝貢してくるような国と人々を倭人としたのであろう。   倭種の国に続いて記述される侏儒国、黒歯国、裸国は倭種の国とほぼ同じよう   に倭人国の周辺国事情として記述されていることからもそのことが窺われる   のである。 4)”倭の地を参問するに、海中の州島の上に絶在し、あるいは絶え、或いは連なり   、周旋五千余里ばかりなり。”   さてここで問題となるのは参問をした場所である。そこは、”郡使の往来常に   駐する所”の伊都国であったろう。そうすると、伊都国で参問した倭の地とは   必然的に九州ということになるのではなかろうか。伊都国に至るまで実際に辿って   きた海峡の国々や海を隔てた倭種の国々は含まれないのである。   そして九州の大きさは、周旋五千余里を円として先ほどの短里で計算すると   直径で96Km位となる。実際よりも相当小さく見積もっていた。 以上の記述から、距離や面積は現実とかなり合わないものの、それでも総合的に 判断して邪馬台国が畿内にあったとはし難いのである。やはり九州のどこかに あったとするのが自然な読み方ではなかろうか。 さて、九州説の里程を詳細にみていくと気になることがある。 それは、帯方郡から不弥国までは距離が著わされているが、投馬国と邪馬台国 までは日数で著わされていることである。既に多くの研究者が指摘されているように それは参問によって得られた行程だからであろう。そして、その参問をした場所は 魏志倭人伝の以下の記述から、伊都国であったことが有力である。 1)”東南へ陸行すること五百里。伊都国に到る。世々王ありて、皆女王国に属す。   郡使の往来、常に駐する所なり。” 2)”女王国の以北には、特に一大率を置きて、諸国を検察せしむ。常に伊都国に   治す。” 「魏の帯方郡の使者」は倭国のどこまで実際に行ったのであろうか。やはり通例に 習い伊都国に滞在していたのではなかろうか。そして、奴国と不弥国までは伊都国を 基点にして往復したのである。投馬国、邪馬台国までの行程は参問によって得た ものと考えられる。 ここで少し検討しておくべきことは、「魏の帯方郡の使者」が倭国に来た目的は 何かである。邪馬台国の見聞であったら、邪馬台国に行かないといけないし、行っ ったとすれば里程がもっと詳細に記述されるはずである。又、女王卑弥呼或いは その代理と会見するのであれば、邪馬台国へ行くか伊都国に呼んでその会見録の ような記述があって然るべきであるがそれがない。 そのようにみると、魏志倭人伝は前段の倭国の見聞記の部分と後段の歴史書の 部分とを編者陳寿が合成したものとしか考えられない。 後漢が滅亡し、魏王朝が建ったのがAD220年であった。そして、魏が公孫氏を滅 ぼし楽浪郡・帯方郡を奪還したのがAD238年であった。呉・蜀に対抗していた魏 としては東方の安堵は重要であった。その必要性から韓国や倭国のことを調査して いたのであろう。その調査報告書が魏志倭人伝の前段の部分であり、調査責任者 にとって朝鮮海峡から北九州あたりが大事であり、その余のことは参問で十分で あったのであろうと推論できるのではなかろうか。 さて、こうして「魏の帯方郡の使者」は伊都国に駐して見聞を広げることになる。 参問によって聞いたのは、邪馬台国のことであり、そこに行くには伊都国から舟で 二十日行くと投馬国に到る。そこから、又舟で十日南方に向かって行き、着いた 所から、陸行一月で邪馬台国に到るということであった。 伊都国は現在の福岡県糸島市のどこかとされており、概ね異論がないようである。 そこから舟で南方に二十日。古代の地図の概念と舟の性能を考慮に入れないと いけないだろう。たどり着く先は、大分県の大分市あたりではなかろうか。そこが 投馬国。そこから舟で又南へ十日。たどり着く先は宮崎県西都市、そこから陸行 一月で邪馬台国に至る。 そのように推論したからには、何故大分市か何故西都市かを説明しなくてはなら ない。先ず西都市であるが、ここには西都原古墳群がある。3世紀前半から7世紀 前半に築造された高塚墳311基が現存する日本最大級の古墳群とされる。この ことはこの地域が古墳時代以前から大いに繁栄していたことを物語っているので ある。そして、古墳築造の背景に道教的な信仰があるとすれば、それは中国からの 渡来ということになる。魏志倭人伝に記述される卑弥呼の祭祀や卑弥呼が死んで 作られた塚はそうした渡来の歴史からくるものなのではないか。そしてその渡来は 秦始皇帝の命で出帆した徐福一行の可能性を秘めている。又、豊前界隈は古代 秦王国(はたおうこく)の存在が指摘されており、それは秦始皇帝の末裔が朝鮮経由 で渡来したのではないかという推論もされている。徐福一行が先んじて日向に土着 していたとすれば、後の秦始皇帝の末裔を豊前界隈に呼び込んだという可能性は 否定できないのではなかろうか。 古墳築造による埋葬方式は、それまでの日本の埋葬文化全体を変えるものでは なかった。3世紀から7世紀の間に王朝や豪族など有力者に行われていたもので 仏教文化の到来と共に影を薄くしてゆく。では、誰が古墳築造を流布させたかというと それは卑弥呼であったろう。卑弥呼の時代に日向国は強大な国に発展した。道教 をもとにした祭祀も盛んとなった。そして行われるようになったのが古墳築造による 埋葬であった。国が隆盛になるに従い、それまで古墳とは言えないような小さな 盛り土であったものが次第に大型化していった。そして、卑弥呼のものになると、 特大を極めることになるのである。それが日向系王朝になると大和に伝播した。 そしてそれが又地方豪族に流行のように展開されていくのである。 では、邪馬台国はどこにあったか。西都市から陸行一月進むと邪馬台国はとんでも ない山の中か、陸地を突き抜けて海の中に行ってしまうかもしれない。 ここで、もう一度「魏志倭人伝」に戻ってみる。 ”南、投馬国に至るには水行二十日。五万余戸ばかりあり。” ”南、邪馬台国に至る。女王の都する所なり。水行十日、陸行一月なり。  七万余戸ばかりあり。”と記述されている。 邪馬台国までの里程に出てきた国々の中で一番戸数が多いのが奴国で二万戸 である。奴国は漢から金印を印綬された国であり、相応の規模であろうと思われる。 これに対し、投馬国の五万戸、邪馬台国の七万戸はいかにも戸数が多いと思われ る。使者の参問に誰かが答えた戸数であろうから、若干の不確かさはあったろう。 それにしても、投馬国五万戸、邪馬台国七万戸というのは相当の規模の国々で あったと考えてもいいのではなかろうか。 ここで律令制下の国府の所在地について考えてみたい。 西海道豊後国府は高坂駅近くに比定されている。大分市にある。日向国府は兒湯 駅近くにあったとみられており、西都市にある。国府の設定は交通の要衝というだけで なく、古来人々が多く住み、国の中心をなしていた所とみるのが自然ではなかろうか。 しかしながら、高坂界隈だけで五万戸、兒湯界隈だけで七万戸とするのは考えにくく 、投馬国は高坂界隈に政庁を置き相当広域な国だったのではないかと思われる。 そして、それは日向に土着した徐福一行の一派が開拓した国であり、その中に 豊前(宇佐)も含まれていたのではないか。同じように、邪馬台国も兒湯界隈に 政庁を置いた広域の国であったものと推論する。そして、おそらくその中に大隈半島 も含まれていたのであろう。 このように考えてくると、この広大な日向国に対して、”女王の都する所”というのが 邪馬台国の補語であろうかという疑問がでてくる。”女王の都する所”を女王が祈祷し 統率していた場所と解するなら、それは政庁が置かれていた西都市から離れた場所と することも考えられないことではないと思われる。 本来参問によって得られた情報では、投馬国の中心部から邪馬台国の中心部に 行くには水行十日、そこから”女王の都する所”には陸行一月かかるということでは なかったか。そして陸行一月は、参問に答えた者の誇張があった。相当山の中へ 入っていかないと辿りつけないという位の意味だったのではなかろうか。 おそらく「魏志倭人伝」を読み込んだ記紀編纂者達の下した結論もそのようなこと だった。だから、天孫降臨は高千穂の地と記述され宮殿まで造られる。 しかしながら、それでは余りにも非現実的である。卑弥呼女王の託宣を伺いに男子 吏員が遠い山中まで往復しなければならないからである。 本稿では結論として、邪馬台国は投馬国から水行十日にある西都市を中心とした 日向国にあった。そして、卑弥呼女王が祈祷し統率していた楼閣は西都市から それほど遠くなく、且つ人目に曝されないような場所にあったものと推論する。更に、 霊山霧島連峰を望む麓には、特別祈祷祭殿が設けられて守衛が常駐していた。 そこで年に何回かの大きな儀式が執り行われていたということではなかろうか。

転の章  狗奴国は出雲であった

紀元5年に王莽という人物が前漢の平帝を倒したとされる。そして、「新」(AD8年~ AD23年)を建国する。しかし王莽は農民の反乱の最中殺され、一代で新は滅び 後漢が立つ。そのわずか十数年しかなかった新の時代に王莽は新貨幣「貨泉」 を鋳造する。 貨泉は、新疆ウィグル(中国)、楽浪遺跡(北朝鮮)、金海貝塚(韓国)などアジア 各地で出土している。 日本国内でも、壱岐の「原の辻遺跡」、福岡県糸島市「御床松原遺跡」から貨泉が 出土、奴国と考えられる福岡県大野城市「仲島」からは同じ新の「貨布」が出土。 さらに、岡山市の弥生集落「高塚遺跡」、丹後の「函石浜遺跡」、大阪の大和川 「瓜破遺跡」をはじめ、瀬戸内海沿岸、日本海沿岸、山梨県など弥生時代後期の 遺跡や古墳から出土しているという。 これらのことは、貨泉が貨幣として流通していたかは定かでないにしろ、朝鮮・ 中国と倭の交流は相当広範囲であったことを物語る。 紀元初頭に鋳造された貨泉がこれだけ広範囲に流布しているのに反して、同じ 頃の倭国を記述する中国の文献では、倭国は極めて限定された地域を示している。 このことは何を意味するのであろうか。起の章で記述したように根底には中華思想 があるのであろう。中華思想のもとでは、臣下として中国に朝貢してくることが倭国 の条件であり、倭国に期待することは南朝鮮を押さえて北部朝鮮を睨むことだった のではなかろうか。倭国側にとっては、中国王朝の後ろ盾を得て、南朝鮮を基点 にして大陸・朝鮮半島との交易権を安堵することだった。このような観点に立つと 遠方の倭種の国ではなく、海峡から北九州界隈が倭国ということになるのである。 BC108年頃、漢の武帝は衛氏朝鮮を滅ぼすとその周辺の領土も掌握し楽浪郡など 四郡を設置してこれを治めた。AD238年には公孫氏を滅ぼした魏は四郡を取り戻し たのである。このように中国にとっては北部朝鮮を堰きとめることはいずれの王朝に とっても重要事だったのである。 ここで「古事記」カムヤマトイワレヒコの東征の記述について復習しておきたい。 一行は日向を出発し、宇佐で歓待を受けた後筑紫岡田宮で一年逗留する。そして、 軍備を整えて安芸国に七年、吉備国に八年かけてこれを平定し、河内国に向かう。 しかしながら、ここでナガスネヒコの抵抗にあい、紀国に迂回しそちらから大和に 入る。そして橿原宮を建て初代神武天皇となるのである。 これらの全体の記述の真偽は一先ずは置いておくこととして、着目しておきたい のは、安芸・吉備など地方豪族の台頭があったこと、そして神武天皇が日向系で あることである。又、ナガスネヒコの抵抗のことである。 既に多くの指摘があるようにその頃大和を含めて畿内には出雲系の豪族が進出 してきていた。ナガスネヒコの抵抗はこれら出雲系豪族との確執を象徴的に描いた ものであろう。 須我神社(島根県雲南市)縁起によると、出雲で横暴を極めていた清田の製鉄 豪族オロチをスサノオが倒し、虐められていた稲田の娘、櫛稲田姫を娶り須賀の地 に館を構えたという。この伝承は多くのことを語っている。一つはスサノオの時代に 出雲では製鉄が始まっていたこと、そして、製鉄を行う豪族はオロチ族だけだった とは考えにくいので結構広範に行われていたであろう。そして、更に想像の輪を 拡げると、そうした製鉄者は勢力拡大と原材料を求めて他の地域に出て行ったの ではなかろうか。その一つの道が琵琶湖沿岸経由でたどり着く河内・大和では なかったかと思われるのである。その証左と考えられるものに銅鐸がある。銅鐸の 出土は山陰、畿内、瀬戸内などに多いが九州には余り出土がないという。銅鐸に よる祭祀が中国或いは朝鮮から伝播したものであるとすれば、九州経由でないと すると出雲経由しかないだろう。鉄を求めて畿内に進出した出雲豪族は銅鐸祭祀 をも帯同していたと推論するのはそれほど無理がないのではなかろうか。 さて、上記のようにして誕生した日向系の神武天皇ではあるが、その後の天皇は 出雲系の豪族との融和策から皇后は出雲系から迎え、次第に天皇家は出雲色が 濃くなっていったとみられる。記紀にみえる第二代綏靖天皇から第九代開花天皇 の皇后・妃は殆ど磯城県主から迎えている。この磯城県主こそ出雲系とみていい のではなかろうか。 一方出雲国であるが、オオクニヌシという大物が登場する。そして、出雲国は大いに 繁栄するのである。遂には朝鮮半島との交易権を窺うまでになってくるのである。 神武天皇の東征を後方で支え、AD57年後漢朝から金印を授与された奴国であっ たが、頼みの天皇家が出雲系となってしまったことにより、次第に弱体化せざるを 得なくなっていた。 このような状況下で倭国が大いに乱れるのである。即ち、中国・朝鮮半島との 交易権確保をめぐる加羅界隈の覇権争い、ひいては中国へ朝貢し印綬を賜る 戦いが奴国と出雲国間で展開されることになる。そして、北九州諸国もそれにまき 込まれていくのである。 さて、日向国であるが女王卑弥呼が登場して采配を振るう。 女王卑弥呼が登場する最も古い史記は、古代朝鮮半島の「三国史記・新羅本紀」 だとされる。”阿達羅尼師今王20年5月、倭の女王卑弥呼使いを遣わし来聘す。” と記述があるという。新羅王年代紀からその年はAD173年のこととされる。又、卑 弥呼はAD238年魏に滅ぼされる公孫氏とも交流があったと言われており、当時として 邪馬台国の強大な国交力を示すものであり、卑弥呼も又南朝鮮の覇権争いに参画 していたのであろう。 この強力な女王卑弥呼の登場によって元気づいたのが大和日向系である。崇神 を担いで出雲系の一掃に乗り出し第十代天皇に擁立するのである。 澤田洋太郎氏がその著「ヤマト国家成立の秘密」で記述されているが、”記紀では ミマキイリヒコ即ち崇神天皇は開花天皇の子となっているが、それは史実ではなく 、開花天皇の娘の御間城姫(ミマキヒメ)のところに入り婿したのでミマキイリ彦と なった。”というのである。その頃の朝廷の出雲系と日向系との相続争いに絡んで 崇神が立った可能性が高い。 この崇神の出自については、騎馬民族説や北九州からの東征説などあるが、記紀に 記述の痕跡がないことから疑問視せざるをえない。本稿では丹波国にいた天孫系の 有力者と推論したい。澤田氏が指摘されている豊後国日出町(ひじまち)字真那井と 丹後国(比治・真名井)の地名の類似は、彼らが投馬国(大きくは日向系)から移住 して丹後国を築いていたことを示しているとしていいのではなかろうか。因みに丹後 国の一ノ宮籠神社の主祭神は彦火明命(日本書紀ではニニギの兄)とされている のである。 そして、出雲色一掃のやり方は相当強引であったのであろう。その象徴的な出来事 がそれまで盛んに行われていた銅鐸による祭祀を一掃することだった。それは出雲 においても行われた。「荒神谷遺跡」で発掘された銅剣358本、銅鐸、銅矛などは そのことを示しているものと考えられる。しかしながら、反作用はあった。やがて、 出雲の祟りで疫病が流行ったりすることが古事記では描かれる。神武天皇以降の 皇室は、奴国に王を派遣したり日向を九州鎮守使に任命したという指摘もあるが、 次第に形骸化し覇権は弱体化していた。しかし、卑弥呼との連携で力を得た崇神 天皇により一気に復活した。「ハツクニシラス・スメラミコト」と言われるのである。 魏志倭人伝などで記述される連合国の卑弥呼女王の共立は、崇神天皇の指図に よるものだったのではあるまいか。形式上は九州鎮守使、実質は日向国王たる 卑弥呼に九州の争乱沈静化を託したのである。 こうして、卑弥呼を九州連合国の女王に共立することで倭国大乱は沈静化した。 しかしながら完全に収まった訳ではなかった。魏志倭人伝はその後の状況を次ぎ のように伝える。 ”倭の女王卑弥呼、狗奴国の男王卑弥弓呼と素より和せず。郡に相攻撃する状を  説く。” ”卑弥呼以って死す。大いに冢を作る。更に男王を立てしも、国中服せず。更に  相誅殺す。” ”また卑弥呼の宗女トヨ年十三なるを立てて王となし、国中遂に定まる。” さて、ここにいたり狗奴国とはどこかを比定しなくてはならない。文脈から明らかな ように本稿では出雲国を想定している。多数説は肥後国のようであるが、九州 連合国と敵対し、朝鮮半島との交易権を主張しうる立地にあるのは出雲国以外 考えられない。肥後国では地勢上朝鮮半島への出入り口がないではないか。 狗奴国が肥後国であったら、北九州連合国はこれを打ち負かさないまでも、ただ 堰きとめておけばいいだけの話であるが、出雲国だとそうはいかない。自ら船団を 組んで朝鮮と往来できるからである。 起の章で記述したとおり、「魏志倭人伝」はAD285年頃完成したとみられている。 一方、「後漢書」の完成はAD432年とされていて、「魏志倭人伝」より150年も後の 完成である。そして「魏志倭人伝」のいう”其の南に狗奴国あり。”が「後漢書」では、 ”女王国より東、海を千里度ると狗奴国に至る。皆倭種といえども女王に属さず。” と記述されている。ここで南と東の方位訂正をしているのである。 女王国を北九州連合国とみた場合、肥後国では海を渡らない。出雲国は長門界隈 まで領域としていた可能性が高く、「後漢書」の記述に合致する唯一の国ということ になる。更にいえば、古事記でいう出雲のオオクニヌシは魏志倭人伝でいう狗奴国 の卑弥弓呼ということになる。 卑弥呼が亡くなって巨大な墓を作った。おそらくこれを差配したのが次ぎの男王 だったのだろう。しかし、長期の争乱で疲弊していた各国にとって、辛いことであり 不満がつのる。男王の統率力はなくなり、やがて又争乱状態になってしまう。 ここで日向の立てた戦略が卑弥呼の宗女トヨを女王にすることだった。これによって、 国中は収まる。 AD629年に成立した「梁書」に、晋の泰始二年(AD266年)、倭の王が西晋に朝貢 した記事があるという。曰く、”卑弥呼の宗女トヨが王に立つ。その後、男王が立ち、 中国の爵位を並び受けた。”である。 卑弥呼が魏に朝貢し親魏倭王として金印紫綬をいただくが、狗奴国はこれに恭順 しなかった。この背景には狗奴国と呉の接触の可能性も想像できるが、三国時代が 終わり西晋が立つ。そしてトヨが西晋に朝貢したのであるから、もはや狗奴国も これに逆らうことができなくなったのではないかと推論する。 では、この男王とは誰であったか。この男王こそ第十一代垂仁天皇であり、崇神の 後継として大和に入ったのであろう。こうして、大和王朝は崇神・垂仁の二代を要した が、名実ともに日向系王朝を完成させたのである。 このようにみてくると、大和王朝を裏で差配していたのが邪馬台国卑弥呼であった 可能性が大である。そして、片や大和において出雲系を駆逐して日向系王朝を 確立し、片や北九州において出雲国を南朝鮮の覇権争いから廃除したのである。 こちらも卑弥呼・トヨと二代を要したのであった。

結の章  箸墓古墳は卑弥呼の冢ではなかった

「古事記」は太安万侶によって編纂された日本最古の歴史書である。そして殆ど 同時期ともいえる720年に「日本書紀」が完成している。 記紀の編纂にあたった太安万侶はじめ当時の優秀な吏員は、当然「魏志倭人伝」 をはじめ中国・朝鮮の歴史書は熟読していたことだろう。そして、各地豪族の伝承や 各地の歴史書も可能なかぎり集積して分析したことだろう。従って、相当な精度で 史実は把握していたものと考えられるのである。しかしながら、記紀編纂当時に 王朝を差配していた有力豪族の意向に沿った歴史書、皇統譜に纏め上げる必要 があった。ここに、後世、作り事と批判を受ける記紀編纂スタンスがあった。 とはいえ、無から有を作り出すような全くの創作というものではなく、史実や事実を 巧みに繋ぎ合わせたり、時代を都合よく操作したりしている。ここに、記紀から読み とれる史実が示唆されているのである。多くの学者や歴史家が記紀の解析から 史実を浮かび上がらせようと苦心している所以であろう。 記紀編纂には多くの人々が関与しているようであるが、その中に中国の事情 に通じている百済系のスタッフが数えられているという。その影響か有力豪族の 意向かは不明だが、新羅系と考えられるスサノオは乱暴神として扱われ、その延長 線上にある出雲も不遇の扱いとなる。又、江南系と思われる日向も神代の彼方に 追いやられるのである。 古来朝鮮半島からの渡来は二つのルートがあったとみられる。一つは対馬経由で あり、もう一つが隠岐島経由である。山陰から越国にかけては隠岐島経由が主流 とみられる。とすればそれは新羅系ということになる。スサノオの出自が出雲である ことに大きな異存はないであろうから、スサノオは新羅系とみなされるのである。 「三国史記・新羅本紀」には新羅国の前身である斯盧国の第四代王昔脱解が多婆 那国の生まれで、その国は倭国の東北一千里にあると記されているという。 この多婆那国をどこに比定するかは諸説あろうが、朝鮮里(一里=400m)で測ると 山陰あたりとするのが妥当ではなかろうか。とすれば新羅と出雲の関係はいよいよ 密接なものとしなくてはならないのである。 前章で参照した澤田洋太郎氏は、その著「ヤマト国家成立の秘密」の中で、秦始 皇帝の命で「不老不死の仙薬」を探しに渡来した徐福一行のことに言及しておら れる。そして彼らは稲作など先進技術と共に道教思想を帯同してきたのである。 そして上陸地は佐賀県の諸富村あたりを指摘しておられる。それらの証左の一つ として「宮下文書」の所在を明らかにされている。本稿では既に記述のとおり、徐福 一行の上陸地は日向であるとした。「宮下文書」による徐服一行の主たる逗留地 は、紀国、富士山麓、鹿児島などで日向が出てこない。これも不可思議な気がする が、それはさておき、宮崎県には延岡市に徐福岩・船繋ぎなどの伝承があると言わ れており、徐福一行の日向上陸を示唆しているのである。 面白いことに、古事記には、垂仁天皇がタジマモリを常世の国に遣わして「トキジクノ カク」という不老不死の木の実を探させたとある。江南系を消したかった古事記編纂者で であるがポツリと残痕を残したのであろうか。 そして、歴史は天孫降臨から始まる。天孫降臨の一行は日向の高千穂の地に降り 立ち、ニニギがいう。”遠くは朝鮮に面し、近くは笠沙の岬にまっすぐ通じている。 朝日夕日も輝き、最上の土地だ。” 上記のように新羅と江南を廃して朝鮮を望む のであればそれは百済しかないだろう。このように記紀では、百済系の色を濃くした 上で神武東征が行われ、第九代天皇までを描くストーリーを構築したのであろう。 さて、記紀には「魏志倭人伝」に記述されている邪馬台国のことや卑弥呼について 著わされていない。これはどういうことであろうか。これらを詳細に描くと皇統譜が 江南系のものになってしまうからではなかろうか。だから、記紀には邪馬台国や 卑弥呼が現われないのである。では、魏志倭人伝で特大であったと記述される 卑弥呼の墓はどうしたらいいのだろうか。これが存在したのでは、卑弥呼の存在も 打ち消すことができない。そこで考えられたのが卑弥呼の墓を取り壊してしまうこと だったのである。記紀編纂にあたり、その描く世界と整合性をとるため、各地風土記 は修正させられたと言われている。上記のように「宮下文書」までもが修正された 可能性がある。そして、その修正の最大のものが卑弥呼の墓の取り壊しだったの ではなかろうか。 邪馬台国の場所の比定にあたっては、卑弥呼の墓の比定が最重要とされている。 そして、その中に金印か鏡があれば確定とすることができる。しかしながら、それは 困難であろう。すくなくても陵墓として体裁を保っていることはないと考えるからで ある。このように考えると、卑弥呼の墓として注目を浴びている箸墓古墳は卑弥呼 の墓ではないだろう。そして、古墳の中から金印や鏡が出てくることもない。決め手 となるような証拠物件を残しておくことなどありえないからである。 しかしながら、卑弥呼の墓を探し当てることが全く不可能かというとそうでもない気が している。記紀編纂の人たちの記述をみると、ある史実を打ち消しながら何らかの 痕跡を残しているのである。だから、卑弥呼の墓を取り壊したとはいうものの、痕跡を 残した可能性があるのではなかろうか。そのようなものを探すのが卑弥呼の墓を 比定することではあるまいか。 では、卑弥呼の墓はどこを探せばいいのだろうか。これまでの記述から、それは 豊国(宇佐)か日向が有力ということになる。果たしてどちらだったのか。 最後になるが、卑弥呼が亡くなった頃、邪馬台国の政庁を日向から宇佐に遷した のではないかということを指摘しておきたい。カリスマ女王卑弥呼であれば日向に 居て伊都国に一大率を設置することで統制が図れたであろうが、そこまでの力が なかった次の体制ではより北九州方面に睨みが利かせられる場所で体制維持を 図ったのではないかと推論するのである。又、次の体制が当面した大きな仕事は 卑弥呼の陵墓の築造であっただろう。大物の陵墓であるので多数の人夫を諸国 から駆り出さないとならなかった。この利便性から考えた場合にも政庁は宇佐に 置き、卑弥呼の陵墓を宇佐界隈に築造したということになろう。 そもそも宗女トヨはどこに育ったのであろうか。本稿全体の流れから考えるとそれは 豊国「秦王国」と投馬国豪族との血縁に由来する姫君であるという推論が成り立つ のではないだろうか。 了

<かぐや姫考>

日本昔話に「竹取物語」という誰もが知っている著名な物語がある。 成立年、作者は不詳であるが、現代では「かぐや姫」というタイトルで絵本やアニメ、 映画など様々な形で描かれている。 成立年については、「源氏物語」絵合巻に”竹取の翁”が出てくることから、遅くとも 10世紀半ばまで、通説では平安時代前期、890年代に書かれたものとされている。 作者像としては、上流階級で貴族の情報がある程度得られる者、そして反体制的な 文脈があることから、当時の権力者藤原氏との係累ではない者とみられている。 では、早速あらすじを追ってみよう。 ある日、翁が竹林にでかけると、光り輝く竹があった。中から三寸の可愛い女の子が でてきたので、自分達の子として育てることにした。 美しく成長した女の子は「なよ竹のかぐや姫」と名づけられた。 美しい姫は世間の評判となり、求婚する者が続出した。そんな中に五人の公達が いた。かぐや姫はそれぞれに異なる珍宝を探してくるよう提示した。持ち帰った者と 結婚するという訳だ。しかし、手に入れるのは困難なものばかりで、偽りの品を持ち 帰ることしかできなかった。 そんな様子が帝(みかど)にも伝わった。帝はかぐや姫に会いたがったが姫は会おうと しなかった。召抱えようとするも拒否された。しかし、文通はしていた。文通するように なって、三年がたった頃、かぐや姫は月をみて物思いにふけるようになった。 翁が訳を問うと、「自分は月の都の人であり、十五日に月に帰らなくてはならない」 というのだった。それを聞いた帝は勇ましい軍勢を送り込み、かぐや姫を閉じ込めて 月からの使者から守ろうとする。 月からの使者は言う。「かぐや姫は罪を作ったので地上に暫くいたのだ。罪の期限 が過ぎたから早く姫を出しなさい」と。 そうして、固めた守りは打ち払われ、かぐや姫は天に昇っていくのである。 その時、姫は帝に手紙と不死の薬の入った箱を置いてゆく。しかし、帝の悲しみは 癒えず、手紙と不死の薬を駿河国の日本一高い山で焼くように命じたのであった。 その由緒を受け、士(つわもの)らが大勢で不死薬を焼きに山に登ったことから、 その山を「富士山(士に富む山)」と名づけた。不死の薬を焼いたから不死の山 という読者の予想の裏をかいているとも言われる。焼いた時の煙は今も雲の中に 立ち昇っているのだといわれる。 このかぐや姫のモデルとなった姫については諸説ある。 先ずは名前であるが、古事記に垂仁天皇の妃として記載される、「迦具夜比売命」 (かぐやひめのみこと)が指摘されている。父親が「大筒木垂根王」とされており、 筒木は竹、根もとを連想させることも根拠の一つであろう。 もう一人日本書紀に、垂仁天皇の後宮に入るべく丹波から召し出された五人の姫 がいたが、「竹野媛」だけが国に帰されたという記述があり、これがモチーフにされた という説がある。 本著では、これらの複合体が題材になっているものとみるが、時代は垂仁天皇の 時としていいだろうと思われる。 そして、かぐや姫は天皇に請われても宿命で月に還るという設定になっていること から、天皇に選ばれなくて帰されたことに反発している訳であり、垂仁政権への批判の 立場が窺われるのである。 これと似た説話が古事記にある。高千穂の宮を建てたニニギはコノハナサクヤヒメに 出会い、求婚するが父親は一緒に姉の醜女イワナガヒメも送り込む。しかし、ニニギは これを送り返してしまうのである。それ以来、ニニギの子孫である天皇に寿命が 生じてしまったというのである。竹取物語ではこの説話を意識している可能性が高い。 次に、光り輝く竹の中から女の子が出てくる件(くだり)である。 これは、朝鮮半島の加羅国金首露の天孫降臨の説話からきているものと推論する。 天から降りてきた紫色の紐の端についていた赤いふろしきに包まれた、金の合子 (ふた付の容器)があった。開けてみると黄金の卵が六つ入っていた。それぞれは やがて大きく男子として成長し六伽耶の王になる。中でも金首露は全体の王となる。 この天孫降臨の説話は、古事記の天孫降臨の説話のもとになっているとも言われて いる。こうした天皇家の重大な天孫降臨の説話をベースにしながら、取り巻きの公達や 天皇を翻弄する物語構成になっている訳であるから、作者は相当反体制的な位置に いたものと思われるのである。 又、かぐや姫が月から来て月に還るという設定も、天孫族をイメージさせるものでは なかろうか。 次は、五人の公達に珍宝を探させるという説話である。 何故五人かという疑問が最初に起こる。一人でも良いし、三人でも差し支えないように 思われるのであるが、五人であった。それは、珍宝の数が問題ではなく公達の数が 問題であった。「竹取物語」が発表された時々の著名な公達が登場したということ だろう。だから、時々によって公達の名前は変わってくるのであろう。 この説話に関しては、古事記にイクメイリビコ(垂仁天皇)が、タヂマモリに命じて 常世の国にある不老不死の「トキジクノカクの木の実」を探させたという逸話がある。 不老不死の仙薬は、秦の始皇帝の命で徐福が日本に探しにきたものである。そして、 徐福一行は日本各地に土着した。中でも日向は、一行の一部の群の拠点となり、 発展してきたのであった。天孫降臨の地でもある。 五人の公達の珍宝探しは、この垂仁天皇の「トキジクノカクの木の実」探しの逸話を 題材にしているのは間違いないであろう。 醜女を追い返してしまった罰で天皇に寿命が生じた。それで、不老不死の仙薬を 探させる。しかし、垂仁天皇の死には間に合わなかったという古事記の記述を皮肉 たっぷりに再現しているようにみられるのである。 最後に、大勢の士(つわもの)が不老不死薬を日本一高い山に焼きに行ったという 件である。 これについては、「宮下文書」に記述があり、徐福は駿河から上陸し富士吉田に滞留 したとされているという。そして富士山を蓬莱山としたと言われている。 こうした伝承は、竹取物語の作者の存命当時としては割合いと知られていたことだった のではなかろうかと推察する。とすれば、渡来者一行の日向上陸、日向国の発展、 日向国に天孫降臨、神武天皇の東征、初代天皇就任という流れとの関連が徐福を 介在させることで明瞭となってくる。 そして、神武天皇以降は次第に日向色が薄れてゆき、出雲系に染まってゆく。 それを日向系に取り戻したのが、崇神・垂仁であった。だから、この件も徐福一行に 話を戻しつつ、実は垂仁天皇のことを記述しているのである。 このように見て来ると、この竹取物語は垂仁天皇を揶揄し、皮肉たっぷりに描いて いることが浮かび上がってくる。そして、ひいては日向系に対する反体制的なことが 見え隠れするのである。とするならば、作者の人間像は日向系に凌駕された豪族の 中の誰かということが推量されてくる。それは、出雲系としか考えられないだろう。 即ち、日向系に凌駕された出雲系の豪族の末裔の誰かが、垂仁天皇を題材にして 竹取物語を創作したということも想像されるのである。 冒頭に記述したように、通説では「竹取物語」の成立は890年頃とみられている。 物語に登場する五人の公達は「壬申の乱」で活躍した実在の人物とみられており、 又、「古事記」や「日本書紀」から題材を拾っていると考えられることから、720年 以降の成立とみなければならないだろう。 しかしながら、それよりずっと後の平安時代後期の成立とされている「今昔物語集」に、 「竹取物語」の原形とも思われる『竹取翁語』が記述されているのである。 「竹取物語」は890年頃成立したとされているので、それより後に成立した「今昔 物語集」に記述される『竹取翁語』が「竹取物語」を題材にしているとは考えにくい。 「源氏物語」に記述されるほど流布していた「竹取物語」のことを取り上げて記述 するということは、二番煎じの謗りを免れえないのではないか。 とすれば、この『竹取翁語』は「竹取物語」よりずっと以前から存在し伝承されていて、 これをもとに「竹取物語」が創作されたものと考えざるをえないだろう。 そのように考えると、前段で記述した日向系に凌駕された出雲系の豪族の末裔の 誰かが垂仁天皇を題材にして創作したのは、「竹取物語」ではなく『竹取翁語』で あったとされなくてはならないだろう。 「今昔物語集」(巻三十一第三十三話)、本考察でいう『竹取翁語』は次の様な記述 から語られる。 曰く、”今は昔、□□天皇の御世に一人の翁ありけり。・・・・・。” 古来大王(オオキミ)と称されていたのが、天皇と号されるようになったのは通説 では天武天皇の頃とされているという。しかしながら、「今昔物語集」が成立した頃は 遡って天皇と称されていたと考えられる。だとすれば、天皇という言葉だけではその 年代を決められないだろう。 仮に、この□□に垂仁と入れてみたらどうだろうか。本考察で記述してきたことの 殆どが整合することにならないだろうか。 <参考文献> ・日本の「神話」と「古代史」が  よくわかる本 日本博学倶楽部著 島崎 晋監修 PHP研究所 ・邪馬台国をとらえなおす 大塚初重著 講談社 ・ヤマト国家成立の秘密 澤田洋太郎著 新泉社 ・日本古代史を科学する 中田 力著 PHP研究所 ・中国王朝4000年史 渡邊義浩監修 新人物往来社 ・物語 韓国史 金 両基著 中央公論新社 ・邪馬台国 松本清張著 講談社 ・「日本=百済」説 金 容雲著 三五館 ・日朝古代史「嘘の起源」 蓮見清一創刊 室谷克美監修 宝島社 ・古代史謎解き紀行Ⅱ 関 裕二著 新潮社 ・古代史謎解き紀行Ⅲ 関 裕二著 新潮社 ・ヤマタイ国はどこへ行った 村雨賢次著 文芸社 ・日本古代の道と駅 木下 良著 吉川弘文館 ・現代語訳「竹取物語」 川端康成著 河出書房新社 ・竹取物語 Webサイト Wikipedia

最終更新 平成27年10月5日