『私の古代史 「卑弥呼とタケル」』

												福島 巖


Ⅰ  魏志倭人伝に書いてある邪馬台国

1.魏使はどうして日本に来てしまったか  2.邪馬台国発見は思いがけないきっかけから 3.国譲りの交渉 4.倭国内の大乱発生 5.邪馬台国が大伽耶に成長 6.ニギハヤヒの天孫降臨

Ⅱ  丹波王国を作った人々

1.ツヌガアラシトの来日 2.アラシトの最初の行動・・どこに拠点を構えるか 3.ツヌガアラシト一族の系図と業績 4.和爾系の人脈 5.息長氏の系統 6.丹波の全盛期の姿 7.丹後王国の没落

Ⅲ  ツヌガ王朝の誕生

1.田道間守が景行天皇であった 2.タケルの東国征伐 3.仲哀天皇の正体 4.神功皇后の新羅遠征 5.近畿に戻った仲哀天皇 6.仲哀天皇の墳墓

Ⅳ  神武王朝とツヌガ王朝のつながり

1.時間軸はどうなっていたか 2.神武から崇神まで大和には王朝がなかった 3.崇神天皇は大和に来ていない 4.垂仁天皇は存在していない

Ⅴ 箸墓古墳は何故誕生したか

1.疫病の大流行 2.改革を遂行した人物とスポンサー 3.箸墓古墳築造の金は誰が出したか 4.大和が滅亡の危機を迎えた時期 5.スポンサー由碁理の資金源 6.事業内容は大土木工事 7.箸墓古墳の建設

Ⅰ  魏志倭人伝に書いてある邪馬台国

1. 魏使はどうして日本に来てしまったか  魏の役人が倭国を訪問した旅行記が魏志倭人伝にまとめられている。彼らは倭国は中国紹興市の東にあるものと思い込んでいたことが錯覚を起こした原因の一つ。もう一つは邪馬台国の情報を使者から聞いて生半可な知識は得たものの、具体的な案内人を連れずに来たため道に迷って目的を達成できなかったことであった。
彼らがやってきたのは列島には出雲の国、誕生間際の伊都国があるだけの時期にあった。
魏志倭人伝では帯方郡より倭に行くには、朝鮮半島の西海岸に沿って水行し、倭の北岸にある狗邪韓国に到着する。ここは多くの著書では金海と認識されているがそれは誤り。彼らは巨済島のずっと西、対馬の見える突山島付近から対馬の浅茅湾目指して進んで行った。この時代海面水位が高かったので浅茅湾はフリーパスで通過できた。千余里(約70km)で対馬国に到着する。
図1
図1 誤った魏使の紀行ルートと邪馬台国への道程
 それからまた南に一支国を経由して末盧国に到着する。そこから東南に陸行(*東北が正しい方向)すること40kmほどで、伊都国に到着する。代々王がいるが、かれらは皆女王国に服属している。以下は伊都国で得た情報で具体的な距離情報は無く所要日数のみが記される。これから先は、東南(*東北)し奴国に至る。さらに東にある不弥国(北九州)に至りそこからまた南、投馬国に至るのに水行二十日。間違いの南を北と置き換えると関門海峡を通って山口県の沖合を北進し出雲の国=投馬国に至る・・・この当時人口密集地は出雲以外考えられない。
伊都国の人は「出雲の国」については良く知っていた。邪馬台国に至るのに南、水行十日・陸行一月。ここが女王の都するところである。

魏志倭人伝の記述の矛盾点
  1. 伊都国は帯方郡からの使者が倭と往来するとき常に駐まる所である。
  2. 女王国の北には一大率を置いて諸国を検察している。一大率は常に伊都国に置かれている。
  3. 洛陽や帯方郡からの使いが倭にきた場合いずれも湾頭で臨検し、文章や贈り物を調べ、女王のもとに届けるものがこれと違わないようにした。 女王の所に行くのに2ケ月もかかる伊都国に門番のような監査機能を置くこと自体が矛盾している。この矛盾点が納得できなかったが次のように解釈することで可能になった。


― 魏使の錯覚で伊都国を金官伽耶の金海宮殿と間違えてしまっていた -
金官伽耶は国譲り前は伽耶連合国(倭国)の中心であったがそれ以降は中心が邪馬台国の女王に移り女王の秘書的役割をこなすだけの存在になってしまっていたようだ。
図2
図2 正しい帯方郡から邪馬台国への道
朝鮮半島の西海岸に沿って南に水行し、珍島から東に進み巨済島を越え北側の湾に入り込んで金海の地に上陸する。ここには女王の所に行くに必要な手続きも行えるし船を雇って洛東江を遡行することもできる。帯方郡から珍島経由突山島辺まで約7000里、そこから対馬に行ってしまったがもう少し東進して巨済島を越えて金海の金官宮殿に行って女王に会う手続きを取る、距離にして3000里。船で洛東江を遡上して高霊にある邪馬台国の宮殿までは同じように2300里の距離である(直線距離を測定し実際の距離として係数1.3倍して算出)。最初から予定したルートだと総距離980km、1万2千里 1里は82m相当であるとしたら魏志倭人伝の通りであった。
日本人が邪馬台国が国内にあると誤解した理由を考えると、帯方郡から邪馬台国を目指して出発した魏使が最初に到着したのは九州であった。誰が考えても邪馬台国は日本にあったのだと考えるのは自然の理である。しかし良く読むと九州から船で1ケ月、陸路で1ケ月、合計2ケ月もかかる遠隔の地にあることが書いてある。

2.邪馬台国発見は思いがけないきっかけから

魏志倭人伝をきちっと読んで投馬国は出雲国であることは推理できた。「ここから南、水行十日と陸行一月を経た所に邪馬台国がある・・」ここで行き詰った。
金官伽耶のある金海は港だから歩く必要は無い。たまたま大伽耶のことを調べていて「大伽耶王陵展示館」の展示品を見ていたら第44号墳が殉葬墓で付近を含めると100人近い殉葬者がいたとの説明をみてこれが卑弥呼の墓であるとピンときた。朝鮮半島でも殉葬墓は珍しいのでこの上に展示館が作られた。更に状況を調査すると倭人伝の記録とピッタリの上、浦項湾から徒歩で1ケ月の距離とも一致しているではないか。2014年正月の大発見で興奮した。
高霊には主山という山がありその尾根筋には巨大な池山洞古墳群が並んでいる。その第44号墳と第45号墳が殉葬墓である。第44号墳は高さ6m直径27mにも及ぶ大きなものでありこの中に35人の殉葬者が一緒に埋葬されていた。
写真1
写真1 池山洞古墳群と高霊の町
魏志倭人伝の卑弥呼の墓は円墳で大きさの径は百余歩、殉葬した奴婢は百余人と記されてる。現在の日本人は左右の足を踏み出すことで歩数距離を算出しているが、本来1歩は1ステップ、背の低い人の約27cmと見られている。百歩は長さ27mの直径はピッタリ一致すると見られる。また殉死者は第44号墳の周辺に小さな墳墓が集まっておりこれらも含めると百人近い人が殉死したと推定できる。第45号墳は次の女王壱与(イヨ)のものではないかと考える。

3.国譲りの交渉

倭国が誕生して約百年、倭国の中心金官伽耶国では対岸に横たわる日本列島が気候温暖かつ人口も少なく移住するには非常に魅力的な場所であることが分かってきた。実際に多くの人々が目の前の九州に移り住んでしまうため金海(高天原)の地が過疎化現象まで引き起こしてきた。さらに天照(6世)が得た情報では九州の先にある、近畿地方が海水面の低下によって住み易い平野が海岸線に沿って広がり移住するには格好の地であることが分かった。このため玄関口である出雲を天照系が確保して本土への進出をスムーズにしたいとオオクニヌシに交渉を持ちかけた。倭国全体の構想として日本列島は天津系が治める国、朝鮮半島は国津系が運営することでやっていこうと天照は決断した。
交渉には時間がかかったがまとまることができた。

4. 倭国内の大乱発生

私は歴史年表を眺めていて次のことを発見した。出雲の国の国譲りはオオクニヌシ大王の治政後半150年代のことである。この年代から大乱が発生して長く続いたことが記録されている。後漢書の記述に従うと「桓帝・霊帝の治世の間(146年 - 189年)、倭国は大いに乱れ、さらに互いに攻め合い、何年も主がいなかった」という。この時期は国譲りの時期とピッタリ一致している。従って単純に人口が増えたのではなくて出雲の国において従事していた宮殿や役所に勤めていた人、軍人などが一斉に故郷の「高霊」を目指して帰ってきたために起きた長期にわたる大混乱であった可能性が強い。
この紛争と食料も欠乏していたため餓死者が大量に発生していた。男の王が何度即位しても勤まらずとうとう若い巫女卑弥呼の登場となった。神の声を聴いてそれに従わせることによってかろうじて紛争を抑えることができた。宮廷には男は弟のみで奴婢や大勢の巫女集団によってこの国の政治が行われ軍によって治安が保たれるぎりぎりの運営であった。これが「邪馬台国」と呼ばれた国の実態で王は卑弥呼と呼ばれる女王であった。

5.邪馬台国が大伽耶に成長

200年頃からは出雲や日本海側の開発に携わっていた人々が洛東江沿岸の開発に進出してきた。また鉄の生産に新しい技術を持ち込んだ秦氏一族の協力もあって4世紀には鉄の生産が飛躍的に伸びて豊かな国に変貌し始めた。国名も「大伽耶」と呼ばれるように大きな国に発展していった。鉄の交易で豊かになり、鉄を使った兵器を駆使し、規律が取れた軍隊は向かうところ敵なしの大倭軍団を生み出していった。
400年の高句麗広開土王の伽耶攻撃で金官伽耶はじめ洛東江下流地域が大打撃を受けるたが、この地域はそれほどの被害を受けなかった。そのため、大伽耶は洛東江中流域の国をあわせて、大きな勢力の盟主となった。その勢力は「大伽耶文化圏」というほどで、金官伽耶や南海岸地域を除いて殆どの国がその勢力下になった。

6.ニギハヤヒの天孫降臨

天照神は列島を管理するために息子2人を派遣した。天孫降臨と呼ばれる天照神の子孫をリーダーにしてある地域に集団で移住させること。公式に指名されたのはニニギ命であった。彼は対馬で育ち、孫のイワレヒコの時筑紫糸島半島に降臨して神武王朝(伊都国とも呼ばれている)を開いた。詳細は平成26年7月2日のホームページ、私の「邪馬台国は韓半島高霊」のレポートに載せている。ニニギの兄ニギハヤヒも天孫降臨しニニギより先に列島の中心部大和に入っている。

Ⅱ.丹波王国を作った人々

3世紀から4世紀にかけて山陰の丹後半島に日本列島で最も繁栄していた地域丹波の国が存在した。この地域が鉄の交易の基地になって朝鮮半島と近畿地方をつないで人間の往来を促し日本国誕生のきっかけを作った。様々な人達の活動があった。

1.ツヌガアラシトの来日

朝鮮半島では鉄の交易のため中国を始め各地に出かけて行った。この一環として日本列島にやってきたのがツヌガアラシトである。記紀では天日槍とか天日矛だとか天照系の名前を付けているが邪馬台国の王子(記紀では新羅・大加羅国など)が来日して但馬の地に住み着き周辺を開発し大丹波国を築き上げた。ここが交易の中心地になると同時に近畿地方への進出口になり、最初の国-大和朝の原型を作り上げる所まで彼らの挑戦が続いた。景行天皇はアラシトの5世孫であり6世孫のタケル=仲哀天皇が大和国家を作り上げた張本人であることが分かってきた。
彼がやってきたのは230年頃と推定できる。この時、天照系ニギハヤヒの命は大和にきてその子孫が活動していた。時代と出身場所からみて卑弥呼とアラシトは親密な間柄であることが分かる。出雲の国は天孫系に譲渡したというもののオオクニヌシの頃までに出雲から出て行って近畿や中国地方に定住していた集団がいた。葛城・紀伊・播磨・吉備などには有力豪族が既に根拠を構えていた。また出雲の輸送部門を担当していた和爾(ワニ)氏は健在であった。アラシトは武装した集団でやってきており同じ鉄の仲間である息長氏も同行していた。

2.アラシトの最初の行動・・どこに拠点を構えるか


図3
図3 日本海から近畿に出る代表的ルート 弥生からこの当時まで近畿地方に進出する典型的なルートは決まっていて但馬の円山川を遡って現在の播但連絡道に沿って南下するルートである(図3のルートA)。途中姫路に流れ出す市川に移動するため朝来町から生野町にかけての約10kmの区間は山間部で複雑な丘陵が入り組む場所を歩いて通過する必要があった。船を使おうとした場合には福知山線・生野駅周辺は船曳の難所であったと思われる。人が移動するだけの場合は歩くだけで良かったが重量物の運搬には問題があった。苦労の末姫路に銑鉄を運び込み明石海峡の潮の流れが緩くなる時間帯を利用して淡路島に接岸し工場に原料を運び込んだ。
淡路島からは小さな島伝いに紀州に渡って紀ノ川沿いに進み五條市経由葛城山麓方面から大和に侵入するのがメインルートになっていた模様で淀川や大和川の運航は後の時代になって利用された模様である。
アラシトはこのAルートをたどり大和から淀川を北上して琵琶湖に達したようで仲間の息長氏は湖の東岸に場所を見つけて定着し製鉄業を展開した。アラシトは更に北上して近畿一帯を視察の後、敦賀から但馬に戻り海岸からやや入った出石の地に定住することにした。

3.ツヌガアラシト一族の系図と業績

記紀に概略が載っているが先代旧事紀の物部ニギハヤヒ系列、カゴヤマ系列の両方にも混入掲載されているのでそれを参考にしながらまとめると

◆ ツヌガアラシト➀
記紀は地元の娘マタオを娶って息子、但馬諸助(モロスケ)を生んだとしている。しかし旧事紀(天カゴヤマ編)ではアラシトは建斗米(トメ)と呼ばれていて紀伊国造チナソの妹、中名草(ナガツナクサ)媛を妻として6男1女を生み長男が建田背(タセ、諸助)であるとしている。泥地の豊岡の干拓事業を実行して皆の住める豊岡平野を作り出して住民の感謝の意が出石神社の碑に残されている。アラシトと息子モロスケは険しい山間部を経ないで内海に出られる新ルートを懸命に探した。「市川」の隣にある大河「加古川」を経由すると山間部を経ないで若狭湾の由良川に達することを調査の結果発見し新ルートとして見定めた。丹後半島宮津市側にある大きな川、「由良川」に沿って福知山市を経由し、支流の竹田川(丹波市)に沿って南下すると福知山線の石生駅の所でほとんど標高差なしで加古川に接続することが可能であった。ルート全体は長くなるが但馬から円山川経由で姫路に出るルートに比べて起伏が少なく鉄のような重量物の輸送には適したルートで瀬戸内海にも淀川にもつながることができるメリットがあった。

図4
図4 丹後半島の概略図

◆モロスケ(建田背) ➁
丹波・但馬国造、海部直の祖であると記されている。これを丹波道主王と呼び、この地域の大王の祖になっている。彼の大仕事は岩場ばかりで休憩所を確保できず手漕ぎ船で渡ることのできない丹後半島の先端(経ケ岬)をどう乗り越えて行くかにかかっていた。一帯は大きな岩壁が連なるリアス式海岸で水の補給や休憩する場所が取れない。しかも半島周りには7日間にも渡る航海が必要であり手漕ぎ船の渡航は困難であった。そこで考え出されたのが半島の根元、竹野川をを遡上して船曳で丘陵を越え宮津市側に至る交通ルートの構築であった(現在鉄道が通っているルート)。この構想に従って丹後半島の開発がツヌガ・アラシト以下、但馬モロスケ・ヒネなど5代目の但馬清彦の代まで続けられた。製鉄所もここ丹後に建設され東西から交易商人や工場で働く人たちが集合してきた。大宮売神社の辺りには大きな市場ができて商売人が活発な取引をしたことが出土する遺品に依って証明されている。モロスケはアラシトと共に半島からやってきた息長氏の娘、水依媛を娶り斐泥・ヒネ(美知能宇斯王=道主王)を生んでいる。

◆ ヒネ(由碁理・ユゴリ)➂
大活躍をした王で系譜には建諸隅(タケモロズミ)として扱われている。また一般には「丹波の由碁理」として有名である。大和で人々が伝染病と飢えで苦しんでいる時、物部氏の大水口宿祢(穂積氏の祖)と組んで太田タネコプロジェクトを結成し、資金援助を行い見事に苦境を脱出した。物部系の系譜に建諸隅として登場する人である。葛城諸巳媛との間に比那良岐(ヒナラキ)を生んだ。アラシトの孫、由碁理からは丹波の地だけではなく大和まで進出して物部・葛城など諸豪族との幅広い交渉ごとの舞台にも登場している。

◆ヒナラキ ➃
倭得玉彦(魂)の表記で系譜に登場している。彼の存在は川上眞稚として付けられている通り久美浜湾に流れ出す川上谷川の支流須田地区に拠点を築いたことである。ここには宮殿があって王者の谷と呼ばれるほど豪族の古墳群が多くある。湯舟坂2号墳からは多くの貴重な遺品が発掘されている。熊野若宮三神社など古くから伝わる神社も多い。久美浜湾は交易の中心地であり船乗りの休憩所など多数存在していた。ここを取り仕切っていた人が和爾氏である。和爾氏とアラシト一家との交流は密接で日本海から近畿地方に運ぶ鉄など物資の輸送は和爾氏一族の独占事業だった観がある。ここに進出して拠点を大きくし、和爾氏とより密接につながっていったのが川上眞稚であり大海宿祢とも呼ばれている。後に丹波の海部氏(海部直)を引き継ぐ人はここ出身の和邇氏である。
ヒナラキは川上谷の川上マスラメと結婚して3人の息子を設ける。但馬守、清彦、日高の兄弟である。墓所はここの甲山にあり丹波の最初の国府はここに置かれていた。

◆ 三人兄弟の活動 ➄

a. タジマモリ
アラシトや由碁理が大水口宿祢など紀伊の有力者と深い縁を結んでいたようである。タジマモリは紀伊に移り住むこと9年紀県主の娘影媛との間に武内宿祢(タケル)を生んだとされる。後の景行天皇になった人物でツヌガ王朝の開祖であり各地の先住者を武力と交渉により従えていった。九州一円は景行の力によって9割方統合された。

b.キヨヒコ
次男で川上麻須稚郎子も呼ばれているので父親の跡を引き継いで川上谷の宮殿で貿易関連の仕事をこなしていったものと思われる。彼は和爾オケツ命の妹オケツ媛を娶って(古事記では開化天皇になっているが間違い)2人の子どもを得た。スガノモロオとユラドミである。彼は丹波大矢田彦とも称されている。タジマモリと違い丹波に腰を下ろして丹波の国の開発の中心人物になっていった。記紀には天皇がアラシトが持参した宝物を見たいと言った時の対応が載っている。

c.ヒタカ
彼は兄の娘ユラドミと結婚して子ども葛城高額媛を生んだ。但馬姓の2人が結婚してなぜ葛城になったか不思議であるが(単に葛城の場所に住んだという意味か?)・・この人が息長帯媛(神功皇后)の母である。
名前が川上出石別となっているので但馬の国造のような立場か?別名に「大多牟坂王比」もあり。タジマモリの系統は景行・仲哀の天皇系列となって鉄の貿易と離れて舞台は日本の国体に影響を及ぼすがキヨヒコ・ヒタカ系列が丹後に腰を落ち着けて貿易をつないでいったようである。

◆6世孫の動き
スガノモロオは品陀真若王とも呼ばれている。川上麻須郎女の和爾オケツの娘オケツ媛を娶って3人の子どもを生んだ。高木入媛・仲津媛・弟媛でありいづれも応神天皇の皇后と妃になっている。彼も丹波ミチノウシ王であり国造大倉岐とも呼ばれている。
タジマモリの子どもは日本武尊・武内宿祢・仲哀天皇であり息長帯媛と結婚して応神天皇につながる。7世孫の応神が新王朝の開祖となっている。

4.和爾系の人脈

和爾氏は出雲の国に「白うさぎ」を救ったワニの説話があるように古くから海運を営む氏族として存在してきた。安曇氏や住吉氏との分担は良く分からないが中国や半島との運航は前者で和爾氏は日本海側及び近畿との往来を独占していたものと思われる。宗像氏は和爾氏から出たとされている。

◆オケツ命
和爾氏の祖とされているオケツ命は久美浜湾一帯で海運業を経営し、女性たちは但馬家一族と婚姻を通して一体感を強めていった。近畿への物資の輸送は由碁理の時のタネコプロジェクトによって一層活発になり天理市に近い所に和爾邑が形成されたものと思われる。彼の妻が由碁理の娘竹野媛の可能性が高い。妹のオケツ媛は清彦の妻、娘のオケツ媛はスガノモロオの妻になっている。

◆建振熊は海部直になった功労者
神功皇后が新羅遠征の時、建振熊は丹波、但馬、若狭の海人300人を集め船長として行動した。凱旋の翌年九州から息子応神を乗せて帰還しようとした時、これを阻もうとする忍熊王との戦になった。この戦いで建振熊が活躍し忍熊王を琵琶湖のほとりで滅ぼした。この功績が認められて和爾氏の名前は有名になるが海部の姓を賜られたのはその息子建振熊宿禰になってからである。
建振熊宿禰は応神朝になって丹波、但馬、若狭にまたがる地域の国造となっている。その支配の拠点は、若狭木津高向宮とされる。現在の福井県大飯郡高浜町。建振熊宿禰の時代から丹波の一族は海部(あまべ)と称するようになる。丹波、但馬、若狭が彼の支配地域であるが、本拠地は大和和爾すなわち現在の奈良県天理市和爾である。
和爾氏は景行・仲哀・応神らツヌガ系の各天皇と一体になって行動し、時代が進むと共に取り扱う積み荷の量が飛躍的に増えた。そのような背景から地盤である奈良市近郊に大型の古墳をたくさん作り上げた。応神天皇の時代、海運ルートCが使われるようになってから琵琶湖を一直線に南下できるようになった。和爾氏は当然琵琶湖の海運を握ったので大津市の琵琶大橋の近く真野川や和邇川周辺におびただしい和爾関連の古墳群が出現する。和爾氏から分かれた小野・石上・道風・春山などを含む和邇大古墳群である。

5.息長氏の系統

アラシトは宇治川を遡って近江の国、吾名(アナ)村にしばらく住んだ。近江国の鏡村の谷の陶人はアラシトと一緒に来た彼の従者である。「倭名抄」にも、近江国坂田郡に阿那という地名があったことが記されている。後に「息長村」と呼ばれていた。息長村は、息長一族の本拠地であり、「鏡谷」の近くにある。三上山麓の「御上神社」は、息長氏の祖神、「天之御影命」を祀っているが、日本の鍛冶の祖神と称せられて鉄の製造に関する集団であったことが推定できる。神社の東、国道8号線を挟んで反対側にそびえる標高432mの三上山は、御上神社のご神体となっている神聖な山である。 祭神は、記紀に登場する製鉄・鍛治の神、天目一箇神と同一視されている天之御影大神。この神の娘は、「息長水依比売」であり但馬一家と強く結びついていった。仲哀天皇夫妻はアラシトの6代孫であり気心の知れたカップルであることが理解できる。
一般的には息長氏は、和邇氏等と同じく天皇家をその皇族などに妃を供給する形で蔭で支えてきた氏族であるが、和爾氏は離れた存在であるのに対して息長氏は天皇家と一体になってしまっているので息長氏独自の存在は表に出なかったと思われる。
息長氏の系統を追ってみると以下のように整理することができる。
息長宿祢が但馬清彦であること、息長帯媛の親は但馬ヒタカの娘であることが分かり神功皇后は姓は息長であるが但馬家の一族そのものである。仲哀と神功の夫婦はいとこ同士の結婚であった。
①天之御影(アラシトの友人)息長氏の引率者であり製鉄業を営んだ
②息長水依媛(但馬諸助・丹波道主王の妻、御影の息子は存在が不明)
③丹波ミチノウシ王(但馬ヒネ・由碁理、妻は丹波川上マスラメ)
④加邇米雷王(但馬ヒナラキ・倭得玉彦・川上眞稚、妻は遠津臣娘タカキ媛)
⑤息長宿祢(但馬清彦・川上麻須稚郎子、妻はヒタカの娘葛城高額媛)
⑥息長帯媛(神功皇后、仲哀天皇の皇后・応神天皇の母)
⑦息長真若中媛(スガノモロオの3人娘の一人、応神天皇の皇后)
⑧若沼毛二俣王(妻は弟日売真若媛)
➈意富富杼王(大郎子とも呼ばれ息長氏の祖とされている
などがめぼしい所で但馬家と息長家は合体して王家を形成していることが分かる。和爾氏や葛城氏のように代表的な妃がいないことや息長氏の古墳がないことが不思議がられているが天皇家の古墳が息長氏の古墳でもあるわけである。12代目に乎富等(オオド)大公王・・・継体天皇が生まれるが応神系5代目であると同時に息長家を引き継ぐ天皇でもあった。

6.丹波の全盛期の姿

丹波の久美浜湾から近畿への輸送ルート(ルートB)を開発して大量の重量物を運搬可能にする事業をツヌガアラシト以下、但馬モロスケ・ヒネ・ヒナラキなどキヨヒコに至る5世代に渡って実行されていった。特に注目すべきは同じ鉄仲間の息長氏と輸送担当の和爾氏一族が一緒に取り組んでいることである。製鉄所もここに丹後に建設され東西から交易商人や工場で働く人たちが集合してきた。大宮売神社の辺りには大きな市場ができて商売人が活発な取引をしたことが出土する遺品に依って証明されている。

◆丹後の巨大前方後円墳
丹波国には日本海側にはない巨大古墳が3基もあり特異な存在になっている。これができた背景は大きな河川の排出口に船が接岸できる港を作る必要があった。そのため川を掘削して岸壁を作った。その土砂が大量に発生したため積み上げていた・・これを墳墓にして有力者の前方後円墳としたものと考える(4世紀後半)。
①エビス山古墳(与謝野町:野田川流域)丹波では最初の大型古墳。竹野川を㮶上して曳船して野田川に持ち込む場所に港が必要だった。
②網野銚子山古墳(198m長)は網野町福田川の河口近く。京都府内最大の古墳である。2000本もの埴輪が並ぶ光景を見たら王の偉大な存在に驚いたと思われる。
➂神明山古墳(190m長)竹野川の河口の台地状に築かれている。丹波では2番目の大きさである。丹後には古墳が極めて多くほとんどが「方形台状墓」と呼ばれる出雲の系統をベースにした古墳前期の小規模のものである。また丹後の古墳の特徴として畿内には見られない「丹後型円筒埴輪」と呼ばれるものが日本海側の古墳に分布している。円筒の上部が広がっている一般のものに対して皿で蓋をしたような上端部がすぼまる形をしている。

7.丹後王国の没落

この地が最も栄えたのは4世紀まで。5世紀以降は大型帆船の登場によって交易の中心地は敦賀の津に移ってしまう。応神天皇の時代韓半島からの製鉄原料の輸送は丹後半島を飛び越えて一気に敦賀に達し、そこから黒河川を朔上し船曳にて近江塩津に達する路線が開発された。琵琶湖を船で縦断する物資の交易ルートが完成し製鉄も琵琶湖の北部で行われるようになっていった。日本海と難波が最短距離で結ばれた結果敦賀の港が新重要拠点になり敦賀の気比神宮が中心地になっていった。
参考文献「古代丹後王国は、あった」伴とし子著
「丹後王国論」京丹後市教育委員会 pdfネット検索
「古代史の謎は海路で解ける」長野正孝著 PHP新書

Ⅲ  ツヌガ王朝の誕生

1.田道間守が景行天皇であった

天照系とは全く関係なく半島で産出される鉄の販売促進のためにやってきたツヌガアラシトであるが5世孫、田道間守が景行天皇となって独自に列島内の諸国(村々)を統合して国の形態を作る作業を始めた。タジマモリの秘話から正体が景行天皇であることがばれる
垂仁天皇に橘(タチバナ)の実(みかん?)を所望され常世の国に去る話が書かれている。神仙な秘密の国で橘を探しまくって10年たっても帰って来れなかった。万里の荒波を越えてやっと帰ってきたら天皇は既に亡くなっていて生きている意味がないと嘆き悲しんだと書紀に記載されている。垂仁天皇陵の大きな古墳の中にタジマモリの墳墓と称する小島が存在している。
日本書紀の景行記を読んでいて驚いた。景行天皇は紀伊の国への行幸を計画し、占うと凶と出たため中止にした。代わりに屋主忍男武雄心命を派遣した。彼は紀伊の阿備・柏原にて神祇を祀った。9年間住んで紀直の祖ウジヒコの媛カゲヒメを娶って武内宿祢を生ませたと書かれている。常世の国とは紀州のこと、10年もここに住み着いて現在の和歌山市の開墾をやっていたものと見られる。天皇の代理で派遣された人は景行天皇の本名そのもの「忍男武雄心」であった。この記述で「タジマモリ=景行天皇」であることがはっきり証明された。垂仁は架空の天皇、書紀の記述では垂仁の子どもが景行天皇であるのでこのような話が構築できた。

2.タケルの東国征伐

東国に暴れる蝦夷がいて境界を侵し争いが絶えずが多くの人が苦しみ動揺していた。景行天皇はタケルを征夷将軍に任じて「徳と武を持って荒ぶる神を鎮まらせよ」と伝えた。吉備武彦と大伴武日連を武尊に副将軍として従わせた。尾張の国ではまず尾張国造の家に行ってミヤズ媛と結婚した(尾張を配下に入れた)。焼津では火攻めに会ったり上総に渡る時には暴風雨に遭遇したりした。この時は弟橘媛(穂積氏忍山宿祢の娘)の入水により助けられた。房総から日高見国まで遠征して蝦夷を平らげた。関東に戻り吉備武彦を越に派遣、武は信濃に進み美濃まで戻った。ミヤズ媛の所に滞在中に神罰に当って病没した。
- この神罰がくせもので記紀の説話では都合が悪くなったらこのような形で亡くしてしまい暫くして別人で現れてくるパターンを作り出している -
タケルが亡くなって白鳥になって飛び去る話が展開されているがタケル・成務・仲哀・武(建)内宿祢は全て同一人物であり神罰が下って無くなり直ぐに別人になって甦る複雑な動きになっている。

3.仲哀天皇の正体

仲哀天皇は公式な天皇系図には次のように表現されている。
景行天皇12 -日本武尊(成務天皇13)-仲哀天皇14 -応神天皇15
実際は景行天皇の子どもであり青年時代はタケル(日本とか倭の姓)であり、13代成務天皇を短期間経過した後14代仲哀天皇になっている。この間タケル(武・建)総理大臣(内宿祢)として武内宿祢の名称でも扱われている。同一人物が名前を変えて複雑に仕組まれているのは彼がいかに重要人物であったかを証明している。また若死にしているかのような悲しい意味合いの仲哀を天皇の名前に付けられている。

◆タケルの誕生
大伽耶の王子ツヌガアラシトの6代孫であり倭国で王室を継ぐことができる国津神系の有力者。出雲の国スサノオ神の系統を引き継いでおり蘇我系列の代表的人物である。タケルの後、成務天皇が誕生して彼は景行天皇の4子として扱われている。その日に大臣の武内宿祢が誕生して2人で短時間の政務をとったことが載っているが何のための挿入か分からない。また日本武尊の第2子として仲哀が設定されている。母は垂仁天皇の娘両道入媛とする架空設定がなされている。

◆仲哀天皇は大江の大中津媛との間に香坂・忍熊の王2王を設けた。その後、息長帯媛と結婚して彼女を皇后(神功)としている。暫くの間敦賀に行って気比宮に住んでいたが、紀伊の国を巡幸している時に熊襲が再び叛いた話を聞いた。その後筑紫の儺(なが)県の香椎宮に滞在して執政を行った。(日本書紀)

4.神功皇后の新羅遠征

香椎宮の時に帯媛が神がかりして新羅征伐に行くべきと神託が下ったが天皇はそんな国は見えないと反対した。この時も神罰が下って仲哀天皇は亡くなってまう。私の推定では神功皇后の行動を卑弥呼に似せるため男の王がいたら具合が悪いので消してしまったのではないかと考えた。直ぐに大臣武内宿祢が登場して天皇の死を隠すためどうしたら良いか方策を相談して対策を取った。
神功皇后の新羅遠征について記紀はスペースを割いて詳しく載せているが疑問点が多い。しかし実際に朝鮮半島まで往復した形跡は残っている。船団は和爾氏が船長になり丹波国周辺の船乗りをを集めて形成した。この隊長は仲哀(武内宿祢)天皇そのものであり神功皇后が乗ったかどうかは不明。主な目的は半島の倭国や対馬、筑紫はじめ九州一円に日本国の天皇は自分であることを宣伝するための広報活動であったと思われる。そして各地の神社に神功皇后を祭らせている。

◆応神の誕生
この遠征の後仲哀と神功の子ども応神が生まれる。場所は宇美(福岡県粕屋郡宇美町)。遠征中に、出産を遅らせるため石を腰に取り付けていたという・・その石は伊都の村に現存している。名誉ある神武王朝の地を自分が統治したと誇らしげに石に語らせているという意味か。

5.近畿に戻った仲哀天皇

九州地域の混乱は収まりこれからは平野が広がり大きな発展が望める近畿地方の開発に邁進しようと、生まれたての赤子応神を船に乗せて日本海から丹波経由近畿に戻ってきた。その時息子である香坂・忍熊王は応神に替わって王権を握ろうと仲哀・神功の一行に反乱を仕掛けた。香坂王は事故で亡くなるが忍熊王は琵琶湖まで追いつめられてついに敗退、湖に沈んでしまった。この後仲哀天皇の業績は全く記紀に掲載されていない。しかし私は生まれたての応神がすぐ天皇が務まるとは考えられず約20年は仲哀天皇の黄金時代が続いていたものと思われる。では彼は何をやったか?
➀ 河内平野の開発―大和川の大阪湾への流出路を掘削して河内を災害から守る事業と居住・耕作地を広げること。
➁ 帆船航路ルートCを開発し帆船で南下できるように準備することと敦賀港の整備。
➂ 淀川の沿岸開発。
➃ 秦氏を弓月国から来日させる交渉を行い招いた秦氏と共に高度成長を達成した。
など多数の革新事業を展開して古代の高度成長を推し進めた。
応神天皇が即位して新王朝を河内に開いたと記述されているが若い一人の天皇が全く新しい河内に王朝を開いて直ぐに成果を上げるような力はない。少なくとも仲哀天皇の大部分は河内に向けられたものと想定できる。

6.仲哀天皇の墳墓


図5
図5 河内平野の古墳群
彼の王宮もここにあり墳墓は河内平野に最初に築かれた津堂城山古墳は蘇我氏の祖武内宿祢(=仲哀)の墳墓である。墳丘の長さ208m、前方部の幅121m、後円部の直径128m。これまでの調査や研究により、二重の濠と堤をめぐらせた総長436mにもおよぶ巨大古墳であったことが分かっている。石棺と白鳥埴輪の出現はいかにもタケルの墓であることを示している。
写真2

写真2 津堂城山古墳から出土した白鳥埴輪
河内は仲哀天皇が住み着き開発した場所である。暴れ川で北の日下(クサカ)湖につながっていたがこれを大阪湾に直接流出するように大工事を開始していた。現在の大和川のルートに沿って掘削が始まっている。その大量に発生する土砂を用いて最初の大古墳津堂城山が作られ仲哀天皇陵となった。市野山古墳が神功皇后陵(現:允恭陵)であり応神天皇は仲津山古墳に眠っている(現:仲津媛陵)。また応神領とされている誉田山の大古墳は順序からして仁徳陵が妥当である。河内に存在する天皇陵はかなり間違っている。時代と天皇在位期間などを考慮すると表1が私の推定する被葬者である。

表1
表1 河内の被葬者が正しくない代表的古墳

Ⅳ 神武王朝とツヌガ王朝のつながり

この当時日本には王朝と称する3ケの集団があったがそれらはどのような関係であったのか? 日本は万世一系の天皇であると誇らしげに言っているが本当にそうか?
神武王朝(神武1~開化9)-大和朝(崇神10~垂仁11)-ツヌガ朝(景行12~・・・現在)と公式の天皇系図は3つの王朝がつながって一本になっている。

就任の年 神武朝 ツヌガ朝 物部大和
        ******************************************
275 孝昭天皇5 ユゴリ 水口宿祢
300 孝安天皇6 ヒナラキ ウツシコオ 
320 開化天皇9 景行天皇12 タケタツ
340 崇神天皇10 仲哀天皇14 イカカシコオ
365 垂仁天皇11 応神天皇15 タケイココロ

1.時間軸はどうなっていたか

記紀の系図を信頼すると: 崇神(340)-垂仁(365)-景行(320)-仲哀(340)-応神(365)と続くわけですからこの時代の歴史的諸事実が時間通りに並ぶはずがなくバラバラに散在することになる。 後で解説するが同時代の仲哀の業績が崇神の中に大量に取り込まれたり、垂仁天皇という架空の天皇の話題は応神天皇のものを引用したものが大半である。

2.神武から崇神まで大和には王朝がなかった

崇神王は仲哀天皇に降伏していた事実がある。書紀の記事によると仲哀天皇は熊襲が叛いたとの報に接して日本海を南下し穴門(アナト、下関)の豊浦宮(現:忌神社)に住まわれた。筑紫に出かけた時、岡県主の祖ワニ氏が大きな船に榊を立て上枝に鏡を懸け、中枝には十握剣(トツカノ剣)、下枝には八尺瓊(ヤサカニ、玉)をかけてサバの浦にお迎えした。同時期に筑紫・伊都の県主五十迹手(イトテ)が天皇が来られていることを聞いてワニ氏同様船を飾りたて穴門の彦島にお迎えした。そして「この物を奉るのは天皇が天下を平定し、上手に治めるようにとの願いからです」と申し上げた。その後仲哀天皇は博多にある香椎宮(カシイグウ)に移られて執政を行った。日本書紀仲哀記に書かれているこの記事は極めて重要な意味を持っている。魏志倭人伝の中で重要な役割を持っていた伊都国の王が筑紫の小さな県主にまで格落ちしてしまっていることである。そしてここに述べている内容は皇室に伝わる三種の神器を仲哀天皇に渡して軍門に下ったこと。神武王朝を引き継いでいる崇神朝とツヌガ王朝という全く違う国がどのようにして串刺しの王朝で繋がっていったのかが私には疑問であった。普通の国であれば天下分け目の戦争決着であるが戦争無しの完全降伏の形でツヌガ王朝がせり上がっていった。

3.崇神天皇は大和に来ていない

崇神天皇が九州から大和に移っていたとしたらかなり盛大な崇神東征の話が話題になるはずである。そのような話が全くない所から崇神天皇が大和に来て王朝を開いた可能性はないと見るのが正解であろうと考える。また崇神天皇の業績として上げられている四道に将軍を派遣する話はタケルの遠征をそのまま取り入れたもの。崇神を偉大な大和の大王に仕上げようとした編者の意図は脆くも崩れてしまった。

4.垂仁天皇は最初から存在していない

垂仁天皇は神武系の王朝からツヌガ系の王朝に引き渡すための架空の人物設定であり実在の可能性はない。時期的には応神天皇と同じ時代であり応神天皇の活動と混在する部分が多く含まれている。
垂仁は崇神天皇と大彦の娘御間城媛(ミマキヒメ)の子どもの設定である。どんないきさつか不明であるが狭穂媛(サホヒメ)を皇后として誉津別(ホムツワケ)命を生んでいる。これが後の景行天皇で接ぎ木苗同様の操作が行われている。また狭穂彦・狭穂媛兄弟が組んで垂仁天皇に謀反を企て、戦いになって兄は死亡、皇后は天皇に丹波の五人姉妹の側室候補を推薦して亡くなる話になっている。この一番上の姉が皇后ヒバス媛でこの次男に生まれたのも景行天皇になる矛盾を生じている。丹波の5人の娘たちの相手が応神天皇が結婚相手に選んだ高木入媛、中津媛、弟媛姉妹の話とそっくりである事からもその矛盾が明らかである。

◆具体的な影がない垂仁天皇
大和には大きな垂仁陵が存在している。こに述べたように同時代の応神天皇の事例を織り込んだ垂仁記を作ってはいるが彼の治政に関するものは全くなく記紀で次の天皇とされる景行天皇の導入を行うための内容になっているにに過ぎない。存在が怪しい上に次の世代が無くなってツヌガ王朝が大和王朝の正統派王朝に変わっていく姿が見えてくる。

◆大和の古墳と埋葬者の関係
神武以下崇神天皇、垂仁天皇と想定される墳墓が大和に存在している。記紀には神武王朝の各天皇ごとの宮殿の位置及び墳墓の位置が記録され全てが大和(奈良県)の地域に分布している。これは記紀編纂時に大和に存在している墳墓をどの天皇に振り分けるかの操作が行われてそれに従って位置が決まっていったものと思われる。では現実に存在している大古墳は誰のものか? 古墳の埋葬者は大和物部王朝の有力者のもの。
大水口、欝色雄(ウツシコオ)、大綜杵(オオヘソキ)伊香色雄(イカガシコ)など大臣とか宿祢などの呼称で呼ばれている有力者である。

◆崇神は大和に宮殿を構えたか?
補足1)武内宿祢とは名前が「武(タケル)」で「内宿祢」は総理大臣クラスの役職名、単に「宿祢」は大臣相当の役職と考えられる。
補足2)日本書紀の解明に挑んでいただいた崎元正教氏の著書「日本建国史」の解説によるとヤマトタケルは武内宿祢の若き姿であり同一人物であると見破っています。

Ⅴ 箸墓古墳は何故誕生したか

1.疫病の大流行

古事記が伝えている内容では崇神天皇の時代に疫病が大流行して多くの死者が出て社会が大混乱に陥ったという。国民が全滅しかねないところまで行き、天皇は心配になり神のお告げを聞いた。「大物主」の神が天皇の夢の中に現れて「これは私の意志によって起きているもの。私の子孫、大田タネコ(男性)によって私を祭らせるなら疫病は起こらず、国は安定し穏やかに治まるであろう」とおっしゃられた。
この天皇が見た夢と穂積(ホヅミ)臣の遠い先祖に当る大水口宿祢らが見た夢も全く同一であった。そこで天皇は号令して皆で大田タネコを探し求めたところ河内の茅渟(チヌ)県の陶村(現堺市)にいることが分かり召し出された。時代は崇神天皇でなく水口宿祢であるので275年前後の話である。
この大和川一帯は弥生時代の唐古・鍵遺跡として古くからの遺跡が残るが、湿地帯としても有名で伝染病などが発生しやすい場所でもあった。

2.改革を遂行した人物とスポンサー

窮地打開策を講じたのは穂積氏の祖、大水口宿祢であろうと記紀から分かった。支援者は鉄の貿易で活動していたツヌガアラシト系の但馬氏であろうと推定できる。そのような観点から人物を探していたら建諸隅(タケモロズミ)にぶち当たった。彼は孝昭天皇に仕えたとあり、何より重要な情報は彼の父親「建田背」命は但馬モロスケであることが分かった。その子どもである「建諸隅」=「丹波大県主由碁理(ユゴリ)」であることが分かってきた。年代275年頃からみて大田タネコの改革は事業推進者:大水口宿祢でありそのスポンサーは但馬斐泥(ヒネ)「アラシトの孫、由碁理」であることが読み取れる。

3.箸墓古墳築造の金は誰が出したか

大和王朝の流れを見ていて私が抱いていた大きな疑問点は
➀ 国譲りをして大和の国は天照系の王が支配しているはずなのに病気が流行ったり、作物ができず食べ物に困る人々が大量に発生した時、なぜ救いを三輪の大物主の神に求めたか。大物主は敵の神さまである。
➁ 大和に日本最初の大きな前方後円墳「箸墓」ができた。これ以降日本各地にこの型式の古墳が流行していく。この巨大古墳は誰が資金を出して作ったものか。巨大な建造物を作るには資金・技術・労働者が必要である。

4.大和が滅亡の危機を迎えた時期

国内に疫病が大流行し住人の半数以上死亡するという国滅亡の危機を迎えた。また百姓が離散したり騒動を起こしたり乱れていた。この事件の解決に出雲の系統である大田タネコがなぜ呼び出されたかが問題である。倭国の運営は祭祀を担当する天津系と軍事・財政・政治を統括する国津系の両輪がうまく回転して成り立っていた。その中では天照系が常に国のトップに君臨していた(半島の金官伽耶国の存在)。国譲りで大和の地に物部系がやってきたものの祭祀を司るだけで住民の生活を管理するような実務面に優れた人材がほとんどいなかった。この困難な局面を打開するには大物主の子孫である太田タネコに頼るしかないとその時のトップであった大水口宿祢が判断し、探し回って堺の地で見つけ召集したものである。ただちに困難な課題を解決するための“大田タネコプロジェクト”が結成された。タネコと大水口宿祢が相談してその時の丹波大県主但馬ヒネ(別名由碁理)にスポンサーとして出資してくれるように要請した。

5.由碁理の資金源

由碁理は古くから三輪山一帯で産出されてきた辰砂(シンシャ)に注目した。三輪山から巻向山など東方の山からは鉱石が取れることが知られて人が集まり、巨岩が存在していたので石器時代から信仰の地になっていた。辰砂は赤色硫化水銀で丹砂、朱砂とも呼ばれて朱色顔料や漢方薬の原料として珍重されていた。古墳や石棺の彩色や壁画に多く使われだしたことに注目して鉱石でなく付加価値を付けて販売することを狙った。
大和川が河内に出る藤井寺市に丹比邑(タジヒムラ)があった。三輪で船に積み込んだ辰砂鉱石をここまで運んで製品に加工した。500℃前後に加熱すると水銀蒸気が発生し水銀の抽出も可能である。単に顔料にするだけなら石碓と石杵ですりつぶすだけでもできる。ここ作った製品の販路を拡大して利益を出した。石ころの販売を金のなる木に変えて遠方まで売り込んだ由碁理の商才にタネコの事業は助けられた。

6.事業内容は大土木工事

記紀から読み取れる事業内容は三輪周辺に800ケ所もの潅漑用の池を掘削したりそれらをつなぐ水路を整備した。耕地面積が拡大し食料も充分供給できるようになった。農民の居住環境も良くなって病気は一掃されてしまった。鉱石運搬船の停泊する港の整備も行われた。これらの大土木工事に従事するため各地から作業者がやってきて大いに賑わい市場ができ町が活性化した。5~10年のプロジェクトの成果で三輪山一帯は日本各地から人が集まり大和川の終着地には「海石榴市(ツバイチ)」と称される大きな市場ができ(現在も痕跡は残っている)近畿では最も豊かな繁栄の場所に様変わりした。これを祝うため集会所のような施設を作って皆が集まり祝杯をを挙げた。これが起点になって三輪は酒作り(活日が杜氏の祖)と製薬・温泉療法の先駆的地域になりその伝統は今にも引き継がれている。

図6
図6 三輪山と箸墓の周辺
纏向遺跡には宗教的建造物が残され古代都市だったとの指摘があるがこのような背景があったものと思われる。決してタネコがお祈りしたから良くなったわけではない。

7.箸墓古墳の建設

三輪一帯の大土木工事が行われ池や船着き場の掘削によって大量の土砂が発生した。ここで豊かになった人々はその土砂を利用して恩人である大田タネコの墳墓を作って感謝しようと合意した。円墳部は墳墓であるが大量に発生した余分な土砂で方墳の部分を可能な限り大きくしてセレモニーの空間にする。この古墳建設の裏方には由碁理がいた。この箸墓古墳がこれに続く大型古墳の先駆となって日本独自の前方後円墳の時代がしばらく続くことになった。これは干拓工事や船着き場の増設工事が盛んだったことも背景にある。

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補足1. 大田タネコの説話は記紀の崇神天皇の「大物主大神を祀る」に記載されているが時代は全く別であり70年ほど前のできごとであった。
補足2. 箸墓古墳の被葬者
書紀の崇神天皇10年の条「倭迹迹日百襲媛が箸に陰を撞いて亡くなった。大市に葬った。時の人この墓を名付けて箸墓という。」の記述に従って文献資料では倭迹迹日百襲媛の墳墓になっている。この女性は架空の人物であり箸墓ができたのも崇神天皇の時代ではない。

					最終更新 平成27年10月1日