『魏志倭人伝の「道里」に関する新考察』

												伊藤 雅文

最も安易に見える解決法が、最も真実に近いかもしれないという新考察です。邪馬台国論争の前提条件となっている「道里」に注目して、行程記述を問いなおします。

※本稿は2014年6月投稿「陳寿の記した道里」を発展させた増補改訂版です。

■邪馬台国論争の原因

現在、日本中に邪馬台国候補地が乱立する、いわゆる「邪馬台国論争」を生み出しているのは、『魏志倭人伝』の次の記述であるということは誰にも異論はないであろう。

南至投馬国 水行二十日

南至邪馬台国 女王之所都 水行十日 陸行一月

 不彌国から投馬国を経て邪馬台国へ至る行程(※連続読み説の場合)を記したものであるが、「水行二十日」「水行十日」「陸行一月」という実にあいまいな記述となっている。「なぜ、ここが日数表記になっているの?」と誰もが一度は思う箇所である。例えば、ここでは便宜上筆者の計算による1里=70メートル(注1)を用いるが、水行一日を百里と仮定すると二十日で二千里(140キロメートル)であるが、水行一日を千里だとすると二万里(1400キロメートル)にもなる。この想定距離の長短に加えて、方角の認識に関する様々な説や放射説などの採用により、九州各地、中四国、近畿はもとより日本全国に邪馬台国比定地が誕生することになった(ただし、筆者は南を東と読み替える説などについては否定的で、「水行二十日」「水行十日」「陸行一月」を何とか合理的に解釈したいという苦肉の策として考案されたものだと考えている)。そして、このいかようにも解釈可能な前提条件があるために、新井白石から約300年、議論は百出しても邪馬台国論争は結論を見る気配すらない。

 しかし、この『魏志倭人伝』の行程記述は「真実」であろうか。「真実」というのは、内容の真偽にとどまらず、真に陳寿が記したものであろうかという意味も含んでいる。先に本稿の結論を述べると、筆者は「陳寿は『魏志倭人伝』の原文(陳寿のオリジナル文)に明確な里数を記していたに違いない」と考えている。質実で、明瞭正確で、筋が通って中庸を得た記述であると高い評価を集めた『三国志』および陳寿である。辺境の倭国について意味不明で謎かけのような記述をする必然性はまったくないと思われる。例え、一説に語られる、倭国を呉の背後にある大国に見せかける必要があったとしても、明確な文言を用いてねつ造すればよいのである。一般論として、このようなあいまいで不明確な記述を後世に残すというのは、著述家や学者としては恥ずべきことなのではないだろうか。まして、稀代の歴史家、陳寿ならなおさらである。

 そう考えて、『魏志倭人伝』の行程に関わる記述を丁寧に読んでいくと、文脈上の大きな疑問点がいくつか浮かび上がる。

■「水行二十日」「水行十日」「陸行一月」は「道里」か否か?

行程記述に関する疑問点を探る前に、「道里」とは何かについて考えてみたい。

 筆者は、明確に「道里」を定義した辞書を知らないが、西晋で当時としては非常に精巧であったといわれる地図『禹貢地域図』十八篇や『地形方丈図』を作製した裴秀(224ー271)という人物がいる。陳寿(233ー297)も西晋に仕えており、まさに同時代に生きた人である。その裴秀が、『禹貢地域図』の序文で、地図作製の六体(6要素)に触れており、その一つに「道里」が見られる。「分率」「準望」「道里」「高下」「方邪」「迂直」の6つであり、そのうち「道里」は明らかに「距離」であると読み解けるものである。

 裴秀と陳寿は面識がなかったかもしれない。しかし、『禹貢地域図』は遅くとも裴秀没年の271年には完成しており、それが精巧なものであったとしたら、280年代に『三国志』を著した陳寿がそれを参考にしたことは容易に想像できる。そして、そこに「道里」が空間的な距離であると規定されていたら、陳寿が『三国志』で「道里」という単語を用いる場合、同様の概念で用いるはずである。「道里」を時間的な概念で用いることはないと断言できるだろう。

 ところで、『魏志倭人伝』の記述の原史料には、240年に来倭した梯儁や247年に来倭した張政ら郡使の報告書があるといわれている。そうであるならば、陳寿は不彌国から投馬国、投馬国から邪馬台国への具体的な里数を目にした可能性が高い。その報告書には郡使一行が辿った邪馬台国までの具体的な行程が記されていたはずである。郡使の来倭の最大の目的は皇帝の下賜品を届けることだったかもしれないが、当然のことながら倭国自体に関する調査もそれに劣らないほど重大な使命だったと考えられる。そんな重要な報告書に、「二十日」「十日」「一月」という行程の日数表記はふさわしくない。時速や地形、天候などの条件によって、一定の時間に得られる距離が異なってくるからである。その結果、国々の正確な位置関係を明瞭に示せなくなるし、次の郡使が目的地へ向かう際にも行程を再現しづらい不親切な案内となってしまうのである。

 「郡使は伊都国までしか行っておらず、その先は伝聞記事である」という説もあるが、常識的に考えてその可能性は薄いと思われる。郡使は、金印紫綬や詔書、黄幢をはじめ様々な皇帝からの下賜品を、念入りに泥封までして、なおかつ危険な航海を経て来倭しているのである。女王の都への途中で、倭の役人に渡して任務完了とはならないであろう。少なくとも、女王の目の前で封が解かれるのを確認して、初めて泥封が意味を持つのである。また、多くの品々を賜る側の女王が、それを持参した郡使に会わず、労をねぎらわずに帰すような失礼なことはできないと思われる。だから、郡使は必ず女王の都のある邪馬台国まで足を運んでいるはずである。そして、必然的に郡使は不彌国から投馬国、投馬国から邪馬台国への正確な距離を知っていたはずである。

 また、『唐六典』などを例に挙げ、「1日の歩行距離は五十里」などと決められていたという説がある。つまり、日数は里数に換算できるという説である。しかし、これも都合のよい解釈といわざるを得ない。なぜなら、『魏志倭人伝』の行程記述において、帯方郡から不彌国までは具体的な里数を用いているのに、最後の2行程のみ日数を用いる必然性が見いだせない。もし、当時1日の陸行距離が五十里と決まっていたとしたら、逆に日数表記を里数表記に修正するのが簡明な文章を志向する者の常ではないだろうか。「陸行一月」は、誰の思惑も入る余地のない「陸行千五百里」と書かれるはずである。

 少し話が逸れたが、以上みてきたように、「道里」はあくまでも空間的な距離を指すものであり、時間的な概念とは一線を画すものである。なおかつ時間的な概念に基づく日数表記は、行程記述には適さないものである。つまり、「水行二十日」「水行十日」「陸行一月」は「道里」か否かという問いに対しては、「否。道里ではない」と答えざるを得ない。

 これは後世の記述になるが、『隋書』倭国伝に「夷人不知里数但計以日(倭人は里数を知らず、日をもって計る)」とある。筆者はこれが『魏志倭人伝』の記述から派生したものだと考えているが、少なくとも『隋書』が完成した唐の時代においては「里数」と「日」が明らかに異なる性質のものであると認識されていたことを証明している。

■行程記述に関する疑問点

では、『魏志倭人伝』の行程記述に現れる疑問点について考えていきたい。

 前項で、「道里」とは空間的な距離、『魏志倭人伝』でいえば「里数」を含むものであるということを確認し、「水行二十日」「水行十日」「陸行一月」が決して「道里」ではないという結論に達した。それを念頭に『魏志倭人伝』を読み進めると、非常に大きな矛盾にぶつかることになる。

(1)不彌国以降の「道里」を記していないという矛盾

 ここで言及したいのは、不彌国から邪馬台国へ至る行程が「二十日」「十日」「一月」という日数で記されている、つまり不彌国までは「道里」が記されているが不彌国以降は「道里」が記されていないという、単なる事象的なことだけではない。

 次は、帯方郡から邪馬台国への行程を記した部分の抜粋である。



従郡至倭 循海岸水行 歴韓国 乍南乍東 到其北岸狗邪韓国 七千余里 始度一海千余里 至対馬国 其大官曰卑狗 副曰卑奴母離 所居絶島 方可四百余里 土地山険多深林 道路如禽鹿径 有千余戸 無良田 食海物自活 乗船南北市糴 又南渡一海千余里 名曰瀚海 至一大国 官亦曰卑狗 副曰卑奴母離 方可三百里 多竹木叢林 有三千許家 差有田地 耕田猶不足食 亦南北市糴 又渡一海千余里 至末盧国 有四千余戸 浜山海居 草木茂盛 行不見前人 好捕魚鰒 水無深浅 皆沈没取之 東南陸行五百里 到伊都国 官曰爾支 副曰泄謨觚柄渠觚 有千余戸 世有王 皆統属女王国 郡使往来常所駐 東南至奴国百里 官曰兕馬觚 副曰卑奴母離 有二万余戸 東行至不彌国百里 官曰多模 副曰卑奴母離 有千余家 南至投馬国 水行二十日 官曰彌彌 副曰彌彌那利 可五万余戸 南至邪馬台国 女王之所都 水行十日 陸行一月 官有伊支馬 次曰彌馬升 次曰彌馬獲支 次曰奴佳鞮 可七万余戸 自女王国以北 其戸数道里可得略載 其余旁国遠絶 不可得詳



 引用した最後の部分に注目してほしい。「自女王国以北 其戸数道里可得略載 其余旁国遠絶 不可得詳」という記述である。要約すると次のようになる。

 「女王国より北(の国)については、戸数・道里を略載できた(できる)が、その他の旁国は遠絶なので、詳細はわからない」

 「二十日」「十日」「一月」はあくまでも「日数」であって、「道里」ではない、そして陳寿がそれを認識していたとすると、これは非常に不自然な記述である。不彌国から投馬国、投馬国から邪馬台国への移動にかかる「日数」を記述した、その直後に、女王国より北の国については「道里」を略載できたと書いているのである。

 不彌国までは、明確に「道里」を記している。帯方郡から狗邪韓国までの水行にしても、何日かかったかではなく、七千余里と明確に里数を記載(略載)している。海を渡って末盧国に着くまでの記述でも、狗邪韓国から対馬国まで千余里、対馬国から一大国まで千余里、一大国から末盧国まで千余里と具体的な里数を記載している。もちろん陸行もである。末盧国から伊都国まで五百里、伊都国から奴国まで百里、奴国から不彌国まで百里とすべて明記している。しかし、投馬国と邪馬台国の記述では明らかに里数を記載していない。その直後に、「道里が略載できた」と記すことは、陳寿が言葉のプロフェッショナルであることを考慮すると、考えられないレベルの「表現の不一致」ではないだろうか。加えて、ここで用いられている「二十日」「十日」「一月」という「日数」は、先にみたように、目的地への案内に用いるには不適切なものだということは明らかなのである。

 以上のように、「日数」を記した直後に「道里」を記したと明言していることは、非常に大きな矛盾であるといえる。

 また、「自女王国以北 其戸数道里可得略載 其余旁国遠絶 不可得詳」という一文はもう一つの疑問をはらんでいる。それは、なぜ旁国は「遠絶」とされたのかということである。

 旁国の「旁」とは、「かたわら」とか「そば」というような意味である。各国の位置について、ここで明確に比定することは難しいが、邪馬台国に着くまでに経由してきた国々の東や西(さらにいえば南にも)に点在している国々だと思われる。当然、末盧国や伊都国、奴国、不彌国からそう遠くない地域にもあったと考えられる。そういう旁国が遠絶だとされているが、一方で邪馬台国は、不彌国から投馬国経由で「水行二十日」「水行十日」「陸行一月」の合計二カ月かかる所にあるとされる。本稿の最初に仮定した数値(1里70メートル)で1日百里(7キロメートル)しか進まないとしても二カ月あれば六千里(420キロメートル)も彼方にある国ということになる。実際そこまで行った者が、末盧国や伊都国近辺の国を遠絶だというだろうか。少なくとも「遠」という文字は用いないであろう。その場合、旁国の詳細が不明はことについては、「其余旁国遠絶 不可得詳」のように遠近について語ることなく、「其余旁国 不可得詳」といった表現にとどまるのではないだろうか。これも一つの疑問点である。

 さらに一つ付け加えるならば、不彌国から邪馬台国までは二カ月の行程であるが、経由国として記されるのは投馬国のみである。郡使の一行は不彌国から投馬国への20日間、そして投馬国から邪馬台国への約40日(十日プラス一月)の間、どの国にも立ち寄ることなく無補給で進んだのであろうか。

(2)帯方郡から女王国まで一万二千余里という記述との齟齬

次は、帯方郡から女王国(邪馬台国)までの総距離についてである。

 『魏志倭人伝』は、先ほどの「自女王国以北 其戸数道里可得略載 其余旁国遠絶 不可得詳」という記述に続けて、21の国々(旁国)を列記し、次の記述で倭の国々への行程・位置に関する記事を一旦終える。



此女王境界所尽 其南有狗奴国 男子為王 其官有狗古智卑狗 不属女王 自郡至女王国 万二千余里



 おおむね内容は次のようである。「これが(列記した21の国々が)女王の権威の及ぶ範囲である。その(女王の国々の)南には狗奴国があり男王がおり、狗古智卑狗という官がいる。(狗奴国は)女王には属していない。帯方郡から女王国(邪馬台国)へは一万二千余里である」。つまり、女王の(国々の)南には、女王に属さない狗奴国があることに触れた上で、「自郡至女王国万二千余里」という一文で行程記述を締めている。この締めの一文は非常に重要で、後世の『後漢書』や『隋書』でも邪馬台国(女王国)までは約一万二千里であるとされており、ほとんどの研究者にもこの数字は確実なものとして扱われている。

 この数字にしたがえば、(連続読み説を採用した場合)不彌国から邪馬台国への距離は千三百里である。帯方郡から狗邪韓国への「七千余里」、狗邪韓国から対馬国への「千余里」、対馬国から一支国への「千余里」、一支国から末盧国への「千余里」、末盧国から伊都国への「五百里」、伊都国から奴国への「百里」、奴国から不彌国への「百里」の合計が一万七百余里だからである。

 つまり、(一万七百余里)+(水行二十日)+(水行十日)+(陸行一月)=(一万二千余里)という式が成り立ち、(水行二十日)+(水行十日)+(陸行一月)=(千三百余里)という解が求められるはずなのであるが、ここで問題が発生する。「水行二十日」「水行十日」「陸行一月」という合計二カ月で、わずか千三百余里しか進まないのである。筆者の考える一里は約70メートルなので91キロメートル強ということになる。二カ月もかけて91キロメートルということは、1日1.5キロメートルしか進んでいない計算になる。あまりにも非現実的な数字である。そして、多くの研究者がここのつじつまを合わせようとして様々に論考しながら、いまだ納得できる結論には達していないという混迷の状況を生み出している。

 なぜ、『魏志倭人伝』はわざわざ明らかに齟齬が生じるような記述をしたのだろうか。そして、国々を巡る行程を記述した締めの一文に唐突に出現し、しかし行程記事の内容と整合性のとれていない、帯方郡から女王国への「万二千余里」はどこから導きだされた里数なのであろうか。

(3)裴松之の注が付されていない不可解さ

 さらに謎を深めるのが、後に邪馬台国論争を巻き起こす原因となる、これらの意味不明な記述に、裴松之が注を付けていないという事実である。

 裴松之は、『三国志』に陳寿の原文と同じほどの膨大な注を付け、429年に宋の文帝に献じている。その際、「陳寿の本文が簡略にすぎるため、自分は旧聞、遺逸の博捜につとめたと述べたうえ、注釈の基本的な態度を次のように整理している。(一)陳寿の遺漏を補うこと、(二)ひとつのことがらについて複数の記録が存在する場合には、それらすべてを列挙して異聞をそなえること、(三)あやまりをただすこと、(四)いささかの論評を加えること。」(吉川忠夫著『読書雑志』より引用)

 いわゆる『魏志倭人伝』の範囲では2カ所のみに注が付されている。倭の習俗を記した部分に付けた「倭人は正しい暦を知らず、春耕秋収を計って年紀としている」という『魏略』からの引用と、卑弥呼への下賜品を記した部分に付けた「絳地」は「絳綈」の誤りであろうという裴松之自身の論評である。

 しかし、考えてみるに、(1)(2)で見てきたあいまいで不明確な記述は、まさに裴松之が注を付けるのに絶好の題材だと思われる。万一、「水行」「陸行」の記事が倭人の口述に基づくものであるならば、前述の『隋書』における「夷人不知里数但計以日」という類いの注が最適だろうし、さらに進めてそれがどれくらいの里数であるかまで言及するのではないだろうか。また、唐突に現れる「万二千余里」にも、その出典や経緯が注として付されるべきではないかと思われる。つまり、意味不明な記述を、裴松之が意味不明なまま放置しているのが不可解なのである。

■すべての疑問を解決する仮説

 ここまで、『魏志倭人伝』の行程記述に関する疑問点を見てきたわけであるが、これらすべてを解決する一つの「答え」が存在する。

 「陳寿が、『魏志倭人伝』の原本(陳寿のオリジナル文)に水行と陸行の明確な里数を記していた」と考えれば、すべての疑問が即座に雲散霧消するのである。

 280年代に陳寿が完成させた原本が次のようだったとしたら、どうだろう。



南至投馬国 水行六百里 官曰彌彌 副曰彌彌那利 可五万余戸 南至邪馬台国 女王之所都 水行三百里 陸行四百里 官有伊支馬 次曰彌馬升 次曰彌馬獲支 次曰奴佳鞮 可七万余戸 自女王国以北 其戸数道里可得略載 其余旁国遠絶 不可得詳



 この里数は一例であるが、不彌国から投馬国まで「水行六百里」、投馬国から邪馬台国まで「水行三百里 陸行四百里」と明記されていたとすれば、先に列挙した疑問はすべて解消される。陳寿は、「女王国以北の国々について『道里』を記載できた」と自信を持って明言してもよいし、郡から女王国までが一万二千余里であることは誰の目にも明白である。そして、裴松之はこのような簡潔で明瞭な文章にもちろん注を付けることはあるまい。旁国が遠絶であることや、不彌国から邪馬台国までの経由地が投馬国だけであることも納得できる。さらに言えば、「邪馬台国論争」自体生まれなかったかもしれない。

 さて、280年代の原本に里数が明記されていたとすれば、後世に何らかの理由により、誰かの手によって、その里数が日数に書き換えられたと考えるほかない。裴松之が注を付けた時点では、注を付けるべき記述、つまり現在我々が目にする記述になっていなかったと考えると、書き換えられた時期は裴松之が注を献じた429年以降であると考えられる。

 このいわば「後世改ざん説」は安易で突飛なものに見えるかもしれない。そして、陳寿の原本や書き換えられる以前の写本が発見されない限り、これは仮説の域を出ない。しかし、この説を採用すれば、行程記述における数々の疑問が解決されることだけは確かである。

■改ざんされた理由

 では、なぜ里数が日数に書き換えられたのだろうか。改ざんされるにはそれなりの理由が存在しなければならない。ここでは、それを探っていきたい。

 『魏志倭人伝』では、邪馬台国までの行程に続いて、倭国の地誌について触れているが、その中に「計其道里 当在会稽東治之東」という一文がある。

「その(帯方郡から女王の国までの)道里を計算すると、(女王の国は)ちょうど会稽東治の東にある」という意味であるが、この「会稽東治」には2説ある。そのまま「会稽東治」とする説と、「治」は「冶」の間違いで「会稽東冶」が正しいとする説である。「会稽東冶」説が出てきた背景には、范曄による『後漢書』の「其大倭王居邪馬台国 楽浪郡徼去其国万二千里 去其西北界狗邪韓国七千余里 其地大較在会稽東冶之東」(大倭王は邪馬台国にいる。楽浪郡の境界からその国までは一万二千里。その北西界の狗邪韓国から七千余里である。その地はだいたい会稽郡東冶県の東にある)という記述がある。

 では、「会稽東治」と「会稽東冶」の位置関係はどうか。

「会稽東治」の場合は、会稽の東部地域の治所と考えられる。この直前で語られる夏王朝に関連した会稽のことだとすると、夏朝禹の時代にその名称を用いられていた会稽山周辺地域を指すと考えられる。秦代からは会稽郡が設けられ、石原道博編訳『新訂 魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝・随書倭国伝』の注釈に従えば、「今の浙江省から江蘇省にかけて会稽郡があった。治所は秦漢では江蘇の呉県、後漢以後は浙江の紹興県」となる。ここでは古い時代の方を採用すると、江蘇の呉県、現在の江蘇省蘇州市にあたる。一方、「会稽東冶」の場合は、会稽郡東冶県の東となり、台湾の対岸、現在の福建省福州市周辺とされる。地図で確認すると、南北で約580キロメートルも離れており、「会稽東治」の東は大隅半島の鹿児島県鹿屋市付近に、「会稽東冶」だと沖縄県辺りに辿り着く。
図1(図1)

 いずれが正解かを判断するために、「計其道里 当在会稽東治之東」までを含めた記事を見てみよう。



男子無大小 皆黥面文身 自古以来 其使詣中国 皆自称大夫 夏后少康之子 封於会稽 断髪文身 以避蛟龍之害 今倭水人好沈没捕魚蛤 文身亦以厭大魚水禽 後稍以為飾  諸国文身各異 或左或右 或大或小 尊卑有差 計其道里 当在会稽東治之東



 訳するとこうなる。「男子は大小となく皆、顔や身体に入れ墨を入れている。いにしえから中国に来る倭の使いは皆、自分を大夫だと称する。夏の王少康の子が会稽に封じられたとき、断髪して身体に入れ墨を入れて蛟龍の害を避けた。今、倭の水人は海に潜って魚や蛤を捕らえるが、入れ墨をして大魚や水禽から身を守っていた。やや後には飾りとなった。諸国の入れ墨は、左右、大小、身分の差によって異なっている。その道里を測ると、まさに会稽東治の東である」。

 これを読むと、文脈上、夏の王少康の子が封ぜられた会稽と、会稽東治の会稽は同一のものであると考えるのが適当であろう。夏の少康の子にまつわる会稽での逸話があるからこそ、「計其道里 当在会稽東治之東」はこの位置に挿入されたのである。『魏志倭人伝』では、この後もさらに倭の風俗など地誌の紹介が続くのである。万が一、このふたつの会稽がまったく関連性のない別物であるなら、「計其道里 当在会稽東治之東」はもっと後ろの位置や地誌の紹介の最後など、別の箇所に入るべき類いのものである。だから、『魏志倭人伝』を書いた当時の陳寿の認識は「会稽東治」で間違いないと思われる。つまり、陳寿は女王国が江蘇省蘇州市の東にあると考えていたのである。

 さて、陳寿が正しいとすると、范曄が誤認(もしくは誤記)しているということになる。歴史上は「後漢」の方が「魏」より古いが、著された年代は『魏志倭人伝』の方が『後漢書』より古い。『魏志倭人伝』は280年代の著作とされ、『後漢書』の成立は432年(〜437年頃)とされる。その新しい年代の人である范曄が誤認している。

 弥生時代、東シナ海の航行は非常に危険なものであっただろうが、皆無ではなかった。ゴホウラ貝輪の出土状況などを見ると、比較的頻繁な交易などもあったのではないかと考えられる。それならば、中国と倭国の位置関係についてもある程度の記録ないし知見はあったと思われる。だから、陳寿は「当(まさに)」の文字を用いて自信を持って記したようにみえる。一方、范曄がなぜ誤認したのかは不明だが、中国の文献から倭国が姿を消すとともに中国国内も混乱していた、いわゆる「空白の四世紀」の間に、倭国への関心が薄れ記録も散逸し、倭国への認識がかすんでいったせいかもしれない。范曄が倭国の位置を記した一文で「大較(だいたい)」の文字を用いているのも、その自信のなさからではないだろうか。

 ともあれ、范曄『後漢書』の誤認は重大な事態をひき起こす。范曄は南北朝時代の宋の人であり、「会稽東治」も「会稽東冶」も宋の国土なのである。その『後漢書』に誤認があり、しかもそれが何の問題もなく受け入れられているということは、当時の人々に、女王国(邪馬台国)は「会稽東冶」の東にあったという認識が定着したということである。それが、陳寿の意向に反する明らかな誤認であっても、130年以上前に亡くなっている陳寿に反論の機会はない。

 そして、そういう時代、そういう状況下で、『魏志倭人伝』が読まれたとしたら、間違いなく陳寿の記述は誤りだと判断されたことだろう。なぜなら、「陳寿の意図する女王国」は、『後漢書』から導かれる、女王国のあるべき位置より580キロメートルも「北」にあるからである。女王国はもっと「南」になければならない。それが、改ざんされた直接の理由であろうと考えられる。

 では、女王国を「南」に移動させるにはどうすればよいか。そこで、目をつけられたのが南への行程である不彌国から投馬国、投馬国から邪馬台国への記述だったのではないだろうか。しかし、ことはそう簡単ではない。陳寿が記していた里数を単純に増やすわけにはいかない。なぜなら、『魏志倭人伝』の他の箇所には、女王国までは「万二千余里」と明記されている。こちらも同様に増やすことができればよいが、すでに范曄の『後漢書』も「万二千里」と明記してしまっているので、両者の里数に齟齬が生じてしまうのである。だから、次善の策として、里数ではなく「二十日」「十日」「一月」という定義のあいまいな「日数」を用いて女王国を「南」へと移動させたのだと推測される。

 そして、もうひとつ、直接の改ざん者や、もしかすると范曄にも影響を与えた可能性を排除できないのが、倭王讃の遣使である。空白の四世紀を経て、倭王の讃が宋の武帝に朝献するのが421年である。その後、425年と430年にも使いを出して貢物を献じている。その際、おそらく宋の側から倭の使者に対する聴き取りが行われたに違いない。そして、その内容は聴取記録として残されたであろう。

 そこに記された内容を推察すると、一つの仮説が浮かび上がる。

 420年から430年というと日本の歴史上、いわゆる河内王朝が成立していたといわれる時期である。都は河内にあり、使者は現在の大阪平野、当時の河内湖辺りから出発したと思われる。一行は瀬戸内海を進み、不彌国、奴国のあった博多湾を経て、壱岐島、対馬伝いに朝鮮半島へ渡り、陸路もしくは黄海を横切って宋へ到着したと考えられる。使者はこの経路を宋の役人に伝えたことであろう。

 しかし、当時の倭人は「不知里数但計以日」(里数を知らず日をもって計る)である。里数を答えられない使者は「不彌国から都へは二月かかる」と答えたかもしれない。聴取にあたった宋の役人が、『魏志倭人伝』の記述を知らずに「不彌国から都へは二月」と書いたか、邪馬台国のことを認識した上で「不彌国から邪馬台国へは二月」と書いたかはわからない。しかしながら、聴取記録には「不彌国から都(のある邪馬台国)へは二月の行程である」という主旨の一文が記されることになる。

 聴取記録に残ったこの内容も、あるいは范曄に女王の国が会稽東冶の東にあると誤認させたか、またあるいは改ざん者に不彌国から邪馬台国への行程を二カ月(「二十日」「十日」「一月」の合計)に書き換えさせた原因となったのではないだろうか。

 以上の2つの考察から導かれる、最も都合のよい解釈は次のようなものだ。



 『三国志』の写本にあたった人物(もしくは集団)が、『後漢書』から「邪馬台国は会稽東冶の東にある」と信じ、倭の使者の聴取記録から「不彌国から邪馬台国へは二カ月かかる」ことを知る。彼(彼ら)は、決して悪意からではなく、単に陳寿の明らかな誤りを正したいと考えて、邪馬台国を不彌国から南へ二カ月の位置に移動させる。その手段として、「里数」は「日数」へと書き換えられることとなった。



 この合計二カ月という期間は、「不彌国から東に進路をとれば、まさにぴったりと畿内に辿り着く」という邪馬台国畿内説の強力な裏付けとなっていることに鑑みれば、非常に妥当な期間といえる。それを思うと、畿内から宋に渡った遣使の告白が改ざんの裏にあったと考えてみたい。

■改ざんされた時期

 では、改ざんされたのはいつだろうか。

 まず、改ざんに至る経緯を考えてみよう。

(1)280年代に陳寿が『三国志』を著す。

(2)その後、何度か写本がなされたと考えられる。

(3)421年、425年、倭王讃の使者が宋に遣わされる。

(4)429年、裴松之が『三国志』に注を付ける。

(5)これより後、裴松之版『三国志』が陳寿版『三国志』を駆逐する。

(6)430年、倭王讃の遣使。

(7)この頃までに「不彌国から都へは二カ月である」という倭の使者の聴取記録が残される。

(8)432年(〜437年)、范曄の『後漢書』が成立する。

(9)女王の国(倭国)は、会稽東冶の東にあるという認識が定着する。

(10)裴松之版『三国志』の写本において改ざんが行われる。

 こう考えると、改ざんされた時期は、『後漢書』の成立から比較的早い時点、宋が479年の滅亡に向かう混乱の中でなされた可能性が高いのではないかと思われる。それなら、429年に完成した裴松之の注で「日数」に言及されなかった事実とも整合する。また、現在我々が目にする『三国志』には裴松之の注が付いているが、それは従来の陳寿の原本や写本が淘汰されていったことを示している。つまり、この時点で『三国志』は、裴松之版『三国志』として新しくスタートを切るのである。そこから遠くない時点で改ざんがなされたとしたら、「里数」の記された写本がほとんど世に出ることはなかったであろうし、後世に陳寿の原文が残らなかったことも納得できるのではないだろうか。
図2(図2)

 筆者は、「里数」から「日数」への書き換えが行われた時、同時に「会稽東治」から「会稽東冶」への書き換えも行われたのではないかと考えている。両者の差異が書き換えの大きな原因だとすると、当然ここも書き換えられたと推測するのが合理的である。しかし、夏の少康の子の逸話を「会稽東冶」と結びつけるのは無理があり、脈絡のない文章となってしまったため、後世写本に携わった人物に「冶」は「治」の誤記であると判断され、再度書き換えられ、「会稽東治」に戻ったのだと考えたい。

■おわりに

 本稿の「陳寿が『魏志倭人伝』に記していた具体的な里数が、宋代に書き換えられた」という説は、あくまでも現状では検証しようのない仮説であることは、筆者も心得ているつもりである。しかし、そう考えることで、多くの疑問や矛盾を無理なく解決できることも確かである。

 では、いったい陳寿の記していた「南至投馬国 水行X里」「南至邪馬台国 水行Y里 陸行Z里」のX、Y、Zは何里だったのであろう。筆者は別掲の著書でX=六百里、Y=三百里、Z=四百里であると考察してみたのであるが、書き換えられてしまった元の数値を求めるのは「推理」でしかありえず、それが記された古写本でも発見されない限り断定はできない。しかし、この仮説が成り立つのであれば、X、Y、Zの総和は1300里でしかない。郡使の進んだ道が畿内にたどり着く余地はない。邪馬台国はやはり九州にあったとしか考えられないのである。

■追記:末盧国から伊都国への東南陸行五百里について

 本稿の執筆にあたって、裴秀の『禹貢地域図』序文を知ることとなった。そこで裴秀は「古代の地図の多くは散逸してしまい、今の地図は粗く不正確なものばかりである。大いなる晋の平定をみた今、『禹貢』を参考にこの地図を作成した」という旨のことを述べている。地図の歴史は古く紀元前に遡ることがわかっているが、この記述から、中国でも古来、精度はどうであれ地図を作成し利用する習慣があったということが読み取れる。そうであれば、『魏志倭人伝』の原史料となったと考えられている、来倭した郡使の報告書にも何らかの地図(地図と呼べないまでも略図程度のもの)が付記されていたのではないだろうか。

 240年に来倭した梯儁や247年に来倭した張政ら郡使の目的は、単に下賜品の搬送だけでなく、倭の調査にあったことは間違いない。地図を知っていたとしたら、その報告書に地図が付されないわけがない。文章では伝えがたい位置関係なども、地図であれば一目瞭然に示すことができる。倭国の地勢が一見してわかるし、そこに郡使の行程が描き加えられていれば、次回以降の郡使一行が道に迷うこともない。まさに、文書よりも雄弁な資料となる。

 そこで、報告書に図3のような地図が付されていたとする。裴秀が作成した地図のように百里の方眼は描かれていなかったかもしれないが、里数は記入されていたかもしれない。
図3
図3は筆者が意図的に描いたものだが、狗邪韓国から南に千余里海を渡ると、方四百里に近い実際より小さいサイズの対馬国に至る。そこから、おそらく日本海を指す広大な海=瀚海を千余里渡ると方三百里の一支国に着く。さらに、海を千余里渡ると末盧国に上陸できる。この間の幅は実際よりも少し長めにとってある。

 そして、問題の末盧国から伊都国への行程である。報告書には『魏志倭人伝』と同様に次のように書かれていたであろうか。



東南陸行五百里 到伊都国



 一般的に末盧国と比定されている唐津市周辺から見て、伊都国であろうと思われる糸島市は東〜北東の方角になる。王墓と考えられる墳丘墓をはじめ考古資料は圧倒的に伊都国=糸島市説を示しているのであるが、あくまでも「東南」にこだわり、多久市、小城市方面に伊都国を求める方々も多く、この辺りから国々の比定地が大きく異なってくる原因となっている。

 しかし、もし報告書に地図が付けられていたと考えれば、報告書本文では「東南陸行五百里」と記すだけで十分事足りる。唐津湾の西岸から東南方向へ陸行を始めれば、五百里で伊都国へ到着するのは地図を見れば明らかだからである。たとえ、伊都国が北東の方角にあったとしてもである。

 このように「本文」と「地図」のセットで明快に報告されていた行程を、『魏志倭人伝』が「本文」のみを抜粋し、なおかつ地図でわかる補完情報(末盧国と伊都国の相対的な位置関係など)を加筆しなかったために、末盧国から伊都国への行程のような混乱を生ずることになったとは考えられないだろうか。



(注1)拙著『陳寿の記した道里~邪馬台国への方程式を解く~』の中で、「朝鮮半島の東西距離」「狗邪韓国から末盧国までの距離」をもとに算出した。

参考文献

石原道博氏編訳『新訂 魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝・随書倭国伝』岩波文庫
小南一郎氏訳『正史三国志8』ちくま学芸文庫
吉川忠夫氏著『読書雑志 中国の史書と宗教をめぐる十二章』岩波書店
佐藤大朗氏ホームページ「いつか書きたい『三国志』」
伊藤雅文著『陳寿の記した道里~邪馬台国への方程式を解く~』ブックウェイ

					最終更新 平成27年9月15日