『邪馬台国は日向国の一部だ』

												尾道市 河野 俊章

目 次

前言
Ⅰ、魏志倭人伝の微細だが重要な間違い
Ⅱ、魏志倭人伝の中で、邪馬台国の位置を示す12の記述。
Ⅲ、この12条件全部に、一致する場所を捜す。それが邪馬台国だ。
 ①大体の位置の見当をつける。② 投馬国の位置。③ 邪馬台国の位置。
 ④ 邪馬台国と丹。⑤ 邪馬台国の範囲 ⑥ 卑弥呼の墓
 ⑦ 邪馬台国歴代の墓地群があるはずだ。 ⑧ 東の海を渡れば倭人が居る。
 ⑨ 残された疑問
Ⅳ、魏志以外の諸現象を見ても、重要な点で上記比定地に整合する現象がある。
 「神武東征」は邪馬台国の引っ越しだ
Ⅴ、「大隅邪馬台国論」の正否を証明する方法  3つの方法が考えられる
Ⅵ、まとめとして、以上の論から得た結論を箇条書きに整理する。  全16項目
Ⅶ、終りに→ 別の見方で簡単に考える
Ⅷ、この論に関する資料、その他 写真など。

前言

 以下に述べることは、その結論からして、魏志倭人伝の記述に一致し、地理に整合し、日本の古代史にも整合する。また、記録のなかった時代の話であるが、その伝説の多くとも整合する。
 また、その正否を証明することも、この全邪連などで発表されている昨今の科学的年代測定法の進歩を見れば、近いうちに可能であると期待できる。少々きつい表現であるが、邪馬台国発見の障害になっていたのは、「古墳の造成年代をその形態から判断していたこと」と確信する。
 逆の表現をすると、この論の正否は、「古墳の科学的年代鑑定法」が確立するまで証明出来ないのかも知れない。従ってここでは、その周辺の諸事情を模索して、論の「正」の可能性を抽出してみるだけのことである。

Ⅰ、魏志倭人伝の微細だが重大な間違いの指摘

 魏志倭人伝は単なる旅行記である。
 それは旅したコース、具体的には陸行(徒歩)か船か、向かった方向、距離(日数で表すこともある)、途中で訪問した国名、その重要人物名、国の人口、および見聞した印象深かったこと、等が描かれているだけの話である。旅行記は今も昔も(この倭人伝も)変わりはない。旅行記が複雑難解であるはずがないのだ。
 それが数百年に亘って解読出来ない「歴史的難解文書」であるのは全く妙な話である。簡単、単純に理解すればよいはずである。
  時計も、距離測定器具もなかった当時であるから、容認できる範囲での誤差はやむを得ない。
  しかし、多分写本の過程で本当に微細な間違いであるが、この旅行記の解釈には、重大な誤解を引き起こす間違いがあった。その間違いの可能性については江戸時代以来、複数の学者が指摘していた事であるが、多くの研究者はこの間違いに気づかず、この古くて貴重な旅行記を混迷状態にしてしまい、ついには「魏志倭人伝デタラメ論」まで登場するという、言わば「オハズカシイ事態」にまで至っている。
  その一カ所の間違いを訂正すれば、魏志倭人伝は分かりやすい話である。それはごく普通の旅行記である。そしてその中には、邪馬台国の位置を示唆する記述は、12項目有り、この12項目に該当する場所を求めれば、邪馬台国は比較的簡単に見つかるのである。
  その一カ所の「微細だが大変な間違い」とは、「陸行一月」の「月」である。これは正しくは「日」で「陸行一日」であった。この間違いの指摘は、私がここで始めて指摘するのではなく、江戸時代から」複数の学者が指摘してきたことである。
  本論は「陸行一日」として、上記「邪馬台国の位置に関する12項目」に一致する地を求め、その比定地を実際に踏査し、比定と一致する基本的に重要な証拠を確認し、「邪馬台国はここに違いない」とした論である。
 しかし、ともかく信頼すべき重要な文の一部を「間違い」とするわけであるから、そう簡単に済ませるわけにはゆかない。まず第一に、以下の囲みでその間違いだとした根拠を書いておく。

  

「陸行一月」を間違いとする根拠


1.
当時は陸地の道路は未発達であった。陸地の道は往来が多いところで、人が踏み堅めで出来たと思われる。人通りが少ないとすぐ草木が生えて、道が消えた。
例えば、末廬国と伊都国の間などは、かなり交通があったと予想される要路であるが、それでも「草木が繁茂して、前を行く人が見えない」と様子が書かれている。
九州全体で見ると、陸路があった場所は限られていた、と思われる。道のない所を歩くのが、どんなに難しいか、時間がかかるものか、つまり「ヤブコギ」がどんなに時間がかかるものか、すこしでも山登りなどする人ならば、容易に理解出来ることだ。
当然、食料、履物、寝具など、旅に必要なものを持ち歩かねばならない。中国から遠路やってきた使者が、一ヶ月に亘るような生死に関わるほどの困難な陸路の旅が出来るはずがない。遠い外国から来た客人に「陸路一月」の旅をさせるはずがない。
また、不彌国から先は水行をしたのも、陸行が不可能だったからである。
2,
「陸行一月」の直前までは、つまり投馬国までは、行く先の方向、距離または所要日数、到着地の国名人口(または戸数)、交通手段、主要役人の名前まで克明に記録されている。それは著者陳寿の「正確を期する態度」であり、このようなことを記録しようとしたのが、この倭人伝の「文章作法」なのである。
 測定器具のなかった当時の誤差には配慮せねばならないが、魏志に書かれている通りのルートを辿れば、現在の正確な地図上で、投馬国までは容易に辿りつける。
投馬国は西都市である。福岡の少々東からここまで、「水行二十日」である。詳しくはあとで述べるが、もちろん、現在では距離も分かっているから、船の速度も分かる。
上陸地点名は書いてないが、西都市から船で十日のところ、志布志湾沿岸か、内之浦湾沿岸しか考えられない。
そこから「陸行一月」の旅!そんな馬鹿な!船を降りて陸を歩いた「陸行」、そこまでは良い。問題は「一月」である。それはあり得ないことだ。
3、要約
上と重複する所もあり、少々しつこい、とは思うが、重要な所なので「一月」がなぜ間違いなのか、箇条書きにしておく。
①陸行一月」は不可能なこと
当時の自然状況が思考再現出来れば、「陸行一月」がいかに無謀なことか、遠方から来た客人にさせるような旅ではないと容易に理解できる。
②地図を辿れば「一月」の所で急に分からなくなる。
その直前までは魏志に書かれている通りの道筋が容易に理解できるが、「一月」の所で突然分からなくなる。
③著者の文章作法が「一月」のところだけ変である。
魏志倭人伝を読めば、作者の文章作法が理解できる。つまり「読者に分かりやすく説明」しているのだ。「陸行一月」と言えば、大変な不可能に近い大旅行。陳寿の作法からすれば、当然この大旅行の内容が書かれるはずである。
つまり「どちらへ行ったのか」「どんな国があったのか」「どんな苦労、珍しいことがあったのか」などなどが当然書かれるはずである。しかしそのことが一言も書かれていない、それはあり得ないことだ。この著者はそんなことは書かないはずだ。
これは「読解力の問題」でもある。深い読解力が必要なわけでもない。ごく普通の読解力があれば、誰にでもわかることである。ともかく、よく読んで頂きたい。
4,正しくはどうなのか?
普通ならば、間違っている文章の指摘は出来ても、それでは、「正しくはどうか?」ということは分からないものである。
しかし、この当時、本の複製は全て人手による筆写であったことを考えると、漢字の「日」の下部が少し出ただけで「月」になる「日と月が類似文字」であることを思えば、「写し間違え」が大いに予想できる。
正しくは「陸行一日」ではないだろうか? ならば、意味はよく分かるし、自然な表現である。最も重要なことは、書かれている通りのルートをたどればある場所にたどり着くことが出来る。
「水行十日」で着いたところはもう邪馬台国であった。または邪馬台国のすぐ近くであった。だから「到着地の地名」は書かなかった。そこから一日歩いた所に卑弥呼が住んでいる都があったのだ。
繰り返しになるが、以上の指摘は私の創作、発見ではない。どこで読んだかの記憶は不確かだが、江戸時代から複数の学者が指摘してきた所と理解している。
5、結論
更に言えば「陸行一日」とするだけで、魏志倭人伝全体が誰が読んでも分かりやすい文書となる。従来のように難解でその解釈が複数現れるということはない。
但し、大昔のはなしであるから、物品名など今の普通の人は知らない語句があることもある。たとえば「青玉」など。まあこういう語句は学者の研究を参考にするしかない。
そこに書かれたルートは、現在の地理上でほぼ正確に辿れる。
そして「卑弥呼の都」と書かれている場所には、現在でも大集落(大都市)がある。書かれているサイズの卑弥呼の墓らしきものもある。古事記や日本書紀の日本の古代史にも整合するし、多数の伝説にも整合する。

Ⅱ、魏志倭人伝の中で、邪馬台国の位置を知る上で参考になる12個の記述の整理 

(このように纏めた原文は下の囲いに示す。又、奴国(福岡)不彌国までの経路は衆目の一致するところで正しいとし、ここでは触れない) 
(1)不彌国(福岡のすこし東)からみて遙か南方に邪馬台国がある。
(2)不彌国から南へ水行二十日の所に投馬国がある。
(3)その投馬国から更に南へ水行十日で着いた所(邪馬台国の港)から、更に陸行一日の所に卑弥呼が住んでいる都がある。
(4)邪馬台国は海に接している。
(5) 行程から考えるとこの国は、中国の東冶(今の福建省)の東にある。(注=福建省はほぼ北緯26度、鹿児島県は31.5度、約500キロの誤差であるが、当時の全くの推測なので、やむを得ないか)
(6) 丹がある。
(7)真珠青玉が出る。
(8) 邪馬台国は北に伊都国を置き諸国を治める。(注=当然伊都国の南に邪馬台国がある)
(9)気候温暖、冬でも野菜が出来る。
(10)径150m程度の卑弥呼の墓がある。
(11)邪馬台国は古くから朝献をしている(歴史が長い)。また、立派な墓を造る文化を持っていたようだ。故に邪馬台国歴代の墓(古墳群)が現存する可能性大。 
(12)女王国から東へ海を千余里行った所に国があり倭人が住んでいる。しかし彼らは女王国に属さない。

以下も倭国などの地理についての文だが、邪馬台国の位置に関係ないので取り上げない。また明らかに「人から聞いた話」で信憑性に欠ける。
(13)更にその南に小人国があり、その身長は3~4尺である。それは女王国から四千余里である。
(14)その東南へ船で行ってほぼ一年の所に裸国や黒歯国がある。
(15)倭の地を調べてみると海中に離れてあったり。連なってあったりで一周すればほぼ五千余里である。

上の原文

(現在のワープロにない文字は類似文字を使用、それもない場合は○で示した)
(1)は(2)(3)の総合判断
(2)(不彌国から)南至投馬国水行二十日
(3)(投馬国から)南至邪馬台国女王之所都水行十日陸行一日
(4) 今倭水人好○没捕魚蛤
(5) 計其道里当在会稽東治之東
(6) 以朱丹塗其体如中国用粉也   其山丹有
(7) 出真珠青玉(青玉が何かは不明)
(8)  自女王国以北特置一大卒  常治伊都国
(9)  倭地温暖冬夏食生菜
(10)卑弥呼以死大作塚径百余歩殉葬者奴卑百余人
(11)自古以来其使詣中国皆自称太夫
(12)女王国東渡海千余里又有国皆倭種

Ⅱ、上の12条件全てに合う地を捜す。それが邪馬台国だ。

この結論は私が「大隅邪馬台国」としてあちこちで発表しているものと全く同じである。従ってここでは概略を述べるに止める。詳しくは文末のリンクで御覧頂きたい。

1,条件(1)、大体の位置の見当をつける。

すなわち邪馬台国は、北九州から見てはるか南方にある。

2,条件(2)投馬国の位置。

原文からして、使者のコースは、福岡の東部から出発して、関門海峡と通過し、九州東岸を南下したに違いない。(素朴な読解)
そしてもちろん東岸を行き過ぎることはあり得ない。おおざっぱに見て、九州東岸の2/3位の所に、戸数五万戸と言う大国、投馬(ツマ)国があったのだ。
西都市には「ツマ」という所が市の中心にあり、その面積も広く、学校等多くの施設に「ツマ」という名が付けられている。つまり投馬(ツマ)という地名が現在に大いに残っている。プラス多数の古墳があり、古くから栄えた所であることは、確かで、ここが投馬国であったことはもう確実と言って良い。

当時の船、および航法の概略

1、船の構造
船は大木を切り抜いて掘った「丸木船」を少し改良した「準構造船」が使われていたようである。それは鉄釘で丸木船の舷側に板を打ち付け、波の侵入を軽減し、積載量を増やしたものである。
基本的には丸木船と同じかそれ以上の重量があり、速度は遅かったと予想される。利点は転覆しても沈没しないこと。
当時の船は「準構造船」と言われているが、基本的には丸木舟である。板を水が入らないほど密着させ、軽量、大型の船が作れるようになったのは、遥か後代である。

2、船の大きさ
丸木舟であるから、可能性から言えば、たとえば20Mの長さのものでも、作ろうと思えば作れる。しかし問題は荒天の時に、船を避難させる方法である。今も昔も、天然の良港は少ない。砂浜はかなり多い。嵐のときに船を守ろうと思えば、砂浜を見つけて、陸へ引き上げるしかない。従って、船は「数人の人力で陸上へ引き上げられるサイズ」でなければならない。多分5m以下であっただろう。

当時の船を再現する(大木を原始的な道具で切り、掘る)のは、不可能ではないかも知れないが大変である。
当時の大木を目にすることは不可能のようであるが、実は火山活動などで埋没した木々の周辺の土砂を取り除き、昔、大木が生えていた林の一部が再現されている場所がある。
つまり昔の大木が生えている森の一部の様子を、目にすることが出来る。
昔の船の出土はあるにはあるが、少ない。それは丸木船の廃船は、よい燃料になったためと思われる。
船の形は大体決まったようなものだ。「こんなものから丸木船を作っていたのだ。。。」と、古代森林の中で、思考造船するのが案外正確な「古代の船」のような気がする。
私が見たのは島根県三瓶小豆原埋没林公園だが、他にも富山県魚津埋没林博物館、宮城県にも「地底の森ミュージアム」と言うのがあるそうだ。
大木
3、遠距離の航法
航路は沿岸を進み、波の高い時、休憩時や夜、は陸上で過ごした。九州北部~邪馬台国は主要な航路であったので、随所に番小屋(宿場)があり、宿泊、食事が提供されたと思われる。
4、船の速度
魏志の記述から、遠距離航海の場合の船の速度が算出出来る。北九州~投馬国(西都市)は「水行二十日」であった。この間の沿岸の最短距離(小さい湾であれば湾へ入らず岬から岬へ直進する)は約400キロ、一日の走行距離は20キロとなる。8時間労働であれば、時速は20/8=2.5キロ/時となる。
陸上歩行の約半分の速度であり、妥当な数値と思える。

詳しくは →→→当時の船(リンク)

3,条件(3)邪馬台国の位置


投馬国までの所で、船の速度の見当はついたが、その割合(20キロ/日)で進むともう九州南端佐多岬が近くなり大国が存在出来る地形ではない。大国が存在出来るような地形はかなり手前の肝属平野が南限である。
肝属平野には肝属川が流れており、その河口には北から小川が合流しており、小舟の繋留には絶好の天然の良港となっている。

肝属川河口を「天然の良港」と見る理由

ここ志布志湾の沿岸は一面の海岸砂丘が広がり、つまり岸は砂浜であり、暴風の時には荒波が砂浜を駆け上がり、とうてい係留した船が無事でおられるはずがない。
しかし肝属川河口付近では、その海岸の砂丘の内側に水域があり、小船は河口を通ってその水域に進入、係留出来る。砂丘は土地が高くなっていて、どんな大波が打ち寄せてもこの砂丘を超えることはない。
まさに「天然の良港」で、どんな大嵐が来ても安全である。
このように砂丘の背後に水域のある場所が、大国の港であった例は他にもある。邪馬台国とほぼ同じ時代に栄えたとされる、鳥取県の「むぎばんだ遺跡」も、大陸との交流が認められるが、海岸に同様な港を持ち、大陸からの船などがそこに入港した、と歴史がつたえる。ただしその水域は現在は陸地になっている。

ここが邪馬台国の港として大いに期待できる所である。この付近にはここ以外には天然の良港は見当たらない。

 使者は水行十日でここに上陸した。投馬国(西都市)からの距離は140キロ、一日の平均走行距離は14キロとなり、前半に比べるとかなり遅くなっているが、もろに太平洋の荒波を受けるコースであるから、速度が落ちたのか、あるいはその位の誤差は無視すべきなのかも知れない。

 ここから陸行一日の所に卑弥呼が居たのだ。「昔の大集落は現在では大都市になっている」という可能性から推測すると、そこは現鹿屋市の可能性が非常に高い。肝属川河口から約25キロ、「陸行一日」の距離でもある。
当然鹿屋市に弥生時代の大規模遺跡が存在するはずであるが、問題は古今おそらく、だれ一人として、この地が邪馬台国であったと思う人はいなかったことである。
掘ればあちこちに遺跡の様相があったであろうが、人はそれに注目することなく、都市を拡張し、飛行場を作った。しかし、1981年、鹿屋市王子町で道路工事中に弥生時代の大規模遺跡が現れ、初めて本格的な発掘調査が行われた。その発掘調査報告書はWEB上で公表されている。ぜひご覧いただきたい(後述)。
私論からすれば、これこそ「魏志に書かれている邪馬台国中心部の一部、卑弥呼の都の一部」である。この偶然の発掘調査がなければ、1700年前の邪馬台国の記憶は、危うく消滅する所であった。

4、条件(4)(5)(7)(8)(9)邪馬台国の範囲

当時「国境」があったはずがないが、諸事を考慮して邪馬台国は大隅半島を横切る範囲、つまり錦江湾沿岸から鹿屋市、肝属平野一帯と予想される。
もちろんこの地は東も西も海である。条件のうち(4)、(5)、(7)、(8)、(9)に一致する。
日本側で七世紀ごろ「日向の国」としていたのは、現宮崎県+島嶼部を除く鹿児島県であったそうだ。700年代に日向の国から「大隅国」「薩摩国」が分離し、九州に九国が出来、「九州」という名がつけられたそうである。(この部分の正確さには自信がない)。
邪馬台国はそれよりもはるかに古く、その時代の日向の国の範囲を示す記録はおそらく無い。
厚かましくも私論を述べる。記紀では、神武天皇の国を「日向の国」としている。後で述べるが「神武天皇が中心的に統治していた国は鹿屋市+肝属平野」であるので、現宮崎県+大隅半島が「日向の国」と思う。さらにその大隅半島の部分を「ヤマト」とも呼んでいた(そう呼ぶ人もいた、だから魏の使者はヤマトを「邪馬台国」と記した)と思う。
ならば、南九州には、ある集団を「ヤマト」と呼ぶ単語が方言にでも残っているのではないか?方言辞典で調べてみると、宮崎県西諸県郡、ヤマト=山人、とあった。しかしこの問題を取り上げるには、余りにも資料不足であるので深入りは止めておく。方言問題では、ヨソ者は絶対不利。

5,条件(6)邪馬台国は丹を持っていた。

 魏志は「山には丹がある」「人は丹を体に塗る。それは中国人が白粉を塗るようなものだ」と記しているが大隅、あるいは九州全体を見ても、丹が出た気配はない。
学者によってはこの「丹」は「赤土」と解しているが、邪馬台国は丹を中国皇帝への贈り物として持っていったこともある。それが「赤土」だったら、使者は生きて帰れなかったであろう。
畿内論者は「だから邪馬台国は九州ではないのだ。畿内の奈良ならば丹が採れるのだ」と九州説否定の材料としている。一見、この「大隅では丹が出ない」という事実が、大隅論を完全否定するかのようである。
しかし、ここまで大隅論が正しそうであれば、何とか丹の問題も、仮説ぐらいは出なければならない。

邪馬台国の行動範囲は、遠く、楽浪郡(帯方郡)まで及び、ことによると2000キロも離れた皇帝の都、洛陽までも行った可能性もある。
欲しくてたまらない国家的宝物、丹が奈良で採れるのなら、奈良へ採りに行った、と言うことは十分考えられることである。邪馬台国本国は、九州南端にあったのだが、邪馬台国の活動の中心は北九州にあった。奈良まで宝物を採りにゆくのは、驚くに当たらない。
しばしば誤解している人がいるので、念のため記す。地図をよく見て欲しい。「水行三十日陸行一月」の記述で。九州説は極端な短絡、畿内説なら納得できる」と言う人がいるが、北九州から南九州(大隅)と、北九州から奈良、はほぼ同じ距離なのである。
むしろ丸木舟のような重くて人力で進む船は、波があると極端に速度が落ちる。瀬戸内海のように穏やかな海の方がよほど短時間で行けた、と思える。奈良まで丹を採りに行くのはそれほど困難ではなかったはずだ。
大隅、奈良の繋がりを強く伺わせるのは、後に邪馬台国が奈良へ引っ越した大事業であった。倭国の政治の中心となるために、近畿へ引っ越したのならば、行く先は浪速、でも京都でも名古屋でもよかったはずである。
それが一途に、奈良を目指したのは、第一に大隅邪馬台国は奈良の事をよく知っていた。第二に、奈良には天皇一行の移住を準備万端整えて待ち受けていた集団があったからである。その人々の中心は、多数移住した大隅人であったはずだ。その地の事情がよく分かっていたからである。

 よく知らない地へ重要人物が移住するなんてことは、考えられない。

  その神武一行を待ちわびていた人々の主体が、数十年前から「奈良へ丹を採るために移住していた大隅人」であった可能性は大いに考えられることだ。

6,条件(10)卑弥呼の墓

 卑弥呼の墓が見つかれば、それは邪馬台国の決定的な証拠となる。
住居地域に大規模な墓は造らない。鹿屋市が邪馬台国の「都」であったのならば、鹿屋市から少し離れた所に卑弥呼の墓があると予想した。
 これも予想が当たった。鹿屋市から東へ約20キロ離れたところ、当初から邪馬台国の港と目していた肝属川河口近くに唐仁古墳群があるが、その中で最大の古墳、鹿児島県でも最大の有名古墳である「大塚」が、径154m~155mであった。
 これが卑弥呼の墓に違いないと思ったが、当惑したことには、その造成年代は五世紀である、と、考古学は言っているのだ。
同じ五世紀の古墳はお隣の大崎町に「横瀬古墳」がある。その横瀬古墳からは大量の埴輪が出る。
 埴輪は元は吉備の文化で、それが友好国大和朝廷へ伝わり、後に全国的に広がった、と自己流に理解している。だから横瀬古墳が五世紀造成であることは当然と思う。
 しかし「大塚」には埴輪はない。「一体この二つの古墳が同時代のもの」という鑑定があっていいものか?素人なら?誰でもそう思う。私には考古学者の知人はいない。恐る恐る知人を介して現地の考古学者に聞いてもらった。
答えは「大塚が古い」ということであった。その学者の判断を尊敬するが、大勢は素人が見ても妙な判断が通用している。
はっきりと言えば「大塚の時代鑑定は大幅に間違っている」と言うことである。正しくはもちろん、「三世紀半ばの造成」の筈である、
ある高名学者は「一見して五世紀」と言う。この高名学者だけを批判するつもりはない。これは「大塚」に関わる全ての考古学者の一致した見解であろう。
私論では、これだけ周囲の状況は揃っているのだ。「一見」して五世紀だと断定する根拠が知りたい。「一見」と云うからには、おそらく外見だけ見て即断していると思われる。
 それは「古墳の年代は形を見れば分かる」というまことに不確実な判断基準を過信した間違いである。さらにその「基準」は畿内の古墳を基準として作成されたものである。つまり「後代の畿内のものさし」で遠方の先祖の墓の年代を計っていることになる。正しいはずがないではないか。
邪馬台国が畿内以外であるにも拘わらず、その基準を適応するのは、全くの見当違いであることは明白である。
もちろん、大塚が卑弥呼の墓であるならば、造成年代は250年頃のもの。卑弥呼のものであるからとりわけ丁寧に作られた。造成後間もなく、邪馬台国は奈良へ引っ越すという大事業をやった。さらに奈良では、大和朝廷を立ち上げるため、周辺あるいは遠方の国を制圧するという行動があった。
当分の間は、あまり立派な墳墓を作るゆとりはなかったであろう。落ち着いて又大型墳墓を作るようになった時、つまり四~五世紀に造られた墓が、大塚に似ているのならば、それは、当然卑弥呼の墓が規範になったからである。
まあ、これほど「卑弥呼の墓」らしき古墳を、「一見」しただけで、調べようともしない、のでは永久に邪馬台国はみつからないだろう。150m規模の墓は、日本全国でもそれほど多くはないはずである。
まして、魏志を普通に読めば、邪馬台国は南九州、そこに150mクラスの古墳がある、それだけの、わずか二つの条件だけでも「こりゃ卑弥呼ではないか?」と思うのが当然ではないだろうか。
とはいえ、「外見判断」より他に古墳の年代判定が出来ないのならば仕方がないが、近年他の科学的な方法が研究されている。まだ確立は出来ていないようだが、その新しい方法で大塚の年代が測定される時を期待している。

大 塚 の 測 量 図

(本論で卑弥呼の墓と特定している。それは余り立派な根拠に依るものではない。他には全く「候補」もないからである。)

1,右手、古墳を取り巻くように土手状の盛り上がりがあるが、この部分がいつ、何の目的で作られたのか不明とされる。
古墳図
2,その土手の内側は「周壕」とされているが、幅は約30m、深さは30cmほどと、非常に浅く私には壕とは見えない。多分塚を作るのに土を採取した跡ではないか。

3,この土手を含めて大塚の径は185mと公表されている。しかしこの周壕とされている部分(30m)を除けば、つまり高塚部分は径155mとなる。サイズにこだわるのはもちろん「魏志の記述に一致するかどうか」が重要な問題だからである。
 150m前後ならば、魏志の云う「百余歩」に一致するのである。
 権威ある所では鹿児島大学考古学室が径 154mとしている(鹿児島大学総合研究博物館月刊誌Newsletter March. 2007)

4,墳頂に大塚神社があり、そこに楕円状のものが書かれているが、それらは露出している石室の天井石である。
5、過去、この石室には入ることも可能であった。研究者が内部に入り、石棺や石室内部の測量、スケッチもしている。ただし石棺を開けてはいないし、開けた形跡もないそうである。(東串良町教育委員会刊「唐仁古墳群」1990年代)転載許可有

7,条件(11)邪馬台国が長い歴史を持つ国ならば、卑弥呼の墓のみならず、歴代の重要人物の墓が相当数あるはずだ。

1700年も前の痕跡が残っている、と期待する方が無理であろう。ただし墓地は「それほどには破壊しない」のが我が国の民心であろう。
邪馬台国の条件(11)歴代の墓があると、予想するのは、魏志に「古来より其の使者が中国に詣でていて、皆自分のことを太夫と言っている」という一文があり、この国の歴史は古いと思えるからである。
 中国史に倭国からの最古の朝献の記事が出るのは、後漢書であり、それは、西暦57年で「倭奴国」からの使者、とあるが、倭奴国の位置は「倭国の極南界」とある。
 常識的にそんなにあちこちの国が朝献に行ったとは思えないし、「倭国の極南界」と言えば、どうも大隅邪馬台国としか思えない(つまり「倭奴国=邪馬台国」)。
 まあその議論はともかくとして、大国が歴史を持つのは当然であり、特に邪馬台国文化の一つは「立派な墓を造ること」であるので、「邪馬台国の地には歴代の墓地がある(規模の大きい古墳群)」に違いないと思える。
 予想では1~3世紀半ば、という古い古墳群である。これは正しくは今後の研究を待たねばならないが、「大塚」を含む、唐仁古墳群から「弥生時代のものがたくさん出る」と言う報告があるので、私は当然この古墳群は弥生時代のもので、その邪馬台国歴代の墓地と思っている。
 肝属平野にはこれ以外にも古墳群がある。その総計は315基であり、数の上では古墳の町として有名な西都市の311基を凌駕している。
 いつの日か「邪馬台国の墓地」という目で、この地を研究して頂きたいものである。
表

8,(条件12)海を渡るのに「千余里」というのは、これまでに三回も出ている。つまり「韓国~対馬」「対馬~壱岐」「壱岐~末廬国(私は呼子と考える)」まあ「当時の感による測量」であるから、いい加減な所はあるが、大体の距離の見当はつく。
女王国の東「千余里」と言えば、「それは四国だ」と誰でも思うが、厳密に言えば「東に四国がある」のは、大分県までで、そこから南の宮崎県や大隅半島の東には、陸地はなく太平洋である。
まあそこまで正確な理解はなかったと思える。
9,以上で魏志倭人伝だけからの推理は終わる。
 多分、これだけ魏志の内容に一致する解は他にはないと自負する。
しかし、それでも更に重大ないくつかの疑問が残る。それらは以下である。
疑問 ①;邪馬台国のような強大な国が、大隅地方にあったのならばその伝説が現地に必ず残っているはずだ。それが今のところ一つも発見されていない。こんなことが有りうるのだろうか?(次項で解明)
疑問 ②;邪馬台国はその後(魏志に書かれた以後)奈良へ引っ越して、大和朝廷となったに違いないが、こんな大事業の伝説が全くない。これも不思議なことである。(次項で解明)

Ⅳ、魏志以外の諸現象を見ても、重要な点で上記比定地に整合する現象がある。

の「大隅邪馬台国論」を確認するために、肝属川河口を訪れた時、まさにその河口、私が邪馬台国の港と目していた所に「神武天皇東征出発地」と言う記念碑を発見し、仰天した。「発見した」のは私がよそ者だからで、もちろん現地では誰でも知っていることだった。

以下のことは述べる必要もないかも知れないが、まあ念のためである。 戦中、戦前には「紀元」(皇紀)という年号があった。それは西暦BC660年を紀元元年とする年号である。その元年というのは神武天皇が初代天皇として即位した年である、とする。(これには全く根拠がなく、もちろん今は使われていない)
昭和15年(開戦の前年)はその紀元が2600年という節目の年であり、国中で祝賀行事が行われた。この東征出発地記念碑もその年に建てられたものである。
他にも日本全国各地で、この年に建てられた記念碑は多い。
この「神武天皇東征出発地伝説」は事実の可能性がきわめて高い。それは日本古代史を重要な点で解明するからである。その詳細は下記である
「邪馬台国」は魏国がそう呼んだ名であり、それは日本では神武天皇等が統治していた国、つまり「日向の国」であった可能性が大と言うか、確実とも言えることである。

 ただし中国側の言う「邪馬台国」は鹿屋市から肝属平野あたり、であったのに対し、日本側の言う「日向の国」はその邪馬台国にプラス現在の宮崎県を含む広範囲であった。つまり中国側の言う「邪馬台国」+「投馬国」=日本側の「日向の国」と思える(今後の課題)
 神武東征の時期は、やはり正確には分からないことである。しかし私は、240年ごろ魏から使者が来ているが、その後、あまり永く邪馬台国がこの地にあったとは思えないので、270年ごろに神武東征があったのではないかと思っている。

◎ならば、「邪馬台国の引っ越し」と「神武東征」が同一事件となる。神武東征伝説は記紀以外にも、そのルート上の伝説は数百という規模で現存する。
大隅に限らず、九州邪馬台国説ならば、後に「奈良への引っ越し」は必須であり、そのような大事件が「伝説にも残らない」などと言うことは、あり得ないことである。従って、伝説の面から見ても「邪馬台国の引っ越し」と「神武東征」は同一事件である。

◎「邪馬台国その後の歴史」も推測ではあるが、ほぼ下記のような歴史であった、と言えるであろう。
◎大隅邪馬台国はその主力高官が出ていった後は、宿敵狗奴国が進出した。彼らは大和朝廷にも反感を持ち従おうとしなかった。おそらく彼らが「クマソ」であった。大和朝廷の元故郷を攻撃しで「クマソ征伐」をすることになった。
 しかし狗奴国が投馬国(西都市を中心とするほぼ現在の宮崎県)まで進出した、という形跡はない。
◎新造の卑弥呼の墓はケアする人がなく墳頂は草木が生える時間もないうちに南国の豪雨で流失し、石室が露出するという惨めな姿になった。
大国邪馬台国の伝説がない、と不思議に思っていたが、それは日本側から見れば、日向の国であったので、いわゆる日向神話が邪馬台国の伝説である。日向は「国造り神話」の故郷と言えるくらい多くの話を伝えている。それは現在に至るまでの日本の中枢政権「天皇家のふるさと」である。
◎ただしそれは日本史上では「神話の時代」と言われるほどの大昔で、非科学的な話が多く、科学的な歴史研究から見れば価値が少ない。

◎一方、魏志倭人伝など中国の古史は、基本的には正確に伝えようとする態度が明らかに見える。
魏の倭国訪問の記録は、文字文化の点でも倭国よりも遙かに進んでいた中国人が、「いわば神話の時代の倭国へやって来て、しかもそのメイン舞台(日向)へやって来て、客観的に事実を文字で克明に記録した話」で超貴重な日本の宝、国宝と言えるであろう。
この宝を「デタラメ」とする説もあるようだが、とんでもないことと思う。

◎「神武東征はなかった」という説もあるらしいので、その事について一言。
「神武東征」がなかった、のならばその経路にある数百に上る伝説も「すべてねつ造」ということになるだろう。
 そのうちの幾らかは「まゆつば」であるとしても、総体的に見るとこれら多数の伝説が「すべてねつ造された」とする説にはとうてい賛成出来ない。
◎すこし調べただけでも「こんな話(伝説)は捏造では絶対出来ない」と思うものが多数ある。
◎もし頭から「伝説など信用できない」と言う人が居るならば、トロイ遺跡の発見を思うべきだ。あの世界考古学史上最大の発見は伝説の上に成り立っている。
◎大筋で歴史を見ても、魏志に書かれている邪馬台国は九州→それが奈良へ引っ越すという大事件、それが伝説に残らないはずがない(文字がなかったのだから)。それがまさに「神武東征伝説」である。
多分誰かがこの作業はしていると思うが、神武東征経路にある伝説は、尊重され、調査され、記録されるべきである。

Ⅴ、「大隅邪馬台国論」の正否を証明する方法

この論は単なる推測論や空論ではなく、専門家による新しい科学的調査が行われれば、その正否を証明することが可能であろう。
①唐仁古墳群は邪馬台国歴代の墓地群と見ている。つまり多少の例外がある可能性はあるが、ほぼすべてが三世紀中葉以前、一、二世紀あるいはそれ以前の墓地がほとんどである。
「追記1」この件はすでに証明されていると思う。つまりこの墓地群から弥生時代のものが大量に出ている、と報告されているからである。この現象を現地考古学は「当地は僻地であるから、弥生時代が長く続いた」と苦しい説明をしている。
「追記2」唐仁古墳群のほかにも、塚崎古墳群という古そうな古墳群があるが、資料不足で言及出来なかった。
②唐仁古墳群のなかにある「大塚」が卑弥呼の墓である。そう断言する根拠は次の3点である。1、この墓が邪馬台国歴代と見做す墓群の中にある。2、径は155メートルで魏志の記述(径百余歩)に完全に一致する。3、他には卑弥呼の墓候補さえも全くない。
その造成年代はもちろん250年ごろである。科学的な方法でその造成年代が決定されれば最強の証拠となる。
「追記」ところがこの重要な古墳の造成年代は、多分その外観を畿内の古墳に類似を見て、五世紀後期とされている。私にはどう考えても、これは大間違いである。外観によらない科学的な方法で「大塚」の造成年代を再調査して頂きたい。
③鹿屋市を邪馬台国の都と見ている。「王子遺跡」がその一例で、他も掘ればそれなりの遺跡があると思うが、幸運な偶然がなければ、不可能であろう。

Ⅵ.「まとめ」として、以上から得た結論を箇条書きで整理する

上記全てが「確実な事実」と言うのは、我ながら無謀と言うものである。いずれも「可能性の問題」である。従って以下まとめとして述べる各項に、5段階で自己評価を付した。

=確実  =ほぼ確実  =可能性5分5分  
=可能性あり  =ひょっとしたらあり得るかも

(結論1)「投馬国」は現西都市である (5)

(結論2)「魏志の云う邪馬台国」は現肝属平野から鹿屋市から錦江湾に至る、いわば大隅半島を横断する帯状の地であった(4)

(結論3)卑弥呼のいた邪馬台国の都は、現鹿屋市で「大都市の下敷き」になっている。(4)

(結論4)王子遺跡はその邪馬台国の地で行われた唯一の「本格的発掘調査」である。(4)

(結論5)魏の使者が「投馬国から水行10日で着いた港と、神武天皇が東征に出発した港は同一であり、それは肝属川河口(波見港)である(5)

(結論6)卑弥呼の墓は「大塚」である(5)

(結論7)唐仁古墳群は「邪馬台国歴代の墓所」である。その古墳の主体は3世紀中葉以前のものである。(5)

(結論8)魏志の云う「邪馬台国」は神武天皇などが統治していた国である。それは日本側で言う「日向の国」の一部であった。つまり非科学的な話を別にすれば、終戦まで日本全体が信じてきた「九州南東部は天皇家のふるさと」は真実であり、そこが邪馬台国であった、と言うことになる。(5)

(結論9)大和朝廷の前身は、魏志の云う邪馬台国であった。この件は「隋書」「北史」にも書かれている。倭国側の表現で言えば、大和朝廷の前身は日向の国であった。(5)

(結論10)大隅邪馬台国はその後(魏志に書かれている時代より後)奈良へ引っ越した可能性はあらゆる面からして考え得る事件であった。その大事業の日本側の記憶は「神武東征」である。(5)

(結論11)神武東征の時期は270年頃と推定する。( 2 )

(結論12)神武天皇の国とは「日向の国」と思えるが、その日向の国は、現、宮崎県から大隅半島に至る一帯であったらしい。そのうち大隅半島の部分(邪馬台国)は神武東征後、狗奴国が進出した。しかし現宮崎県までは進出しなかった。
 狗奴国は倭名「クマソ」で後に大和朝廷が「征伐」した。しかしその地は大和朝廷の故郷であったので、「故郷を征伐、攻撃した」ことになる。(1)

(結論13)邪馬台国は「丹」を持っていた。その「丹」は奈良へ採りに行った。そのため一部大隅人は奈良に定住し、又邪馬台国は奈良の事をよく知っており、後の「邪馬台国の引っ越し(神武東征)」という大事業に発展したのではないか。(3)
(結論14)大隅人が丹を採りに奈良へ出かけたのは200年ごろからと思われる。(2)
(結論15) つまり神武東征に先立つ数十年前から奈良に大隅人が住んでいたのだが、彼らはもちろん邪馬台国の古墳文化(前方後円墳)を持っていた。それらの古墳は東征に先立つものであり、一時的に「二つの邪馬台国」の様相があった。(5)
(結論16) 奈良に邪馬台国があったのは確かである。それが後に大和朝廷になったのだ。それは万人が認めるところで、今更「畿内に邪馬台国があった」などと言うほうが変である。つまり「邪馬台国畿内説」は完全に正しい。しかしそれが魏志に書かれている邪馬台国か?と言うことになると疑わしいのである。従って、余計なおせっかいかも知れないが、畿内邪馬台国論が、「魏志に書かれている邪馬台国が畿内だった」と主張する視点においてのみ、論争の価値があるのだ。「邪馬台国が九州か、畿内か」という論争の正確な意味は「魏志に書かれている邪馬台国は九州か、畿内か、という論争である」という暗黙の了解の上に成り立っている。混同したくないものだ。(5)
(結論17)日本では殆ど信用出来ない「神話」の時代(3世紀)に、魏志からの使者がその神話の中心舞台にやって来て、冷静、客観的、科学的に文字で記録したのが「魏志倭人伝」である。故にこれは日本史上で超貴重な記録である(5)

(結論18)倭国の最も古い国名が中国の史書に出ているのは「後漢書」で、西暦57年「倭奴国の者が朝献に来た。自称太夫と言っている。そしてその位置に関して「倭奴国は倭国の極南界である」と書いてある。この「倭国の極南界」という記録、および魏志倭人伝に「自称太夫」という話が書いてあること、さらに、邪馬台国は早くから、九州のほぼ全域を支配していたらしい、故に邪馬台国以外に朝献をした国があったとは信じがたい、などのことから、この「倭奴国」と言うのは「大隅邪馬台国」のことらしい。
 してみると大隅邪馬台国は早くも一世紀に中国へ朝献するほどに発達していたのかも。(2) 

(結論19)以上の論の展開から、日本の古代史のあらすじが分かるように思えるので、以下に書いてみる。但し、私がこんなことを書くのは、だれが見ても「暴挙」である。(1)
◎ 邪馬台国の原型は大隅半島で西暦紀元前から芽生えていた。
◎ 57年 倭国と中国の接触の最初の記録が出る。この年に朝献をし、金印をもらった。しかしその国名は多分言葉がよく通じないための誤解と推測されるが、「倭奴国」と記録されている。その「倭奴国」の位置は「倭国の極南界」と記録されている。「極南界」とは大隅邪馬台国と解釈するのが妥当と思われる。

◎ その後も邪馬台国は朝献を繰り返す。
◎ 200年頃から邪馬台国人が奈良へ進出した。その目的は「丹」の採取であったが、そのため邪馬台国は奈良の事情をよく知ることになった。彼らの墓はもちろん大隅の古墳文化を踏襲した。このことが後に「邪馬台国畿内説」を生み出すことになった。
◎ 240年頃、魏の使者が大隅の邪馬台国を訪れ、魏志に従来のものよりも遙かに詳しい「倭人伝」を記録した。
◎ 240年代の終わり頃卑弥呼が死ぬ。そして大きな立派な墓が造られた。径百余歩。その前方後円墳は後に畿内で大型墳墓の規範となった。
◎ 266年、多分壱与からのものと思える朝献があった。これを最後に当分朝献が途絶える。
◎ 270年頃、邪馬台国(日向の国の支配層)の奈良への引っ越しが行われた。(神武東征)国の主力が引っ越した跡(大隅)には、狗奴国が進出してきて大隅邪馬台国は消滅した。

◎ 270~413年 朝献が途絶え中国の史書にも倭国の記録はない。もちろんこの約150年間は、奈良を根拠としたヤマト国(魏志の云う邪馬台国)が全国制覇の勢力拡大に専念していたのであろう。
◎413年朝献再開、贈り主は天皇。安定した大和朝廷が完成していた。この天皇が誰であったのか、確かでないが、15~17代天皇と推測されており、初代神武天皇の即位を270年頃とすると、わずか150年ほどの間に、15代もの天皇が在位したことになる。これは不自然。そこでは「欠史八代」説が正しいと思える。
(結論20) 魏志倭人伝の中の「水行十日陸行一月」は「水行十日陸行一日」の間違いである。(5)

Ⅶ、終わりに→別の見方を簡単に考える

魏志が書いている邪馬台国はどこであったか、別の思考で推測してみる。
◎魏の目的は倭国の中心勢力の国を訪れることであった。
◎時期的に見ても(三世紀)その大国は大和朝廷の前身の国らしい。
◎しかし、その倭人伝の内容からして、その地は明らかに奈良ではない。別の場所である。
◎ならば「神武東征」は事実でその出発地ではないか。
◎同時にその地は「天皇の先祖の地」でもあるはずだ。
◎それは南東九州(日向)である。梅原猛氏はその地を「天皇家のふるさと」と表現されている。
◎日向(大隅国を含む)には多数の古墳がある。その数、肝属平野と西都市だけで600基以上である。過去、大国が存在した十分な証拠である。
◎魏志の旅のコース「北九州から南へ水行合計三十日陸行一日」の記録も九州南東部と見るのが妥当である。また魏志の他の内容もその地に一致する。
◎以上簡単に考えただけで「魏志の邪馬台国」の場所を捜すのならば、先ず一番に「九州南東部」に目を向けるべきだ、と思うのだが、いかがであろうか?

Ⅷ、この論に関する資料、その他

以上の論は面倒で読みにくい邪馬台国論を、なるべく簡潔にまとめたものである。

 幸いにして更に読んでやろうと思われる方がおられましたら、下記にリンクなど書いておきますのでどうぞ御覧ください
1,書籍 「予言 大隅邪馬台国」 2008年刊 牧歌舎
 著者 河野俊章
  (かなり古い出版で訂正したいところも多々ありますが、論の主張は変わりません)

2,上の本のWEB版(読みにくいです)

3, Q&A で示す大隅邪馬台国論 この論と同様「圧縮版」です。 

4,「邪馬台国は日向の国の一部だ」 この小論と内容は同じですが、さらに詳しく書いたものです。 お勧め!折に触れ改訂しています。

5,鹿屋市王子遺跡発掘調査報告書(リンク)    
鹿屋市が邪馬台国の中心であったとは、ほとんど誰も予想せず、本格的な発掘調査は皆無と思われます。しかし1981年、鹿屋市王子町で道路工事中に大規模な弥生時代の遺跡が発見され、本格的な調査が行われました。
 だれもそこが「邪馬台国だ」とは思わなかったでしょうが、私からすればこれが唯一の「邪馬台国の地の本格的な発掘調査」と思っています。 その王子遺跡発掘調査報告書です。 

6,小冊子「唐仁古墳群」
 東串良町教育委員会から、1992年に2種類作成されています。この論の重要な資料ですが、市販はされておらず、現在入手可能かどうか不明です。同教育委員会に問い合わせるしかないようです。

7,写真集(リンク) 

  尾道市  河 野 俊 章

					最終更新 平成27年8月1日