『邪馬台国は日向国の一部だ』
尾道市 河野 俊章
「陸行一月」を間違いとする根拠1. 当時は陸地の道路は未発達であった。陸地の道は往来が多いところで、人が踏み堅めで出来たと思われる。人通りが少ないとすぐ草木が生えて、道が消えた。 例えば、末廬国と伊都国の間などは、かなり交通があったと予想される要路であるが、それでも「草木が繁茂して、前を行く人が見えない」と様子が書かれている。 九州全体で見ると、陸路があった場所は限られていた、と思われる。道のない所を歩くのが、どんなに難しいか、時間がかかるものか、つまり「ヤブコギ」がどんなに時間がかかるものか、すこしでも山登りなどする人ならば、容易に理解出来ることだ。 当然、食料、履物、寝具など、旅に必要なものを持ち歩かねばならない。中国から遠路やってきた使者が、一ヶ月に亘るような生死に関わるほどの困難な陸路の旅が出来るはずがない。遠い外国から来た客人に「陸路一月」の旅をさせるはずがない。 また、不彌国から先は水行をしたのも、陸行が不可能だったからである。 2, 「陸行一月」の直前までは、つまり投馬国までは、行く先の方向、距離または所要日数、到着地の国名人口(または戸数)、交通手段、主要役人の名前まで克明に記録されている。それは著者陳寿の「正確を期する態度」であり、このようなことを記録しようとしたのが、この倭人伝の「文章作法」なのである。 測定器具のなかった当時の誤差には配慮せねばならないが、魏志に書かれている通りのルートを辿れば、現在の正確な地図上で、投馬国までは容易に辿りつける。 投馬国は西都市である。福岡の少々東からここまで、「水行二十日」である。詳しくはあとで述べるが、もちろん、現在では距離も分かっているから、船の速度も分かる。 上陸地点名は書いてないが、西都市から船で十日のところ、志布志湾沿岸か、内之浦湾沿岸しか考えられない。 そこから「陸行一月」の旅!そんな馬鹿な!船を降りて陸を歩いた「陸行」、そこまでは良い。問題は「一月」である。それはあり得ないことだ。 3、要約 上と重複する所もあり、少々しつこい、とは思うが、重要な所なので「一月」がなぜ間違いなのか、箇条書きにしておく。 ①陸行一月」は不可能なこと 当時の自然状況が思考再現出来れば、「陸行一月」がいかに無謀なことか、遠方から来た客人にさせるような旅ではないと容易に理解できる。 ②地図を辿れば「一月」の所で急に分からなくなる。 その直前までは魏志に書かれている通りの道筋が容易に理解できるが、「一月」の所で突然分からなくなる。 ③著者の文章作法が「一月」のところだけ変である。 魏志倭人伝を読めば、作者の文章作法が理解できる。つまり「読者に分かりやすく説明」しているのだ。「陸行一月」と言えば、大変な不可能に近い大旅行。陳寿の作法からすれば、当然この大旅行の内容が書かれるはずである。 つまり「どちらへ行ったのか」「どんな国があったのか」「どんな苦労、珍しいことがあったのか」などなどが当然書かれるはずである。しかしそのことが一言も書かれていない、それはあり得ないことだ。この著者はそんなことは書かないはずだ。 これは「読解力の問題」でもある。深い読解力が必要なわけでもない。ごく普通の読解力があれば、誰にでもわかることである。ともかく、よく読んで頂きたい。 4,正しくはどうなのか? 普通ならば、間違っている文章の指摘は出来ても、それでは、「正しくはどうか?」ということは分からないものである。 しかし、この当時、本の複製は全て人手による筆写であったことを考えると、漢字の「日」の下部が少し出ただけで「月」になる「日と月が類似文字」であることを思えば、「写し間違え」が大いに予想できる。 正しくは「陸行一日」ではないだろうか? ならば、意味はよく分かるし、自然な表現である。最も重要なことは、書かれている通りのルートをたどればある場所にたどり着くことが出来る。 「水行十日」で着いたところはもう邪馬台国であった。または邪馬台国のすぐ近くであった。だから「到着地の地名」は書かなかった。そこから一日歩いた所に卑弥呼が住んでいる都があったのだ。 繰り返しになるが、以上の指摘は私の創作、発見ではない。どこで読んだかの記憶は不確かだが、江戸時代から複数の学者が指摘してきた所と理解している。 5、結論 更に言えば「陸行一日」とするだけで、魏志倭人伝全体が誰が読んでも分かりやすい文書となる。従来のように難解でその解釈が複数現れるということはない。 但し、大昔のはなしであるから、物品名など今の普通の人は知らない語句があることもある。たとえば「青玉」など。まあこういう語句は学者の研究を参考にするしかない。 そこに書かれたルートは、現在の地理上でほぼ正確に辿れる。 そして「卑弥呼の都」と書かれている場所には、現在でも大集落(大都市)がある。書かれているサイズの卑弥呼の墓らしきものもある。古事記や日本書紀の日本の古代史にも整合するし、多数の伝説にも整合する。 |
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以下も倭国などの地理についての文だが、邪馬台国の位置に関係ないので取り上げない。また明らかに「人から聞いた話」で信憑性に欠ける。
(13)更にその南に小人国があり、その身長は3~4尺である。それは女王国から四千余里である。 (14)その東南へ船で行ってほぼ一年の所に裸国や黒歯国がある。 (15)倭の地を調べてみると海中に離れてあったり。連なってあったりで一周すればほぼ五千余里である。 |
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上の原文(現在のワープロにない文字は類似文字を使用、それもない場合は○で示した)(1)は(2)(3)の総合判断 (2)(不彌国から)南至投馬国水行二十日 (3)(投馬国から)南至邪馬台国女王之所都水行十日陸行一日 (4) 今倭水人好○没捕魚蛤 (5) 計其道里当在会稽東治之東 (6) 以朱丹塗其体如中国用粉也 其山丹有 (7) 出真珠青玉(青玉が何かは不明) (8) 自女王国以北特置一大卒 常治伊都国 (9) 倭地温暖冬夏食生菜 (10)卑弥呼以死大作塚径百余歩殉葬者奴卑百余人 (11)自古以来其使詣中国皆自称太夫 (12)女王国東渡海千余里又有国皆倭種 |
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当時の船、および航法の概略1、船の構造船は大木を切り抜いて掘った「丸木船」を少し改良した「準構造船」が使われていたようである。それは鉄釘で丸木船の舷側に板を打ち付け、波の侵入を軽減し、積載量を増やしたものである。 基本的には丸木船と同じかそれ以上の重量があり、速度は遅かったと予想される。利点は転覆しても沈没しないこと。 当時の船は「準構造船」と言われているが、基本的には丸木舟である。板を水が入らないほど密着させ、軽量、大型の船が作れるようになったのは、遥か後代である。 2、船の大きさ 丸木舟であるから、可能性から言えば、たとえば20Mの長さのものでも、作ろうと思えば作れる。しかし問題は荒天の時に、船を避難させる方法である。今も昔も、天然の良港は少ない。砂浜はかなり多い。嵐のときに船を守ろうと思えば、砂浜を見つけて、陸へ引き上げるしかない。従って、船は「数人の人力で陸上へ引き上げられるサイズ」でなければならない。多分5m以下であっただろう。 当時の船を再現する(大木を原始的な道具で切り、掘る)のは、不可能ではないかも知れないが大変である。 当時の大木を目にすることは不可能のようであるが、実は火山活動などで埋没した木々の周辺の土砂を取り除き、昔、大木が生えていた林の一部が再現されている場所がある。 つまり昔の大木が生えている森の一部の様子を、目にすることが出来る。 昔の船の出土はあるにはあるが、少ない。それは丸木船の廃船は、よい燃料になったためと思われる。 船の形は大体決まったようなものだ。「こんなものから丸木船を作っていたのだ。。。」と、古代森林の中で、思考造船するのが案外正確な「古代の船」のような気がする。 私が見たのは島根県三瓶小豆原埋没林公園だが、他にも富山県魚津埋没林博物館、宮城県にも「地底の森ミュージアム」と言うのがあるそうだ。 ![]() 3、遠距離の航法 航路は沿岸を進み、波の高い時、休憩時や夜、は陸上で過ごした。九州北部~邪馬台国は主要な航路であったので、随所に番小屋(宿場)があり、宿泊、食事が提供されたと思われる。 4、船の速度 魏志の記述から、遠距離航海の場合の船の速度が算出出来る。北九州~投馬国(西都市)は「水行二十日」であった。この間の沿岸の最短距離(小さい湾であれば湾へ入らず岬から岬へ直進する)は約400キロ、一日の走行距離は20キロとなる。8時間労働であれば、時速は20/8=2.5キロ/時となる。 陸上歩行の約半分の速度であり、妥当な数値と思える。 詳しくは →→→当時の船(リンク) |
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肝属川河口を「天然の良港」と見る理由ここ志布志湾の沿岸は一面の海岸砂丘が広がり、つまり岸は砂浜であり、暴風の時には荒波が砂浜を駆け上がり、とうてい係留した船が無事でおられるはずがない。しかし肝属川河口付近では、その海岸の砂丘の内側に水域があり、小船は河口を通ってその水域に進入、係留出来る。砂丘は土地が高くなっていて、どんな大波が打ち寄せてもこの砂丘を超えることはない。 まさに「天然の良港」で、どんな大嵐が来ても安全である。 このように砂丘の背後に水域のある場所が、大国の港であった例は他にもある。邪馬台国とほぼ同じ時代に栄えたとされる、鳥取県の「むぎばんだ遺跡」も、大陸との交流が認められるが、海岸に同様な港を持ち、大陸からの船などがそこに入港した、と歴史がつたえる。ただしその水域は現在は陸地になっている。 |
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ここが邪馬台国の港として大いに期待できる所である。この付近にはここ以外には天然の良港は見当たらない。
使者は水行十日でここに上陸した。投馬国(西都市)からの距離は140キロ、一日の平均走行距離は14キロとなり、前半に比べるとかなり遅くなっているが、もろに太平洋の荒波を受けるコースであるから、速度が落ちたのか、あるいはその位の誤差は無視すべきなのかも知れない。
ここから陸行一日の所に卑弥呼が居たのだ。「昔の大集落は現在では大都市になっている」という可能性から推測すると、そこは現鹿屋市の可能性が非常に高い。肝属川河口から約25キロ、「陸行一日」の距離でもある。
当然鹿屋市に弥生時代の大規模遺跡が存在するはずであるが、問題は古今おそらく、だれ一人として、この地が邪馬台国であったと思う人はいなかったことである。
掘ればあちこちに遺跡の様相があったであろうが、人はそれに注目することなく、都市を拡張し、飛行場を作った。しかし、1981年、鹿屋市王子町で道路工事中に弥生時代の大規模遺跡が現れ、初めて本格的な発掘調査が行われた。その発掘調査報告書はWEB上で公表されている。ぜひご覧いただきたい(後述)。
私論からすれば、これこそ「魏志に書かれている邪馬台国中心部の一部、卑弥呼の都の一部」である。この偶然の発掘調査がなければ、1700年前の邪馬台国の記憶は、危うく消滅する所であった。
1,右手、古墳を取り巻くように土手状の盛り上がりがあるが、この部分がいつ、何の目的で作られたのか不明とされる。 ![]() 2,その土手の内側は「周壕」とされているが、幅は約30m、深さは30cmほどと、非常に浅く私には壕とは見えない。多分塚を作るのに土を採取した跡ではないか。 3,この土手を含めて大塚の径は185mと公表されている。しかしこの周壕とされている部分(30m)を除けば、つまり高塚部分は径155mとなる。サイズにこだわるのはもちろん「魏志の記述に一致するかどうか」が重要な問題だからである。 150m前後ならば、魏志の云う「百余歩」に一致するのである。 権威ある所では鹿児島大学考古学室が径 154mとしている(鹿児島大学総合研究博物館月刊誌Newsletter March. 2007) 4,墳頂に大塚神社があり、そこに楕円状のものが書かれているが、それらは露出している石室の天井石である。 5、過去、この石室には入ることも可能であった。研究者が内部に入り、石棺や石室内部の測量、スケッチもしている。ただし石棺を開けてはいないし、開けた形跡もないそうである。(東串良町教育委員会刊「唐仁古墳群」1990年代)転載許可有 |
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8,(条件12)海を渡るのに「千余里」というのは、これまでに三回も出ている。つまり「韓国~対馬」「対馬~壱岐」「壱岐~末廬国(私は呼子と考える)」まあ「当時の感による測量」であるから、いい加減な所はあるが、大体の距離の見当はつく。
女王国の東「千余里」と言えば、「それは四国だ」と誰でも思うが、厳密に言えば「東に四国がある」のは、大分県までで、そこから南の宮崎県や大隅半島の東には、陸地はなく太平洋である。
まあそこまで正確な理解はなかったと思える。
9,以上で魏志倭人伝だけからの推理は終わる。
多分、これだけ魏志の内容に一致する解は他にはないと自負する。
しかし、それでも更に重大ないくつかの疑問が残る。それらは以下である。
疑問 ①;邪馬台国のような強大な国が、大隅地方にあったのならばその伝説が現地に必ず残っているはずだ。それが今のところ一つも発見されていない。こんなことが有りうるのだろうか?(次項で解明)
疑問 ②;邪馬台国はその後(魏志に書かれた以後)奈良へ引っ越して、大和朝廷となったに違いないが、こんな大事業の伝説が全くない。これも不思議なことである。(次項で解明)
以下のことは述べる必要もないかも知れないが、まあ念のためである。 戦中、戦前には「紀元」(皇紀)という年号があった。それは西暦BC660年を紀元元年とする年号である。その元年というのは神武天皇が初代天皇として即位した年である、とする。(これには全く根拠がなく、もちろん今は使われていない)
昭和15年(開戦の前年)はその紀元が2600年という節目の年であり、国中で祝賀行事が行われた。この東征出発地記念碑もその年に建てられたものである。 他にも日本全国各地で、この年に建てられた記念碑は多い。 |
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上記全てが「確実な事実」と言うのは、我ながら無謀と言うものである。いずれも「可能性の問題」である。従って以下まとめとして述べる各項に、5段階で自己評価を付した。
5=確実 4=ほぼ確実 3=可能性5分5分 2=可能性あり 1=ひょっとしたらあり得るかも |
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1,書籍 「予言 大隅邪馬台国」 2008年刊 牧歌舎
著者 河野俊章 (かなり古い出版で訂正したいところも多々ありますが、論の主張は変わりません) 2,上の本のWEB版(読みにくいです) 3, Q&A で示す大隅邪馬台国論 この論と同様「圧縮版」です。 4,「邪馬台国は日向の国の一部だ」 この小論と内容は同じですが、さらに詳しく書いたものです。 お勧め!折に触れ改訂しています。 5,鹿屋市王子遺跡発掘調査報告書(リンク) 鹿屋市が邪馬台国の中心であったとは、ほとんど誰も予想せず、本格的な発掘調査は皆無と思われます。しかし1981年、鹿屋市王子町で道路工事中に大規模な弥生時代の遺跡が発見され、本格的な調査が行われました。 だれもそこが「邪馬台国だ」とは思わなかったでしょうが、私からすればこれが唯一の「邪馬台国の地の本格的な発掘調査」と思っています。 その王子遺跡発掘調査報告書です。 6,小冊子「唐仁古墳群」 東串良町教育委員会から、1992年に2種類作成されています。この論の重要な資料ですが、市販はされておらず、現在入手可能かどうか不明です。同教育委員会に問い合わせるしかないようです。 7,写真集(リンク) 尾道市 河 野 俊 章 |
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最終更新 平成27年8月1日