『史料からわかる『邪馬台国は大和国』』

												菊地 昌美

『後漢書東夷伝』の信頼性

 邪馬台国に関する史料は、『魏志倭人伝』だけはでありません。
 特に記述の多い『後漢書東夷伝』は大事です。
 この『後漢書東夷伝』について、范曄が新発見した「建武中元二年,倭奴國奉貢朝賀,使人自稱大夫,倭國之極南界也。光武賜以印綬」。「安帝永初元年,倭國王帥升等獻生口百六十人,願請見」。「桓、靈閒,倭國大亂,更相攻伐,歴年無主」以外は、范曄が『魏志倭人伝』を言葉いじりしただけのものとして、価値を認めないのが大半ですが、『後漢書』の史料としての価値について考える場合、『後漢書』を著した范曄(398~445)と、その時代背景について考えなければなりません。そこで関係した史実とそのことから分かることを列挙します。

『後漢書』の発表の背景と重要性

 范曄は、南朝宋の文帝432年冬、皇弟・劉義隆の母の葬儀の夜、バカ騒ぎして不興を買い、宣城太守に左遷されます。その左遷直後の432年(元嘉9年)、まだ未完成(范曄が執筆したのは本紀と列伝のみで、志については、范曄が後に文帝の弟、劉義康擁立の事件に関ったことで処刑されたので書かれていない)であった『後漢書』を世に出します。
 未完成の『後漢書』を世に出す。このことは何を意味するのかを考えますと、范曄の心中が次のように想像されます。
 「私はこの様な書を纏めているのです。地方では何も出来ません。どうか中央に戻してください」と。
 つまり世に出して恥じることのない自信作だったから発表したのだと思います。
また、432年の冬に左遷され、その直後の同年432年に世に出したことから、それ以前から『後漢書』は準備されていたと考えられます。

范曄の『後漢書』の重要性

 この范曄の「後漢書」以前に「七後漢書」とも「八後漢書」とも言われる「後漢書」がありました。しかし、現在、後漢の歴史を記した「後漢書」は、宋の范曄の著した「後漢書」のみが残っています。このことは、范曄の著した「後漢書」が、最も充実したものだったから残ったもので、他の「後漢書」は范曄の著した「後漢書」と比べると劣ったものと考えられたので、消えていったのだと思われます。

范曄と先輩の裴松之

 范曄の先輩に裴松之がおります。裴松之(372~451)は、東晋で尚書吏部郎となり、そして宋の王朝に仕えます。426年、文帝に三国時代の歴史書『三国志』の「注」(裴注)を作るように命じられ、429年に完成させました。文帝はこの注を読み、「これは不朽となるだろう」と裴松之をたたえました。
裴松之はこの『裴松之注』を作るに当たり、当時あった史料を手当たり次第に集めたといいます。これまであった約50人の100種程の史料は、玉石混淆だったがそれらすべての出典を明らかにして「注」を作りました。
 この史料の集積が、後世の「三国志演義」の成立の元になります。私たちが今楽しんでいる「三国志」はこの裴松之の集めた史料のおかげということができます。
  26才年上の裴松之が426年から「裴松之注」を作り始め429年に完成させたことは、「後漢書」を著そうとしていた范曄に当然刺激を与え、裴松之が集めた以上の史料を集めようとしたと考えてもよいと思われます。そうしなければ范曄の仕事は周囲に笑われる可能性が大であると思われるからです。
范曄も宋で尚書吏部郎となり、裴松之と同じように政治家の階段を上っていきます。そして432年に范曄は「後漢書」を世に出します。
范曄と裴松之が同じ時代に、政治家としても、歴史家としても張り合ったであろうことが、「後漢書」の記述の充実に反映したものと思われます。

『後漢書東夷伝』の重要性

「東夷伝」は、范曄の『後漢書東夷伝』以前は、呉の謝承の「後漢書」だけにしかありません。その記述も大変簡単なもので、「東夷伝」と言われるほどの中身はなかったと言われます。
 つまり、范曄の『後漢書東夷伝』以前に、「東夷伝」と言われるものは、実質無かったというべきであったということであります。
 よって范曄の『後漢書東夷伝』は、全く内容の新しいもので、范曄が見いだして日の目を見たものであるということであります。

倭の五王の朝貢

 范曄が『後漢書東夷伝』を発表する前、倭の五王(讃・珍・済・興・武)が東晋と宋に朝貢しています。
 東晋の413年と、『宋書』によると、421,425,430、438、443,451,478年の朝貢が記されています。
 『宋書倭国伝』の425年の記述に、
「太祖の元嘉二年(425)、讃、また司馬曹達を遣わして表を奉り方物を献ず。」
「讃死して弟珍立つ。使を遣はして貢献し、自ら使持節都督倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東大将軍、倭国王と称し、表して徐正せられんことを求む。詔して安東将軍・倭国王に除す。」とあります。
 この記述の後半部分は、425年に讃が朝貢しておりますので、425年以降のことが記されていることになります。
 すると430年か、438年に倭王の朝貢があったという『宋書倭国伝』の記述の内容と思われます。
 この中に、倭王珍が「自ら使持節都督倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東大将軍、倭国王と称し」たとあります。
 このことから、当時、「倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓」の関係が中国外交筋に明確に伝えられ、分かっていたことが分かります。

2~5世紀の中国の方位・方角知識

中国では、後漢の頃には、天体の位置を知る渾天儀や常に南を向く指南車があり、3世紀にはいると、魚の形の木片に磁針を埋め込み水に浮かべ、魚の頭が常に南を指す「指南魚」と呼ぶ「羅針盤」の前身がありました。
 つまり、倭国の国内状況や地理関係も分かっていたと推測されます。
 すると「倭の奴国、倭国の極南界なり」は、范曄が当然確認したものと思われます。
 このように、新しい史料の一つが、倭王讃の413・421・425・430(珍かもしれない)の朝貢であります。倭に関する史料が少ないなか、倭王の使者は、情報獲得に欠かせないものであり、当然使者から情報を集めたものと考えてよいと思われます。
このような記述から、432年頃の倭国で外交に関わった人達は、倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓の地理観を正しく持っていたということができます。
その上で「倭の奴国、倭国の極南界なり」と記述されたのですから、倭の奴国は、九州本体の内、末廬国・伊都国・不弥国以外の全ての土地を支配して、倭国の極南界である九州南部までを支配していたことが分かります。
 このような倭国の朝貢の使者から得た情報は、范曄にとって大変大事なものだったと思われます。すると、432年発表時の記載が、445年に刑死するまでの間に間違っていたと気づいたら訂正した筈です。
 「倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓」の関係と、「倭の奴国、倭国の極南界なり」は訂正されることなく済んでいることは、この事実の認識に何ら問題がなかったことになります。
 紀元前1世紀の『漢書地理志』に、「夫れ楽浪海中に倭人有り、分かれて百余国と為る。歳時を以て来り献見すと云ふ」とあった倭が、『宋書倭国伝』の478年の「東は毛人を五十五国、西は衆夷を六十六国」の記述から倭国は122国に分かれていたことが分かります。
 「百余国」が122国なのか、もしくは百余国にその後周辺の今の新潟県や東北地方南部、九州の今の鹿児島県あたりにできた新しい国を含めてなのかはわかりませんが、とにかく「百余国」だったことは間違いないと思います。
すると『後漢書東夷伝』の「倭の奴国、倭国の極南界なり」はどのように解釈すべきか決まってきます。
 まさか「倭の奴国、倭国の極南界なり」から、奴国の中心今の福岡市あたりを百余国の極南界として、対馬・壱岐。佐賀県・福岡県の狭い範囲に百余国があったということにするわけにはいかないと思います。なぜなら、「去其西北界拘邪韓國」と「対馬国………壱岐国………末廬国………伊都国」とある国々の関係から、末廬国の次は伊都国だからです。
 また百余国が、『後漢書東夷伝』では「使驛通於漢者三十許國」と30許国になり、『魏志倭人伝』では「今使訳所通三十国」と30国になります。
 後漢や魏に使いを送っていた国が30国で、70余国は使いを送っていなかったのだと考えられないから、百余国は本州・四国・九州にあった国ということになります。
 つまり「百余国」が後漢のいつ頃かに「30国」にまとめられていたということだと思います。
 このことから「倭の奴国、倭国の極南界なり」の解釈は、倭の奴国は、九州本体の内、末廬国・伊都国・不弥国以外の全ての土地を支配して、倭国の極南界である九州南部までを支配していたことが分かります。

 『後漢書東夷伝』の「建武中元二年」記述の意味するもの
 次に、『後漢書東夷伝』の「建武中元二年,倭奴國奉貢朝賀,使人自稱大夫,倭國之極南界也。光武賜以印綬」の記述を詳しく分析したいと思います。
 この文の内、事実であるのは「建武中元二年」、「倭奴國奉貢朝賀」、「使人自稱大夫」、「光武賜以印綬」です。
 しかし、「倭の奴国、倭国の極南界なり」は事実かどうか疑問があります。
 何故かというと、事実なら伝聞を記したことになりますので、「倭の奴国、倭国の極南界なりという」と書かれたと思うからです。
 そうではなく「倭の奴国、倭国の極南界なり」と書かれていることは、倭国が『『宋書』によると122国に分かれていたことがわかっている、5世紀の宋の時代の范曄が訂正しなかったことから、5世紀の知見でも正しい記述だということになります。
このような時代と人の背景のもと書かれた『後漢書東夷伝』は、貴重な史料であり、単に『魏志倭人伝』を言葉遊びしたものではないということであります。
 『後漢書東夷伝』の記述を恣意的に無視する人は、『後漢書東夷伝』の記述には、価値がないと思っています。ですから、『後漢書東夷伝』の『建武中元二年、倭奴國奉貢朝賀、使人自稱大夫、倭國之極南界也。光武賜以印綬』という記述についても、『倭奴國………、倭國之極南界也。』を無視している邪馬台国研究者がほとんどです。
しかし本当にそのように考えてよいのでしょうか。

『後漢書東夷伝』による『魏志倭人伝』の訂正

 范曄が『後漢書東夷伝』を著した432は、陳寿が『魏志倭人伝』を著した280年代からほとんど150年後です。だとしたら、もしも『魏志倭人伝』に誤りがあったと気づいたら、訂正していたと考えてよいと思います。
 これについては、『魏志倭人伝』の記述を『後漢書東夷伝』で訂正した部分では行えないので、他の方法で証明しなければなりません。
 そこで、『後漢書韓伝』の記述に『魏志韓伝』を訂正した部分がないかどうか調べてみます。
『魏志韓伝』に、『州胡有り、馬韓の西の海中の大島の上に在り』とありますが、『後漢書韓伝』では、『馬韓の西の海島の上に州胡国有り』と変えられております。
 そこでは、州胡国は『大島』ではなく、単なる『島』にあると訂正されているのです。
 范曄は、馬韓の西の海中に大島があるかどうか調べた結果、『大島』は無く『島』はあると訂正したのです。
 このように『後漢書東夷伝』の著者范曄は、『魏志』を出さずに『魏志韓伝』を訂正しています。

『後漢書東夷伝』による方角の訂正

 すると当然のこととして、このほかの『後漢書東夷伝』の記述も『魏志倭人伝』の誤りを、『魏志倭人伝』を出さずに訂正していると考えるべきです。
 こうして『魏志倭人伝』を訂正した方角の記述が、
 『魏志倭人伝』で『到其北岸狗邪韓国』とあったものを、『後漢書東夷伝』で、『去其西北界拘邪韓國』と変更しています。
また、『魏志倭人伝』で 『其南有狗奴国』とあったものを、『後漢書東夷伝』で『 自女王國東度海千餘里至拘奴國』と南を東に訂正しています。
その訂正の最たるものが、『倭奴國………、倭國之極南界也』と 『魏志倭人伝』の『奴国………東不弥国………南投馬国………南邪馬台国………南狗奴国』を訂正した部分です。
以上のように、『後漢書東夷伝』は、『魏志倭人伝』の記述を、検証によって訂正した部分が多数ある書物であり、決して言葉いじりをした書物ではないということなります。 つまり『後漢書東夷伝』は信頼性の高い大切な史料であるということになります。
『後漢書東夷伝』の記述を恣意的に無視する人は、『後漢書東夷伝』の記述には、価値がないと思っています。その理由は、自分の考えに合わないということでないかと推測されます。
 だから、「倭の奴国、倭国の極南界なり」を無視します。
「その西北界狗邪韓国」を無視します。
 「邪馬台国………その東………狗奴国」を無視します。
 つまり、史料を意図的に無視したり、曲解したりしています。
 ですから、『魏志韓伝』の「州胡あり。馬韓の西、海中の大島の上にあり」の重要性に気づきません。
 このように魏志の著者陳寿は邪馬台国関係の方角について、思い違いをしています。
その思い違いは、本当の方角に時計回りに、90度足して、「南は西」と記されています。
これを当てはめて、『魏志韓伝』の「州胡有り馬韓の西、海中の大島の上に在り」を、時計回りで、90度を引いて、「州胡有り、馬韓の南、海中の大島の上に在り」と訂正します。これで、本当の地図と一致します。
また、『魏志倭人伝』にある、後の「太宰師」の前身と考えられる「一大率」については、
 「自女王国以北、特置一大率、検察諸国、諸国畏憚之。常治伊都国」が、
 「自女王国以西、特置一大率、検察諸国、諸国畏憚之。常治伊都国」と、
 訂正され、本当の地図と一致します。
 陳寿は、このように、日本列島を北九州を中心として北東に連なる列島と考えず、北九州を中心として南東に連なる列島、もしくは南に連なる列島と考えていたということです。
それだけではありません。「西北界拘邪韓國」から、倭国は狗邪韓国の東南にあることになります。狗邪韓国は今の釜山のあたりを中心とする国と考えられます。とすると倭国は、東南の中国地方・四国地方を中心とする、九州から近畿地方などを含む地域であったことになるのではないでしょうか。

『新羅本紀』の信頼性

 次に無視できない史料が、朝鮮半島の歴史書で金富軾が12世紀に書いた『三国史記』の中の『新羅本紀』です。
『新羅本紀』を史料として使うにあたって、『新羅本紀』が信頼出来る史料であることを説明します。
 新羅・百済・高句麗の3国の前身の地域が出現して、その後3国が朝鮮半島に鼎立していた時代から、新羅によって統一され、新羅が滅亡するまでの、朝鮮半島の正史が『三国史記』です。
 『三国史記』は、『新羅本紀』・『高句麗本紀』・『百済本紀』からなっております。
このうち『新羅本紀』には、新羅に南や東から侵攻する加羅(伽耶、加良)と倭が書かれています。
この『新羅本紀』は、現在大韓民国の中学・高校の教科書の朝鮮半島古代史の記述のもとになっています。しかしその記述にあたっては、倭の新羅侵攻にはふれておりません。朝鮮半島の人達にとって、倭に侵攻された歴史は隠しておきたいことだからと思われます。
とすると、新羅に南と東から侵攻する加羅(伽耶、加良)と倭が書かれているこの『新羅本紀』は、真実を隠さず書いている大事な史料と思われます。
 この『新羅本紀』によれば、 後漢の最後の頃の220年の直前には、『加羅(拘邪韓國)が倭国・邪馬台国の支配下にあった』が分かります。
なお、新羅・百済ができた年を調べてみます。
 新羅は奈勿尼師今の即位の356年、公式的には『秦書』の377年に前秦に初めて新羅が朝貢したとの記述です。
 百済は、近肖古王の即位の346年の建国と記されております。
 このように4世紀の中頃だから、それ以前の記述は史料価値がないという人がいます。しかし、新羅・百済・高句麗の建国以前は、新羅は辰韓12国、百済は馬韓54国と記されていて、地域的まとまりがあったことが記されています。
 すると、それらの地域の歴史を、建国後の新羅・百済の歴史と書いたとしても、全く無視すべきではないと思いますがいかがでしょうか。

倭の朝鮮半島南端支配

 日本の国家統一について、普通の説は、『高句麗好太王碑文』に、「百残・新羅は旧是れ属民なり、由来朝貢す。而るに倭は、辛卯の年(391)を以て来たり海を渡り、百残・□□・新羅を破り、以て臣民と為す。」とあることから、朝鮮半島に大軍を送って、百残・新羅を服属させ、高句麗と戦っているのは、背後に隙をつく敵がいない、つまり国家統一が391年の前の四世紀前半までに完了していたのだとするのが普通です。
しかし、もし倭国がそれ以前に朝鮮半島南部を支配していたとしたら、その支配の前に倭国は統一を完了していたのではないでしょうか。
 そこで倭国が朝鮮半島の南端の狗邪韓国を支配していたことを示す史料を探してみました。
まず、『魏志倭人伝』の直前に書かれている『魏志韓伝』には、「韓は帯方の南に在り、東西は海を以て限りをなし、南は倭と接す」とあります。
 そして次の『魏志倭人伝』には、「郡より倭に至るには、海岸に循って水行し、韓国を歴て、乍は南し乍は東し、その北岸狗邪韓国に到る、七千余里。始めて一海を度る千余里、対馬国に至る」とあります。
 この『魏志韓伝』と『魏志倭人伝』を繋ぐと、次のようになります。
 「帯方郡の南に韓国がある。東西は海だが、南は倭と接している。倭の北のはずれの支配地、狗邪韓国の南に海があり、始めて海を渡ると対馬国に至る」と。
それでは、倭が朝鮮半島南端の狗邪韓国を支配し始めたのは何時なのでしょうか。それを知る史料はあるのでしょうか。

『新羅本紀』の記述から

そこで大事なのが、朝鮮半島の歴史書で金富軾が12世紀に書いた『三国史記』の中の『新羅本紀』です。
 『新羅本紀』の要点を次に書き出しますと、
「八年(前50)、倭人が出兵し、〔新羅の〕辺境に侵入しようとしたが、〔新羅の〕始祖には神のような威徳があると聞いてひきかえした。」に始まり、
次の「十一年(14)、倭人が兵船百余隻で海岸地方の民家を略奪した。」の記録は、その倭人の来たのが、海の彼方からであり、その規模が大変大きいことを示しています。
「三年(59)、夏五月、倭国と国交を結び、互いに使者を交換した」の記録は、新羅と倭国が国交を結んだという事実です。
 「十七年(73)」の記録でも倭が出てきますが、伽耶は出てきません。
 このことは、伽耶はまだ建国の動きが起こっていなかった事を示していると思います。
倭国が統一され、伽耶に倭国が進出していたのだと考えられます。
「二十一年(77)」「十五年(94)」の記録は、建国された伽耶国が新羅にしばしば侵入します。新羅より優位にある国であったことが分かります。
「十八年(97)」「二十七年(106)」「四年(115)」「五年(116)秋八月」の記録は、新羅が伽耶に軍を出す事態になり、伽耶と新羅の関係が対等になります
「十年(121)」「十二年(123)」「五年(158)」の記録には、伽耶が出てこなくなり、倭軍・倭国・倭人だけになります。
 これは、新羅の南の国境が倭と接することになった。つまり、伽耶が倭の支配下に入っていたことの証明と思われます。
 そして、「二十年(173)、夏五月、倭の女王卑弥乎が使者を送って来訪させた。」では、卑弥呼が登場します。
「十年(193)」には、倭国の大飢饉と、倭人が避難してきた記録となり、
 その後、「六年(201)」の記録で伽耶が再登場します。
 大飢饉で倭国の支配力が弱まり、伽耶が独立性を増したのだと思われます。
「六年(201)」「十四年(209)」「十七年(212)」の記録は、伽耶の弱体化を象徴しています。
そして、これ以後、加羅・伽耶・駕洛の文字はなくなります。
それだけではなく、新羅の南方や東方の国境を侵す者は、いつも倭国・倭兵・倭人となります。
 おそらく伽耶が倭国の支配下に完全に入り、独立性をほとんど失ったと思われます。
その時期が、後漢が滅ぶ220年の直前です。卑弥呼の239年の魏への遣使の前であります。
 伽耶が、倭国邪馬台国の支配下に入ったのは、この212年の直ぐ後であったと思います。
『後漢書東夷伝』の「去其西北界拘邪韓國七千餘里」や、『魏志倭人伝』の「その北岸狗邪韓国に到る」の表現が、この状態を示したものだったと言えるのではないでしょうか。
 つまり、倭国邪馬台国の支配地になっていたということだと思います。
人によっては、倭は日本を指すのではないとする人がいるかもしれませんので、『新羅本紀』の408年の記録を次に上げます。
 「七年(408)春二月、王は倭人が対馬に軍営を置き、兵器や資材・食糧を貯えて、わが国を襲撃しようと準備しているとの情報をえた。〔そこで王は〕倭軍の動きだすまえに、精兵を選び敵の兵站を撃破〔したいと思った。〕舒弗邯の未斯品は、『軍隊は凶器であり、戦争は危険なことと聞いています。大海を渡って他国を討伐し、万一勝利を失うならば、悔やんでも追いつかないのです。〔それゆえ〕天嶮の地に関門を設けて、〔賊軍が〕来たならばこれを防ぎ、侵入して悪いことをしないようにさせましょう。〔わが軍にとって〕有利になれば、そこで出撃して賊軍を捕らえるのです。これがいわゆる相手を意のままにし、相手に思いどおりにさせないことで、もっともよい策略です。』と答えた。王はこの意見に従った。」
 「倭人が対馬に軍営を置き」から、倭が日本をさすことが確定しています。
このように、倭は日本であり、対馬を兵站基地にして拘邪韓國を支配し、新羅に侵攻しているのが分かります。

邪馬台国と狗奴国

邪馬台国が朝鮮半島南端の狗邪韓国を支配していたことから、すでに背後を突くほどの対抗勢力は無かったことになりますが、『魏志倭人伝』に「与狗奴国男王卑弥弓呼素不和。遣倭載斯烏越等詣郡。説相攻撃状。遣塞曹掾史張政等。因齎詔書。黄幢。拝仮難升米。為檄告喩之。」と有るように、女王卑弥呼は狗奴国の男王卑弥弓呼と対立関係にあります。
 『後漢書東夷伝』の、「自女王國東度海千餘里至拘奴國、雖皆倭種,而不屬女王」の記述の「雖皆倭種,而不屬女王」からわかることは、「皆」から狗奴国が小国の連合体であること。女王に属さないから倭種でないのではと思ったが倭種であること。倭種なのに女王に属していなことです。
 後漢の時代には、大倭王の支配する倭国の範囲に含まれず、無視された狗奴国が、『魏志倭人伝』の「女王国………其南有狗奴国。男子為王。其官有狗古智卑狗。不属女王」と、「卑弥呼の支配には属さないが、邪馬台国に属する国々と同じように、王の存在や、官名を記される国」になります。
 それだけでなく「与狗奴国男王卑弥弓呼素不和。遣倭載斯烏越等詣郡。説相攻撃状。」と、卑弥呼と戦争をしている存在になっています。
 この史料には、王の名として、「卑弥弓呼」、官の名として「狗古智卑狗」とで出来ます。
 『魏志倭人伝』で、邪馬台国と伊都国と狗奴国のみに存在する王で、名が記されているのは「邪馬台国女王卑弥呼」と「狗奴国王卑弥弓呼」だけです。
 また、同じく『魏志倭人伝』で官「卑狗」の名が記されているのは、なんと、狗奴国の「狗古智卑狗」のみなのです。
 「卑狗」は、対馬国と壱岐国の官名で出てきましたが、「名」は記されていません。
 狗奴国の強大さがわかります。
 このように、狗奴国は、王の名と、官の名が記されている特別の存在になりました。
 このような狗奴国の強大化はどうして進んだのでしょうか、考えてみます。
 後漢の時代には「其大倭王居邪馬台国」というように邪馬台国に居る大倭王に支配されながら「国皆稱王,世世傳統」とあるように、各国に王がいました。
 それが、『魏志倭人伝』では、伊都国を除いて、王が無くなり、官が支配する体制になっているのです。このように政治体制が、各国が国王を抱く王国の連合国体制から、王が官にされて、中央政府の権力が強化される体制に変わってきたのだと思います。
 このように邪馬台国の中央集権化が進む過程で、後漢の時代は倭国に含まれず、辺境の国として無視されていた狗奴国が、邪馬台国に対抗する力を持つ国として急速に強大化してきたのではないでしょうか。
それが『後漢書東夷伝』の、「自女王國東度海千餘里至拘奴國、雖皆倭種,而不屬女王」の記述と、『魏志倭人伝』の「女王国………其南有狗奴国。男子為王。其官有狗古智卑狗。不属女王」の変化になったと思われます。
 狗奴国と邪馬台国の対立は『魏志倭人伝』247年の記録に『倭女王卑弥呼与狗奴国男王卑弥弓呼素不和。遣倭載斯。烏越等詣郡。説相攻撃状。遣塞曹掾史張政等。因齎詔書。黄幢。拝仮難升米。為檄告喩之。』という記述がありますので、戦争状態にあったことは、確かなことです。この対立は何時始まったものか、考えてみます。
 まず『倭女王卑弥呼与狗奴国男王卑弥弓呼素不和』の、『素』は『素質』や『元素』などの『もと』の意味の使われかたから、『王となった時から』と考えるべきだと思います。
 つまり卑弥呼が大倭王に推戴されたときから不和であったということです。
 倭国大乱を終わらせる為、皆で女王卑弥呼を推戴したとき、狗奴国は加わらずに男王を立てた国ということです。
 このことが『後漢書東夷伝』の、『自女王國東度海千餘里至拘奴國、雖皆倭種、而不屬女王』の記述となり、後漢の時代には、大倭王の支配する倭国の範囲に含まれていなかったことが分かります。
 それだけでなく無視されていたことが分かります。無視しておける距離にあった国、そうとう離れた国ということになります。
 このことから、九州のような範囲で、すぐ側にある国と考えることは出来ないということになります。
 その拘奴國が、『魏志倭人伝』の『女王国………其南有狗奴国。男子為王。其官有狗古智卑狗。不属女王』と、卑弥呼の支配には属さないが、邪馬台国に属する国々と同じように、王の存在や、官名を記される国になります。
 そしてその官名は、女王国に属した対馬・壱岐などで単に『卑狗』とあったのに対して、狗奴国では『其官有狗古智卑狗』と名も記されるほどの国になっています。
 そしてそれだけでなく、247年の『説相攻撃状。遣塞曹掾史張政等。因齎詔書。黄幢。拝仮難升米。為檄告喩之。』とあるように、戦争状態にあるようになったのです。
 それではこの戦争は何時始まったのでしょうか。『魏志倭人伝』には書いてありませんが、それを推測できる部分があります。
 246年の『魏志倭人伝』の記述、『其六年。詔賜倭難升米黄幢。付郡仮授』とある部分です。239年の遣使によって『親魏倭王』となった卑弥呼は、なぜ『黄幢』を賜ったのでしょうか
『黄幢』とは魏の時代の皇帝の旗です。『黄幢』を賜ったということは、つまり皇帝が親魏倭王卑弥呼の側についたということです。卑弥呼は魏の皇帝の権威で、自分に属さない『狗奴国王卑弥弓呼』を従わせようと思ったのではないでしょうか。
 しかしその結果、狗奴国王卑弥弓呼は、その要求を武力をもって戦うことで答えたのです。そこで卑弥呼は、247年に『遣倭載斯。烏越等詣郡。説相攻撃状。遣塞曹掾史張政等。因齎詔書。黄幢。拝仮難升米。為檄告喩之』とあるように、狗奴国と戦争になったことを報告し、皇帝の『詔書。黄幢。檄』を貰ったのです。
 しかしこの戦争が何時終わったのかは判りません。ただ『魏志倭人伝』に『壹與遣倭大夫率善中郎将掖邪狗等二十人。送政等還』と有り、卑弥呼の跡継ぎ台与が塞曹掾史張政等を魏の都まで送ったことが判ります。この年が何年か、書いてありません。
 ただ晋書に266年、倭の女王台与が朝貢したことが書いてあります。この年を『魏志倭人伝』の『壹與遣倭大夫率善中郎将掖邪狗等二十人。送政等還』の記述の年とすると、邪馬台国と狗奴国の戦争は、246年から266年まで続いたことになります。
 卑弥呼が死んだ後、『魏志倭人伝』には『卑弥呼以死。大作冢。径百余歩。殉葬者奴碑百余人更立男王。国中不服。更相誅殺。当時殺千余人。復立卑弥呼宗女壹與年十三為王。国中遂定』とあります。
 大倭王卑弥呼の死後、後を次いだ男王に、服従しない勢力がいて、権力争いとなり、当時千余人が死ぬような争いがおこります。邪馬台国と戦争をしている狗奴国にとって、この状態は千載一遇の好機です。すぐ側に狗奴国があったら、邪馬台国を制圧出来たでしょう。
 また、跡継ぎは『復立卑弥呼宗女壹與年十三為王。国中遂定』とあるように、13歳の少女で、実績もありません。何故邪馬台国は狗奴国に制圧されなかったのでしょうか。
それは、邪馬台国と狗奴国がそうとう距離の離れた国だったということを示しています。
このように、邪馬台国と狗奴国を九州内に置くことは、『魏志倭人伝』の史料解釈上不可能と思われます。つまり邪馬台国は大和国、狗奴国は毛野国つまり関東地方にあった国と考えるのが史料考察の結果として一番妥当だと思います。
この後漢書東夷伝から魏志倭人伝の記述は、古代日本の統一過程について、大変なことを述べていることになります
 『後漢書東夷伝』の記述に、「自女王國東度海千餘里至拘奴國,雖皆倭種,而不屬女王。」「自女王國南四千餘里至朱儒國,人長三四尺。」「自朱儒東南行船一年,至裸國、黑齒國,使驛所傳,極於此矣。」とあり、狗奴国の後は伝説の朱儒國・裸國・黑齒國ですから、倭種の国は狗奴国で終わりです。 
 ですから、後漢の時代でも、狗奴国が倭人の住む地域の東の端だと言っているのです。
その上、『後漢書東夷伝』の「使驛通於漢者三十許國,」「國皆稱王,世世傳統。」「其大倭王居邪馬臺國。」と、「自女王國東度海千餘里至拘奴國。」から、大倭王である邪馬台国女王の支配地に狗奴国を加えた地域が倭国であることを認めなければなりません。
東の狗奴国に、西の邪馬台国の支配地を合わせたのが倭人の住む地域とすると、後漢の時代にはすでに狗奴国を除いた倭国が統一されていたことが分かります。
ところで、倭の中央政権が現在の新潟県と東北地方の平定に着手したのは、大化の改新の後のことです。現在の新潟県と東北地方を除く本州の東端は、関東地方の銚子の犬吠埼です。
 このことから、邪馬台国は大和国、狗奴国は関東地方を中心にまとめた国ということが出来ます。
 また、『魏志倭人伝』の「女王国東渡海千余里。復有国。皆倭種。」は、方角訂正で東を北とすると、現在の新潟県と東北地方の南部となります。もしかすると『先代旧事本紀』の「国造本紀」に出てくる、第13代成務天皇の5年の新潟と東北南部に任命された国造達の国になるのではないのでしょうか。
 魏の時代になって、後漢時代には倭に含まれなかった辺境の国の狗奴国が強大になり、『魏志倭人伝』の、「倭女王卑弥呼与狗奴国男王卑弥弓呼素不和」。「遣倭載斯。烏越等詣郡。説相攻撃状。遣塞曹掾史張政等。因齎詔書。黄幢。拝仮難升米。為檄告喩之」の記述のように、邪馬台国と戦ったことが分かります。
もしも、邪馬台国と狗奴国がともに九州にあったとしたら、『魏志倭人伝』の記述から、国と国が接していたはずですから、夜襲などの奇襲が可能になり、その戦いが長引くはずはないと思います。つまり、遠い奈良県の邪馬台国と関東の狗奴国が対立していたからこそ、長い間、相手を無視できたし、戦いが続いたということです。

侏儒国・裸國・黑齒國

 ところで伝説の侏儒国・裸國・黑齒國については、次のように推測しています。
 まず侏儒国ですが、これは、2003年にインドネシアのフローレス島で見つかった人骨から、「ホモ・フロレシエンシス」と名付けられた人類と考えられます。この人骨から、身長が1㍍程と小柄で、脳容量はチンパンジー程。しかし、石器を作り火を使っていたことも確認されました。生存は10数万年前から1万2000年前位まで、フローレス島に生息していた可能性があるとされる人類のことが中国につたわり、侏儒国伝説になったと考えています。
 次の裸国ですが、これは、ニューギニア島の裸族のことを伝え聞いたことによるものと考えています。
 そして、黒歯国は、台湾や東南アジアの住民がビンロウヤシの実をかじって歯を黒くしている風習のことからきているのではと推測しています。

家と戸

『魏志倭人伝』の人口を考えるもとになる表現は、戸数だけでなく、家数が在ります。
  『魏志韓伝』には、「韓人………居処作草屋土室、形如冢、其戸在上、挙家共在中」「弁・辰韓合二十四国、大国四五千家、小国六七百家、総四五万戸」とあります。
これで仮に計算すると、
大国+小国=24
大国数×4500+小国数×650=45000ですから、
そこで1戸=2家としますと、大国で1国4500家=2250戸となり、大国だけで19国、小国は5国ということになります。
このように考えると、戸と家の関係は、平均して、1戸は2家と考えられます。
戸と家の関係が、平均して、1戸は2家と考えられますので、それに基づいて邪馬台国関係の戸数を計算します。
奴国を除いて、戸と表現されている国の対馬国千余戸、末廬国四千余戸、伊都国千余戸、の戸数は、6千戸。1国平均は2千戸となります。
『魏志倭人伝』の末廬国は四千余戸。伊都国は千余戸。奴国は二万余戸。」の関係から、奴国の範囲はどのようになるでしょうか。「末廬国の四千余戸の5倍の二万余戸。伊都国の千余戸の20倍の二万余戸」。 奴国は九州北半の末廬国・伊都国・不弥国を除く九州のほとんどの地域を支配していたと考えられないでしょうか。
『魏志倭人伝』には、「投馬国は五万余戸」、「邪馬台国は七万余戸」とあります。
方角の訂正と一緒に考えれば、投馬国は九州の東にある五万戸の国。邪馬台国は、さらに投馬国の東にある七万戸の国です。ここからも、邪馬台国は大和国と言えると思います。 『魏志倭人伝』には、「大人皆四五婦、下戸或いは二三婦」とあり、下戸の中にも2・3婦をもっている場合があります。その平均の複数の妻達と、その子達で構成される戸は、何人くらいで構成されていたのでしょうか。
 いろいろな国や、澤田吾一氏の「奈良朝時代民政経済の数的研究」から、複数の妻達と、その子達で構成される家族数の例を調べてみますと。妻が2.3人の場合は1家族十数人となる例が多いようです。
1戸平均10人位とすると、邪馬台国関係の8国の、総戸数は14万8000戸。1戸10人とすると148万人。余旁の国は21カ国×1国平均2000戸=4万2千戸=42万人としてとして、邪馬台国関係人口190万人となります。
ところで、日本の人口の推移ですが、大体の人口は、500年頃、500万人。700年頃、600万人。
 とすると、陳寿(233~297)の編纂した『魏志倭人伝』の記述された3世紀後半頃の日本の人口はどの位でしょうか。
 邪馬台国関係人口190万人に、狗奴国の戸数・人口と、国をつくっていない地域の人口をあわせて推測したら、300万人位を考えてよいと思います。
ところで「奈良朝時代民政経済の数的研究」という、澤田吾一氏の本の中に,「諸国の郷別人口附、諸国人口表・郷数表・田積表」という一節があり、8世紀の中頃の諸国の人口を推定して表にしています。
 これによると、賤民などをのぞいた人口は、九州で 約70万人。
 ところで、『魏志倭人伝』の戸数と人口の推測は、1戸10人として、九州地方の対馬・壱岐・末廬・伊都・奴・不弥国で28,000戸で、280,000人となります。
もし、邪馬台国九州説をとれば、狗奴国まで九州になります。すると邪馬台国関係人口190万人+狗奴国人口は、なんと500年後の奈良時代の九州地方の人口約70万人の3倍以上となってしまいます。このような時代を逆転させる説は成り立ちませんので、邪馬台国九州説はあり得ないと思います


以上は平成20年8月に出版した『邪馬台国は大和国』と
平成26年9月に出版した『改訂新版 邪馬台国は大和国』の要点を説明したものです。

					最終更新 平成27年7月20日