『なぜ魏使は網野に上陸したのか?』

						技術士(経営工学部門) 日本考古学協会会員 住谷善愼

はじめに

 「魏志倭人伝」に以下のように記される事績がある。「正始元年、太守弓遵、建中校尉梯儁等を遣わし、詔書・印綬を奉じて倭国に詣り、倭王に拝仮し、ならびに詔を齎し、金帛・錦罽・刀・鏡・采物を賜う。倭王、使いに因って上表し、詔恩を登謝す」
 実はこの正始元年の前の景初2年6月に倭の女王卑弥呼が派遣した外交使節である大夫難升米たちが同年12月には無事、魏の都の洛陽に到着している。
 そして倭国朝貢の使命をはたすに伴って、今度は魏国が梯儁なる人物を難升米の帰国に同行させて派遣した。梯儁は皇帝の明確な使命を帯びて「親魏倭王」なる詔書と金印などを携行して倭国の邪馬台国に詣り、卑弥呼に謁見し、結果、皇帝の使命をはたしたのである。

1.「魏志倭人伝」から読取る魏使の行程

 ここで、世上「邪馬台国所在論争」として九州に所在する不禰国を一行が出発した後の行程が大きな課題となっている。「南、投馬国に至る水行二十日」、さらに、「南、邪馬台国に至る、女王の都するところ、水行十日陸行一月」と記される。
 筆者は、この一行の行程を魏志倭人伝が記す約2千文字中の「次」と「或」の2文字に着目し、不禰国⇒水行二十日⇒投馬国(現在の島根県雲南市加茂町神原に所在する神原神社古墳周辺)⇒水行十日⇒網野(離湖)[現在の京都府京丹後市]に上陸⇒陸行一月(この一月をかけて「其余旁国二十一」を斯馬国から奴国まで一つながりに行程した)⇒邪馬台国(奈良県・田原本の唐古・鍵遺跡)に入ったものとする。即ち、九州の遠賀川河口から響灘へ出たのち、瀬戸内海ルートではなく日本海ルートを行程したとする。(詳細は参考文献①参照)
 しかるに、日本海ルート説は他にも大正時代に笠井新也が投馬国を出雲に比定し上陸地点を若狭の敦賀とする説を打出している。しかし、上陸地以降の具体的な行程記述が入手できないので、なぜ敦賀なのか、あるいは、どのようなルートで大和のどこに入ったとするのか詳細は筆者には不明である。
 以下、「なぜ網野なのか?」について筆者の論を展開する。

2.移動にかかわる思考実験

まず、頭ならしのために簡単な思考実験にお付き合いいただきたい。
  図1に示すように歩くに何ら支障のない平地の◎地点にA氏(あなたでも構わない)がいる。そこから歩いて“お宝; お宝  “を取りに行って(無論、卑弥呼に会いにいくことでも構わない)、また元の位置◎に戻ってくるとする。往復は普通に歩くことだけとすると、A氏はどんなルートで行き帰りをすれば、時間的に無駄のない効率的(経済的)な最短移動となるだろうか?
 図1:
 図1

なぜ、そのルートをとったのだろうか?
 2つの地点を直線で結んだルートが時間的に最短となるからである。蛇足だが、この場合は時間だけでなく、距離も最短である。
 それでは、次のような場合はどうだろうか? つまり、図2に示すように、最初は走るエリアがあり、境界を超えると歩くエリアの2種類の速さの異なる移動手段がある場合である。当然、走る方が歩くより、数倍くらいは速いものとする。

 図2

 さて、この場合の効率的、即ち、時間を無駄にしない最短移動はどんなルートだろうか? 図1と同じだろうか? 結果は、図1と図2のルートは明らかに違っている。
 図2の場合の時間的最短ルートは、平たく言えば次のことである。目標(お宝のある場所)に対して極力早い移動手段をできるだけ長く直線的に使って移動する。つまり、近づけるぎりぎりまでは高速で移動する。そして、移動手段を低速に変えざるを得ない境界線上の地点YやXやZからは目標に向かった最短距離をとるようなルート、つまり、移動時間が短くなるような直線ルートが一番効率良いといえる。つまり、境界上の地点からお宝方向が直角となるような地点Xを経由するルートがベストチョイスなのである。なぜ直角かは自明であろう。
 境界上とはいえ地点Yでは時間的ロスを生じるし、逆に、地点Zからお宝へ向かっても同様である。(蛇足ではあるが、走る速さが歩く速さの何倍も速ければ、このルートを取る効用もそれだけ大きい。逆に、走る速さ=歩く速さであれば意味をなさない。図1になってしまう)。
 このことは現代人にとっても例えば、遠方の海外に出張する時などにあてはまる。少なくとも目的地の極力近くまでは経済的に、時間的に効率よく、安全な移動手段、例えば飛行機を使い空港から先は列車や車などに切替えることと同じであろう。このようにあまり余計な労力をかけずに効率よく移動する合理的な手段をとることは往古からの人間がとる行動原理から生まれた智恵なのである。
 それでは、実体である現実の日本海ルートを取った場合の海象、水行速さ、地理地形、陸行速さなどの様相はどうであろうか?

3.日本海ルートの合理性

 今、仮に、あなたが西暦240年に来倭した魏使建中校尉梯儁だとしよう。倭人の帰国に同行しているとはいえ、皇帝からの重要な使命を帯びている。とすれば、少なくとも邪馬台国女王に謁見するまでは多少の行程日数が延びたとしても、安全確実なルートを取るであろう。そのルートを探ることが本章の主題である。
 それは不禰国から水行二十日で投馬国(加茂の神原神社あたり)に至り、ここから邪馬台国(大和の田原本)へは水行十日さらに陸行1月の行程である。
 ここで以下の前提を置く。

①水行の速さ:
 拙案によると出雲(投馬国)から網野まで約230kmとなり、これを10日で航海したので、23km/日となる。1日に日中の8hrを航海したとすると2.9km/hrである。(ちなみに、日本海側の沿岸部を北上する対馬暖流の流速は1.9~2.8km/hrといわれる。太平洋側の黒潮の流速は3.7~5.6km/hrであり、その表面流速はさらに速くて7.2km/hrという)。

②陸行の速さ:
 拙案によると網野~田原本間238kmなので、238km/30日=8km/日である。
 ここで、上記の①と②の速さを比較すると、水行23km/日、陸行8km/日となり、水行速さが陸行速さの2.9倍となることがわかる。ザックリ3倍である。当時の移動手段を考慮すると海流に乗った舟を使う移動手段が順流であれば最もはやく、夏場の対馬暖流の流れは安全といえる。
 つまり、不禰国からできるだけ邪馬台国に近い上陸地点までは舟を漕ぎ、その上陸地点からは歩くことが、異なる2つの移動手段を組合せた場合の最も時間的に効率の良い手段と言える。(魏使といえども官人である以上、出張の公費旅費支給を受け、経済的な縛りのうえで移動したことは想像に難くない。つまり、不禰国から大和まで山陽道を使えば陸行でも行けなくもないが、金も時間もかかるということである。)
 以上の話の枕を頭に入れて、この最適な上陸地点Xを求めよう。そのためには下記に示す具体的な3地点の検討を進めて距離的なイメージを掴んでおくことがポイントである。

4.具体的な上陸地点3案のルート比較

 この陸行比較に使った数値はカシミール3Dや2地点間歩行距離算出プログラム(chireki.com)などをベースにしているが、ここでは筆者が端数処理をした概数であること、また、選定したルートも全てが厳密な同一条件のもとでのルートではないことに留意いただきたい。

(1)敦賀ルート:
 笠井説によると敦賀上陸以降は琵琶湖の東側を行程したとする。なお、正史『日本書紀』には垂仁紀、仲哀紀、神功皇后紀、応神紀などに若狭、角鹿(つぬが。現在の敦賀)などの地名が記され、古くから大陸や半島との通交拠点の一つとされている。
 具体的なルート上の経由地や大和での目的地(到着地点)は1本の線の図示だけなので詳細は不明だと記憶する。従って、現状では笠井説のルートを正確に辿って距離数を出すことはできない。そこで筆者独自の算定ベースでの数値であることをお断りする。
 まず、網野から敦賀にいたるのは若狭湾にザックリと沿う水行ルート(地文航法)と若狭湾に沿う現状道路を歩いて通交可能な最短に近い陸行ルートが想定できる。前者は180kmである。これは前述の水行速さ23km/日とすると所要日数は8日となる。
 一方、陸行は網野→宮津→舞鶴→高浜→小浜→若狭→敦賀で最短に近い距離は135kmである。陸行速さ8km/日とすると所要日数は17日となる。
 さらに敦賀から琵琶湖の東側を行程して大和の田原本にはいるものとしよう。敦賀→長浜→彦根→近江八幡→守山→草津→田原本で最短に近い距離は160kmである。所要日数は20日となる。
 まとめると、網野→敦賀→田原本については下記に示すこととなる。

①「水行+陸行」の場合;
・距離数;180+160=340(km)
・日数;8+20=28(日)

②「陸行+陸行」の場合;
・距離数;135+160=295(km)
・日数;17+20=37(日)
 この結果より、効率的なルートを選ぶとすれば、距離は長くなるが日数が短い①「水行+陸行」をとることが合理的である。②をあえてとることはない。
 なお、参考までに、敦賀→琵琶湖の西側→大津→田原本だと141km。また、小浜→「鯖街道」(京は遠ても十八里といわれる)→田原本だと129kmである。

(2)網野ルート(拙案);
 網野(離湖)から田原本までは水行はなく、陸行のみである。拙案では「其余旁国二十一」に記す最初の斯馬国から次々と順番に最後の奴国まで行程するルートをとるため最短距離ではない238kmである。
 このルートを魏使一行は1月かけたのである。(具体的なルートは拙著『邪馬台国へ詣る道』2009年1月 文芸社刊)を参照されたい)
 ちなみに、最短に近い距離は網野→京丹後→与謝峠→福知山→南丹→亀岡→長岡京→八幡→京田辺→奈良→田原本で178kmである。

(3)久美浜ルート説
 残念なことに敦賀上陸説同様に久美浜ルート説も、湾に上陸して以降の具体的な行程についての詳細は不明な点が多い。
 地図を拡げて見ると、久美浜湾から田原本に至るには当然、経由地によって距離は変わる。まず、最短に近いルートを求めて見よう。
 久美浜→福知山→南丹→亀岡→田原本は178kmである。ちなみに、このルートは網野→福知山→南丹→亀岡→田原本と同じ178kmである。つまり、久美浜→福知山間52.4kmと網野→与謝峠→福知山間52.3kmなので、ほとんど同距離といえる。久美浜湾からどのルートをとったとするのだろうか?
 他方、日本で一番低い分水界がある石生を経由して加古川に至る説もあるという。とすれば、仮に、久美浜→豊岡→養父→朝来→石生までが75km。さらに、石生→西脇→加古川までが57km。合計して132kmとなる。その先、加古川から水行とすれば瀬戸内海の難所明石海峡を乗りきって淀川河口(難波津)となろう。淀川を遡り、どこからか大和に入ることになる。
 あるいは、山陽道や西国道を使って加古川→明石→尼崎→大阪→八尾→田原本は108kmである。また、石生→篠山口→三田→宝塚→梅田→八尾→河内国分→田原本は119kmである。
 まとめると久美浜湾から石生まで75km。この石生から加古川まで56km、加古川から田原本まで108km、結果、久美浜から田原本まで合計239km。
 筆者には石生の標高95mという低さのメリットは理解できるが、加古川に至るメリットがよくつかめない。加古川から先は陸行を、あるいは、水行をとるにしても、結果、網野→田原本間を魏使一行が行程したとする陸行距離238kmとさほど変わらないか、むしろ長くなると思われる。
 ましてや、加古川から水行をとった場合、明石海峡を通過するというリスクを考えると、加古川~淀川河口までの比較的短い70km程度の距離の割には途中で大きなリスクを冒すことになろうかと思われる。

5.敦賀ルートと網野ルートの地理上での比較
 出雲、丹後半島や網野近辺の地形を模式的に図3に示す。(図2の直線的海岸線ではなくて途中の1ヵ所で折れ曲がっていることに留意のこと。)
図3

 図3


 ここで、◎は出発地点、△は上陸地点Y、○は上陸地点X、□は上陸地点Z、 目的地 は目的地を表す。また、○地点と 目的地 目的地を結ぶ直線は丹後半島西側の海岸線と直角に交わるとする。つまり、この2点間は距離的に最短となる。 
 さて、この場合、出雲から目的地に至るあなたが選ぶ「水行+陸行」を組合せた2種類の異なる移動手段の効率的なルートはどのようなものになるだろうか?
 つまり、上陸地点として最適な地点はどこだろうか? Y? X? それともZ?
 答えは言をまたないであろう。○で示す上陸地点Xである。
 平たく言えば、Yでは早すぎ、Zでは行き過ぎ、Xが最適ということである。

6.結果

(1)比較表のまとめ
上述の(1)敦賀ルートと(2)網野ルートの比較表をまとめる。
表1.総括比較表
 ルート   水行   陸行  合計
敦賀    180km 160km 340km
       8日   20日   28日
網野     0km 178km 178km
0日   22日   22日

(2)結論
 網野上陸が敦賀上陸に比較して所要日数、距離共に短いので有利である、と言える。つまり、魏使一行は網野に上陸した可能性がきわめて高いと言える。
 なお、参考までに、他のルートについての諸データも記す。いずれも水行は無い。ただし、ルートや距離数はあくまで筆者が決めたものであり、先学諸説が提示するものではないことをおことわりする。
①敦賀→琵琶湖西側→大津→田原本
距離;141km  日数;18日
②小浜→鯖街道→京都→田原本
距離;129km 日数;16日
③久美浜→福知山→以降、4.(2)と同じ
距離;178km  日数;22日
④久美浜→石生→加古川→田原本
距離;240km 日数;30日
⑤久美浜→石生→田原本
距離;195km  日数;24日

おわりに


 魏使一行は日本海水行ルートをとったと結論したものの「なぜ網野に上陸したのか?」という素朴な問題を理工学の観点から解決したいと思い念じたのが、拙著『邪馬台国へ詣る道』(2009年1月 文芸社)を刊行した直後であった。チクチクと頭を刺激する悩ましい課題ではあった。
 それにしても、先学の提示する敦賀でもなく、久美浜でもなく、なぜ網野か? 網野(離湖)は丹後半島の西側沿岸部に所在し、「魏志倭人伝」にはいわゆる国名としては記述されてはいない。「其余旁国二十一」の最初の国は斯馬国、即ち、現在の丹後半島の吉原(峰山町)に比定した。
 とはいえ、素朴な疑問を残したまま、依然としてモヤッとした霧の中にいるような状態であった。早い話が、日本海の潟湖はなにも網野(離湖)だけでない、の一言だ。
 西から湖山池、多鯰ケ池、久美浜湾、阿蘇海、三方湖、北潟湖、柴山潟、木場潟など、潟湖だったらしきものや消滅したものも含めるとかなりの数になる。
 再言すると、地理的に網野とする合理的な解決法と解を見つけることであった。
 本稿の主眼は邪馬台国時代の魏使一行の邪馬台国へ至る移動手段を高速の水行と低速の陸行の2種類の異なる速さの組合せにある。皇帝の明確な使命を帯びた魏の官人の行動とすれば、どんな原理原則が合理的か?たった1種類だと組合す余地もない。2種類の異なる場合の長距離移動はどうか? この問題設定をし、解決すべく合理的な前提を置きロジスティクス エンジニアリングという理工系の知見を使った。
 こうした技術者の視点から古代史上の課題を解決するアプローチは一般にはほとんどなじみがないと思われるが、実体の上に立つ解決の論理、方法にきわめて有効であることは言をまたない。

 筆者にとっては第1番目の斯馬国比定もさることながら、長年の課題であった上陸地点網野に強靭なアンカーを打込むことができたものとひそかに自負している。
 近い将来、拙案に限らず別の専門技術的な視点による合理的な基盤に立つ骨太な説が古代史の謎の多い未知の世界を切り開くことを期待するところ大である。


 以上の考察より得た結果を以下に示す。

1)敦賀ルートが陸行だけであれば、確かに網野ルートよりは短くなる。しかし、同等に比較するためには、前者は現代の道路をベースにした最短に近い数値であり、後者の網野ルートは最短とはいえないものの魏使一行が行程したと比定する距離数であることを認識しておかねばならない。
そこで、前者には何らかの補正をする必要があろう。つまり、前者の距離数がさらに増大する可能性がある。とすれば、陸行についても、距離数の増加分に応じた日数が加算されるべきである。さらには、同等に比較するためには、実際には網野から敦賀へ至る水行距離を加算する必要がある。こうした条件を同一にしたうえでの比較が本来ならば必要であるが、前述の理由により本稿ではできなかった。
 ちなみに、最短に近い距離は再言すると網野→京丹後→与謝峠→福知山→南丹→亀岡→長岡京→八幡→京田辺→奈良→田原本で178kmである。 

2)若狭湾周辺からの陸行のみを考慮するならば、おそらく、小浜に上陸し、「鯖街道」を使い田原本に至るルートが最短距離であろう。最短に近い距離は129kmである。

3)他の要因を考慮するならば、まず、海象のうち、海流があげられる。丹後半島の先端の経ケ岬を西から東に超えて若狭湾内に入る場合、冬季は日本海全域にわたり荒れ狂う強風波浪でとても安全な航海はできない。天候の安定した夏季といえども、湾内の表面流は湾内海底の地形によっては複雑なものとなろう。
 従って、竜骨のない刳抜き舟(丸木舟)あるいは筏舟では操船が非常に難しいと思われる。つまり、夏場といえども湾内でのリスクを冒してまで、敦賀に上陸して陸行日数を短縮するメリットがないと考えられる。

4)単に、距離的・時間的に敦賀ルートより短いルートを取るとすれば上述した小浜ルートであろう。しかし、「魏志倭人伝」に記す情報を多面的かつ合理的に検討すると拙案に比定する網野ルートとなる。
筆者は「魏志倭人伝」に卑弥呼が統治する邪馬台国と抗争していたと記す狗奴国を琵琶湖の東側に位置する現在の滋賀県愛荘町蚊野に比定している。つまり、この敦賀ルート沿線は全線ではなくとも、琵琶湖周域は狗奴国支配下にあったと考えられる。
 とすると、大和から何とか日本海沿岸に出て半島や大陸を目指す邪馬台国の立場は、必然的に琵琶湖の出口である大津周辺域は、琵琶湖の西側領域も含めて避けるべき危険領域であったと考えられる。
以上、理工系の観点から上陸地点に関する有益な結果を得たが、いずれにせよ、どこに上陸してどのようなルートを取ろうとも、その1本の道の上に「其余旁国二十一」が順番に連続した一つながりで所在していなければばらない。投馬国を水行して上陸地点Xで陸行に切替えて、最初の国が斯馬国である。そして、いよいよ最後の21番目である奴国の次は隣接する最終目的地の邪馬台国であることは言をまたない。(「其余旁国二十一」の各国の頭に付いている「次有」の「次」は「十二次」や「東海道五十三次」の「次」の意味合いと同じである)。

5)拙案では往路も難升米を筆頭とする卑弥呼の遣魏使一行が邪馬台国(大和の田原本、唐古・鍵遺跡)から丹後半島の網野に向けて陸行し、ここで水行に切替えて次の中継地である投馬国(出雲)に航海したとする。
この陸行往還ルートは昨日今日に急に使われ始めた日の浅いルートではなくて、おそらくは何十年にもわたって倭国の内陸部に所在する邪馬台国が海外の半島や大陸と通交するに必要だった日本海沿岸の重要港(窓口)への幹線ルートだったと言える。
なぜなら、当面の東から西への日本海沿岸を航海する水行の目的地である出雲へ至る陸行の当時なりの最短ルートを知っていたと言えるからである。平たく言えば、最適な乗換え地点である網野を早くから見出し、通い慣れた道だったと言える。
当然、通い慣れるためには様々なルートを試行錯誤的に使い、おそらく何十年にもわたる経験で得た知見から徐々に絞り込まれて、整備・運用されてきたと想像できる。
念のために、手元の地図上で網野を起点として丹後半島西海岸線に直角のラインを1本ひいてみよう。奈良の田原本がライン上にきれいに乗ることに気付くであろう。これを偶然といえるだろうか? 古代人の智恵の深さに敬服するのみである。

5)不禰国以降の魏使一行がとった水行が瀬戸内海ルートか日本海ルートかという問題については以下のように判断した。筆者はどちらのルートが安全で合理的なのだろうかという観点から、気象条件が同じとして、その違いの一つを海象の潮の干満差に求めた。
結果、通説では穏やかな瀬戸内海とする説が多いと見受けられるが、日本海の方が干満差25cm前後で瀬戸内海の250cm前後よりもはるかに小さいことがわかったので日本海ルートの方が安全で合理的とした。この干満差が瀬戸内海の急激な潮流変化(4回/日)や渦をもたらすことはいうまでもない。
また、後世の4世紀後半から5世紀に、半島・大陸との通交が頻繁になり、造船・航海術も進歩して従来の丸木舟ではなく、竜骨を持つ構造船(あるいは半構造船)が出現すると瀬戸内海横断約450kmを航海可能となった。結果、倭王権はそれまでの日本海水行ルート&網野陸行ルートを捨て、瀬戸内海ルート重視に切替えるのである。
 このことは、移動手段として高速の船で極力、倭王権が所在する大和まで近づき、上陸以降の低速となる歩行(あるいは馬行か?)を組合せることによって距離的にも時間的にも短縮化できるという効率的なモーダルシフトが完成したことによる。
こうした変化は中央王権の政体ばかりでなく、地方の経済圏にも大きな変動・浮沈をもたらしたであろう。出雲・丹後の衰退、あるいは吉備の隆勢が伝承として「記紀」あるいは風土記などに何がしかの痕跡をとどめているのかもしれない。
さらには安全で大量に頻繁に(無論、当時としては)人と物を搬送可能なインフラが完成することによって5世紀の倭王権は絶頂をむかえることになるのである。その象徴が拙案で反正を被葬者とする誉田御廟山、允恭を被葬者とする大山であり、その大王のバックには葛城襲津彦が権勢を誇っていたのである(「倭の七王」による大王墓比定の詳細に関しては別稿を参照)。

7)敦賀上陸の場合、網野から丹後半島西側に沿って経ケ岬まで航海し、この岬から前方に所在する立石岬を目標に直線で進捗し、ここから南下すれば敦賀にいたる、という最短コースが考えられる。とすると、距離は105kmである。
しかし、経ケ岬からダイレクトに立石岬を島当てにはできない。視認距離範囲にないからである。へたに漕ぎだすと若狭湾内といえどもいつしか目標を失い、複雑な湾内流に妨害され、ついには日本海という広大な灘に放流されてしまうかもしれない。
ちなみに、立石岬の標高を150m、舟上での目の高さを1mとすると、視認距離は50kmと求まる。経ケ岬からまっすぐに立石岬を目標に進捗したとしても、目標の50km手前からやっとその頂が水平線にチョッピリ顔を出し始めるのがわかる、とうことである。これはそもそも、経ケ岬を出発するに際して、立石岬を目標には取れないことを意味する。
なあに、磁石の1個もあれば方位がわかるから大丈夫、まかせなさい!本当ですか? 地表は動かないが海表は動きますよ。近場では「動く歩道」で体験できる。

8)日本で一番低い分水界がある石生を経由したとしても、石生→西脇→加古川までが57kmとするルートとは別に、石生→篠山口→三田→宝塚→梅田→八尾→河内国分→田原本を目指す119kmという行程も可能性として残る。
それにしても、なぜ加古川経由なのだろうか? 加古川で、また水行に切替え約70kmを難波まで至るとしても、前述したようにモーダルシフト的なメリットを生み出すのだろうか? これはどう合理的に判断できるのだろうか? 実体としての様相をご存知の方がいらっしゃればぜひご教示いただきたい。

9)「魏志倭人伝」に記す行程から出雲から網野間での日本海沿岸航行(地文)の速さは23km/日となる。日中しか安全航海はできないことより8hr/日の航海とすると、23/8=2.9km/hrとなる。
一方、対馬暖流の流速は1.9~2.8km/hrといわれる。つまり、順流で荷が軽い場合の帰路は舟を漕ぐ必要がないほどに、あるいは、少し漕ぐ程度でうまく海流に乗ることができたことがわかる。
しかし、逆流となる往路の場合は少なくとも、対馬暖流の流速以上に、例えば、流れに逆らって2倍、3倍くらいの速さでないと進捗できないことは自明であろう。ちなみに、ボート競技のエイト艇は20km/hr以上の速さを漕ぎ、マラソン選手と同じくらいの速さと言われる。

10)網野には丹後3大前方後円墳の1つである網野銚子山古墳(全長198m、後円部直径115m、同高さ16m)が所在する。邪馬台国の時代はおそらく現在の離湖の4倍程度は大きかったであろうから汽水湖岸近くに立地していたと想定させる。そして、ここ網野が大和(田原本)を結ぶ幹線道路のターミナルであった期間は出雲から水行で網野に来航する舟のランドマークとなったであろう。
さらに、この前方後円墳の軸方向(前方部を北東に向ける)を見るならば、上陸後の次の斯馬国への足を向けるべく方向を指し示しているようにも見える。つまり「南」方向である。無論、真上から見ることはできないが、側面からは長手方向、後円部の頂きのシルエットをはっきりと目にすることができたであろう。

11)魏使一行が本稿で述べたようなモーダルシフトを経験上知って行動したとすれば「魏志倭人伝」に記す「水行十日陸行一月」の「月」を敢えて「日」に読み変える必要もない。また、九州に限らず、どこかに上陸して陸行1日で邪馬台国に至るとする行程は無理筋といえる。邪馬台国は陸行1日で行けるほど海岸近くに所在するわけではないのである。

12)網野に上陸して「其余旁国二十一」と記される斯馬国を皮切りにこれらの国々を順次経由して最後の二十一番目の奴国、そして最終目的地であり、隣接する邪馬台国(現在の唐古・鍵遺跡)に陸行1月をかけたのである。
従って、これら「其余旁国二十一」国を吟味すれば、従来、定説的に『漢書』地理志にいう「分かれて百余国をなしていた」のが、「魏志倭人伝」に記す「三十国」に変化したのは倭の国々の統合が進んだ結果といわれるがそうではないこと。また、邪馬台国連合という概念もよくいわれるが、どうも連合と呼ばれるほどの形態ではないことなどに気がつく。これら30国の内、狗奴国を除く29国は240年、魏使一行が皇帝からの詔書や品々を「親魏倭王」卑弥呼に下賜するために倭国を旅程した時の訪問国(通過地あるいは宿泊地)を列記したものといえる。

謝辞

本稿での2地点間の歩行距離数・ルートについては「chireki.com」を活用させていただいた。優れ物に感謝します。

参考文献

①住谷善愼2009『邪馬台国へ詣る道』文芸社
②住谷善愼「魏志倭人伝を読み解く」香川県技術士会会誌 Vol.14, Oct.2010
③住谷善愼2012「魏志倭人伝の里数を技術する」『論考 邪馬台国&ヤマト王権』奈良の古代文化研究会編 青垣出版
④住谷善愼2014『倭の七王からみた大王墓比定試論』第3版 私家版

					最終更新 平成27年7月1日