『加耶の変遷から見た倭国の統一』

												米田 喜彦


<目次>

 第一章:加耶連合国家の誕生とその変遷  第二章:帥升の存在  第三章:饒速日尊の東征  第四章:血縁関係から見た『卑弥呼』  第五章:倭国大乱と邪馬台国  第六章:おわりに(「天孫降臨」外伝ほか)

第一章:加耶連合国家の誕生とその変遷

  加耶は、AD42年に、首露王が生まれた事で6加耶が出来たそうです。  生まれたばかりの赤ん坊が国を治められるはずはありません。  そこで、「6加耶」の中から、「駕洛」と 「大加耶」の国主を見ますと、  加耶世主正見母主とあります。さらに、「大加耶」を見ますと、  「大加耶」の国主は、「加耶女君」が続いています。そうすると、  6加耶というのは、ひとつの女国と5つの異父同母兄弟達の国だと見えてきます。  このパターンは、どこかに書いてありました。高句麗伝は、5族ですが、  「大加耶(女国)」を「絶奴部」とすると、AD42年の加耶連合そのものが、  高句麗の実体に見えてきます。さて、そこで、各部族を(三国史記から)調べてみます。  まず、①金氏です。帯素の従兄弟が掾那部にいます。朱蒙は、②羽(于)氏です。  脱解王も于氏です。赫居世は、③朴氏です。あと、④解氏もいます。  「絶奴部」を⑤とすると、五族になりますが、6番目を探すとすると、  6番目は、許氏になるかも知れません。   紀元37年に、楽浪〔国〕が滅んでいます。  楽浪王の崔理は、(于氏)朱蒙の子で、百済の始祖の温祚王です。  高句麗が、楽浪王を滅ぼしていますが、要は、高句麗が南下してきて、  5族か6族で、小国家の連邦を作ったという事のようです。  高句麗は、朱蒙の子(瑠璃明王)の子孫になりますが、実質的には、  解氏が中心だったようです。  次は、駕洛(金官加耶)を見ていきます。駕洛は、金海のことだろうと思います。  そうすると、金官加耶と狗邪韓国は、ダブってしまいます。  そこで、次のように考えました。   ①AD42年、首露王が生まれた。(金官加耶)   ②居登王(金氏・金官加耶)    ○(複数)不明    ○助賁王(解氏・狗邪韓国)(:230~)    ○味鄒王(金氏・金官加耶)(:262~)    ○天日槍の弟(金氏・金官加耶)  三国史記・列伝・金庾信を勝手に解釈すると、金庾信は、   ①首露王の男系子孫ですが、居登王ではなく、居登王の弟で王妃の姓を名乗った、    許婁葛文王の子孫になります。ですから、味鄒王か「天日槍の弟」の9世の孫が    金仇亥で、12世の孫が金庾信だろうと、推測しています。  もう一度、駕洛(金海)の話にもどりますが、「狗邪韓国」を、「解氏」の国だと  すると、金氏がやって来る前の半島南部は、「解氏」が治めていたと考えられます。  後漢書夫余国伝に出てくる「狗加」に相当します。ですから、「狗奴国」は、  「狗加」の支配している「奴国」になります。つまり、西日本全体  (つまり、銅鐸文化圏以外の銅剣文化圏)は、「解氏」による「狗奴国」であったこと  が想像されます。そして、AD42年に加耶連合(女王国)が出来た時に、九州北部も、  加耶連合(女王国)の一部になったのではないかと、推測するわけです。そう考えると、  狗奴国が、女王国の東にあったり(後漢書倭伝)、女王国の南にあったり、(魏書倭人伝)  という謎が解けます。  ここで、各部族(族長)の流れを、ウィキペディアや三国史記などから調べてみます。  ①金氏は、帯素の従兄弟が玄菟郡の掾那部に属しています。夫余王の帯素が   亡くなった後も、金氏として、生き残っていたようです。  ②羽(于)氏です。朱蒙は、もしかすると、許氏かもしれません。紀元前1世紀に、突然   現れて、馬韓地方を治めていきます。また、隋の時代の宇文 化及(うぶん かきゅう)   は、隋末の混乱期に独立して皇帝を僭称し、「許」を建国していることから、   「宇文氏」も、「羽(于)氏」=「宇文氏」=「許氏」ではないかと、推測しています。  ③朴氏です。赫居世(BC69頃生)もと倭人で半島にやって来た。(朴氏・瓢公)   ここで、「蘇」について、少し書きます。  ※伯孫の 29世孫慶は新羅真徳女王の時、最高官職である上大等となった。  この時代、新羅の王族には、金氏と朴氏しかいませんので、この「蘇氏」は、「朴氏」の  可能性が高いです。もちろん、小野妹子(蘇因高)も、「蘇我」も、「蘇」の一族と  考えられます「神統譜・中臣氏」によると、「天御中主神」を初代(1代目)とすると、  30代目は、「藤原鎌足(614年生)」になります。ですので  伯孫の 29世孫「慶」は、「藤原鎌足」又は、「鎌足の父」の可能性が考えられます。  ※BC209 年豊の 69世孫蘇伯孫が辰韓を建国したと言う。  「不死の妙薬を求めて紀元前219年に出航した徐福の船は‥‥。」  BC209年だと「蘇伯孫」は、徐福の船に、乗っていた可能性が高いと思います。  徐福は方士ですから、徐福の一行の中には、国を建てて、王になった人たちもいたと  思われます。ここからは、私の想像ですが、赫居世は、「もと倭人」ですから、  「朴氏」は、「解氏」の「狗」と一緒に、西日本の銅剣文化圏と、  半島南部に広く住んでいたと考えられます。  ※次に多婆那国の話をします。  新羅の脱解王は、多婆那国で生まれています。この多婆那国は、丹波のことだろうと  考えています。そうすると、この羽(于)氏は、近畿東海の銅鐸文化圏を  支配していた一族だろうと考えられます。ネットで調べてみると、金氏許婁葛文王は、  多婆那国の女の人と結婚して、男と女の双子が136年頃に生まれています。  男子は又日(明臨答夫)で、掾那部で玄菟郡の皂衣になっています。また、初代の  国相でもあります。女子の又韓は、150年代に、『初代卑弥呼』を生んでいます。  この『初代卑弥呼』は、独身で、234年に亡くなっています。初代の卑弥呼が、  どこで亡くなったのかは不明ですが、豊前風土記に出てくる、  豊前国の宮処の郡ではないか、と、想像しています。  PS:新羅の脱解王は、即位の年が57年で、年は、62歳になっています。これでは、  BC5年生になってしまいます。そこで、次のように独自に解釈をしました。  ・脱解王の祖母(BC5年生・世主女君)  ・脱解王の父(AD10年頃生)  ・脱解王の母(AD33年生・夫余人)  ・脱解王(AD57年頃生・多婆那国で誕生)  Q:三国史記は、成立年代も遅く、間違いが多いので、   古代史の史料としては使えないのではないか?  A:三国史記は、建前としては、国の歴史になっていますが、実際には、   7世紀頃の王族の先祖の歴史です。栄枯盛衰の中で、7世紀まで生き残ってきた   先祖たちの歴史として見ると、案外正確なことが見えてきます。新羅も高句麗も、   「加耶女君」を「絶奴部」とすると、5(6)族の族長の誰かが、それぞれの国の   王になって(割り当てられて)いる事が見えてきます。三国史記のトリックは、   母または、祖母を世主(女君・太后)として、即位の時の年齢は、彼女達の年齢を   使うことがよく見られます。また、別の処では、王の即位の年が、実は生まれた年で   あるようなトリックも使っています。   三つ目のトリックは、縦系図の時に、母系(女系)でつないでいる時に、例えば、  ①朴氏男─②朴氏女─③金氏女─④朴氏男_と、系図があった時に、(金氏を抜いて)  ①朴氏男─②朴氏女─④朴氏男______のように、平気で表記をしていることが  ありそうなのです。これをされると、系図的には1・2世代抜けた系図が出来上がります。  系図を書いていると、世代が抜けていて困ったことがよくありました。  四つ目のトリックは5世紀以降の百済の王の大半は、男王ではなくて、女王だった事です。  時には、女王の王配が王になっていることもあります。  五つ目は、高句麗本紀で、王の名前に「川」が付いている王は、「女王」でした。  そして、高句麗の女王の夫は、新羅の王だったりします。  このように、三国史記を史料として使うためには、年代や続柄の見直し作業が必要に  なります。では、三国史記と日本書紀とでは、どちらが正確でしょうか。  今まで、10年以上系図を書き(直し)続けてきた経験からいいますと、三国史記の方が  かなり正確です。というのも、三国史記は、王族たちに都合が悪い事は、あまり書かれて  いないのです。ところが日本書紀(古事記)になりますと、異父同母兄弟は、ひとりの  父の子にまとめられて表記されていたり、色々なエピソードが、時代を超えて、  別の人物のお話になっていたり、架空の人物が登場したり、ひとりの人物が、たくさんの  名前をもっていて、死んだと思ったら別の名前で登場してきたり、女の人が、男のふりを  して登場していたり・・・。  日本書紀(古事記)から、実年代を特定していく作業は、ものすごく大変でいつ終わるか  分からないくらいです。記紀の解読に比べたら、三国史記は、(手がかりは少ないですが)  正直で、正確で、解読は(トリックもありますが)楽な方でした。  (紀元1世紀頃の系図:女系の変遷)    正見母主┐┌─①阿鼓──②阿修───┐         (加利)      ├┤            ├─④美理神─河道─⑤河理    金氏┘└─首露王─┐┌─③毗可─┘             ├┼─居登王      ┌─許黄玉──┘└─許婁王──又日──仇道──味鄒王  多婆那国┤(己婁女王)──朴氏天種子命   の女君│      ├─于氏脱解王(宮)──遂成(帥升)      └─解氏太祖大王(宮?)  PS:加利と婆娑王の間に生まれた子、居利は(158年頃生)朴堤上の先祖に当ります。

第二章:帥升の存在

 加耶連合国家の誕生とほぼ同じ頃、多婆那国にも、大きな変化が現れます。33年生まれの  扶余人(女)が、解氏太祖大王や于氏脱解王・己婁女王(許黄玉)を多婆那国で生みます。  太祖大王は、47年生ですから、異父弟の脱解王は、50年頃生だろうと思います。  この33年生まれの夫余人は、53年から、多婆那国の女王(太后)として、君臨しています。  太祖大王は加耶を支配し、脱解王は、倭国を支配していて、後に、脱解王の息子の帥升が  107年に後漢に朝貢をしています。      ┌─(宮)‥宮については、不明です。  脱解王─┼─高句麗次大王(遂成=帥升)      └─高句麗新大王(伯固=神武天皇)  PS:日本書紀は、10代の(朴氏)崇神天皇を初代にしたかったようですが、帥升に敬意を  表して、于氏で高句麗の新大王を、初代天皇にしたようです。ところが、エピソードが足り  ないとか、藤原不比等が、自分たちの先祖(朴氏)を神武天皇にしようとしたらしいとか、  とにかく、時代も場所も氏も違う複数の人物をモデルとした伝承が、天照大神から崇神天皇に  かけて、混ざっているものですから、崇神天皇以前についての記紀の記述は、鵜呑みには、  出来ません。この時代の解読には、(私は)中臣氏の系図を「時代の物差し」に使っています。  Q:高句麗本記の年代は、信用出来ますか?  A:朱蒙は于氏です。7世紀の高句麗王は、金氏です。高句麗王の系図を見ると、  朱蒙から7世紀の王まで、男系で繋がっています。つまり、男系で繋がらないものを、無理やり  繋げているのです。それから、太后の代替りを意識すると、即位の時の年齢も納得がいきます。  没年の享年は、生き続けていたと考えた時の年齢です。(倍暦などは、使っていませんでした。)  再思─┬─⑥太祖王     ├─⑦次大王〔遂成〕     └─⑧新大王〔伯固〕  この系図を次のように解読してみました。  太祖王(解氏再思⑥・47年生)としました(注:太祖王と脱解王は、同母兄弟です。)  今まで、解読不能だった系図が、当たり前の系図に見えてきました。  男系相続にこだわらなければ系図の解読は、案外簡単なのです。  太祖王─┬─再思の娘(71年生)146年に76歳      │  ├───⑦次大王〔遂成〕  脱解王────┘┐      │   ├───⑧新大王〔伯固〕      └─再思の娘(89年生)165年に77歳

第三章:饒速日尊の東征

 神武天皇は、本来(男王としては)、于氏伯固でした。ところが、7世紀の朴氏と金氏の  王族たちが、自分たちの先祖(違う時代の人物たち)を神代の人物たちとして、日本書紀に  付け加えていきました。このため、饒速日尊と神武天皇が、同じ時代に生きているという  摩訶不思議な物語が、出来上がりました。この時代の解読には、(私は)中臣氏の系図を  「時代の物差し」に使っています。ですから、饒速日尊の東征についても、中臣氏の系図上の  人物を「時代の物差し」として、使っていこうと思います。  伯固の母は、89年生ですから、伯固は、108年±10年頃に生まれています。だいたいこんな  ものです。神武天皇紀では、太歳は、甲寅ですから、114年になります。この114年に何を  しているかというと、中臣氏の遠祖の天種子命が、筑紫の菟狭で、菟狭津媛を妻に娶ったこと  が書かれています。ちなみに、天種子命は、天御中主の11世の孫になります。風土記には、  天御中主の12世の孫の、天日別命が伊勢の国を平定したことになっています。そして、  天日別命と同世代と思われる大部の日臣(大伴道臣命)がいます。天種子命を瓊瓊杵尊とした  時の系図が下記です。  (彦火火出見=神武天皇にした一例です。)(瓊瓊杵尊のモデルは、数人います。)       菟狭津媛─┐            │(饒速日尊)(葉江・祇摩王)  (押雲命)(種子命)├─天日別命──宇摩志麻冶命  忍穂耳尊──瓊瓊杵尊┤            └─宇佐津臣──御食津臣命        神武天皇=(大伴道臣)(阿達羅王)  ※誰を瓊瓊杵尊に特定するかで、天孫降臨の場所は、変わってきますが、  天種子命=瓊瓊杵尊とすると、天孫降臨の場所は、九州北部になります。  まとめてみますと、高句麗新大王(伯固)を神武天皇とすると、108年±10年頃に  生まれています。中臣氏の宇佐津臣命を神武天皇とすると、133年頃生になります。  天日別命は、115年頃生で、饒速日尊になりますから、天日別命が、伊勢の国を  平定したのは、36歳頃として150年頃だろうと推測しています。そして宇佐津臣命の  息子の阿達羅王は、154年頃に生まれています。新羅本紀は、阿達羅王の生年を、  即位の年に誤魔化して使っています。年代の誤魔化し方が上手だなあと、感心します。

第四章:血縁関係から見た『卑弥呼』

 高句麗本紀や新羅本紀を読んで、両親を入れて系図に作っていくと、この人物は女で、  しかも子どもがいないぞ、という人物が浮かび上がってきます。古事記で云うと、  「日子八井命」という人物です。新羅本紀に出てくる伐休王と、高句麗本記に出てくる  抜奇が、同一人物であることに気が付いたからです。  系図で表します。(抜奇=手研耳命です。)  許婁葛文王─┐        ├─又韓(136年頃生)  多婆那の娘─┘  │           ├故国川王(179年即位)  新大王(伯固)──┘(156年頃生・卑弥呼)  (仇鄒角干)  故国川王は、227年に退位していますが、実際には、234に太后の于氏として  亡くなっています。179年から234年まで、56年間も王后・太后として君臨して  いた訳ですから、まさに、雲の上の存在だったことだろうと思います。しかもこの  卑弥呼は、アンチ公孫氏の立場ですから、公孫氏の楽浪郡や帯方郡からみると、やっか  いな存在だったと思います。卑弥呼は、独身ですから、国王と后を指名しています。  公孫氏と外交的には争いませんから、公孫氏とうまく出来る国王を指名しています。  それが、新羅助賁王(247年没)と、高句麗東川王(阿爾兮夫人・248年没)です。  この東川王は、倭人伝の卑弥呼の没年とピッタリです。そうすると、狗奴国の男王には、  新羅の沾解王が、うまく当てはまります。  この沾解王については、記録が一切残っていません。  新羅の助賁王は、狗邪韓国の王として君臨していますが、247年に亡くなっています。  玄菟郡の太守の王頎は、毌丘倹の下で、将軍として参加しています。掾那部の金氏も  当然王頎に従って、南下してきます。王頎が帯方郡太守になった時には、塞曹掾史張政  として倭国に使者として行っています。  その後、王頎は、西晋の武帝の時に、汝南太守を務めています。その後、  帯方郡の太守には、張氏がなっています。私は、張氏=金氏とみています。  味鄒王が帯方郡の太守になったかどうかは不明ですが、少なくとも、  味鄒王以降、加耶(金海)は金官加耶として、金氏の治める国になったことは、  ほぼ事実だろうと思います。そして、塞曹掾史張政は味鄒王で、その子どもが、  天日槍だろうというのが、私の主張になります。張政は、265年頃に一度、  半島に戻っていま  話は少し跳びますが、垂仁天皇紀3年に、天日槍が帰化しています。垂仁天皇の在位は、  99年になっていますが、これは不可能です。ですが、これを、天日槍から神功皇后までの  年代記としてみると、99年は、充分に現実味のある年代になります。垂仁天皇紀元年を、  太歳の干支(壬辰)から見ると、272年ですから、天日槍の帰化は、274年になります。  神功皇后の立后は、272年ですから、約100年前になりますから、年代的には、ピッタリです。  そうすると、本当の垂仁天皇の即位は、何年かということになります。ですから、  干支(壬辰)から考えてみて、332年だろうということになります。

第五章:倭国大乱と邪馬台国

 倭国の大乱は、桓帝・霊帝の治世(147年~189年)に起きています。  この期間に何があったかを見ると、次のようになります。  ㋐:天日別が、伊勢を平定した。150年頃。  ㋑:神武(伯固)の子が誕生。156年頃生。  ㋒:遂成(次大王)が弑虐された。165年。  ㋓:卑弥呼側の阿達羅王が、死去。184年。  神武天皇〔伯固〕は、110年頃に生まれています。天種子の婚姻を114年(甲寅)と  した上で、古事記の滞在期間を使うと、安芸の国に7年間(115~121年)、  吉備の国に8年間(122~129年)になります。手研耳命は、130年頃に生まれています。  そうしますと、手研耳命(抜奇)は、吉備で生まれたのか、大和で生まれたのか、  微妙なところになります。  手研耳命に当たる伐休王(抜奇)は、196年に亡くなっていますから、これで、  倭国の大乱も落ち着いたと思います。「倭国大乱」とは、少し離れますが、各地域に  「○○女君」がいたと思われます。そして、「女君」である限り、女系の断絶は  かなりの頻度で起きてきます。ということで、女系の断絶を調べてみます。  ㋐(加耶世主)正見母主─阿修(男)  ㋑(多婆那国)   許黄玉─毗可─美理神─河道──河理─男   (葛文王摩帝)─夫余の加利(河理)─男  ㋒(多婆那国)沙乙那─又韓─卑弥呼(234年没)  ㋓(許婁葛文王の娘)史省夫人─婁生(川派媛)─男子  ㋔(光明夫人と命元夫人は、助賁王の妻)       (189年生)(209年生)(224年生)       ┌─天女──阿爾兮夫人──光明夫人──男  玉帽夫人─┤       │(248年没) (270年没)       └─天女の妹─┬─奈是理姫(妹)─命元夫人─台与              └─伊世理姫(姉)─(不明)  このように見ていくと、(加耶世主)正見母主の時代に作られた加耶は、許黄玉の  兄弟や許黄玉の子孫に受け継がれ、その子孫達は嫁を求めて、夫余・丹波・九州の  「王女」との間に子孫を作っていった。その結果、親類になった近畿(多婆那国)  と九州(倭国)と半島(三韓)は、高句麗の五族の形を受け継いで、6世紀頃まで、  その形を残した。  阿爾兮夫人・光明夫人が住んでいたと思われる「邪馬台国」は、女系の断絶によって、  廃れていったと思います。そして、狗奴国を挟んで、その後、命元夫人・台与が住む  「大和」が、繁栄したのだろうと、思います。

第六章:おわりに(「天孫降臨」外伝ほか)

 『風土記』に書かれている、「瓊瓊杵尊」に関わる流れを調べてみます。   ・豊前国:むかし天孫が宮処(みやこ)から日向の旧都に天降った。おそらく天照大神の   神京(みやこ)である。  ・日向の国:瓊瓊杵尊が日向の高千穂の二上の峰に天降りなされた。  ・薩摩国:土地の娘を召して、二人の男子をおもうけになった、云々。  ・常陸国:珠売美万命(皇孫瓊瓊杵命)が天からお降りになったとき、御服(みぞ)を   織るために従って降った神、み名は綺日女命(かむはたひめのみこと)は、もと筑紫の   日向の二所の峰より、三野(美濃)の国においでになった。後、崇神天皇のみ世になって、   多弖命は、三野を去って久慈に移り、云々。  ここまでは、『風土記』から抜き書きをしました。  ここで問題にするのは、「綺日女命」です。というのは、垂仁天皇紀に、  「綺戸辺(かにはたとべ)」が出てきます。私は、この二人は、同一人物だろうと思って  います。垂仁天皇紀に出てくる人物が、崇神天皇の時代には、本人かその娘が、美濃から  久慈に移る訳ですから、奇妙な話ではありますが、これは、徳川家康の息子(御三家)が、  家光の時代に、結婚するような話と同じですから、同一人物の可能性は、十分にあります。  そうしますと、珠売美万命(皇孫)による天孫降臨の話は、卑弥呼のあとの時代に起こった、  ある人物の話(エピソード)を神武天皇よりも前の人物の話に、すり替えている可能性が  高いと考えられます。  最後は、神無月の話です。神無月(かんなづき、かみなしづき)は、日本における旧暦  10月の異称である。まずは、三国志高句麗伝の記述からです。  (高句麗では)十月に天を祭る。国中で大集会をする。これを東盟という。その公式の  衣服は、みな錦織や繡のある絹織物で、金銀で飾りたてる。‥‥。国の東部に大きな洞穴  があり、隧穴といっている。十月には国中から多勢の人々が集まり、隧(穴の)神を迎え、  国の東部の河のほとりに還って、この神を祭る。云々。  ここまでは三国志高句麗伝の抜き書きでした。さて、高句麗の祭りと出雲の話は、  よく似ています。似ているというよりも、同じです。東盟という収穫祭があって、  その王を東明聖王とすると、紀元前37年に、半島南部に進出したことになります。  もしかすると、出雲への進出も、この紀元前37年頃かもしれません。または、  加耶の建国にあたる、紀元42年頃かもしれません。文献からの想像です。  二番目ですが、風土記の中に、次のような記述があります。  近江の国の伊香(いかご)の郡で、水浴をしている天の八女の衣服(天羽衣)を  伊香刀美(中臣氏の先祖の伊賀津臣命)が盗んだので、天女の妹が残って伊香刀美と  結婚して子どもを生んだ。  天羽衣は、どう見ても絹織物です。伊香刀美は、中臣氏の先祖ですから、大体の年代が  計算出来ます。この年代を計算しますと、大体、この結婚は、210年頃になります。  つまり、近畿地方は高句麗の支配下にあったと考えられます。  加耶の連合国家そのものが高句麗ですから、近畿地方も加耶の一部に取り込まれたことに  なります。高句麗が拡大したというよりも、北からの圧迫を受けた高句麗が南下してきて、  近畿(多婆那国)や九州(倭国)と合体して、加耶の連合国家に変質したと考えています。  そして、楽浪郡などがなくなり、6世紀に入ると、加耶を母体とする韓三国と倭国が、  それぞれ(昔から)別々の国であったかのごとく振る舞うようになった。  (そして、お互いに知らん顔をして独自の国史を作り始めた。)   以上、加耶の変遷から見た倭国でした。


図 最終更新 平成27年6月25日