私の邪馬台国論  『倭国は九州北部の小国三十国の連合国だった』

												兒玉 眞

序.『私の倭国論』

 この会の名称が【全国邪馬台国連絡協議会】であり、Web発表のテーマも『私の邪馬台国論』とされていることからも明らかなように、『魏志倭人伝』にたった一度しか登場しない邪馬台国ばかりがやたらと注目されるのに対し、倭国に関しては滅多に議論されることはありません。
 又世間一般の感覚では、卑弥呼(日巫女)は邪馬台国女王卑弥呼とされています。
 ところが『魏志倭人伝』には倭女王卑弥呼と記されており、卑弥呼が景初二年(AD238)に朝貢した際には明帝により親魏倭王卑弥呼に制詔され、親魏倭王銘の入った金印も授与されています。
 私は曖昧にされてきた倭国邪馬台国の関係、及び卑弥呼の正体を明らかにすれば『魏志倭人伝』の謎は必ずや解明できるであろうと考えました。
 今回私は『私の邪馬台国論』ならぬ『私の倭国論』を展開していきたいと思います。

1.中国古代文献における【倭国】の登場

 基本的に私は倭と倭国は違うものと考えています。
 中国文献にと記される場合は日本列島のうち当時中国人に認識されていた地域、又は倭人の住む領域(これは日本列島の他に朝鮮半島南端部も含まれる)、或いは倭人そのものを指しているようです。
 それに対し倭国は国の名称であり、最初小国数国の連合国として誕生した倭国は、周囲の小国を獲り込んで次第に勢力圏を拡大し、卑弥呼時代には一人前の国家として確立していたと考えられます。
 中国ではの時代に戦乱の世となり、春秋の五覇や戦国の七雄といった覇者達が建国と滅亡を繰り返しましたが、長江下流域から周辺東シナ海沿岸部にかけての水郷地帯に在った呉がBC473南に隣接する越に敗れて滅亡し、その越もBC334内陸国の楚に敗れて滅亡すると、同地で漁業と水田耕作を営んでいた海人族の人々の多くが戦災難民となり、家族等の小単位で船に乗り込むと東シナ海に漕ぎ出して戦災地から脱出し、対馬海流に流されながら次々と倭へ渡来してきました。
 彼等は漁業や水田耕作の技術と共に金属製の漁具や農耕器具を倭に伝えたので、当時倭の原住民だった縄文人に快く受け入れられ、結婚・混血して新たな倭の水人、即ち弥生人が形成されました。
 この弥生人のことを当時の中国では倭人、或は単に倭と呼んでいたようです。
 倭に水稲耕作と金属器文化が定着すると倭人達の生活レベルは劇的に改善し、人口も急増しましたが、やがて近隣の集落同士で土地を巡る争いが起きると共に作物を盗難から守る必要も出てきました。
 倭人達は武器を手に取り集落毎に軍団を形成しましたが、軍団同士の戦闘が激化するにつれ、集落の周囲を環濠と城柵で取り囲んだ要塞的集落、即ち邑を作って住むようになりました。
⇒写真Ⅰ


 弥生時代は戦乱の多い世となりましたが、文明の発展はめざましく、そのうちに邑同士の和睦が進むと、防衛力の面でも食料や金属器土器類の物資の生産や流通の面でも有利なように、近隣の邑が多数結託して小国が形成されていき、遂に倭には百餘国もの小国が林立するようになりました。
 後漢の班固が前漢時代(BC206-AD8)のことを書いた『漢書地理志』には「楽浪海中に倭人有り。分かれて百餘国を為し、歳時を以て来たりて献見すると云う」とあります。
 この時代既に倭は漢に朝貢していたようです。但し前漢時代の倭は未だ国家としての体を為しておらず、百餘国在った倭の小国は歳時(渡海の時期である初夏)になると小国毎に各々海を渡り、楽浪郡に漢への朝貢を求めて来ていたものと思われます。
 やがて時代が進み後漢(AD25-220)ともなる頃には、倭の小国間の連携が進んで連合国が形成され、国家としての体制が次第に整ってきていたようです。
 南朝宋の范曄の記した『後漢書東夷伝』には建武中元二年(AD57)光武帝が【漢委奴国王】銘の金印を倭奴国王に授与したことや、永初元年(AD107)安帝に生口160人を貢献した倭国王帥升らが記されており、初期の倭国が誕生していたことが確認されます。この時後漢に貢献する倭の連合国を倭国と名付けたのは勿論後漢朝です。そして倭国王帥升等と書かれた理由は、この時安帝に貢献したのは倭国連合を形成する複数の小国の王達であり、その代表が倭国大王たる帥升だったからでしょう。
 初期の倭国は勿論地域国家であり【漢委奴国王】銘の金印が志賀島から発見されていることから、倭国を形成する小国の一つ奴国が現在の福岡市圏内に在ったのは明白です。即ち倭国が誕生した場所は奴国を含む地域で、壱岐・対馬ルートにより大陸との交易が盛んで、日本列島内で最も早く大陸の文化が移入されていた九州北西沿岸部だったものと思われます。
 その後中国では後漢が滅び、魏・呉・蜀の三国時代となった頃には倭国連合に統合される小国の数も増えてきていたらしく、倭国は次第に国家としての完成度を高めていたようです。
 『魏志倭人伝』の冒頭に「倭人は帯方東南大海之中に在り。山島に依って国邑を為す。嘗て百餘国、漢の時朝見する者有り。今使訳通じる所三十国」と記されています。
 この文は明らかに『漢書地理誌』を踏襲しており、変わった点と云えば朝貢の窓口が楽浪郡から帯方郡へ移ったことと漢の時朝貢していた百餘国が魏になると三十国に減ったことでしょう。これは倭の国々の統廃合が進んだ結果、魏に朝貢する倭の小国が卑弥呼を盟主に仰ぐ女王国連合、即ち倭国を構成する三十国に絞られていたからだと思われます。
 ところで、ここで注目すべきは百余国-三十国=七十余国の存在です。つまり卑弥呼時代の倭には倭国に含まれず、魏にも朝貢していない小国も多数在ったようです。更にこの時代になると倭国以外の連合国も複数形成されていた模様です。倭国と異なる連合国には例えば狗奴国が有ります。倭国に含まれない小国の多くは狗奴国のような倭国以外の連合国に含まれていた場合が多かったものと思われます。

2.倭女王卑弥呼

 『魏志倭人伝』に卑弥呼共立の場面は次のように記されています。「其の国、本より男子を以て王と為し、住まること七八十年。倭国乱れ、相攻伐すること歴年。乃ち共に一女子を立てて王と為す。名を卑弥呼と曰く。鬼道を事とし、能く衆を惑わす。」この段を倭国が小国の連合国としてみると、其の国即ち倭国には構成する小国毎に王が居て、大王たる歴代の男王が七・八十年もの間多数の小国を纏めてきたのであるが、倭国が乱れ構成国同士の争いが歴年止まなかったので、構成国の王達が何とかしようと集まって協議した結果、当時の男王を廃し、卑弥呼を新倭国大王に共立したのです。
 邪馬台国は「南邪馬台国へ至る。女王の都する所」と記されています。当時の多数の小国が集まって連合国を形成する国家形態に於いては、連合国を束ねる大王は当然構成国たる小国の王達の中から選ばれていたはずです。つまり倭国大王に共立された卑弥呼は元々邪馬台国女王だったわけです。卑弥呼が倭王に共立された際に自分が統治していた邪馬台国を倭国の首都に定めたのは極めて当然だったことでしょう。卑弥呼以前の倭国の首都は邪馬台国ではなかったと思われます。実際(AD57)に倭国の首都は奴国でしたし、伊都国或いは巴利国だった時期も有ったかも知れません。このように卑弥呼が邪馬台国王と倭王を兼任していたことは【漢委奴国王】印を授かった倭奴国王、即ち奴国王が倭王を兼任していた状況と全く同じです。ところがそれを現代に当て嵌めると、日本国総理大臣が東京都知事を兼任していたことになります。その状況は現代に生きる我々の感覚とはかけ離れており、我々が『魏志倭人伝』を理解する上での大きな障害となっています。例えば『魏志倭人伝』には倭国や邪馬台国と記されずに女王国と記される場合が多くみられます。
 『魏志倭人伝』の著者陳寿は倭国も邪馬台国も女王卑弥呼が治めていた国として、共に女王国と書いたのでしょうが、読者にしてみればある女王国の記述が倭国と邪馬台国のどちらを指しているかを判断するのは容易ではなく、結局これは前後の文脈から推測して適当な方に決めるしかありません。例えば「郡より女王国に至ること萬二千余里」の女王国は邪馬台国と考えねばなりません。この女王国を倭国とするとその範囲は広大となり、距離の基準点が定まらなくなります。
 ところが別の段には「女王国の東、海を渡る千余里。復国有り。皆倭種なり」とあります。この女王国を前例に倣い邪馬台国と見做すと、邪馬台国が筑後山門にせよ、甘木朝倉にせよ、畿内大和にせよ、その東は山ばかりで海は無く、この文は成立しなくなります。逆にこの女王国を邪馬台国として文を成立させようと、邪馬台国を豊前中津・宇佐や豊後別府・大分のような九州東海岸沿いの国に比定した説もあります。しかし中津・宇佐も別府・大分も伊都国や不彌国の東に在るので、これ等の説は畿内説同様、南の記述を東に読み替えるものです。
 ところが私の提案する倭国論ではこの女王国を倭国と見做すことで文は矛盾なく成立します。私は倭国が九州北部の西海岸から東海岸まで横断する領域を持つ国と考えており、その東の端は大分県沿岸部迄達しています。別府・大分は豊後水道に面し、東の海を渡る1千余里には四国が在ります。陳寿は女王国の東の海を渡った国のことを皆倭種と記しています。四国が女王国=倭国に含まれないことを知っていた陳寿は、四国を倭国ではないが倭人が住む国だとして、あえて倭種と書いたのでしょう。

3.帯方郡より邪馬台国へ至る道程

 江戸時代の新井白石辺りから三百年も論争が続く邪馬台国問題ですが、『魏志倭人伝』に従って素直に帯方郡から邪馬台国への道程を辿るとどうしても九州南方海上に出てしまうとされています。これを邪馬台国畿内説によれば、投馬国と邪馬台国の南の記載は何れも東の間違いだから、南を東に読み替えることで、邪馬台国は畿内大和へ辿り着くと説明されます。ところがこのように『魏志倭人伝』に一旦間違いがあると認めてしまうと、研究者は自説に合わない記述がある度に間違いと見做すようになり、その結果『魏志倭人伝』がどうにでも解釈可能となった今日、邪馬台国候補地は日本中更には世界中に溢れ、もはや収拾がつかなくなっています。私は『魏志倭人伝』の記述を全て正しいものとして読解しましたが、私の解釈が全てにおいて成り立つかどうかを今から検証していこうと思います。『魏志倭人伝』には帯方郡から邪馬台国へ至る道程とその里程が列記され、最後に「(帯方)郡より女王国(邪馬台国)に至ること萬二千余里」と記されています。
 過去の研究者はこの里程に文献にある長里(一里=435m)を充ててきましたが、それでは帯方郡-邪馬台国間の12,000余里は435m×12,000=5,220㎞にもなってしまいます。これは帯方郡(ソウル)-畿内大和(奈良)間の856㎞を遥かに越え、奈良-インドのニューデリー間の5,516㎞にも迫る有り得ない数値であり、陳寿がこの数値を使っていないことは明らかです。この場合実際に距離が解っている区間に『魏志倭人伝』の里程を当て嵌めてみれば、陳寿が使っている里程の単位が解ると思われます。以下は実際に計測できる各区間の距離を示したものです。

A)狗耶韓国(釜山港)-対馬国(厳原港)千里=108㎞

B)狗耶韓国(釜山港)-対馬国(比田勝港)千里=76㎞

C)対馬国(厳原港)-壱岐国(郷ノ浦港)南千里=65.5㎞

D)壱岐国(郷ノ浦港)-末魯国(唐津港)千里=42㎞

E)壱岐国(印通寺港)-末魯国(呼子港)千里=26㎞

F)末魯国(呼子港)-伊都国(平原遺跡)東南五百里=47㎞

G)末魯国(唐津港)-伊都国(平原遺跡)東南五百里=37㎞

H)伊都国(平原遺跡)-奴国(須玖岡本)東南百里=24.5㎞

I)伊都国(平原遺跡)-不彌国(宇美町)東百里=31.4㎞

J)奴国(須玖岡本)-不彌国(宇美町) 東百里=7.6㎞

 上記の中で同じ一千余里とされる渡海区間がA)~C)に比べD),E)がやけに短いのは、陳寿が各渡海区間を全て同じ里数に揃え、文章を美しく整えたからに相違ありません。元々弥生時代は精密な地図や距離の計測器具も無かった時代ですから、『魏志倭人伝』の記載は全てに於いて大まかなのです。私はA)~C)の渡海区間とF),G)の陸行区間から、一里=60~100m、即ち一千余里=60~100㎞と見做すのが最も妥当ではないかと考えました。ところが伊都国以降となると、H),I)が放射説、H),J)が連続説に基づく距離で、方向は合わせてありますが、H)とJ)を同じ百里とするのは無理で、H),I)の百里はF),G)の五百里の半分以上もあります。このように伊都国以降の里数は実測値と合わないのですが、その理由はこの時の郡使は伊都国迄しか来ていないからだと考えます。つまり郡使が自分の足で歩いた末魯国-伊都国に対し、伊都国-奴国-不彌国の里数は倭人からの伝聞であり、あまりあてにならない情報なのでしょう。多分当時の倭人は伊都国から奴国と不彌国がかなり近い印象が有ったものと思われます。それは現代人の我々にも当てはまり、実際に計測すると意外と距離が有るものだなと感じます。次に里数をそれぞれ加えていくと、帯方郡-邪馬台国の12,000余里のうち帯方郡-伊都国迄は、

帯方郡-狗耶韓国 7,000余里 水行 乍南乍東

狗耶韓国-対馬国 1,000余里 渡海

対馬国- 壱岐国 1,000余里 渡海 南

壱岐国- 末魯国 1,000余里 渡海

末魯国- 伊都国   500 里  陸行 東南となっており、

 ここ迄で既に魏使団の行程は10,500余里にも達しています。残りの伊都国-邪馬台国間は12,000-10,500=1,500余里しかありません。この1,500余里は壱岐国-末盧国の1,000余里に末盧国-伊都国の500里を加えた1,500余里と同じで、伊都国-邪馬台国間は伊都国-壱岐国間と同程度の距離となります。ところが邪馬台国畿内説ではこの里程の話は不彌国迄の10,700余里で突然終わってしまい、残りたったの1,300里で畿内大和に到底行き着くはずがないことについては何の説明もない儘に、後はひたすら水行20日+水行10日+陸行一月の話ばかりに終始するようになります。つまりこの里程に関しては畿内説では全く説明不能であり、九州説だけが説明可能となるのです。

4.榎一雄の放射説

邪馬台国へ至る道程の問題は、今迄相当多くの研究者が相当長きに渡り研究してきたにも拘らず、本当に未だ誰一人として正解に辿り着けていないのでしょうか? 私は榎一雄の放射説に出逢ったとき、この説こそが正解に違いないと確信しました。 ところが放射説は畿内説派どころか九州説派からも激しい反論を受けて潰されてしまい、今迄放置されていたらしいのです。 放射説に反対する人は『魏志倭人伝』の道程の記事は本場の中国人から見ても、決して放射的読み方は出来ないと云いますが、果たしてその話はどの程度の信憑性があるのでしょうか? 私は元々漢字を並べただけの漢文は修飾被修飾の関係がはっきりせず、解釈に幅が出来るものだと考えています。実際そのせいで『魏志倭人伝』も様々な解釈が為されてきたわけです。私にはこの道程の話も放射的読み方が十分に可能だと思われます。 なによりも連続説では『魏志倭人伝』を未だに上手く説明出来ないわけだから、私は先ずは放射説を使った理論を実際に組み立ててみて、それが『魏志倭人伝』の記述を全て矛盾なく説明出来れば、それこそが放射説が成り立つ証明に他ならないと考えました。放射説を使った邪馬台国へ至る道程の解釈は簡単です。

連続説による読み方


⇒図Ⅰ

放射説による読み方


⇒図Ⅰ

放射説では伊都国以降は全て伊都国を起点として放射的に記されているので、伊都国から東南百里に奴国が、東百里に不彌国が在り、邪馬台国は伊都国から南に水行したなら十日、陸行したなら一月で至り、山門(やまと)の名称が遺残することからも、私は邪馬台国を筑後国山門郡、現在の福岡県みやま市に比定するものです。 同様に伊都国から南水行20日で至る投馬国は薩摩国、現在の鹿児島県薩摩地方に比定します。 そうすると放射説では伊都国から水行すれば邪馬台国迄十日、投馬国迄二十日で至ると云うのです。 因みに伊都国から水行十日で邪馬台国に至るには、伊都国の港を出航後、海岸に沿って西向きに水行し、末魯国で平戸瀬戸を通過、南下して長崎半島先端の野母岬を回ると次は東行して島原半島と天草下島間の早崎瀬戸を抜け、有明海に入ると今度は北上して奥地の干潟地帯迄入り込み、東岸の矢部川河口に至ると川を遡上して筑後市の船小屋辺りで船を降りることになります。 この航路は干潮時には干潟となる有明海の遠浅の海を進まねばならず、川の遡上もあるので大船では絶対に不可能でまずは小舟によるものです。又、陸行した場合よりもかなりの回り道となり、汐待もあって、当時陸行するよりも相当速かった船でも十日は余裕で罹ったに違いありません。 次に投馬国ですが、水行十日が上記のような大回りの距離だから、その二倍となる投馬国迄の行程も相当長いものになります。多分薩摩半島の東シナ海側では上陸せずに開聞岳を左手に観ながら薩摩半島をぐるりと回り込み、鹿児島湾内の奥に入り込んだ現在の鹿児島市辺りに上陸地点が在ったものと思われます。 但しこれ等水行の行程は郡使が伊都国で倭人から伝聞した話に違いありません。 なぜならば郡使は末魯国に上陸後、計算では十日も罹る五百里もの道程を歩いてやっと伊都国に辿り着いたのに、着いた途端に又船に乗って苦労して歩いてきた行程を逆行して邪馬台国や投馬国への西廻り航路を採るような無駄な行程を郡使が辿った筈がありません。東回り航路は更に無駄に大回りとなります。 多分この水行十日と二十日の行程は伊都国に居た海人族の一員が彼等独自の海のネットワークを駆使し、各地の海人族仲間から仕入れた情報を統合・整理して郡使に説明したものだったのでしょう。 そして放射説では伊都国から南に1,500余里を陸行すれば、一月で邪馬台国に到達するとされます。 試しに伊都国-邪馬台国間の1,500余里を現代の地図上でルートを辿ってみると、糸島市(平原遺跡)-日向峠-春日市(須久岡本)-筑紫野市-基山町-鳥栖市-久留米市-筑後市-みやま市女山間が約73㎞になります。この場合1里=最短の60mとしても1,500里=90㎞ですので73㎞をオーバーしますが、古代の道は現在の自動車道よりも相当曲がりくねっていたはずだから、当時の道程は十分に90㎞以上あったものと思われます。元々大まかな『魏志倭人伝』では許容範囲内の結果でしょう。 すると1,500余里/約90㎞を一月/30日で陸行するので、一日平均3㎞歩くことになります。 これについて「人は時速4㎞で歩けるから3㎞進むのに一時間もかからない。仮に一日8時間も歩いたら一日30㎞以上歩けるので、一月で900㎞も歩くことになる。これは九州を一周し、下関から畿内大和迄到達できる距離である」と言う人もいます。 しかしこう謂う人こそ正に机上の空論であり、実際に一日8時間歩いたこと等一度も無い人でしょう。 現実には忍者でもなければ、思い荷を背負って時速4㎞の速度で一日8時間を毎日、一か月間も歩き続けられるものではありません。 それに弥生時代は現代の様なトンネルを穿ち、橋の掛かる立派な道路など無かった時代です。 日本は山あり谷ありの起伏に富んだ地形で、しかも森林草竹に覆われています。 実際に日本の山道を歩いた経験がある人ならば、山越え、藪漕ぎ、崖や岩場のへつり、川の渡渉や渓谷の遡行などが次々に現れる古代日本の道を歩くことは実に大変な作業であり、休憩時間も考えた一日の歩行時間と天候の変化に伴う休日なども計算に入れると、一日あたり3㎞も進むのがせいぜいだったであろうことが容易に想像できるはずです。


⇒図Ⅱ

ところで前にも書きましたが、この時の帯方郡から派遣され、倭国の報告書を書いた魏使団(郡使)は、どうやら倭国の調査に来ただけのようで、多分伊都国迄の旅だったものと思われます。 だから彼等は伊都国迄直接船で来ずに、末魯国に上陸後「行くに前に人を見ず」と書いた程通行困難な道をわざわざ伊都国迄陸行しつつ、倭国の状況や倭人の風俗を観察・調査していたようです。 魏明帝は景初中に帯方太守劉昕(劉夏)と楽浪太守鮮于嗣を任命すると、密かに山東半島から黄海を越えて朝鮮半島に渡り、楽浪郡・帯方郡を奪取しています。この行動は魏と公孫淵の戦争中に(密かに)行ったのだから景初中とは景初二年前半と考えられます。景初二年(238)六月には司馬懿仲達と公孫淵の襄平での籠城戦の最中に卑弥呼の使が早速帯方郡を訪れています。帯方太守劉夏は倭使を案内し、戦火の中に在る遼東半島を避けて海上ルートで山東半島に渡り、その後陸路で洛陽に到ると倭使は無事魏に朝貢出来たようです。ところが景初三年(239)正月に明帝が亡くなると、その年魏は喪中で使を派遣できなくなり、同年夏、正使派遣に前もって倭国調査隊を派遣したようです。多くの説で云われる卑弥呼の使が景初三年六月に帯方郡に至ったとすると、その時魏は喪中の為倭使は帯方郡に留め置かれ、年内には魏に朝貢出来なかったはずです。やはり卑弥呼の朝貢は『魏志倭人伝』に記されたとおり、景初二年六月しか有り得ません。 この時の倭国調査団に対し、正始元年(240)に帯方太守弓遵の命を受けた建中校射悌儁が【親魏倭王】の証書に金印、銅鏡百枚や五尺刀二口他、多量の贈物を携えて実際に邪馬台国に詣で、卑弥呼に謁見した際の魏使団は大勢の使者と沢山の荷物を積んだ大船で来たので、末魯国から陸行せずに、直接船で伊都国迄来たものと思われます。そして伊都国の港で上陸後はおそらく邪馬台国迄を陸行したことでしょう。 何故ならば一大率の説明に「王(卑弥呼)が使を遣わし、京都・帯方郡・諸韓国に詣で、及び郡の倭国に使を遣わすに、皆津に臨みて捜露し、文書・賜遺の物を伝送して女王に詣らしめ、差錯し得ず」と記されているからです。 悌儁の魏使団を載せた船は伊都国の港に入港後、荷揚げして荷を解き、一大率による検閲を受けたはずですが、その後再び荷造りして船に積み直し、邪馬台国に向け航海を再開することなど有り得ません。しかも大船での有明海の航行は不可能です。 「文書・賜遺の物を伝送」は港での検閲後に荷を人の背などに積み変えて陸行する話だと思われます。 ところが邪馬台国畿内説では、魏使団と文書・賜遺の物を運んで来た船は畿内に近い港、例えば難波辺りで荷揚げすることになりますから、検閲は必ず難波の港で行う必要があります。 ところが検閲機関である一大率は伊都国に在る。一つの国が二度も検閲を行うはずもなければ、難波で荷揚げする荷物をその前に伊都国の港で荷揚げして検閲することも先ず考えられません。

5.反時計回り連続説

 女王國より以北は其の戸数・道里を略載可なりしも、其の余の旁國は遠絶にて詳らかにし得ず。

『魏志倭人伝』ではこのように断った後に次々と21ヶ国が続けて記されています。

次に斯馬國有り。次に己百支國有り。次に伊邪國有り。次に郡支國有り。次に彌奴國有り。

次に好古都國有り。次に不呼國有り。次に姐奴國有り。次に対蘇國あり。次に蘇奴國有り。

次に呼邑國有り。次に華奴蘇奴國有り。次に鬼國有り。次に為吾國有り。次に鬼奴國有り。

次に邪馬國有り。次に躬臣國有り。次に巴利國有り。次に支惟國有り。次に烏奴國有り。

次に奴國有り。此れ女王の境界尽きる所なり。

その南に狗奴國あり。男子を王と為す。その官に狗古智卑狗有り。女王に属せず。


 どうやらこの文に出て来る女王国邪馬台国を、女王倭国を指しているらしいのです。 「女王の境界」「女王に属せず」は卑弥呼の勢力圏、即ち倭国の範囲を意味するようです。 仮にこの女王国を倭国とすれば、邪馬台国へ至る道中の戸数・道里が略載される

 對馬国、一大国、末魯国、伊都国、奴国、不彌国

 の六ヶ国は女王国=倭国の北に在る国となり、倭国に含まれなくなりますが、この仮定は伊都国王が皆女王国に統属すると云う記述に明らかに矛盾します。 やはりこの女王国は邪馬台国であり、邪馬台国の北には倭国の構成国が並んでいるはずです。 すると邪馬台国の北の連続する21ヶ国の最後には「次に奴国あり。此れ女王の境界尽きる所」と記されています。 つまり奴国は女王の境界の尽きる国なので女王=倭国に含まれ、更には奴国の前に記される20ヶ国も全て女王の境界内の国となり、やはり女王=倭国に含まれると書いてあるのです。 これで連続して記される21ヶ国に加え、邪馬台国へ至る道中の六ヶ国中、伊都国と奴国も倭国に含まれることが判明しましたが、その他の道中の四ヶ国も倭国に含まれるかどうか『魏志倭人伝』には明確な記載はありません。

 ところが後の方に記される一大率の説明を見ると、連続する21ヶ国と邪馬台国へ至る道中の六ヶ国及び邪馬台国を加えた計27ヶ国の全てが女王=倭国に含まれることが示唆されています。

 「國國市有り。有無を交易し、大倭が之を監せ使む。女王国以北には特に一大率を置き、諸国を検察す。(諸国)之を畏憚(いたん)す。常に伊都国にて治す。国中において勅史(しし)の如きあり。」

 
「邪馬台国より北の諸国は市を立て有無を交易しているが、大倭=倭王卑弥呼が伊都国に置いた一大率、つまり中国の勅史の如き監察官によって常に監視され、倭国中の諸国は一大率を畏れ憚っている。」 即ち女王国=邪馬台国より北の諸国は全て女王卑弥呼の支配下にあり、女王=倭国の構成国であると書いてあるのです。 さてそうなると女王国以北は戸数・道里が略載できるとわざわざ断ってあるのに、連続する21ヶ国のうち奴国以外の20ヶ国は何故戸数・道里が略載されていないのでしょうか? この疑問について私が想像するに、陳寿は21ヶ国の戸数・道里は解っているので略載しようと試みたが、21ヶ国全ての道里をそれぞれ書くのは相当面倒に思えたであろうことです。 そこで面倒なことが嫌いな陳寿は頭を使い、21ヶ国を「次に…国有り、次に…国有り」と次々に並べて記すことで、21ヶ国が国境を接して連続した国であることを示し、これを以て道里を略載した積りではないかと考えられるのです。

 だが戸数迄記すのはさすがに面倒過ぎたので、奴国以外の戸数は省略したのではないでしょうか? 実はもしこの想定が正しいとなると大変重要な事項が解明されることになります。 この連続して記される21ヶ国は、過去に国名の類似のみを頼りに何度も比定されてきたのですが、信頼できる結果は一度も得られていません。だが21ヶ国が国境を接して連続しているとなると、国名の類似にこの位置情報を加えることで、21ヶ国全ての比定が可能になったものと思われます。 私はこの倭国に関する報告書は、郡使が倭国を訪問した際自ら「郡使の往来常に駐所」と記した伊都国に滞在中に、自分達の居た伊都国を起点として書いたものだと考えています。 その根拠は放射説でも伊都国が起点とされているのに加え、連続して記された21ヶ国の最初の斯馬国は伊都国の北に隣接し、最後の奴国も又伊都国の東に隣接する国だからです。 つまりこれ等の21ヶ国は伊都国の隣の斯馬国から始まって国境を接して連続しており、反時計回りに九州北部をぐるりと一周し、最後の奴国を介して伊都国に戻ってくると考えられるのです。

 私はこの理論に「反時計回り連続説」と名付け、実際に21ヶ国を比定してみました。 するとどうやらこれ等の21ヶ国は確かに反時計回りに連続して並んでおり、既述の為に省略されていた邪馬台国、末魯国、伊都国、不彌国も21ヶ国の間に上手く嵌ることが確認されました。

6.倭国を構成する小国三十国

① 斯馬國(しまこく)。 筑前国志摩郡。
福岡県の糸島市を形成する旧志摩郡と怡土郡のうちの志摩郡。福岡市西区の半島部分も含まれる。
この二郡は明治29年に合併し、福岡県糸島郡となったが、その後分離と合併を繰り返した。
1992年(平成4年)に市制施行し、本土部分は福岡県前原市、半島部分は志摩郡志摩町と分離したが、2010年(平成22年)に施行された糸島1市2町(前原市・志摩町・二丈町)合併により、現在福岡県糸島市となっている。

② 伊都国(いとこく)。 筑前国怡土郡。
福岡県糸島市のうち糸島半島基部の旧前原市。
「反時計回り連続説」で斯馬国の次に在るのは斯馬国の南に隣接する伊都国のはずだが、伊都国は既に邪馬台国へ至る道程の記事にて紹介済みなので、連続する21ヶ国中には記されていない。
縄文時代から弥生時代にかけての遺跡が多数存在し、古くから発展していた国のようだ。
平原遺跡の方墳からは径46.5㎝もある日本最大の内行花文鏡を含む計39枚の鏡が出土している。
戸数千余戸と記されるのは寧ろ少な過ぎる気がする。因みに魏略には戸万余と記される。

③末魯国(まつろこく)。 肥前国松浦郡。
伊都国の次に繋がる国は末魯国のはずだがこちらも又既述の為、続けて省略されている。
最初に二カ国も続けて省略された為、21ヶ国が連続していることが誰にも気付かれなかったらしい。
佐賀県唐津市、旧東松浦郡(七山村、浜玉町、呼子町、玄海町)、伊万里市。
長崎県松浦市。平戸市の本土部分。
居住地は山と海の間に在る狭い浜が多いが、極めて長い海岸線のおかげで四千戸もの戸数を誇る。

④己百支國(いおきこく)。 肥前国彼杵郡。
長崎県佐世保市。北松浦郡佐々町、東彼杵郡波佐見町、川棚町、東彼杵町。
連続する21ヶ国中でやっと出て来る次に繋がる国が己百支國である。
この国は現在の佐世保市辺りに中心地が在ったと思われる。
彼杵(そのぎ)と己百支(いおき)の双方共読み方が難しいので、地名の関連性が判断できず連続性が気付かれない原因となったと思われるが、云われてみれば音の響きが似ている気がする。

⑤伊邪國(いやこく)。 肥前国北高来郡伊佐早。藤津郡。
次に繋がる伊邪国は長崎県諫早市を中心とした地域で、大村市、佐賀県藤津郡太良町を含む。
(いや)→(いさはや)で地名がかなり通じている。
東京大学の邪馬台国九州説派である橋本増吉の故郷であり、橋本も当時伊邪国を伊佐早に比定した。

⑥郡支國(ぐしこく)。 長崎県五島列島。
次に繋がる国は本土から海上に離れた五島列島と思われる。
五島(ごしま)→(ぐし)と地名にも関連性がある。
支を島と見做すと一支が一つ島の壱岐国で、郡支国が群を為す島の群支とも考えられる。
長崎県五島市。南松浦郡新上五島町。佐世保市の一部。北松浦郡小値賀町。平戸市の島々。

⑦彌奴國(みなこく)。 肥前国長崎。
長崎県長崎市と西海市及び西彼杵郡時津町、長与町。
名称の関連性は殆ど認められないが、順序的に比定。
不彌国と奴国を併せたような名前で、福岡県で隣り合う奴国と不彌国の関係と同様である。
私は海人族の安曇族と住吉族が共同で治めていた国ではないかと考える。
安曇族は表・中・底綿積(海神)三神を信仰し、奴国、儺縣、那乃津が彼等の国である。
住吉族は表・中・底筒男(住吉)三神を信仰し、不彌国、住江、墨江が彼等の国である。
魏略には「(倭国の使者に)旧語(昔話)を聞くに自ら太伯之後と云う」と書かれており、倭国人は基本的に呉人系だったようです。倭の海人族である安曇族と住吉族は共に呉人系と思われます。
長崎半島は海運業・水産業の要地であり、この様な土地の海人族は安曇族・住吉族と明確には分かれずに共同して海運業・水産業を営んでいたのではないでしょうか?

⑧好古都國(こうこつこく)。肥前国高来郡。
島原半島。(長崎県島原市。南島原市。雲仙市。)
高来(たかく)は(こうこ)とも読めるので、好古(こうこ)都国に繋がる。
島原半島南端には口之津港がある。現在呼び名は(くちのつ)だが、(こうのつ)→好古の津に繋がる。

⑨不呼國(ふここく)。 肥前国杵島郡。
現在の佐賀県杵島郡白石町には嘗ての須古村が含まれる。
須古村が弥生時代の同国の中心地で、元々須古(すこ)と呼ばれていたものが、魏使団員には不呼(ふこ)と聞こえたのか、或いは元々不呼(ふこ)だったものが、須古(すこ)と訛ったのではないだろうか?
周囲の杵島郡江北町、大町町、鹿島市、嬉野市、武雄市、多久市にかけて。

⑩姐奴国(さなこく)。 肥前国佐賀郡。小城郡。神崎郡。
佐賀県佐賀市。小城市。神埼市。神崎郡吉野ヶ里町。
(さな)→(さが)と名称に関連性が認められる。
有名な吉野ヶ里遺跡はこの国に含まれると思われる。
吉野ケ里は弥生時代中期(二世紀)迄に隆盛を極めたが、卑弥呼時代には既に衰退していたことが考古学的に確かめられている。その原因としては倭国大乱が考えられる。

11対蘇國(とそこく)。 肥前国養父郡。三根郡。
佐賀県鳥栖市。三養基郡みやき町と上峰町。
(とそ)→(とす)と地名に関連性が認められる。過去にも此の地に比定した説が多い。

12蘇奴國(そなこく)。 筑後国御井郡。三潴郡。浮羽郡。
福岡県久留米市。大川市。三潴郡大木町。御井郡大刀洗町。うきは市。
(そな)と三潴(みずま)の響きは似ている気がするが関連性有と決めるには至らない。
三潴は海人族水沼君から来ている。水沼君は宗像三女神を祀り、宗像氏と同族らしい。
又、奴の付く国で、安曇族の国でもある。奴国と宗像国は北九州でも隣り合っているが、ここでも同様の関係にあるようだ。共存する理由は筑後川から有明海にかけての水運・水産業の共有だろう。

13邪馬台国(やまたいこく/やまとこく)。筑後国山門郡、三池郡。
福岡県みやま市(旧山門郡瀬高町。山川町。高田町)。
邪馬台国はこの位置に当てはまるが、例によって既述の為、連続する21ヶ国からは省略されている。
邪馬台国の考古学的所見は瀬高町在住の歴史家故村山健治氏の研究が詳しく、氏の著書によると卑弥呼時代の筑後山門は大都会だった証拠が十分に有るらしい。
邪馬台国は七万余戸を有し、一戸あたり4~5人家族としても人口30万を超す当時としては超大国である。人口密度も勿論高いが領域も相当広かったはずで、周囲の筑後市、柳川市、大牟田市辺り迄全て邪馬台国の領域だったものと思われる。
東部の女山(ぞやま)は昔女王山と呼ばれており、山麓には卑弥呼の居城が在った可能性が高い。
又、女山の裾野には径47.5m程の円墳・権現塚古墳がある。
『魏志倭人伝』には卑弥呼の墓は径百余歩と記され、一歩が標準的な人の歩幅の50㎝程であれば、この円墳は丁度卑弥呼の墓に相当する。
畿内説では一歩が大股で歩いた二歩分の150㎝とし、百歩が長さ280mの箸墓の後円部150mに合致すると云うが、この墓の方が余程現実の感覚に適合する。
明和年間の古文書『南筑明覧』にこの塚は「田油津姫が神功皇后に討たれた際に戦死者を多数葬った塚」と書かれているらしい。
此の塚には昔から多数の人骨が埋まっている伝説が有ったようだが、此の塚を卑弥呼の墓とみた場合、埋もれた人骨は卑弥呼が死んだ際に旬葬された奴婢百余人のものと見做すことが出来る。
仮に今発掘調査して土中の人骨が酸性土のために全て溶けていたとしても、多量の人骨の化学反応位は残存するであろう。
私は今後この権現塚古墳に注目が集まれば、発掘調査も考慮されるだろうと考えている。
もしかしたら卑弥呼の死体が収められた石棺や魏から貰った銅鏡も何枚かは埋まっているかも知れない。
石棺内は風化が遅いだろうから、卑弥呼本人の骨が残っている可能性もある。
仮に【親魏倭王】の金印でも発掘されようものなら、【漢委奴国王】の金印以上の大発見となる。


⇒写真Ⅱ


14呼邑國(こゆうこく)。 筑後国八女郡。旧上妻郡、下妻郡。
現在の福岡県八女市黒木町にこの国の中心が在ったと思われる。
(こゆう)→(くろき)の発音に若干の関連性が認められる。
此の地は古墳時代に巫女系女王の八女津媛が治めていたとされ、卑弥呼の一族かも知れない。
八女市(旧八女郡立花町、福島町、上陽町、星野村、矢部村)、八女郡広川町。

15華奴蘇奴国(かなそなこく)。 豊後国日田郡。
旧日田郡前津江・中津江・上津江村、天瀬町、大山町。
弥生時代この国の中心地は中津江村辺りに在ったのではないか?
中津江村には鯛生金山が有る。明治時代に発見された金山だが、弥生時代にも金が採れ、産出量が減って見捨てられていたのが、近代になって採掘技術進歩により金山として復活した可能性がある。
その証拠が金蘇奴国の名称かも知れず、その場合筑後川下流部の蘇奴国との関係が考えられる。
海人族水沼君と安曇族が共同で経営する金山が在ったのかもしれない。

16鬼国(きこく)。 豊後国直入郡久住。
竹田市(旧直入郡萩町、久住町、直入町)玖珠郡九重町。
この国には活火山の久住連山がある。
昔は久住(くじゅう)国ではなく、鬼が住む国、鬼住(きじゅう)国だったのではないか?
土地全体が溶岩、火砕流、火山灰に覆われ、植物の生育が悪くて森林が少なく、岩地の間に草原・竹藪・灌木林が散在する。あちこちから噴煙や湯、硫黄が噴き出し、まさしく鬼の住む国に相応しい。
何時でも噴火の危険がある国だが、同時に温泉国でもある。昔から温泉好きの倭人は噴火の危険も承知の上で火山国、即ち鬼国に住み着いたのだろう。
それが何時頃からか鬼住国と呼ばれるのは嫌なので、訛って久住国、九重国になったのではないか?

17為吾国(いごこく)。 豊後国大分郡。
大分県大分市。旧北海部郡坂ノ市町、大在村、川添村、佐賀関町。臼杵市。
大分の地名は王が居た国とされている。特に大在村には王の居城が在ったと思われる。
為レ吾国→吾→ごう→王、為→い→居た、即ち王居た国⇒大分国となる。
四世紀の景行天皇九州巡行の折此の地に暫く留まり、王来たから大分となったとする説も有るが、私はその遥か昔の卑弥呼時代の更に以前から代々の王が居たと考える。
倭国論では全ての小国に王が居たはずだが、この地域は倭国連合に加わる前から独自の連合国を作っており、その大王が居た。構成国は為吾国に加え、鬼奴国、大野国、海部国、国東国等が候補となる。
但し、この地域連合国も倭国参入後は伊都国王と同じく為吾国王は卑弥呼に統属したはずです。

18鬼奴國(きなこく)。 豊後国速見郡。
大分県別府市。速見郡日出町。由布市(旧大分郡湯布院町、庄内町、挾間町)。
二つめの鬼国。由布岳、鶴見岳が連なる鬼の住む国。即ち火山国且つ温泉国である。
更に奴が付く国で、良港を有する海運業の要地、安曇族の国。
別府市から東の海を遠望すると四国の愛媛県八幡浜が望まれる。
即ち「女王国の東の海を渡ること一千余里。復国有り。全て倭種なり」と記される処。
別府-八幡浜間は89㎞であり、一千余里=60~100㎞に当てはまる。

19邪馬國(やばこく)。 豊前国下毛郡。宇佐郡。
大分県中津市。宇佐市。
山国川上流部は耶馬渓と呼ばれ、青の洞門のある有名な観光地となっている。
耶馬国の渓の意味で、山国川自体も邪馬国の川の意味と思われる。
山国川河口に在る中津市と山国川沿いの旧下毛郡(三光村、本耶馬渓町、耶馬渓町、山国町)。
宇佐市を流れる駅館川上流の院内から安心院にかけての渓流も又耶馬渓と呼ばれており、嘗ては宇佐市からこの辺りにかけても耶馬国だったに違いない。
宇佐には全国の八幡神社の総本山である宇佐神宮が有る。
二の宮に祀られる比売大神は宗像三女神とされるが、この神は『記紀』編纂後に大和朝廷が持ち込んだ神であり、それ以前の比売大神は土着の女神であった。景行天皇九州巡行時に天皇に降伏した神夏磯姫のような卑弥呼と同じ巫女系女王が神として祀られていたのが元来の比売大神ではないだろうか?
北の福岡県築上郡(築上町、吉富町、上毛町)、豊前市等北九州から連続する地域(旧上毛郡)は芦原中国に属すると思われるが、耶馬国との境界ははっきりしない。

20躬臣國(くすこく)。 豊後国玖珠郡。
大分県玖珠郡玖珠町。地名がほぼ其の儘現在迄残存している。
位置的に日田市街も躬臣國に含まれそうだ。
躬臣國と巴利國は英彦山山系の南面に在り、北面の筑豊地区と分断される。
筑豊地区は宗像国同様に芦原中国の一員と考えられる。

㉑ 巴利國(はりこく)。 筑前国朝倉郡。(旧上座郡、下座郡、夜須郡)。
福岡県朝倉郡杷木町、朝倉町は甘木市と合併し、朝倉市となった。
昔は杷木がこの国の中心地で、巴利(はり)の名称が杷木(はき)として残ったのかも知れない。
朝倉郡筑前町(旧夜須町、三輪町)、東峰村もこの国に含まれる。
『記・紀』にも出て来る高山=香山(天香具山)や三輪等の畿内大和と同じ地名が残存し、邪馬台国の会主宰の安本美典先生が邪馬台国東遷説の根拠とする土地である。

㉒ 支惟國(きいこく)。 肥前国基肄(きい)郡。
現在の佐賀県三養基(みやき)郡基山町。福岡県筑紫野市。小郡市。
AD663白村江の敗戦後AD665天智天皇の命で唐からの防衛の為、朝鮮式山城の基肄城が築かれた。
つまり(きい)国の名称は卑弥呼時代~天智朝時代~現在迄ずっと保持されている。

㉓ 烏奴國(うなこく)。 筑前国三笠郡。
福岡県大野城市。太宰府市。
烏奴(うな)→大野(おおの)で名称に関連性がある。
烏奴国即ち大野国にAD664水城とAD665大野城が築かれ、以来此の国の地名は大野城となった。
水城、大野城、基肄城が有る此の地の中心には、大陸との外交を司る大宰府が置かれた。

㉔ 不彌國(ふみこく)。 筑前国糟屋郡宇美町。
糟屋郡篠栗町、糟屋町、志免町、須恵町は同国に含まれるだろう。
邪馬台国へ至る道里中に登場するので、連続する21ヶ国中には記されていない。
彌の付く国で、海人族住吉族が統治していたと思われる。

㉕ 奴國(なこく)。 筑前国儺縣。
博多の古名は那縣とされる。福岡市~春日市~筑紫郡那珂川町にかけて。
糟屋郡新宮町は安曇族発祥の地とされる。
倭国における海運・水産業の中心地で、安曇族が統治していた国。
漢委奴国王は安曇族の長だった可能性がある。
倭国の北辺の境界を為す国である。

㉖ 対馬國(つしまこく)。 対馬上島・下島。対馬市。

㉗ 一大國。 一支國(いきこく)。壱岐島。壱岐市。

壱岐と対馬の二国は帯方郡から邪馬台国へ至る道里中に紹介される。

其の余の傍国

『魏志倭人伝』の冒頭にある「今使訳通じる所三十国」の記載は如何にも断定的で、三十国に余や約の文字は付いていません。私はこの記載通り魏に朝貢していた倭の小国は丁度三十国有ったと考えます。 実は過去にもそう考えた研究者が居たようで、倭国を構成する小国27ヶ国に狗奴国と投馬国を加え、二度記された奴国を別の国として二回カウントし、魏への朝貢国を丁度三十国に合わせてきました。 しかし私は二度記される奴国は同じ国であり、魏に朝貢していたのは倭国の構成国だけだと考えています。即ち『魏志倭人伝』に国名が記されない倭国の構成国があと三カ国あるに違いないのです。 そこで私はその三カ国を「遠絶にて詳らかにし得ない其の余の傍国」ではないかと考えました。 では其の余の傍国とは一体何処に在ったかと謂うと、郡使が駐留する伊都国から遠く離れた大分県辺縁部の可能性が高いと思われます。 以下、其の余の傍国三カ国。国名は旧郡名に従います。

㉘ 国東國(くにさきこく)。 豊後国国東郡。
国東半島(国東市、豊後高田市、杵築市)。
 
㉙ 大野國(おおのこく)。 豊後国大野郡。
豊後大野市。臼杵市の旧大野郡野津町。旧竹田市。

㉚ 海部國(あまべこく)。 豊後国海部郡。
佐伯市。津久見市。


⇒図 Ⅲ

7.卑弥呼時代の倭国の勢力圏

『魏志倭人伝』に奴国が「女王の境界尽きる所」と記されており、九州本土における倭国の北限は奴国、即ち現在の福岡市辺りだったことが解ります。 つまりそれ以北の北九州地域及び本州・四国・北海道は倭国に含まれなかったわけです。 この倭国に含まれず、奴国で境界される国が奴国の東北に隣接する宗像国だと思われます。

 宗像国には現在の福岡県宗像市の他に古賀市、福津市が含まれるようです。 宗像国は海人族宗像氏の統治する国でした。宗像大社に祀られる宗像三女神は、素戔嗚尊と天照大神が誓約をした際に生まれ、素戔嗚尊の子供とされたと『記・紀』には記されています。 つまり宗像国は天照大神=卑弥呼が治める高天原=倭国とは別系統の国であり、素戔嗚尊の子孫が治めたとされる出雲国系の連合国、即ち芦原中国の一員だったようです。 ところが倭国の構成国である蘇奴国に在った水沼君は宗像氏と同族とされています。 そうなると宗像氏は同族同士で倭国と芦原中国に分かれていたことになります。

 その理由を想像するに、宗像氏は元々倭国内の各地に散在していましたが、呉人系海人族との軋轢があって居住地を追われ、族民の多くが倭国外の宗像国に移住した経緯があり、そのことが天照大神と素戔嗚尊の誓約の神話になったとも考えられます。ところが有明海沿岸~筑後川流域に拠点の在った水沼君だけは長年住み慣れた価値の高い居住地を離れ難く、粘って動かなかったのかも知れません。 それと安曇族の奴国と住吉族の不彌国は隣り合っていますが、宗像国も又隣り合っています。 元々この地域は朝鮮半島と日本列島の海上交通の要地であり、各海人族がしのぎを削っていたものと思われます。ところが壱岐-対馬ルートが安曇族と住吉族に占有された為、宗像族は独自に大島-沖ノ島ルートを開拓したものと思われます。

 宗像国の含まれる芦原中国は出雲国から始まると瞬く間に広大な国土を持つ大連合国となり、北九州~中国四国~近畿~中部東海迄勢力圏が及んでいました。出雲国王の大国主命は大王として芦原中国に君臨し、出雲国は芦原中国の首都でした。北九州では英彦山山系の北面が勢力圏で、宗像国を始め、遠賀国、嘉穂国、田河国、企救国等を含んでいたようです。

 反対に長崎半島や豊後南部の其の余の傍国を除くと倭国の南限は首都邪馬台国でした。 『魏志倭人伝』に「女王国の南に狗奴国在り、女王に属さず」とあります。 狗奴国は球磨国と思われ、現在の熊本県に矛盾しません。官名の狗古智卑狗も菊池彦を示唆します。 狗奴国は倭国且つ邪馬台国の南に隣接し、筑肥山地で国境を隔てられていたようです。 投馬国は薩摩国と思われ、倭国に敵対する狗奴国よりも更に南に在り、倭国に含まれないと考えます。 私は狗奴国が南九州に於いて投馬国、大隅国、日向国等と連携して熊襲・隼人連合を形成し、北の倭国に対抗していたものと考えています。 即ち狗奴国は倭国と同規模の連合国だったので、倭国と互角に戦える力が有ったものと思われます。

終章.邪馬台国東遷

 最後に「私の倭国論」から見た「邪馬台国東遷説」に少しだけ触れておきたいと思います。 倭国=高天原は台与=二代目天照大神の時代になると北の宗像国や出雲国および畿内を含む芦原中国と南の狗奴国=熊襲・隼人連合に対し侵攻を開始した模様です。 『記・紀』によりますと、倭国=高天原は出雲国に武御雷神等(討伐軍)を派遣し、圧倒的な武力の差を見せつけることで、大王大国主命に芦原中国の国譲りを認めさせますが、その後芦原中国の統治の為天孫瓊瓊杵尊を降臨させた地は何故か芦原中国とは反対方向の日向国でした。

 ところが『先代旧事本紀』によると芦原中国へは瓊瓊杵尊の兄とされる饒速日命が天磐船に乗って降臨しているので、こちらが正しいものと思われます。 しかし饒速日命を皇室の臣下・物部氏の祖とする『記・紀』としては、饒速日命が皇室の祖・瓊瓊杵尊の兄であっては如何にも都合が悪いわけです。 多分その事に気付いた『記・紀』編纂者が饒速日命の天孫降臨神話を削除してしまったために、『紀・紀』に矛盾が生じたものと思われます。そこで空いた穴を塞ぐ為に『紀・紀』に挿入された話が天若日子なのでしょうが、残念ながら話が上手く繋がっていません。 つまり天若日子は饒速日命のことで、芦原中国に降臨後、大国主命の子阿遅鋤高日子根命(長脛彦命)の妹下照姫(御炊屋姫)と結婚し妊娠もさせたが、謎の若い不審死を遂げたようです。 一方瓊瓊杵尊は倭国の長年の宿敵・狗奴国=熊襲・隼人連合の制圧に日向国へと降臨したのであり、どうやら息子の彦火火出見命と共に熊襲・隼人連合の制圧に成功した模様です。 尚『紀・紀』では倭国軍が熊襲・隼人を制圧していく姿を、木花佐久夜姫の火の中での出産や海彦山彦の兄弟喧嘩として象徴的に語っています。 しかし倭国=高天原としては芦原中国に降臨させた饒速日命が夭折した為に、新たな施政者を芦原中国へ送り込む必要に駆られたわけです。 そこで日向国に在った瓊瓊杵尊の曾孫?とされる神倭磐余彦命が急遽東征したのです。

 『紀・紀』によると東征軍は当時芦原中国を治めていた長脛彦命軍と激しい戦いを繰り広げましたが、戦局が東征軍に傾くと、何故かいきなり饒速日命が登場して長脛彦命を殺害し、神倭磐余彦命に降伏したことになっています。 しかし私はここで登場したのは死んだはずの饒速日命ではなく、饒速日命と御炊屋姫の間に生まれた宇摩志麻遅命だと考えています。宇摩志麻遅命が物部氏の祖とされたのは母方の血によるものでしょう。 かくして倭国が芦原中国と狗奴国を征服し、倭国の勢力圏が九州北部から西日本全体へと拡がった時、倭国の首都・邪馬台国は筑後山門から畿内へと遷都され、後に畿内大和と呼ばれました。 但しこの時、倭女王台与=天照大神は筑後山門に留まり、倭国大王を引退したようです。

 『記・紀』に天照大神が芦原中国に降臨したと云う記述は何処にもありません。 台与から倭王の地位を受け継いだ神倭磐余彦命は畿内の地で新倭王・神武天皇として即位しました。

					最終更新 平成27年5月5日