『狗奴国との戦は無かった!』

												髙川 博

はじめに

 古代を観察する手立てには主として文献と考古学に拠る方法がある。邪馬台国時代を記述した同時代の史料には魏志倭人伝があるのみであるから、魏志(書)の関連部分そして魏の後の晋書の検討が重要となる。しかし、魏志倭人伝の解釈を巡っても多々問題がある。

 女王の都邪馬台国が何処にあったか、未だに結論が出ていない。このことは方向や距離など地理に関する記述に明らかに欠陥(バグ)があるからに違いない。さらに卑弥呼や邪馬台国に関する記述も実際の見聞ではなく、聴き取りによるものである印象が極めて強い。

 つまり陳寿の手元にあった原諸史料には当時の倭国や邪馬台国の状況を正確に復元するだけのものが存在しなかった可能性を示している。私は魏志倭人伝を尊重はするが、金科玉条とはしない立場を取る。後述するように信頼性の高い外交関係の記述以外は常に懐疑的な眼で解釈に臨むことにした。

 文献によるアプローチに限界があるとすれば、あとは考古学の出番となろう。実際我が国や韓国において高度成長期以降の発掘調査による知見増加は目覚ましいものがある。ただし相手はもの言わぬ遺物や遺構であるから、その意味付けにはよほど慎重さが無ければならない。いわば状況証拠の積み重ねによって最も合理的だと思われるような解釈が求められるのである。また同時に考古学の限界についても常に注意しておく必要がある。つまり、地下に眠ったまま未発見のもの、或は過去に損壊や滅失により失われたものの存在である。

 古代を視る眼(史観)で大切なことは枝葉末節にとらわれることなく、大きな歴史の流れの因果関係に眼を凝らすこと、つまり巨視的に観察する姿勢が重要だと考える。

 最初にお断りしておくが、以上のような観点からの考察により私は邪馬台国畿内説(ヤマト)である。その根拠は順次お示しする。

1.史実を視る眼

(1)古代日本人(倭人)の眼で視る重要性

 現代の我々が持っている歴史や考古学の知識は、それが先入観となってしまい古代の実情を探る上では阻害要因となり得るので特に注意が必要である。

 例えば公孫氏について、魏志では公孫氏伝があるのみで、その傘下にあった倭や韓諸国との関わりについては触れていないので、ややもすると軽視あるいは無視される傾向にある。魏の立場からすると反抗的であった辺境の一勢力に過ぎなかった連中に対してはあまり関心が無かったのであろうが、その公孫政権に属していた倭にとっては大変大きな存在であった。しかも、公孫氏は魏や呉、そして高句麗との間で断続的に戦争を繰り返していたのであるから、当然配下にあった倭や韓にも支援を強要したに違いない。倭がその対応に苦慮した様子は残念ながら文献には記されてはいないが、当時の東アジア世界の厳しい状況からは容易に推察出来るのであり、そのことを特に念頭に置いておく必要性がある。

 そして、その公孫氏政権を滅ぼした魏の登場となる。現代の我々は三国で一番隆盛を誇った大国魏の出現を倭人は当然歓迎したはずだ、となるが、そこには落とし穴が潜んでいる。倭人は大陸の三国騒乱の全体像などは殆ど把握できておらず、単に支配者が交代しただけの話なのだから、魏も公孫政権と同様にいつまた無理難題を突き付けてくるかと身構え、警戒心を解かなかったであろう。最初の帯方郡への遣使が想像以上に歓待を受け、女王卑弥呼が破格の処遇を受けることになって、本音では大変戸惑ったことであろうことも、また推察されるのである。

 ところがその後も韓半島情勢はやはりゴタゴタ続きで安定せず、帯方郡下の韓諸国統治は困難を極めていたので、魏(帯方郡)では倭の兵を半島に引き入れて政情安定に利用しようとしたのであろう。  

 倭では公孫氏時代の苦い経験から、その思惑や要求を敏感に察知して何とか切り抜けようと考え出したのが倭国内乱、つまり狗奴国との抗争であった。そのため当面派遣不能との口実を設けて時間稼ぎに出た。危険な賭けには違いなかったが、卑弥呼は戦略的な情報戦により半島介入を避けて国の安定を優先させたのであった。

(2)古代中国人の眼で視る重要性

 魏志倭人伝は3世紀末に晋の陳寿が編纂したものであり、邪馬台国時代を語る上でほぼ同時代史料として欠かせない存在となっている。当然、原史料や参考にした歴史書があったが、それらは全て古代中国人の手になるものであるから、当時の中国人の世界観を認識しておかなければならない。

 歴代の古代中国王朝が周辺の国々や地域の情報を重要視したことは「四夷の変に備える」という姿勢で、自国への侵入、侵略を恐れたことに他ならない。

 東方海域の彼方にある倭についての情報は公孫氏時代の空白もあり詳しい状況は把握していなかったであろう。漢代の諸記録や韓族、倭人からの聞き取りにより多くの島々が南北に繋がり、結構多くの人口を抱えているらしい、という程度の理解だったようだ。実際、陳寿はこのような南北軸地理観で倭国や邪馬台国の所在を示している。このイメージは九州北部の倭人が南西諸島(琉球弧)とのゴホウラ、イモガイなどの貝交易を行った際の地理観が漢人に影響を与えた可能性を指摘しておきたい。

 元々陸の民であった彼らの感覚からすると、大海の島の中に棲むという人々の情景は想像し難いものがあったろう。そこには未開野蛮な連中という認識の反面、世界の絶域にあるという伝統的な東方神仙思想も加わり一種複雑な見方を持っていたのである。

 その中で帯方郡太守の立場からすると、そのような絶域から朝貢して来た倭の使者を朝廷に取次ぐことは功績として朝廷から評価されることになる。

 朝廷としては皇帝の権威を高める絶好の機会であるから卑弥呼を親魏倭王となし金印紫綬を授けるなど破格の待遇で接したのである。ただし、そこには現実的な判断、つまり地政学上、倭の重要性をも認識していた可能性が高い。つまり倭人列島が南北に連なり、敵対する呉の東海上にあって、その牽制に役立つのではないか、との認識。さらに騒乱続きの韓半島安定に利用できるのではないか、という思惑である。世にいう遠交近攻の策である。ここに卑弥呼政権との友好外交と軍事同盟が始まった。

 しかしながら、倭兵の韓半島への出兵要請は、先述の如く倭の国内騒乱という理由によって実現しておらず、そのうちに何と帯方太守の弓遵が韓族との戦いで戦死するという飛んでもない事態となったのである。ここに来て魏の朝廷内では一向に進展しない倭との共同作戦に業を煮やした。狗奴国との戦いを早期に終えさせて半島への出兵を促すために卒善中郎将・難升米へ軍旗・黄憧授与と檄による厳しい命令を出した。しかしながら、その後も倭国の状況は好転しないままであったし、二度の遣使団の観察によって倭人列島の地理観にも疑問が生じており、呉を背後から牽制するという当初の期待も当て外れになってしまった。

 そのうちにお膝元の情勢も変わる。魏の内部では司馬懿仲達に始まる司馬一族が実権を握り、遂には王権を簒奪して晋王朝を建てる。

 魏の最末期から西晋にかけても倭は引き続き遣使を欠かさなかったことが、晋書によって知られる。ところが、この間台与に官爵を賜ったり印綬を下賜したりした記録は無く、倭国に関する詳細な記述は全く姿を消す。卑弥呼時代の厚遇ぶりとは全く逆に冷淡な仕打ちに変わっていた。このことは彼らにとって倭の利用価値が既に無くなったことを意味している。その後の晋書によれば東夷〇〇国入貢という記述が四回見られるだけで、その中に倭(倭国)という名称は全く見い出せなくなる。

 云わば本来の東夷の小国という現実の姿に戻ったということであり、国際情勢の変化による二国間関係を如実に表していることが明白である。

(3)呉との関係について

 一方で呉の倭国観についても触れておきたい。三国志の呉書には黄龍二年(西暦230年)孫権が東方海上にある夷州、亶州に船団を送ったが失敗に終わった、という記述がある。夷州は台湾だとされるが、亶州については南西諸島(沖縄や奄美大島)や済州島など幾つかの候補がある。私はこれを南西諸島=倭国のことだと考える。先述したように古代中国人の地理観では九州から南に島々が連なっている、というイメージが強く、南西諸島付近の海上に倭国を求めたのである。

 魏の対倭接近と同様に呉においても戦略上倭国接近を志向していたのではないか、と推察する。熾烈な三国間(公孫を含めれば四国間となる)の争いの中で、船団を派遣するということは軍事に直結した動き以外には考えられない。倭にとっては幸か不幸かは分からないが彼らが倭国へ辿り着くことはなかったのである。

 南船北馬というように呉の船や航海術は他を圧倒しており、現に遼東半島周辺海域にまで軍船を派遣して公孫政権や高句麗と関係を持った実績がある。その彼らをもってしても失敗に終わったということは、それだけ古代の航海というものが如何に困難であったかの証左でもある。

 我が国では呉の紀年銘鏡が二面出土している。赤烏元年(西暦238年)と赤烏七年(同245年)であるから、黄龍2年(同230年)の遠征とは無関係ということになる。ところが神戸市の夢野丸山古墳から出土した呉の建安十年(同205年)銘の平縁重列式神獣鏡のレプリカと写真が存在する。(実物は所在不明となっている) これは公孫氏絡みで呉から倭国にもたらされた可能性があるものと考えられる。

2.魏志倭人伝から分かる倭国のこと

(1)帯方郡使は倭国の都であった邪馬台国(畿内・大和)には行かなかった。

 郡使一行は伊都国において一大卒へ下賜品を授与した後は同国に留まった。一大卒は女王卑弥呼の名代として遣わされており、下賜品の中身を点検できる捜露の権を有している人物であり、ここでの引き渡しにより一応彼らの責任は果たせる。邪馬台国は遠隔の奥地にあり、粗末な倭の舟での長期間に亘る往復と内乱による危険性に恐れを抱いたのであろう。

 さらに都が遠隔の地にあったからこそ一大卒を伊都国に置く必要があったということであり、邪馬台国大和説を補強する。九州に都があったとすれば伊都国に留まる理由は全く無く、直接都へ赴けば良いだけの話である。

(2)倭の準構造舟での邪馬台国までの日数は妥当である。(倭人からの聴き取り)

 不弥国から投馬国まで水行20日、投馬国から邪馬台国まで水行で10日、陸行であればⅠ月、となっている。この数字は当時の準構造舟の性能から見て妥当な日数である。後の時代の瀬戸内航路の状況から見ても整合性がある。ちなみに、当時の航海は地乗り航法(沿岸目視)で昼間のみ漕行。一日の航海距離は平均30km程度であった。速度は3ノット(1ノットは1哩で1時間に1852m進む)として1日6時間(交替)漕いで33.6kmとなる。

(3)狗奴国は東海勢力(伊勢湾沿岸)であるが、仇敵であった可能性はない。

 邪馬台国の東にあった勢力で狗奴国の最有力候補となるのは伊勢湾沿岸の東海西部(美濃、尾張、伊勢)勢力である。当地の弥生土器や墳墓は独特のものがあり畿内以西とは一線を画す。廻間式土器やS字甕、それに前方後方墳が、それらの特徴を表す。ところが、纏向遺跡から出土した土器の分析によると甕や壺など外来系の土器のうち約半数を東海系の土器が占めている。邪馬台国の都(纏向)建設には東海地方からやって来た人々が多数従事した姿が覗える。魏志倭人伝には邪馬台国連合が狗奴国との戦いで苦戦を強いられて魏に援助を申し出たことが描かれているが、そのような敵対する国ではなかったことは明白である。考古学の上でも長期間に亘る戦争の跡なども全く窺うことは出来ない。

 また、帯方郡使一行の中には当然軍人が居たはずであり、軍事協定を結んだ当事国の戦争であれば、彼らの義務として戦線視察を行わなければならないはずだが、そのような記述は一切見当たらない。これも戦線?が遥か遠隔の地であり、視察など不可能だった、ということを示している。

3.考古学から分かること

(1)倭国連合の首都・邪馬台国は大和の纏向ではあるが?

 3世紀前半において首都・邪馬台国を想起させる遺構は今のところ大和・纏向の地以外の候補先は見い出せない。特に列島各地から集積された遺物の数々はここが首都機能を果たしていた証拠と見なされる。さらに当地の前方後円墳群は巨大古墳築造を特徴とする次世代へと続く、新たな葬送儀礼の誕生をも窺わせるものだ。

 ところが畿内説には問題もある。所謂畿内説論者は大和の豪族集団が中心となって新しい国家を建設したとするが、弥生後期から末期の大和の状況を見ると先進的な大集落は無く戦略物資としての鉄も持っていない後進の地であった。九州北部や吉備など他の勢力を制して主導的役割を果たしたとは到底考えられない。

 特に鉄に関してはこの時期九州北部においては鉄器の斉一的普及が既に見られていたが、奈良盆地は空白域で一種のエアーポケット状態であった。さらに3世紀中葉に奴国で新たな高温操業を伴う画期的な精錬鍛冶技術が誕生したが、その最新技術があまり時を経ずにいきなり纏向へもたらされたことは新首都建設の証ともなる。

(2)新しい国家建設に主導的な役割を果たしたのは?

 九州の奴国と吉備であった。邪馬台国時代はその後の大和における前方後円墳を中心とした古墳時代の幕開けを告げるものであり、古墳の要素を分析すれば両国が指導したことが理解できる。

 まず墳丘の形を見ると前方後円墳の源流は明らかに吉備と阿波、讃岐に見出すことが出来る。瀬戸内中東部地域の勢力と置き換えてもよい。しかも箸墓や西殿塚などの初期巨大古墳に見られる特殊器台・特殊壺は吉備において生まれ発展してきたものだ。古墳の葬送観念はそこに大和連合政権の盟主の存在を表すことになる。

 次に墓室や棺内に広く用いられた朱(硫化水銀)は弥生時代の九州北部の伝統を受け継ぐものだ。副葬品の中で最も尊重されたのは鏡である。これも大陸から大量の青銅鏡を受け入れてきた奴国など九州北部の葬送の風習だ。

 大和にはこれらの伝統は見受けられず、これらの要素とは断絶があるのははっきりしている。瀬戸内中東部勢力を代表する吉備、そして北部九州勢力を代表する奴国がこの西日本連合政権を樹立する上で主導的な役割を果たした、と考える。

(3)奴国と吉備国東進の背景

 両者が東進した状況や背景にも触れておく必要がある。

 弥生後期に吉備型甕は瀬戸内を縦横に巡る。西は奴国の西新町遺跡、東は大和の纏向遺跡へと運ばれており吉備はその中心をなす。ところが足守川流域にあり楯築墳墓等を遺した備中勢力は3世紀に入ると突然と姿を消す。行き先は特殊器台など吉備系の遺物が突然と纏向に現れることから大和盆地へ入ったことが分かる。もっともこれ以前に吉備勢力は河内に沢山入植して橋頭堡を築いていたので、河内を足掛かりに大和川を遡り大和へ入ったのだ。

 一方、奴国はと言えば、3世紀になるとそれまで中心となっていた須玖丘陵(春日丘陵)の集落は姿を消して比恵・那珂あるいは博多など平野部に中心を移す。これを王都の移動とも考えられるが、私はこの旧盟主一族は吉備と手を結んで新天地の畿内・大和へ進出したと思う。「漢委奴国王」金印をもらうなど、それまで漢の後ろ盾を得てきた奴国は、公孫氏の勃興と共にその地位を隣国・伊都の王に譲らざるを得なかったのである。福岡平野にはその後他地域に先駆けて庄内式土器系統の土器が搬入され始める。後に残った新盟主と大和の絆を思わせる現象である。

 2世紀後半の東アジア情勢は、長く続いて来た大漢帝国の動揺の波が周辺部へ及んで不安定な状況にあった。倭国もその中で対公孫政権への対応に苦慮させられていたはずであり、列島内の各地有力者も求心力を形成する必要性に目覚めたはずである。そしてその意識こそが西日本連合政権の樹立を促進させることになる。現日本国からすれば、これを我が国家形成の第一段階と考えてもよいであろう。

 都の場所は半島に近く侵略される危険性がある九州を避けて、遠く離れた大和に白羽の矢が立った。3世紀の初め、奴国と吉備が結ぶことによって、初めて大和―河内―吉備―奴・伊都といった瀬戸内航海ルートが安定し、さらに壱岐、対馬を経て韓半島への大動脈(ヒト、モノ、情報の交流)が確保されたのである。

 所謂邪馬台国東遷説というものがある。東遷とは九州あるいはその他の地域にあった邪馬台国なるものが、都を移動したということであるから、私のこの説には該当しない。本当に都を移したのであれば、魏志倭人伝その他の文書に触れられているはずであるが、全く触れられていない。また東遷説の多くはその時期を3世紀末から4世紀初めとするが、それでは2世紀末とされる纏向遺跡の登場時期から隔たってしまう。九州にもそれ以外の候補地でも特に都と呼べるような集落址が纏向以外にはないことから見ても、東遷説は成立しない。

 纏向遺跡の宮域や建物跡と見られる小規模な遺構からは、魏志倭人伝にある「居処、宮室、楼観、城柵厳かに設け常に人有りて兵を持ちて守衛す」や「婢千人を以って自ら侍らしむ」の壮大な記述とはかけ離れている印象を受けるが、実態はこの程度のものであったであろうし、この記載からも遣使一行が邪馬台国へは行かず、倭人からの聞き取りに拠ったものであることを示している。

おわりに

我が国の古代史は闇に包まれている。敗戦までの国史(日本古代史)は古事記や日本書紀の中から都合のよい部分を抽出して国民教育を行い、世界に冠たる皇国史観を創出して求心力とした。敗戦後は遺構や遺物に重きを置く考古学の進展が目覚ましく、旧石器時代から今日までをモノからある程度推察することも可能となった。しかしながら文字史料も無い時代の我が国の国家形成を考える上で重要な部分が欠落したままだ。

 言うまでも無く陵墓の存在である。宮内庁は陵墓やその参考地は立ち入り禁止扱いとしている。最近では学会の代表者に一部の観察立ち入りを制限的に認める姿勢を示してはいるが、もちろんこの程度で分かることはほとんど限られている。この状態のままでは弥生時代から古墳時代への変遷期(邪馬台国時代)、国の成り立ちを解明することは不可能である。これまで陵墓とされた墳墓が経済的・無制限な破壊から守る役目を果たしてきたことも評価されるが、そもそも古墳は天皇家のみならず、国民共有の財産でもあるはずだ。そろそろ古代史を科学的に解明する方策を考える時期でもあろう。

 国家的(文化的)事業の一環としての学術的調査を強く要望したい。その場合には当然優先順位をつけて計画的に整斉と実施されるべきであろう。その意味で邪馬台国や卑弥呼に関係するものとして最も国民的関心が高いのはやはり箸墓であろう。近年、我が国を取り巻く諸国との外交関係には厳しいものがあり、自分の国を歴史の基本から見つめ直す絶好の機会だとも云える。

『卑弥呼に会えるか?箸墓から明日の日本を考えよう!』

広く国民的運動の推進を提唱したい。


3世紀の東アジア


九州の国々


3世紀の船(舟)と航海


箸墓

					最終更新 平成27年3月6日