『邪馬台国と大和朝廷の誕生秘話「騎馬民族説の復活」』

												槌田 鉄男

1、初めに

 元エンジニアの私は定年後、再就職の場として韓国の大学で3年間教鞭を取り、2012年末に帰国しました。韓国では多くの友人を得ることが出来、又、各地を訪問する機会も得ました。現地で感じたのは日本人への親切心と共に根底に流れる民族性の大きな違いであり、それが、日本古代史に興味を抱いたきっかけです。また、百済の武寧王陵から発見された棺が世界的に見ても近畿地方にしか産しないコウヤマキであり、更に彼が日本生れであると言う記紀の伝承から百済と大和朝廷とのただならぬ関係を感じたのがもう一つの動機です。

 日本の歴史の出発点は邪馬台国を外しては解明できません。邪馬台国が何であったのかが分かって、初めて大和朝廷の原点が分かり、それに続く日本の歴史が分かって来ます。
では近畿説と九州説、この江戸時代から続く邪馬台国論争は何故終わらないのでしょうか?それは双方の説が共に欠陥を持ち、互いが論破できないためです。近畿説では纒向遺跡を筆頭に遺跡・遺物の多くが魏志倭人伝の記載内容と一致しません。九州説では邪馬台国が東征し、その後、大和朝廷に繋がる事への充分な解明がなされていません。
邪馬台国を決定するための要件は大きく2つです。

要件1、遺跡と魏志倭人伝の記載内容との一致
要件2、大和朝廷成立に向ってのストーリーが合理的に説明出来る

邪馬台国が何かを知る目的は要件2、にあります。大和朝廷がどのようにして成立したのか、その事が説明できない限り、例え要件1、の答えが出ても多くの支持を得る事は出来ません。その点、近畿説は要件2のストーリーを容易に作る事が出来るため、非常に有利です。現在の多くの考古学者が近畿説の立場なのはそのためだと思います。しかし、言うまでもありませんが、邪馬台国は魏志倭人伝に書かれた国であり、記載内容との一致がない限り、邪馬台国であると決定する訳には行きません。記載内容一つ一つに対する考古学的検証が必要です。現在の考古学ではこの事に関する説明が足りていないと思います。

私は現在判明している考古学的事実と文献資料を素人なりに整理検証し、これまでにない新たな視点から論理的でより合理性に富んだストーリーを立てる事が出来ないかトライしてみました。そこから得られた結論は下記のようになりました。

1.邪馬台国の国々(女王国)は阿蘇を含む中部熊本以北の北部九州にあった。
また、邪馬台国の国々は弥生渡来人で構成され、南部九州にあった狗奴国は縄文人の国であった
2.邪馬台国の近畿への東征はなかった。
3.纒向遺跡は騎馬民族である扶余族と彼らが王として担いだ公孫氏が造ったもので、それが初期の大和朝廷となった
4.纒向から発展した大和朝廷は邪馬台国を制圧し、次いで列島全体の制覇を進め、更に朝鮮半島への回帰を進めた
この結論の中で特に3.は多くの人にとって意外なものかも知れません。元々の発想は統一後間もない大和朝廷が広開土王碑や、倭王武の上表文にあるように積極的に朝鮮半島へ進出し、その覇権を唱えるまでに、どのようにして到ったのか。また、唐と新羅の連合軍を相手に、何故国家存亡のリスクまで犯して大軍を送り白村江の戦いに臨んだのか。これらの疑問に真正面から答えてくれるのは騎馬民族説しかないと思った事に起因しています。
今、騎馬民族説が下火になっている中、この発想に異論は多いと思います。しかし、今回の結論は考古学で判明している最新の事実を組み合せたものを、文献資料に照らし合わせ、導き出したものです。あり得ない突飛な発想ではないと自分では考えています。以下に、何故このような結論に到ったのか説明します。

2、近畿、九州それぞれの遺跡の特徴

 まず、最初に2つの説の遺跡について比較してみます。近畿説では最大の有力候補、纒向遺跡を中心に、九州説では北部九州全般の遺跡について、それぞれの特徴を自分が掴んだ範囲で列記します。ここに列記した特徴が事実かどうなのかについては多くの異論がある事は重々承知していますが、ここでは敢えて多くの考古学者が主張している内容のまま記したつもりです。
【纒向遺跡とその近隣の遺跡】

①纒向遺跡は3世紀中頃、それまで弥生時代の遺跡のない所に突然出現し、4世紀後半に突然消えた。
②日本独自の墳墓である前方後円墳が出現。特に箸墓古墳は当時としては破格の大きさである。
③大陸色の影響の強い出土品
前方後円墳は木棺木槨墓を伴い、副葬品として中国や朝鮮半島製と思われる素環頭太刀、画文帯神獣鏡や内行花文鏡などの銅鏡や鉄剣・鉄鏃・鉄農具
箸墓古墳の近傍からは4世紀初頭のものと思われる木製の鐙。
④多くの鉄器や木器などの製造に関わる職人の存在
鉄製品を作る為の工房跡、フイゴ
染色 それまで国内に自生していなかったベニバナの花粉
⑤環濠が無く、都市計画に基づき作られた最初の遺跡。住居跡がない政治的色彩の強い都市と大型建築物。
⑥東海、北陸、山陰や関東まで広い範囲の土器
纒向遺跡は上記のような特徴を有しますが、3世紀中頃に弥生時代の痕跡の何もない場所に突然発生したもので、下記のような近隣遺跡の状況を見ても、どのような過程を経て出来たのか解明されていません。
⑦弥生時代の大規模遺跡である奈良盆地の唐子・鍵や河内の池上・曽根遺跡には大型建築物はあるものの、鉄器はなく、銅鐸を除き、銅鏡など銅製品も少なく、纒向遺跡に直接繋がるとは思われない
⑧唯一繋がりがあると思われる吉備の楯築墳丘墓は3世紀初頭に突然出現し、その後、吉備に同類の古墳で続く物はない。
墳墓は双方中円の形状をしており、木槨墓や円筒埴輪の源流と言える特殊器台の出土などから纒向の前方後円墳に大きく影響したと思われる。また副葬品は1振りの鉄剣とヒスイの勾玉3連だけであるが、30㎏に登る多量の水銀朱など大陸の影響が大きい。


【九州の遺跡】

①魏志倭人伝に記載される末慮国、伊都国、奴国などに想定出来得る遺跡が実在する。
②北部九州から熊本中部以北は弥生時代全般に渡って多くの大規模環濠集落が存在する。
③筑紫平野を中心とする北部九州と熊本北部は土器の特徴が異なるが、双方に互いの土器が出る。
④阿蘇を含む同地域は1世紀中頃から3世紀中頃にかけて鏃を始めとする多数の様々な鉄器類が出土し、数量としては全国的に見て抜きんでている。
⑤多数の後漢鏡が出土し、副葬品の豊かさでは王墓に相応しい墳墓が複数存在する。ただ墳墓の大きさは最大40mあまりで、比較的小規模である。
⑥北部九州は骨考古学的にも渡来人の要素が大きく、多くの戦闘による死者が見られることや最大の特徴であった甕棺が邪馬台国時代に無くなること等から、住人の入れ替わりはあるが、紀元前から3世紀中頃まで継続性がある。

3、魏志倭人伝の記載内容と各々の遺物の比較

 それぞれの遺跡の概要から、要件1に基づいて魏志倭人伝から邪馬台国として相応しいかどうか検証しました。魏志倭人伝の文面を整理すると、邪馬台国の決定要素は3つあります。これらのいずれも満たさない限りこれが邪馬台国だと言う事にはなりません。

A)時代;2世紀初頭から3世紀中頃まで存在していた事
B)位置;旅程や帯方郡からの距離が示す位置に存在していた事
C)遺跡や遺物;遺跡、遺物が記載内容と一致している事

A)① 時代

 この中で、A)が一番重要です。B)、C)が一致しても時代が一致しなければ、似ているものが別の時代にあったと言うことにしかなりません。魏志倭人伝には 『其の国、本と亦た男子を以って王と為し、住まること七・八十年、倭国乱れ、相攻伐すること歴年、及ち共に一女子を立てて王と為す』とあります。『倭国乱れ』の時期は後漢書などから180年前後のこととされ、それを遡る7、80年前の2世紀初頭にはすでに存在していたのです。
 この点から言って、纒向遺跡は最初から候補として落選です。考古学上、この遺跡は3世紀中頃に突然現れ、卑弥呼が死ぬ直前か直後に出来たものです。そして倭人伝には邪馬台国が移動したと言う記載もありません。南に位置する狗奴国と長年に渡って対峙していたと言う事からもそれが言えます。しかし百歩譲って、例えば箸墓古墳が卑弥呼の墓だと言うのであれば、死ぬ直前にどこから移動して来たのか明確にしなければなりません。そしてその移動前の場所も含めた場所が近畿説での邪馬台国の候補地の資格を持つ事になります。
 近隣の遺跡として、唐子・鍵や河内の池上・曽根遺跡はその遺物を見る限り、纒向の前身とは考えられません。吉備まで目を転じて楯築墳丘墓が前方後円墳に繋がると言う点が注目されるだけです。と言う事で、本来B)、C)の検証に移るには値しないのですが、あえて近畿説の候補地を纒向と特定せず、その近在を含めた近畿全般と仮設定して進めたいと思います。
 一方で、九州説も具体的な候補地は絞り切れていません。しかし、北部九州には候補の資格を持つ遺跡が複数存在するため、ここでも北部九州全般と仮定してみます。

B)位置
 位置を示す記載は2ヶ所あります。魏の使節が帯方郡から倭国に来た時の旅程を示したものと、帯方郡からの距離で示したものです。多くの人が挑み、未だに確定していない訳ですが、位置を特定するためには、この検証を外せません、この2つで示されたものから自分なりに邪馬台国の位置を推測してみました。
② 魏の使節の旅程からの推測
『郡より倭国に至るには、海岸に循って水行し、韓国を歴るに、たちまち南し、たちまち東し、其の北岸狗邪韓国に到る七千余里。始めて一海を度り、千余里にして、対馬国に至る。 ・・・。又た南へ一海を渡ること千余里、名づけてカン海と曰い、一大国に至る。・・・。 又た一海を渡り、千余里にして、末慮国に至る。・・・。東南に陸行すること五百里、伊都国に到る。東南して奴国に至る百里。・・・。東行して不弥国に至るに百里、・・・。南して投馬国に至るに、水行二十日。・・・。南、邪馬台国に至り、女王の都する所にして、水行十日、陸行一月。』
この文章の中で位置を特定するために明らかにしなければならない要素が3つあります。『国』が現在のどこに相当するのか、国と国間の『方向』が正しいものか、『里』が当時一般的な434mなのかそれとも80m前後と言われる短里のどちらなのかと言う3つの検証が必要です。

(国名の特定)

 この文章で不弥国までは色々異論はあるものの該当場所を当てはめる事が出来ます。帯方郡はソウル近郊、狗邪韓国は現在の金海市、対馬は対馬島の三根遺跡、一大国は壱岐島の原の辻遺跡、末慮国は唐津でしょうが、実際の上陸地点は呼子とするが妥当と思います。伊都国は糸島市の三雲南小路遺跡、奴国は春日市の須玖岡本遺跡、不弥国は異論も多く、特定できないものの糟谷郡粕屋町辺りが妥当でしょう。

(方向と里を検証する)

記載内容にある方向と距離を現在の地名の位置関係から対応させ、1里が何kmだったか計算した結果は下記のようになります。⇒に示したものが現在の地名からの推測です。

帯方郡 海岸にそって南や東7000里 狗邪韓国  

   ⇒ ソウル 南から東700km 金海市  1里100m


狗邪韓国 海を渡る1000里 対馬  

   ⇒ 金海市 南100km 三根遺跡    1里100m


対馬 南に海を渡る1000里 一大国 

   ⇒ 三根遺跡 南100km 原ノ辻遺跡  1里100m


一大国 別の海を渡る1000里 末羅国 

   ⇒ 原ノ辻遺跡 南60km 呼子     1里60m


末羅国 東南に陸行500里 伊都国 

   ⇒ 呼子 東南から東北 45km 三雲南小路遺跡 1里90m


伊都国 東南100里 奴国 

   ⇒ 三雲南小路遺跡 東南東20km 須玖岡本遺跡 1里200m


奴国 東100里 不弥国 

   ⇒ 須玖岡本遺跡  東15km 糟谷郡;粕屋町     1里150m

呼子から三雲南小路遺跡は方向としては真東になりますが、最初20kmばかり東南に進むので、その事だとすればおかしくはありません。その他の方向も、正確とは言えないものの、それ程おかしくはありません。 距離については1里のバラツキが海上に比べ、陸路で大きい事が分かります。これは直接目標が見える海上に比べ、陸路の場合、特に山間部で目標が見えず、くねくねと歩く為です。特に伊都国から先の奴国、不弥国のバラツキが大きいと言えます。しかし、いずれにしても1里は434mよりはるかに小さく、80mの短里説が正しいと思われます。

(邪馬台国の位置を考える)

 では本題の邪馬台国について考えてみましょう。

不弥国(糟谷郡;粕屋町) 南に水行20日で投馬国 南に水行10日陸行1月で邪馬台国
 水行1日をどの程度の距離とするかは熊本の宇土市から継体天皇陵と言われる高槻市の今城塚古墳まで石棺を手漕ぎの船で運んだ実績から1日16kmとして20日は320km。10日は160kmと言えます。
 近畿説では15世紀の朝鮮の古地図を基に南を東と取るのが一般的ですが、投馬国を出雲とすれば、粕屋町から出雲まで300km、それから東に水行10日で丹後半島辺りに上陸し、陸行1月で奈良盆地までおかしくはありません。しかし、不弥国までの方向はそれ程間違ってはおらず、それ以降の方向を、千年以上後の地図を根拠に、また、方向を定め易い海上ルートで南を東とする事にはやはり大きな疑問が残ります。
 一方、九州説では魏の役人が確実に訪れていたはずの伊都国から放射状に取るのが一般的ですが、多くの候補があって結論は出ません。自分でやってみてもいくつもの候補地が浮かび上がって来るだけです。
 一方で、水行10日陸行1月は卑弥呼の使いが魏の役人に話したもので、帯方郡から邪馬台国に行く全体の日数を言ったとする考え方があります。それまで里程だったのにここで日数にいきなり変る為、この考え方の方がより合理的だとも思われます。しかし、この場合も後述するように卑弥呼の居場所を隠すため使者があいまいに答えたのだと考えるのが妥当だと思います。
結局、両説とも旅程から邪馬台国の場所を推し量るには疑問が残ると言う結論です。

③ 帯方郡の距離から邪馬台国の位置を推測する
   倭人伝には『郡より女王国に至る万二千余里』とあります。帯方郡から狗邪韓国まで7000里、狗邪韓国から伊都国までの距離は累計で3500里ですから、伊都国から邪馬台国まで残り1500里となります。これに1里80mを当てはめると、120kmとなり、糸島市から120kmは、熊本の中部辺りになります。
一方、糸島市から120kmでは近畿にはどうやっても届きません。仮に434mで計算すると、12000里は5000kmとなり、太平洋上になってしまいます。近畿説では全く成り立たない事になります。
   この『郡より女王国に至る万二千余里』と言う文章は狗奴国の説明のすぐ後に出て来るため、水野裕氏は12000里を女王国の中心ではなく、女王国と狗奴国との境の事だとしています。それだと熊本中部以南が狗奴国と言う事になります。

C)記載内容と遺跡や遺物の状況を対比する

④ 国の数 

『旧百余国。漢の時朝見する者有り。今、使訳通ずる所三十国』とあります。5世紀の倭王武の上表文には『毛人を征すること、五十五国。西は衆夷を服すること六十六国。渡りて海北を平らぐること、九十五国』とあります。近畿に邪馬台国があった場合、西日本は全て征服していたと考えないと不自然です。30国では少なすぎて近畿説には不利です。

⑤ 伊都国の重要性
   『女王国の以北には、特に一大率を置きて、諸国を検察し、諸国之を畏れ憚る。常に伊都国に治し、国中に於いて刺史の如き有り。』とあります。伊都国のあった糸島市に何らかの重要な機関を置き、国中を管理下に置いていたことを意味しています。近畿説に従えば、遠く離れた西の端に、このような重要な機関を置いたことになり、不自然です。貿易管理だけならともかく、諸国の検察を行い、諸国はこれを畏れ憚っている程の機関なら国全体を見渡し易い場所に置くはずです。徒歩しか移動手段のない時代に九州にいて近畿まで管轄出来たとは思われません。近畿説には不利です。

⑥ 戸数
   『対馬国1000余戸、一大国3000の家、末盧国4000余戸、伊都国1000余戸、奴国20000余戸、不弥国1000余戸、投馬国50000余戸、邪馬台国70000戸』とあります。寺澤薫氏は当時は1戸5人程だと言っています。7万戸だと邪馬台国だけで35万人になります。一方、人口学専門の鬼頭宏氏は1800年前の奈良、京都、大阪を含む畿内の人口を約3万人、福岡、佐賀、長崎、大分を含む北部九州は4万人と推計しています。畿内、北部九州どちらとも魏志倭人伝に記載されている内容とは程遠く10分の1程度です。従って、この数字は明らかに誇張していると考えるべきです。不弥国を除き、大きな数字は奴国、投馬国、邪馬台国です。重要な機能を持っていた伊都国でさえ、1000戸としている事からも3国の数字が誇張されたものであることが、分かります。
魏の役人が実際に行った伊都国までは本当に近い数字を報告し、それ以降の国は倭人が誇張して報告したと考えるべきでしょう。従って、戸数からは両説の優劣はつけ難いと言う事になります。

⑦ 産物;鉄・絹  ⑧ 丹(水銀)

『・・・竹箭は或いは鉄鏃、或いは骨鏃にして・・・』『養蚕して絹織物を紡ぐ』とあるように邪馬台国では鏃には鉄を使用し、絹を産していたことになります。よく知られているように弥生時代の奈良盆地では、全くと言っていいほど鉄も絹も出ていません。一方で北部九州では鏃を含む多量の鉄製品が出土し、佐賀、福岡では多くの絹が出ています。圧倒的に九州が有利だと言えます。
   『そこの山には丹があり』と記載があり、243年の朝貢の時に献上品にも丹が含まれています。この時代、水銀の産出では近畿地方が有利で、徳島県若杉山辰砂鉱山遺跡が多量の水銀を産し、水銀と関係する丹生神社も和歌山県に圧倒的に多いと言われています。
   一方、九州では水銀を輸入に頼り、産出には疑問があったのですが、丹生神社は九州にも多数あり、更に鉱脈となる中央構造線も九州、四国、奈良を貫いて走っているので、充分採取できたはずです。熊本大学の野田雅之さんは大分県でも水銀朱の製造地発見の可能性を示唆しています。九州にも鉱脈があり、昔は自然に水銀がにじみ出ていたが、現在では自然に出る事はまれになったようです。このような事から丹は近畿説が有利だが、九州も否定は出来ないと言う事になります。

⑨ 埋葬形式
『其の死するや棺有りてかく無く、土を封りて冢を作る。』とあります。弥生時代の近畿の墓は木棺のみですが、纒向の前方後円墳は木槨が使われていて、その中に木の棺を入れてあり、記載内容と不一致です。
一方、3世紀前半までに九州で発見されるいずれの墳墓にも木槨はなく、甕棺または木の棺であり、記載内容と一致します。この文章も九州説に有利です。

⑩ 墳墓の大きさ
『卑弥呼以て死し、多いに塚を作るに、径百余歩』とあります。近畿説では箸墓の後円部が145mあり、約100歩で卑弥呼の墓の有力候補です。しかし、箸墓は全長270mを超える巨大な前方後円墳で、この特異な形状に触れず、後円部の直径しか書かないのは如何にも不自然です。
   魏志倭人伝の中には100と言う数字が6回も出て来ます。これは偶然ではないと思います。一つ目、二つ目は伊都国から奴国、伊都国から不弥国までの距離が共に100里、三つ目が長寿の100年。四つ目が魏の皇帝が賜った銅鏡100枚。五つ目が卑弥呼の墓100余歩で、六つ目が殉葬した奴婢で100人です。この中で、寿命は『その俗正歳を知らずただ春耕秋収を記して年紀となすのみ』と言う事から1年を2年として数えている為、50歳だと言う事が分かります。また、銅鏡は魏の王が与えたものですから、信憑性は高いかもしれません。しかし、奴国と、不弥国までの距離は魏の使いが倭人から聞いたものであり、先の検証結果でも伊都国と奴国間、伊都国と不弥国間の距離からの算出結果はそれぞれ1里が200m、150mとなり、実際に魏の役人が訪れた他の国々の場合よりはるかに大きい値です。これらの事から倭人が言ったと思われる百と言う数字は信憑性に欠けることが分かります。戸数も倭人が伝えたであろう奴国と投馬国、邪馬台国の戸数は誇張して大きい数字になっています。熊本の方保田東原遺跡で出た土器には6から10まで数えた印があります。しかし、弥生人は大きな数を認識できたのでしょうか。墓百余歩も奴婢百人も共に数を知らない倭人が単に大きい墓、たくさんの奴婢と言った事だとするのが妥当だと言えます。従って、墳墓の大きさから邪馬台国を判断する事は出来ないとの結論になります。

⑪ 宮殿・楼観・城柵
『居処の宮室・楼観・城柵、厳しく設け、常に有りて、兵を持して守衛す』とあります。建物が柵で厳重に囲まれていたのです。唐子・鍵遺跡には楼閣はあるものの、弥生中期初頭のものであり、環濠にも城柵はありません。池上・曽根遺跡も同様です。纒向遺跡には環濠さえありません。
一方で吉野ヶ里には宮殿や楼観と思われる建物があり、敵の侵入に備えた為か深い環濠と共に柵もあります。ここでも九州説が有利です。

  

【近畿説 対 九州説の優劣比較】

  上記の10項目に時代を加えて、それぞれの優位性を比較し、列記すると下記のようになります。   ① 時代;2世紀初頭~3世紀中頃に継続的に存在   近畿説 ×    九州説 ○   ② 魏の使節の旅程からの位置を推測         近畿説 △   九州説 △   ③ 帯方郡の距離から邪馬台国の位置を推測する    近畿説 ×   九州説 ○   ④ 国の数                     近畿説 ×   九州説 ○   ⑤ 伊都国の重要性                 近畿説 ×   九州説 ○   ⑥ 戸数(数字を誇張している可能性大)       近畿説 ―   九州説 ―   ⑦ 鉄・絹の存在                 近畿説 ×    九州説 ○   ⑧ 丹(水銀)                  近畿説 ○    九州説 △   ⑨ 埋葬形式                   近畿説 ×    九州説 ○   ⑩ 墳墓の大きさ(数字の信憑性疑問)       近畿説 ―    九州説 ―                                  ⑪ 宮殿・楼観・城柵               近畿説 ×    九州説 ○

結果は上記のように一目りょう然で、九州説が圧倒的に有利です。邪馬台国は九州だったと言う結論になります。纒向はあくまでも3世紀中頃の邪馬台国最後の時代に突然出現した遺跡でしかないと言う事になります。
では、九州のどこにあったのか、その為のヒントになる狗奴国をどう考えるべきかトライしてみました。

4、魏志倭人伝から読む狗奴国とは

 狗奴国は邪馬台国の南に位置し、邪馬台国の位置を決める上で重要な役割をします。先に述べたように、水野裕氏は『群より女王国に至る萬二千余里』という内容は女王国と狗奴国の国境のことだと言う説に関して、それ以降の風俗の説明は全て狗奴国の事だとしています。しかし、その後、長々と列記してある風俗が全て狗奴国の事だと言うのでは、無理がある為、森浩一さんは6割ほどそうだ思うが、そう考えると、おかしい所も出て来ると言っています。例えば絹がでてきますが、絹の遺物は南部九州では見つかっていないからです。

 狗奴国の説明はどこかで終わって、再び女王国の説明に戻っているはずです。倭人伝の中で私が狗奴国の部分だと思われる箇所が下記の「 」の文章の中で〔 〕内の部分です。
「・・・次に奴国がありて、此れ女王の境界の尽くる所なり。〔其の南に狗奴国有りて、男子を王と為し、其の官に狗古智卑狗有り、女王に属さず。郡より女王国に至る萬二千余里。 男子は大小と無く、皆鯨面文身す。古より以来、其の使中国に詣るや、皆自ら太夫と称す。夏后小康の子、会稽に封ぜられ、断髪文身して、以て蛟龍の害を避けしむ。今、倭の水人、好んで沈没して魚蛤を捕え、文身し亦た以って大魚・水禽を厭わしむるに後、ようやく以て飾と為す。諸国の文身各おの異り、或いは左にし或いは右にし、 或いは大にし或いは小にし、尊卑差有り。其の道里を計るに、当に会稽の東冶の東に在るべし。〕其の風俗淫ならず。男子は皆露紒し、木綿を以って頭に招く。其の衣は横幅・・・」

 狗奴国の説明の始まりは『其の南に狗奴国有りて・・・』からです。「 」内の文中に『其の』が6回出て来ます。最初の『其の』が女王国の事であり、次に出て来る『其の官に・・・』の『其の』が狗奴国の事であるのは誰でもが認めていると思います。この次に突然『郡より女王国に至る萬二千余里。』が出て来ます。狗奴国の説明のはずが、いきなり女王国までの距離が出て来るのです。これでは文脈上おかしいので、本来『郡より女王の境界に至る萬二千余里。』と書くべき所、『境界』が抜けたのだと水野裕氏は考えた訳です。そう考えると、それ以降の文章は全て狗奴国の説明になってしまいます。これも、またおかしいのは先に述べた通りです。

 引続き、『其の』に注目して読んで行きます。『古より以来、其の使中国に・・・』の『其の』も文脈上、狗奴国のことだとなります。その後、風俗の説明があって、次に出て来るのは『其の道里を計るに、当に会稽の東冶の東に在るべし。』です。この『其の』は明らかに『万二千余里』を指し、『帯方郡から1万2千里と言う事から計れば会稽の東にあたる』と言う意味になります。そして次に出て来るのが『其の風俗淫ならず・・・』です。この『其の』が注目されます。その前の風俗『男子は大小と無く、・・・』には『其の』がついていません。これは『其の』をつけないで、引続き狗奴国の説明だと言う事を意味し、今回は『其の』をつけて風俗の説明に入っているため、この場合の『其の』は女王国の事ではないでしょうか。

 つまり、〔 〕内の部分が狗奴国の説明範疇になります。そう考えると補強材料が更にありました。この説明文中で『今、倭の水人・・・』と倭の前に『今』を付けていますが、倭人伝の中で、他に『今』を付けた『倭人』の箇所はなく、『いま』では意味が通じません。『今』は『この』とも読めます。『この倭の水人は・・・』とすれば、『この』は狗奴国を指す事になり、女王国の倭人ではない事になります。更に文中に『其の使中国に詣るや、皆自ら太夫と称す。』とありますが、後述で邪馬台国の使いは太夫と出て来るため、ここで説明する必要はありません。これは狗奴国の使節だと言うことになります。

 こう解釈すると、狗奴国の風習がはっきりしました。男子は身分の差に関係なく皆が顔や体に鯨面(入れ墨)をしている事になります。後述の女王国の風俗の説明の中で『朱丹を以て其の身体に塗ること、中国の粉を用うるが如きなり。』とあり、入れ墨が邪馬台国のことなら、入れ墨の上に更に朱丹を塗る事になり矛盾します。要は狗奴国では男は皆入れ墨をしているが、女王国では中国人のように身体に朱丹を塗っていると言う事になります。この文章は女王国と狗奴国との際立った風俗の違いを説明していることが分かります。入れ墨は縄文時代の土偶で多く見られます。熊本中部の益城町では弥生時代としては珍しい入れ墨をした土偶が出ています。狗奴国は縄文人の国であり、邪馬台国は弥生渡来人で構成される国であると言えます。

 このように区分すると、邪馬台国は鉄器の多く分布する熊本中部以北と言う事になり、鉄器の出ない熊本中部以南が狗奴国とすべきでしょう。こうすれば、先の女王国と狗奴国の境が熊本中部辺りだったと言う事とも一致します。更に『会稽の東』にあったのは狗奴国を指すことになります。会稽は現在の長江河口付近で、南部九州はそこからほぼ東に当たります。そして、もう一つ注目すべきは狗奴国も魏に使節を送っていたと言う事です。使節を送っていたからこそ、魏志倭人伝の著者はその王の名前まで知っていた訳です。

5、邪馬台国は東征したのか

では、北部九州にあった邪馬台国は東征したのでしょうか。私は次の事からこれはなかったと考えます。

1、纒向遺跡に存在する初期の前方後円墳とそれに付随する木槨墓や特殊器台などは吉備にその原点を見出す。
2、纒向遺跡からは九州の土器が出ていないため、九州の人間が移動したとは思われない。
3、北部九州の墳墓形式が纒向遺跡に引継がれた形跡がない。
4、当時の鉄素材の供給元であった朝鮮半島から遠く、鉄の後進国であった奈良盆地に邪馬台国が移動しなければならない動機を見出すことは出来ない。

元々、邪馬台国東征説は記紀にある神武天皇東征の話から来ています。しかし、神武天皇は日向から出発しており、東征説を唱えるには、邪馬台国日向説を証明してからにしなければなりません。

6、纒向を作ったのは誰か

纒向は3世紀半ばに突然出現しています。近在にその前身だったと思われる遺跡もありません。更に邪馬台国の東征もなかったとすると、纒向遺跡は誰がどのように作ったのかが大きな謎です。

 これを考えるには、纒向の特徴から考えなければなりません。私は墳墓に着目しました。墳墓は、埋葬された人間の出自に関係する為、重要です。纒向遺跡の墳墓はもちろん前方後円墳です。この地で初めて出現し、そのユニークな形状は、日本で発明された物です。では、そのルーツはと言うと、吉備の楯築墳丘墓に行きつく事ができます。この墳丘墓は弥生時代最大の長さ80mの双方中円墳ですが、形状的に見て前方後円墳のルーツと考えられています。注目すべきは纒向と同じく、木棺木槨墓であったと言う事です。これに着目しルーツをたどってみると、楽浪郡に行きつきます。

 木槨墓が楽浪郡など中国東北部に出現したのは紀元前2世紀後半です。そして、慶北大学の朴天秀教授によると、朝鮮半島南の金海市では大成洞古墳群に3世紀中頃に木槨墓が造営されています。楯築墳丘墓は2世紀末か3世紀初頭のものと考えられている為、大成洞より早い位の時期に吉備で木槨墓が出現した訳です。

 楯築墳丘墓は木槨墓や30㎏の水銀朱などから倉敷埋蔵文化財センターの福本明さんは朝鮮半島や中国の影響の強い遺跡だと言っています。もし、被葬者がこの地の倭人なら一番近い南朝鮮の影響を受けたはずです。しかし、吉備と南朝鮮を結びつけるものは、楯築墳丘墓以外にはありません。出現もしていなかった墓形式を、それまでその地と縁もゆかりもなかった倭人が先駆けて採用する事があるでしょうか。中国東北部から南朝鮮に移動し、大成洞古墳群に木槨墓を造った人達が、そのまま海を渡って来て楯築墳丘墓を造ったと考える方が合理的です。また、弥生時代の吉備は豊かな所だったようですが、環濠集落も少なく、戦闘の跡もなく平和な場所だったと考えられています。平和な場所に巨大な墓を造り権威を示す必要は倭人にはないはずです。

 では大成洞古墳群に木槨墓を造ったのは誰でしょうか。大成洞古墳は金官伽耶の遺跡です。金官伽耶は邪馬台国の一部と思われる狗邪韓国の後に出来た国です。大成洞古墳では、木槨墓と同時に殉葬が確認され、4世紀になると鉄製武器や馬具も出土するため、北方騎馬民族が狗邪韓国を乗っ取って金官伽耶を作ったと考えられます。では次に、この北方騎馬民族は誰かを考えてみます。

 この時代、楽浪郡を治めていたのは後漢の地方官だった公孫氏です。公孫氏そのものは漢民族ですが、彼の配下に騎馬民族の扶余族がいました。この一族が南下して金官伽耶を造った可能性はないでしょうか。

 扶余族の事を史書で見ると、後漢書に『安帝の永初五年(111年)、扶余王が初めて歩兵と騎兵七、八千人で楽浪郡に侵攻し、官吏や民を殺傷した。』とあります。扶余族はこの時代に中国東北部を馬に乗って荒らしまわっていたようです。次に『167年に、扶余王の夫台が二万余の軍勢で玄トを侵略。玄ト太守の公孫域は、これを撃破、斬首千余級を挙げた』とあります。扶余族は公孫氏に敗れ、征圧された訳です。更に184年黄巾の乱が起きると、公孫氏はこれに乗じて遼東半島を制圧してしまい、扶余王は懐柔させられて公孫氏の娘を妻に迎えます。そして魏書や後漢書には『桓帝と霊帝の末(146年-189年)、韓とワイが強勢となり、郡県では制することができず、多くの民が韓国に流入した』と言う記載があります。扶余王は『ワイ王之印』を持っていたため、ここで言う韓もワイも扶余族のことだと思われます。つまり、扶余族が南下し、朝鮮半島に侵入した事が予想されます。魏志扶余伝には扶余族に殉葬の習慣があったことが載っています。そして大成洞古墳群には殉葬が確認されています。これらのことから金官伽耶を造った騎馬民族は扶余族だと思われます。

 このように考えて来ると楯築遺跡を造ったのも扶余族だった可能性が濃厚になります。双方中円墳と言う独特な墳墓形式も大陸の円墳と日本の方墳を合体させた形状ではないでしょうか。楯築遺跡からは特殊器台が出土しており、これが埴輪のルーツだと言われています。特殊器台の用途はよく分かっていませんが、これは殉葬の生贄の代わりだと考える事は出来ないでしょうか。日本書紀には埴輪の起源について、第11代垂仁天皇の皇后が亡くなった時、天皇は生贄が可哀そうだと、殉葬を止めさせ、代わりに埴輪を使ったとあります。この記述から埴輪の起源となった特殊器台は生贄の代りだった可能性があることになります。人数的に劣る扶余族が生贄による倭人の反発を恐れて、吉備に従来からあった器台をヒントに特殊器台を作らせ、生贄に代えて祭祀の道具として使ったのではないでしょうか。

 以上のように考えて行くと、楯築墳丘墓を造ったのは、扶余族であり、更に彼らが奈良に行き、纒向遺跡を造り、前方後円墳を造ったのではないかと思われて来ます。

7、扶余族による奈良盆地の征圧

 楯築遺跡や纒向遺跡を造ったのが、扶余族だと仮定すると魏志倭人伝の読み方が全く変る事に私は気づきました。

 魏志倭人伝には180年前後の事と思われる倭国の乱について書いてあります。一般的には弥生時代に出来た国々の発展に伴い互いが相争った内乱だとしています。この乱の事を扶余族が北部九州を襲った事だと言えないでしょうか。扶余族が南下したであろう韓とワイが強勢になった時期も倭国大乱の時期も後漢書では共に桓帝と霊帝の間(146-189年)とし一致しています。また、倭人伝には狗邪韓国は倭国の一部とあります。扶余族が狗邪韓国を征圧した後、北部九州に攻め入り、相攻伐する状態になったのなら内乱と言ってもおかしくはありません。私は扶余族が倭国を襲い王位を求めた為の争いだと考えました。単に王位を求めただけであり、大きな戦いがあった訳ではありません。魏志倭人伝では只、『乱』と書いてあり、大乱とはなっていません。大乱としているのは魏志倭人伝を参考とした後漢書です。この時期、北部九州で大きな戦闘の跡がなかった事は寺沢薫さんも言っています。この時の乱は扶余族が邪馬台国を襲ったことだと言う事を前提に少々大胆にストーリーを立ててみました。

 2世紀末、扶余族の王が公孫氏の命令で朝鮮半島を南下します。戦闘に優れた扶余族を公孫氏は邪魔者扱いにし、安住の地を求めて倭国に旅立てと言ったのです。この時代、徐福の話しが中国では良く知られており、倭国はユートピアと思われていました。

 彼等は南下を始め、一部が馬韓の地に残り、本体はさらに南下し、狗邪韓国を瞬く間に征圧し、そのまま海を渡って北部九州の倭国に襲いかかり王位を求めました。突然の外敵の来襲に危機感を抱いた北部九州の国々は霊力を持った卑弥呼を共立し、結束力を高めて、反撃に出ました。多量の鉄を有する邪馬台国連合軍は強力で、戦争に慣れた扶余族でも彼等の反撃の前に、たじたじとなります。彼等は北部九州上陸を諦め、東に転じ瀬戸内海を進み、吉備に上陸したのです。

 吉備は平穏で有力な倭人集団もおらず、易々と制圧し、定住を試みました。しかし、やがて出雲と言う有力な在地勢力の攻撃が始まります。扶余族は懐柔策として、出雲と婚姻関係まで結ぼうとしますが、うまく行きません。福本明さんは楯築墳丘墓から出た特殊器台や特殊壺が出雲の弥生墳丘墓からも出ていて、吉備勢力との婚姻関係が考えられると言っています。吉備での定住を諦めた扶余族は更に東に向い、池上・曽根遺跡など有力な勢力のいる河内を避け、紀伊半島の南から上陸し、そこから奈良盆地に入りました。

 奈良盆地には唐子・鍵遺跡以外の有力な集団もおらず、彼等は鉄器類も持たないため、易々と征圧し、何もなかった纒向を定住の地に選びました。それが3世紀初頭の事です。

8、扶余族による大和朝廷の成立

 纒向に定住した扶余族は、朝鮮半島に戻って国造りを始め、狗邪韓国に代わって金官伽耶を造り、その地の鉄を一手に独占し纒向に運び入れました。そして、彼等は纒向に大規模な集落を造り始めると同時に、邪馬台国には王位を求め続けました。鉄の入手ルートを扶余族に取られた邪馬台国は徐々に勢いを無くします。困った卑弥呼は公孫氏に救いを求めて使いを送ります。しかし、扶余族の後ろ盾である公孫氏は卑弥呼の使いを冷たくあしらいます。一方で公孫氏は、蜀の諸葛孔明の死で勢いを増した魏から激しく攻撃されます。238年6月、滅びかけた公孫氏に見切りをつけた卑弥呼の使いは、窮状を訴える為、そのまま魏の都に向ったのです。一般的に、この時点では、まだ公孫氏が滅んでいなかったので、239年の間違いだとされていますが、どちらであっても、上記のような背景が無い限り、このような絶妙のタイミングで使節を送る事は出来ないはずです。

 敵の背後から突然現れた卑弥呼の使いに魏の皇帝は非常に喜び、詔書して卑弥呼の要望を直ちに聞き入れ、倭王に任命し、印綬を行うと言う破格の待遇をしたのです。その後、何回も使節のやり取り行い。魏との密接な関係が続きます。卑弥呼の使いは邪馬台国を大国に見せる為、戸数を誇張して報告し、万一、扶余族に知られるのを恐れて卑弥呼の居場所は曖昧にしか報告しませんでした。

 状況が変わるのは247年のことです。魏志倭人伝には帯方郡の太守が魏の都に赴き倭国が狗奴国と戦い、その最中に卑弥呼が死んだとあります。帯方郡は張政に錦の御旗を持たせ、倭国に派遣します。しかし、張政はただおろおろとして早く戦いを止めろと言っているかのようです。もっと大変な事があったのです。

 少し時間を戻します。238年に魏は公孫氏の一族郎党を皆殺しにしました。しかし、公孫恭と言う前王が、それまでの魏への忠義を認められ生き残ります。彼が扶余族を頼って、纒向に来たと考えられます。3世紀中頃からの纒向の目覚ましい発展は扶余族だけで為し得たとは思えません。公孫氏が多くの職人達も伴ってやって来たと考えるのが一番分かり易いと思います。寺沢薫さんも楽浪郡の古墳の副葬品に対応する後漢式銅鏡や天理市東大寺山出土の『中平』年銘を持つ鉄剣などから公孫氏が纒向遺跡に強く影響したようだと言っています。

 その公孫恭が卑弥呼に王位を譲れと迫ったのです。それまで扶余族の時は何とか凌げました。しかし、公孫恭が扶余族を従えて、王位を求めたため卑弥呼は非常に困りました。かって朝貢をした相手で、燕王まで名乗った家柄です。更に、弱った邪馬台国を見て、元々不仲であった狗奴国が南から攻めて来ました。窮した卑弥呼は、すぐに魏に助けを求めました。しかし、助けが来る前に卑弥呼は扶余族に殺害されてしまいます。張政が救援に駆け付けたのはそんな時でした。卑弥呼はすでに死に、狗奴国とは争い続けています。狗奴国も魏に朝貢していた国です。朝貢国同士が争うのは認められません。『ゲキを為りて告喩す』とあります。直ちに争うのは止めなさい(こんな時、狗奴国なんか相手にするな)と張政は言ったのです。

 倭人伝にある『卑弥呼以死』のことを森浩一さんは『以死』は非業の死の場合にしか使わず、自然死では使わないと言っています。卑弥呼は百余歩もある大きなお墓を造って丁寧に弔われ、百人も殉葬したとあります。弥生時代の日本列島に殉葬の習慣は見つかっていません。又、魏志扶余伝には殉葬の風習がありますが倭人伝には殉葬の風習はありません。従って、卑弥呼の葬儀は扶余族的方法で執り行われたと言う事が示唆されています。

 更に、魏志倭人伝には『更に男王を立つるに、国中服せず。更に相誅殺し、時に当りて千余人を殺す。復た卑弥呼の宗女を台与、年十三なるを立てて王と為し、国中遂に定まる。』とあります。このことは卑弥呼が死んだ後、公孫恭が倭王になろうとしたが、倭の国々は従わず、激しく抵抗したことを示しています。1000人もの死者がでました。狗奴国と戦っている最中に内輪で殺し合うようなことをするでしょうか。公孫氏が王になろうとした事に対し、邪馬台国の以外の王達が激しく抵抗したのだと理解できます。公孫恭は仕方なく卑弥呼の縁者にあたる台与を女王に立てて、やっと倭の国々を落着かせました。以来、邪馬台国の台与政権は扶余族のかいらいになってしまいました。この状態に張成は『ゲキを以って台与に告喩す』と台与を激しく罵りました。台与は怒れる張政を『台与、倭の太夫率善中郎将エキ邪狗等二十人を遣わし、政等の還るを送らしめ、因って台に賜り、男女生口三十人を献上し、白珠五千孔、青大勾珠二枚、異文雜錦二十匹を貢す。』とあるように、丁寧に帯方郡に送り返しました。その後、頻繁だった魏とのやり取りはなくなってしまいます。

 張政は事の顛末を報告していません。たくさんの貢物を持って帰還し、倭国は今後も忠義を尽くすと報告したはずです。都合の悪い事は報告しないものです。

 次に邪馬台国が史書に現れるのは266年のことです。魏は265年に滅び、台与は直ちに西晋に使節を送り、爵位を得ています。この時、男の王が一緒に爵位をもらったとあります。その王こそ公孫氏ではなかったか思われます。

 倭王となった公孫氏はその地位を確かなものとする為、邪馬台国の風習を全て倣います。まず、国名を邪馬台国(ヤマトコク)から奪い取り、大和国とします。女王卑弥呼をモデルに天照大神を祖先神とし、銅鏡・勾玉・剣の三種の神器を祭祀の道具とし、銅鐸を止めさせます。呉との同盟関係があった時、譲り受けた銅鏡と共に連れて来た職人達に三角縁神獣鏡を作らせ、新たな王権の象徴として各地に下賜するのです。邪馬台国のあった筑紫平野周辺にある地名もそのまま借名し、奈良盆地に移し、そこを新たな国の都として発展させます。

 日本列島に大王が出現し、大和朝廷が生れたのです。それまでの倭王は同族の人間を従える首長レベルに過ぎませんでした。邪馬台国が狗奴国を従える事が出来なかったように、習慣の異なる民族の壁を越えてまで征服しようとはしていなかったのです。中国の王朝は違います。多くの言葉の異なる民族を従え、領土を拡張します。公孫氏と扶余族も同様に列島制覇に乗り出します。各地に遠征隊を送り、その地に前方後円墳を造り、全国の集落の環濠はつぶして無防備化させます。しかし、倭人の風習を全て変えた訳ではありません。むしろ縄文時代から続く倭人の習慣はそのまま残させました。それに騎馬民族的要素が加わって、日本独自の文化や技術となって発展して行ったのです。

 全国制覇には馬を利用しました。馬の利用なしで3世紀から4世紀における大きな変化を理解する事は出来ません。指揮官と荷物を積むだけで行動半径は大きく拡がります。人が荷物を背負って長期間の遠征は無理です。纏向では4世紀初頭のものと思われる木製の鐙が出ています。この時代より前、3世紀の段階では馬具はまだ大陸にも生まれていません。金官伽耶でも馬具が出るのは4世紀になってからです。3世紀段階では、扶余族は裸馬に乗り、たてがみを手綱代わりに使っていたのです。現代の考古学は馬具がどのように拡がったかの究明から日本列島での騎馬文化を考えています。馬具がなかったことと、頭数が多くはなかったため3世紀おける馬の遺骸・痕跡は見出す事ができなかったのだと思います。馬がミッシングリンクとなり、騎馬民族説を不十分なものにしてきたのでしょう。4世紀中頃までには少数ですが、全国に馬が拡がっていたのではないでしょうか。そのため、4世紀前半に中国東北部で金属製の馬具が発生すると直ちに日本にそれが伝わり、4世紀後半から5世紀にかけて列島全体に馬を飼う習慣が拡がり、痕跡が残るようになったのだと思います。

 4世紀に列島全体への支配体制を強化して行った大和朝廷は、大陸への回帰にも力を注ぎました。3世紀の箸墓古墳はこの時代の東北アジアだけでなく、中国全体を見渡しても最大クラスの墓です。この時点で百済や伽耶の国造りより大和朝廷の方が先んじていたのは一目瞭然です。同じ扶余族として、半島に残った扶余族に手を貸し百済や金官伽耶の国造りにも積極的に手を貸したはずです。公孫氏が何代続いたのかは判然としませんが、どこかで扶余族の王家に変ったものと思います。百済、金官伽耶、大和朝廷の王族は親戚関係にありヨーロッパ各国の王家のように、互いに王を出し合う関係にあったのだと思います。そして朝鮮半島への進出は5世紀になると一段と大きなものになって行くのです。

 しかし、663年白村江で破れ、必死の思いで帰還した大和朝廷は朝鮮半島からの決裂を誓い、国名を日本に変え、軸足を日本に置く事を決意し、新たな国をスタートさせました。記紀編纂に当っては九州から奈良に到る行程を神武東征として記しました。先祖が朝鮮半島から来た事を消すため、スタート地点として最初に征服した南九州を選び、その地で一番神々しい山、高千穂峯を天孫降臨の地とし、北に聳える一番高い山を韓国岳(からくにだけ)と命名しました。降臨した地の北に加羅国(金官伽耶)があると言う訳です。

9、終わりに

 私の今回のストーリーは騎馬民族説を土台にしています。戦後すぐに江上波男さんが騎馬民族説を唱えた後、様々な否定論が出ました。しかし、私はその否定論はほとんど説明できると考えます。

 例えば、日本では馬の去勢の習慣がないと言う指摘に対しては、去勢する必要がなかったからです。草原を疾駆する騎馬民族は群れで馬を飼っています。群れでメスとオスが混在していると、メスの発情期にオスは興奮しコントロール出来ません。しかし、草原のない日本では群馬で疾走させることはなかったし、多くは1頭ずつの飼育のため去勢の必要はなかったのです。現在の競馬でも筋力が落ちるため去勢はしないようです。それに馬が初めて日本列島に渡って来た頃は貴重品であり、増やしたいのに去勢をするはずがありません。

 公孫氏と扶余族によって纒向遺跡が作られ、それが大和朝廷となったと考える事で、それに続く古代史がより合理的に語れると考えます。纒向に発生した初期型前方後円墳が急速に全国へ広まり、環濠集落がなくなり、銅鐸が消滅すると言う3世紀から4世紀初頭にかけての特徴を一番合理的に説明出来ると思います。何故近畿で呉の銅鏡が見つかるのかと言う事も、呉と親交のあった公孫氏なら容易に説明がつきます。纒向遺跡に竪穴住居跡が無い事は公孫氏や扶余族であれば当然です。

 今回のストーリーは現在の考古学が発信している事実を文献を頼りに自分なりに合理的に繋いで行ったらこうなると言う物です。倭人伝の読み方は飛躍し過ぎているかもしれません。まだ古代史に取り組んで日も浅いため、事実誤認があったり、文献資料の間違った解釈があったりしているかも知れません。その場合、当然このストーリーは崩れる物と思っています。多くの方の御指摘とご教授を賜れば幸いです。

 

 参考文献
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平成26年度 伊都国歴史博物館 開館10周年 特別展開催について(ご案内)

					最終更新 平成27年2月20日