『新説:出雲邪馬臺國私考』

									「出雲邪馬臺國研究会」 代表 小林 攻一

《邪馬臺國を比定するには、次の6点を絞り解明することである。》


其の1:『三國志』「魏書」東夷傳倭人条・『隋書』倭國伝・國宝「翰苑」倭國伝の正しい解釈。

其の2:朝鮮半島から倭國・邪馬臺國への行程と海路。渡航至難の朝鮮海峡と対馬海流。

其の3:魏皇帝から卑弥呼に届けられた景初3年・景初4年・正始元年銘の洛陽製銅鏡の出土地が邪馬臺國。

其の4:邪馬臺國女王卑弥呼の官・伊支馬は生馬・往馬こと伊古麻都比古神であり出雲の大國主命である。

其の5:女王俾彌呼の邪馬臺國連合30ヵ國名列挙の解明。アイヌ語日本地名辞典にて考証。

其の6:高天原は高麗山(孝霊山・瓦山)麓の妻木晩田遺跡一帯。已百支(イホキ)國こと伯耆(ホウキ)國にあった。
     田和山遺跡(松江市乃白町)から楽浪郡の石板“すずり”破片が出土。(次回投稿)

其の1:『三國志』巻三十「魏書」東夷傳三十倭人条と『隋書』倭國伝そして
    國宝「翰苑」倭國伝の解釈。

(1)『三國志』「魏書」東夷伝倭人条
『三國志』「魏書」東夷伝倭人条を編纂の陳寿は、西暦297年(陳壽没)までに編纂されてものであるが、この原本『三國志』の存在が確認されていない。現存する最古の版本は「紹興本」と呼ばれ宋の南遷直後・紹興年間(1131年-1162年)の『三國志』刊本。従って、紹興本『三國志』以前の中國正史のうち「後漢書」「宋書」「梁書」「隋書」そして日本に現存の「翰苑」写本が「紹興本」「紹煕本」より古く邪馬臺國の正しい國名表記をしている。
『三國志』巻「書」宗室傳条に『孫賁字伯 陽。父羌字(聖壹)〔聖臺〕,堅同産兄也。』と記載。
「中華書局」編集部において、この(聖壹)と記載した文字を『續後漢書』巻・郝經著「校記」の〔聖臺〕を根拠に採取している。即ち、誤りの(聖壹)を削り(表示刪的)、そして正しい〔聖臺〕に修正している。
漢文字の〔臺〕とは天子の宮殿の意。また、宮城や高貴な人の住む場所など特別な意味を持つ文字。
南宋の高宗(1127年-1162年)は能筆の高名な書家でもあり「徽宗楷書文書序巻」(日本の文化庁が保有。國宝に指定)など、多くの書を遺している。高宗は北宋以来一貫して“文治主義”を取り入れ、学問優先をとり“皇帝による採用”という新官僚採用の制度を確立。こうした高宗の文治主義によって南宋代の『三國志』刻本作成の時には、天子宮廷に関する『因詣臺』の『』を残し東夷蛮國の『邪馬臺國』と西戎族の『父羌字聖臺』の『』を避けて文字形の近い『壹』をもって徹底的に改変したと言える。
また『中國の研究者のみた邪馬臺國』著者:汪向栄(「北京大学」講師)は著書の中で『私は歴史学研究の用語として、“邪馬臺國”を使用する。信用に足りる根拠のない“邪馬壹國”の言葉を使うことは出来ない。(略)』更に(邪馬壹國)に対して『現在この論点は成立しなくなっている。』と明確に論述している 。
趙方任・文学博士に、この「邪馬壹國」を見せ質問すると即座に『これは間違いです邪馬臺國です。』と、困惑もせずに一蹴される。※倭人条には邪馬臺國が魏國から“冊封”を受けていることが明記。

【長老伝承の記録に重要な記載】
東夷伝より。書稱『長老が「異面之人が日の出の近い所に居る」と言ったので、ついにその諸國を舟で見廻った。そして、その國々の大小の区別をしてその國名や特有な風俗と規律を記録した。』「日の出の処に近い」とは太平洋沿岸の常陸國他ほかを指し魏の史官が倭國の全貌を聞き取りした条文はとても貴重なものと言える。『異面之人』とは『黥面文身』入墨風俗のこと。アイヌや南方民俗の種子島に顔・腕・手甲に入墨風俗があった。
國内にて『異面人』の物証となる『黥面』顔に入墨の描いた銅鐸(1)。土器(21)。土製品(10)。埴輪(7)。
土偶(8)。人形土製品(1)。石棺蓋(1)。刻板(1)。『文身』体に入墨の人形土製品(1)。
出土総数51点確認。

《日本海沿岸地区》 7点

1・島根県松江市大原郡「加茂岩倉遺跡」より『黥面』入墨の顔が表現された“銅鐸(29号)”が出土。
2・鳥取県米子市「井手挟3号墳」より『黥面』入墨顔が描かれた“人物埴輪”(破片)が出土。
3・鳥取県米子市「中西遺跡」より『黥面』顔に入墨と化粧をした“人物埴輪”が出土。
4・新潟県長岡市関原町「馬高遺跡」より『黥面』入墨顔が表現されたダブル八の字“縄文土偶”が出土。
5・埼玉県本庄市「前の山古墳」より『黥面』入墨顔の盾持人“埴輪”が出土。
6・群馬県[塚廻り1号墳・群馬県(推定)」より『黥面』入墨顔が描かれた“人物埴輪”が出土。
7・群馬県「下郷天神塚遺跡」より『黥面』入墨顔が描かれた“人面土製品”が出土。

《太平洋沿岸地区》 26点

8・茨城県日立市「曲松遺跡」より『黥面』入墨顔が描かれた“人面土製品”が出土。
9・茨城県常陸大宮市「泉坂下遺跡」より『黥面』入墨顔が描かれた壷形“人面土器”が出土。
10・茨城県常陸大宮市「小野天神前遺跡」より『黥面』入墨顔が表現された壷形“人面土器”が出土。
11・茨城県常陸大宮市「小野天神前遺跡」より『黥面』入墨顔が表現された壷形“人面土器”が出土。
12・茨城県常陸大宮市「小野天神前遺跡」より『黥面』入墨顔が表現された壷形“人面土器”が出土。
13・茨城県筑西市「女方(オザカタ)遺跡」(旧下館市)より『黥面』入墨顔が表現された“人面土器”が出土。
14・茨城県那珂市「海後遺跡」より『黥面』入墨顔が描かれた“人面土製品”が出土。
15・栃木県藤岡市都賀「後藤遺跡」より『黥面』入墨顔が描かれた“縄文土製品”が出土。
16・千葉県佐倉市「大崎臺遺跡」より『黥面』入墨顔が描かれた“人面土製品”が出土。
17・静岡県静岡市駿河区栗原「栗原遺跡」より『黥面』入墨顔が表現された“人面土製品”が出土。
18・愛知県安城市東町亀塚「亀塚遺跡」より『黥面』入墨顔が描かれた、へら描き広口壷“人面土器”が出土。
19・愛知県安城市上条町「東上条遺跡」より『黥面』入墨顔が描かれた“人面土器”(欠山式)が出土。
20・愛知県安城市古井町「下橋下遺跡」より『黥面』入墨が顔と胸部に描かれた女性像“土偶”が出土。
21・愛知県豊川市麻生田町「麻生田大橋遺跡」より『黥面』入墨顔が表現された高坏女性像“土偶”が出土。
22・愛知県名古屋市中区「古沢町遺跡」より『黥面』入墨顔が描かれた女性像頭部“土偶”が出土。
23・愛知県一宮市「八王子遺跡」より『黥面』入墨顔が描かれた“高坏土器”が出土。
24・愛知県一宮市「八王子遺跡」より『黥面』入墨顔が描かれた壷口部“人面土器”が出土。
25・愛知県一宮市「八王子遺跡」より『黥面』入墨顔が描かれた壷胴部“人面土器”が出土。
26・愛知県清須市阿原神門「阿原神門遺跡」より『黥面』入墨顔が描かれた“人面土製品”が出土。
27・愛知県清須市廻間「廻間遺跡」より『黥面』入墨顔が描かれた“人面土器”が出土。
28・愛知県清須市~名古屋市西区「朝日遺跡」より『黥面』入墨顔が描かれた“人面土製品”が出土。
29・愛知県新城市「楠遺跡」より『黥面』入墨顔が描かれた“人面土器”が出土。
30・愛知県安城市「釈迦山遺跡」より『黥面』入墨顔が描かれた“人面土器”が出土。
31・岐阜県大垣市今宿「今宿遺跡」より『黥面』入墨顔が描かれた“土器”が出土。
32・岐阜県大垣市荒尾町「荒尾南遺跡」より『黥面』入墨顔が描かれた“土器”が出土。
33・和歌山県和歌山市「井辺八幡山古墳」より『黥面』入墨顔が描かれた“人物埴輪”が出土。
   ※他に、『黥面』入墨顔の“人物埴輪”が10個以上はあるが未確認。

《近畿地区》 5点

34・滋賀県守山市「赤野井浜遺跡」より『黥面』入墨顔が表現された“土器”が出土。
35・滋賀県守山市「赤野井浜遺跡」より『黥面』入墨顔が表現された“土偶”が出土。
36・大阪府八尾市南亀井町周囲「亀井遺跡」より『黥面』入墨顔が描かれた“人面土器”が出土。
37・大阪府高石市「大園遺跡」より『黥面』入墨顔が描かれた頭部“人面土偶”が出土。
38・大阪府大阪市平野区「長原45号墳」より『黥面』入墨顔が描かれた“人物埴輪”が出土。

《瀬戸内海沿岸地区》 9点

39・岡山県倉敷市「上東遺跡」より『黥面』入墨顔の線刻図が表現された“人面土器”が出土。
40・岡山県岡山市北区「鹿田遺跡」より『黥面』入墨顔が描かれた“人面土器”が出土。
41・岡山県総社市「一倉遺跡」より『黥面』入墨顔が描かれた“人面土器”が出土。
42・岡山県総社市「田益田中遺跡」より『黥面』入墨顔が描かれた仮面“人面土器”が出土。
43・岡山県総社市北区「津寺(加茂小)遺跡」より『黥面』入墨顔が表現された“人形土製品”が出土。
44・岡山県倉敷市矢部「楯築弥生墳丘墓」より『文身』体に入墨が刻まれた“人形土製品”が出土。
45・香川県讃岐市鴨部「川田遺跡」より『黥面』入墨顔が表現された三角頭の頭部“土偶”が出土。
46・香川県普通寺市普通町「仙遊遺跡」より『黥面』入墨顔が刻まれた“人面文石棺の蓋”が出土。
47・山口県下関市綾羅木「綾羅木郷臺地遺跡」より『黥面』人物頭部と入墨顔が表現された“人面土製品”が出土。

《玄界灘・有明海沿岸》 3点

48・福岡県糸島市「上鑵子(ジョウカンツ)遺跡」より『黥面』入墨顔の人物が刻まれた“人物線刻板”が出土。
49・福岡県北九州市小倉南区「長野小西田遺跡」より『黥面』入墨顔描かれた鐘形(頭部?)“土製品”が出土。
50・熊本県上益城郡益城町「秋永遺跡」より『黥面』入墨顔描かれた“土製品”が出土。

《日向灘沿岸》 1点

51・宮崎県児湯郡新富町「新田原58号分」百足塚より『黥面』入墨顔に線刻が描かれた“埴輪”が出土(未公表)。

【地域別内訳】

愛知(13)。茨城(7)。岡山(6)。大阪(3)滋賀(2)鳥取(2)群馬(2)岐阜(2)香川(2)福岡(2)島根(1)新潟(1)埼玉(1)千葉(1)静岡(1)和歌山(1)山口(1)栃木(1)宮崎(1)熊本(1)となり太平洋沿岸諸國が圧倒的に多い。

「古事記」「日本書紀」によると『黥面』は河内・山城・宇陀の畿内地方に多く『文身』は東國に見られ、『黥面埴輪』は近畿地方や宮崎地域と関東地方に分布するとのこと。※“弥生人の姿”「出雲弥生の森博物館」より引用。
この物的出土品から考えると、正に「三國志」魏書東夷伝『日に近い所に異面人がいる。』の条文が、正しい倭國の風俗慣習を記載しており、卑弥呼邪馬臺國30ヶ國連合の國々と日の本國である北方の倭奴國ことアイヌ國そして阿蘇山の南方の狗奴國こと薩摩隼人族の狗奴國(鞠智王族)があったことが明白となる。
東夷伝倭人条の本旨は、邪馬臺國連合の30ヶ國と卑弥呼に対抗していた倭奴國・狗奴國の二大勢力についての説明記載である。倭國は邪馬臺國の勢力圏を含めた日本海・太平洋・駿河湾・瀬戸内海・玄界灘・有明海・日向灘など広範囲に渡って諸國が存在していたのが、この『黥面文身』の入墨風俗と言える土器・土偶・埴輪等の出土を以って考証できる。
また、「東夷傳」倭人条には、訳『倭の地を検証すると、海中の洲島の上に点在し、或いは離れ或いは連なり周囲は五千余里(約2000Km以上)』と倭國の形状と範囲を説明している。※漢の一里は412m 魏の一里は415m
以上、三國志時代に於いては、古代中國は、既に倭國の凡その全貌を掌握していたと判断できる。
しかし帯方郡から邪馬臺國までの方位・距離・戸数などの表記がとても曖昧で大雑把であり矛盾が多いため後世の歴史家達にとっては邪馬臺國の研究がより複雑となり混乱を招く結果となっている。そして、邪馬臺國女王卑弥呼の連合30ヶ國の“”(富士山以北)には倭奴國(ウィヌ=アイヌ國)勢力が構えていたので“大率”を特別に一師団配置している。また、女王卑弥呼の勢力圏南には(阿蘇山以南)狗奴國(鞠智王族)があった。
因みに、魏國で言う“大率”とは、官の序列に16階級あり、一番目は「左平」次は「大率」次は「恩率」次は「徳率」次は「杆率」次は「奈率」次は「将徳」となり紫帯。以下省略。従って「大率」は「左平」次の二番目の官位である。
よく“一大率”など句読点を誤って解釈している説文を見かけるが正しく翻訳をすべきと思う。

【邪馬臺國への行路水路そして航行】


魏國の遣使と帯方郡大守は、現在の北九州諸國の末盧國から不彌國までを陸路ため、その距離は“”にて記載。
東夷傳倭人条の“句読点”を正確に解釈のうえ倭人条の文脈構成を判別すると倭人条『東行至不彌國百里官曰多模副曰卑奴母離有千餘家。』迄が北九州諸國条の文脈であり“不彌國”までが一区切りとなっている。
古代中國漢文の句読点はかなり教養レベルの高い大学教授でも誤ることがあると聞いている。
※翻訳者趙方任「北京大学」学士 優秀卒業生 専攻:中國言語・中國文学学部・中國古典文学。
          「東京都立大学」 文学博士 専攻:中國語学、茶文化。
       現職「大妻女子大学」國際センター  準教授 研究分野:外國文学・文学論・外國語教育。
そして女王卑弥呼の邪馬臺國までの行路航行は帯方郡西岸から錦江を水行。韓國を『通り過ぎ、小白山脈の秋風嶺を越し狗邪韓國(弁辰國)の北岸(洛東江)に着き、倭館を経由後“迎日湾”に到着。迎日湾からリマン海流・対馬海流と夏季は南西風に乗り、冬季は北西季節風に乗り“出雲航路”にて『南至投馬國,水行20日』と、投馬國(つま國)こと隠岐國役道郡「伊未自」別名「牟羅」の南端、都万・都麻・津麻(つま)に寄港。次に大神岳こと伯耆大山を目標に『水行10日』で波々岐國こと伯耆國の鳥取砂丘(10数Kmの砂丘)に着岸。そして西へ『陸行一月』一ヶ月をかけ、女王卑弥呼の邪馬臺國こと出雲意宇國に到着した。
対馬海峡は潮流が早く古代船での釜山~対馬横断航行が至難。従って、出雲航路が最も難破遭難が少く安全航路となる。正に古代航海は『潮に乗り、風に乗り。』である。

「古代伯耆研究による邪馬臺國解謎」

著者:山口和利 (旧名船越種利) 発行:昭和60年7月28日
「古代伯耆研究による邪馬臺國解謎」によると、迎日湾から波々岐國こと伯耆國への出雲航路の論説がある。『(略)朝鮮半島の古代新羅の伝承に「日月の神日本に渡る」の記録がある。それは阿達羅王8年(西紀157年)であり、半島東海道迎日県都祈野と記されている。」鳥取砂丘は磐舟(大筏)の着岸が安全にできる砂浜海岸。』
※阿達羅王20年(西暦173年)には卑弥呼の遣使が『来聘』新羅國阿達羅王に邪馬臺國女王即位の表敬訪問をしているので邪馬臺國と新羅國とは友好同朋國であったと言える。
そして「古代伯耆研究による邪馬臺國解謎」には“高天原蒜山説”を昭和60年に論説している。

(2)『隋書』俀國伝東夷傳俀國条の解釈

『倭國の國境は東西の間が五ヵ月の距離。南北の間は三ヵ月の距離。どちらでも海に着く。
地勢は東が高く、西が低い。そして、倭國の都は邪靡堆(水中の丘)である。「魏志」で言う邪馬臺である。』
この記載から判断すると邪馬臺國の勢力が現:滋賀・京都・大阪の秦・小野豪族等と連合政権を確立したと言える。また、「水(湖水)が多く陸地が少ない。』とは湖と陸地を対比した用語であり、日本國内では近江國の琵琶湖しか該当しない。大業4年(西暦608年)隋國煬帝の答礼使・裴世清と小野妹子達は倭國の都・邪靡堆までの行路航行として、帯方郡から百済國の南路を通過後、朝鮮半島東岸の迎日湾から竹島こと欝陵國に上陸。そして松島こと竹島西を航行『南望』南方の〔身冉〕羅國(ダンロウ國)檀羅國こと隠岐國(牟羅國)を望み対馬、北九州へ航行。
※小野妹子の隋号は蘇因高(ソ・インコウ)と言いアイヌ語(ソムコ・エムコ)こと“大使”の意。

『三國史記』百済本紀武王9年3月条によれば『九年春三月遣使入隋朝貢隋文林郞裴淸奉使倭國經我國南路』とあり裴世清一行が百済國南部を経由したことが記載。※経由とは目的地へ行く途中ある地点を通過すること。

倭國伝『竹斯國こと筑紫國のは秦王國(はた王國)に行ける。秦王國の人々の風俗・言葉が「華夏」中華・中夏と同じであったので、答礼使たちは、『ここは「夷州」臺湾なのか?「疑不能明也」よく分らない。』との表記。
ここで「臺湾なのか?」と疑問をもったと言う事は、東海こと日本海の北方から航行した論拠となる。
また、倭國の首都である琵琶湖沿岸の邪靡堆(水中の丘)の「志賀高穴穂朝」とは、日本海と瀬戸内海の要であり倭國の中心地と言える。西暦600年の用明天皇と聖徳太子時代には、既に(西暦3世紀)出雲邪馬臺國の勢力が、現在の滋賀県近江と京都府山代・山城そして大阪府・河内に、伊支馬(生馬)こと大國主命と共に子神である加茂(鴨)大御神が進出しており、地元の古代豪族である秦氏達と融合のうえ連合政権を確立していたと言える。
そして、現在の近畿には賀茂・出雲・小野・栗田・八坂・中臣・宇治・茨田・土師などが大きな勢力を持っていた。「秦王國」とは、出雲の臺王國の主館「八百丹杵築の宮」現在の「杵築大社・出雲大社」を言う。
出雲の秦王國は、中國や朝鮮との行政地であり、用明天皇(聖徳太子の父)と秦一族達が秦王國を統括していたと考えられる。

『隋書』列傳東夷百済条によると『(略)郡には将を置く。その(百済)人民には新羅、高麗、等、中國人も混在しており、その服装は高麗と大体同じである。(略)』とある。倭人の服装も高麗と同じであると言うことは、琵琶湖沿岸の都邪靡堆「志賀高穴穂朝」と出雲の秦王國とは、同族の(「魏志」で言う邪馬臺である。)所以であろう。
邪靡堆の淡海國こと近江國には小野妹子一族と秦一族が出雲「秦國」に、その文化を伝播させたものとも言える。後世には近江國から小野篁(漢詩人)・小野道風(能書家)が輩出している。

『翰苑』倭國条

國宝「翰苑」(唐:張楚金撰/雍公叡注)西暦660年以前に作成。「大宰府天満宮」より蕃夷部一巻が伝存所蔵。邪馬臺國と卑弥呼(注釈)等の条文が転写。※中國には現存無し。
原文『慿山負海鎮馬臺建都』 「倭國は山に寄りかかり海に面した邪馬臺國を治め都とした」海に面した所とは邪馬臺國卑弥呼(熊野加武呂之命ことイザナギ大神の真名子)の居城「比婆社・神納神社・神魂社・大庭大宮・神魂大社こと神魂神社」である。また「比婆社」の入口「高天神社」(字名は高天)の神祭も熊野加武呂之命。
「比婆社・神納神社・大庭大宮」が明治4年以降に「神魂神社」に改名させられたが本殿の千木は内削ぎ天津神の“女神”である。熊野加武呂之命の別名は撞賢木厳之御魂天疎向津愛媛命である。
※対馬の「天照乃神社」神祭も天疎向津姫神である。“楽郊紀聞”対馬夜話より。
そして「比婆社」の石段下までは“大庭内海”であった。その証拠に舟の着岸した“天馬口”が今でもある。朝鮮の慶州市皇帝南洞に“天馬塚”があり邪馬臺國と新羅國とは頻繁に出雲航路にて交流していたものと考証できる。
原文『邪届伊都傍連斯馬』 「邪(斜・ななめ)に行くと伊都國に「届」着く。(邪馬臺國)「傍」隣の斯馬國(石見國)に連なる。」など、明確に斯馬國の隣國(西)は出雲意宇國の邪馬臺國であることを裏付けている。
その根拠として、斯馬(シマ)國ことスマ・シュマ(アイヌ語の岩・岩山・島の意。)シュマネ(島根)の石見(イワミ)國を表記しており現在の島根県大田市一帯をさす。
島原(シマバラ=岩石の原の意)志摩(スマ=岩石・岩山・島の意)。「日本アイヌ地名辞典」著:山本直文より。

其の2:朝鮮半島から倭國・邪馬臺國への行程と海路。渡航至難の朝鮮海峡と対馬海流。

【対馬海流と季節風】「対馬町観光物産協会」  職員の説明  2014年12月21日
『古代船(手漕ぎ船等)にて、現在の釜山港から対馬に来るには、朝鮮海峡の波が高く潮が早いので、かなり難しいと思う。(略)では、古代船で釜山港からの一番安全な渡海は、冬季の“北西風”に乗れば、早く来れますがとても寒く大変です。夏季は、“南東風”があるので、船は斜めに流され、隠岐の島や山陰の山口と島根に着きます。』
など、熟練の漁師・水先案内人(宗像族)でないと釜山と対馬間は容易には航行出来ない事を知る。
対馬最北端の“三ツ島”と“鰐浦”そして南端“豆酘”(つつ)は“海の難所”と言われ潮流が最も早く海が荒れる。
遣唐使船も何度も遭難沈没しており、元禄16年(1703年)朝鮮國釜山から出港した三隻の船が航行途中に天候が一変。沖南風から沖西風となり、大風と高波により、訳官使船たち112名は対馬北端の“南風波瀬”にて座標。全員が死亡している。
また、安政6年(1859年)旧暦2月13日快晴。壱岐島の元居浦から七艘の漁船が出航、五島沖にて南風と共に“春一番”と言われる小山のような怒涛が帰航の漁船を襲い53名全員が海中に消えている。
その後元居浦は毎年旧暦2月13日には、どんなに天候が良くても漁船は“沖止め”出漁禁止としており漁民一同が集い、海難者の冥福を祈り続けている。

【「古代研究」第9号:1999年5・6月号】より掲載

(略)そこで10年前、大阪の長原高廻りから出土した舟形埴輪を10倍の大きさにし、 実際に木造船として作ってみました。 (略)全長12m、8人漕ぎの古代の準構造船を再現したのです。この船を”なみはや”と名づけ、実際に海に浮かべて漕いでみますと、非常に安定が悪く、そのうえなかなか進みません。50cmの高さの波がきただけでも バランスを失ってひっくり返りそうです。 1mもの波がこようものなら漕ぎ出すのは到底無理なことです。
また喫水が浅いため少しの風でも倒れそうになるので、天理の東殿塚古墳から出土した土器の絵のように、帆のようなものを立てるなどという事は、現実的に絶対に無理なことでした。
結局、船を安定させるため何百キロという重りを底に入れて、大学のボート部の学生に、古代の人が渡ったであろうと思われるコースで、玄界灘を越えて韓國に向けて漕いでもらったわけですが、これが殆ど進みません。そのまま漕いで行っても、一体何日かかれば港に到着するのか、見当が つかないほど進みません。10年たった今だから言えるのですが、韓國の港では、 学生達が古代の赤いたすきの衣装に着替えて、ずっと8人で漕いできたかのように振る舞ってもらっていましたが、実のところは夜間、他の船に牽引してもらっていたのです。
【財団法人 大阪市文化財協会 調査部長 永島暉臣慎氏】

また同じように対馬海峡の横断を実験した“野生号”も失敗しており、船は対馬海流に流され日本海へ漂流。
従って、朝鮮海峡、対馬海峡、玄界灘等の航海は、潮待ち・風待ち、と何日も好条件の“潮・風”を待たなくてはならず、出航してから漕ぎ手の力が尽きると船は大きく日本海へ漂流のうえ餓死する運命となる。
以上、邪馬臺國時代の古代船も朝鮮海峡・対馬海峡・玄界灘等の渡航はとても至難であり、船は、凡そ隠岐島や山陰沿岸に漂着する。こうした海難事故が無いように、玄界灘の孤島、宗像大社「沖津宮」は海路の安全を祈って古代から重大な祭祀が伝承されている。
従って、最も安全で難破遭難の少ない自然航路を航行選択するのは必然である。
朝鮮半島東沿岸の迎日湾あたりから南下するリマン海流と対馬海流・潮流そして季節風に乗って‘出雲航路’で、投馬(つま)國こと隠岐國都万(つま)を経由のうえ鳥取砂丘に着岸のうえ出雲邪馬臺國に到達する。

【関門海峡】について・・・海上保安庁第七管区「海の相談室」の説明。

某氏談『関門海峡(早鞆瀬戸)において、下関(壇ノ浦)の高潮(満潮)時には西流最強であり低潮(干潮)時には、東流最強となります。本日は(2004年6月3日)大潮であり約10ノット(時速約20Km)。日本でも第3位の潮速です。近代船でも前に進まない事がある。』(1ノットは時速1・852km)『瀬戸内海でも、満潮と干潮の差が大きく数mある。瀬戸内海の沿岸より少しでも離れると難破する。』との説明。
従って、準構造船においても、関門海峡(早鞆瀬戸)を南下(逆流)する事が至難と判断できる。

【遠賀川(おんが)遺跡】について

「不彌國」とされている福岡県糟屋郡宇美町から宗像市辺りの東方向に「遠賀川遺跡」がある。
この「遠賀川遺跡」からは紋様豊富な弥生土器が発見されており、おそらく3世紀の邪馬臺國と同時代の弥生土器と推定。※ 「宇美八幡宮」の鎮座地は福岡県糟屋郡宇美町平野部。
遠賀川の河口・響灘沿岸の「芦屋町役場教育委員会」事務局に、玄海灘や響灘の潮流を尋ねてみた。「芦屋町役場教育委員会」の職員は『私達も以前に、その調査をしてみました。 遠賀川河口より「ブイ」を放流させてみると、3日後に山口県の北である日本海側の「豊北(ほうほく)町」沿岸に漂着しました。』と説明がある。
豊北町沿岸の砂浜からは、土井ヶ浜人の人骨350体余が発掘され「土井ヶ浜遺跡」と称されている。この人骨は、1994年に「福岡空港」工事現場で発掘の人骨と同じく、縄文人とは別の弥生人のものである。そして、土井ヶ浜人は後に中國山東省の臨淄(りんし)から発掘された人骨と同じものと鑑定されている。 即ち、中國大陸や朝鮮半島(南東岸)そして「不彌國」から舟で出航すると、対馬暖流と南西の風に乗って日本海側沿岸に漂着する事実である。 因みに、唐の安禄山乱の時、玄宗皇帝の愛妃“楊貴妃”(楊大眞)が、山口県大津郡油谷町向津具半島の唐渡口に空艫(うつろ)舟にて漂着。その後まもなく亡くなったとのこと。「二尊院由来書」楊貴妃伝より。
※「二尊院」の創建は延暦年中(782年~806年)と伝承の古刹。

其の3:魏國皇帝から邪馬臺國の卑弥呼に届けられた景初3年・景初4年・正始元年銘の洛陽製銅鏡の出土地が“卑弥呼の邪馬臺國”である。

“卑弥呼の鏡”として発見された“景初3年銘三角縁同向式神獣鏡”の出土地は、出雲國・島根県大原郡加茂町神原の「神原(神宝)神社古墳」であり、正始元年(西暦240年)魏皇帝より邪馬臺國女王卑弥呼まで景初3年銘・景初4年銘・正始元年銘の洛陽製銅鏡が届けられている。
日本國内にはこの神獣鏡鏡が7枚出土。この内景初3年銘の神獣鏡は2枚である。
①「神原(神宝)神社」古墳の三角縁同向式神獣鏡(直径228mm)漢の銅尺で1尺(229mm)である。
※マーク・A・スタインが「玉門関関跡」発掘の銅尺による。
②大阪府和泉市「黄金塚古墳」出土の三角縁画文帯式同向式神獣鏡(直径231mm)であり、
従って、女王卑弥呼の邪馬臺國の比定地は、東海こと日本海に面している出雲國意宇郡の島根県松江市東出雲が最も蓋然性が高く有力となる。

【景初四年銘三角縁神獣鏡】について
魏皇帝から邪馬臺國の卑弥呼に届けられた景初3年・景初4年・正始元年銘の銅鏡うちが國内にて発見された景初4年銘の物は2枚である。
①「広峯15号古墳」の三角縁同向式神獣鏡(直径228mm)
②宮崎県高鍋町「持田古墳」出土伝承の三角縁画文帯式同向式神獣鏡(直径231mm)であり、『三國志』「魏書」三少帝紀条によると明皇帝は景初三年正月に崩御(棄背天下)しており、この逝去を“公布”したのが、景初3年12月のことである。問題は明皇帝の逝去を約1年間もの間、秘密裏としていた事である。
その理由としては、激動乱世の三國鼎立時代が大きな所以であろうと考えられる。
従って、明皇帝の逝去を皇室下臣や人民は知るよしも無いのであり当然、銅鏡鋳造の職工も景初4年となるべき3月までは“景初四年銘”にて明記する。また、景初3年中には前もって“景初四年銘”を記入鋳造する事も必然である。

【「魏書」三少帝紀条】翻訳
『12月、詔書を出して曰く、烈祖明皇帝は正月に亡くなった、臣子としてその忌日の哀愁を永遠に忘れられない。そのため、改めて夏の暦法を復活させる。これは亡くなった皇帝の統一の考えに背くが、礼儀作法はこういうふうに変えるものである。また夏の暦法の正月は「天の正月」を得ており、そのため、の月を以って正始元年の正月とする。そして、の月を景初最後の12月とする。』 翻訳者 趙方任文学博士

【『晋書』天文中 七曜雑星気史翻傳事験】より
青龍2年十月乙丑,月はまた「填星」を犯す。占い結果は前と同じ。戊寅,月は「太白星」を犯す。
占いの結果「君主が死す。また戦争を起こす」と言う。
景初元年7月,公孫文懿が反乱を起こした。
二年正月,宣帝が討伐させた。
三年正月,天子が崩御(逝去)する。
四年三月已巳,太白星と月はともに昼間に姿を見せた。そして、月は「太白星」を犯す。
占い結果は前回と同じ。
景初元年十月丁未,月は「熒惑星」を犯す。占い結果は「貴人が死んだ」と言う。
二年4月,司徒韓既が死んだ。斎王嘉平元年正月甲午,太白星が月を襲う。
宣帝は永寧太后が曹爽を殺したことを報告した。』
以上、「景初三年正月には天子(明皇帝)が崩御しており、景初四年(西暦240年)三月已巳に「太白星と月はともに昼間に姿を見せた。」と占い師が明確に“景初四年”三月の出来事を記述している。
結論として邪馬臺國女王卑弥呼に魏皇帝から届けられた銅鏡100枚の中に景初4年銘の洛陽製銅鏡は存在する事になる。

其の4:邪馬臺國女王卑弥呼の官伊支馬は生馬・往馬こと伊古麻都比古神であり出雲の大國主命。西谷墳墓群の四隅突出型墳丘墓ヒトデ形状は出雲意宇國の“天の八衢”ヒトデ形状が原形。

【往馬大社】鎮座地は奈良県生駒市壱分町1527-1
「往馬大社」は本来生駒山をご神体山として御祀りされた古社である。(平成10年3月奈良県指定文化財となる)
祭神は伊古麻都比古神(イコマつひこノかみ)と伊古麻都比賣神(イコマつひめノかみ)の火の神。
八尋鉾長依日子命の別命大國主神こと伊支馬・生馬は「魏書」東夷傳倭人条に表記の邪馬臺國30ヶ國連合の中では25番目に記載の「邪馬國」(大和國)こと現在の奈良県まで勢力を広げている。

「日本史蹟」天地之巻(著作者熊田宗次郎)の条文より
原文『大神神社(おほがみじんじゃ)は大和國磯城郡三輪町大字三諸山の三輪山麓に在り、所謂(いはゆ)る三諸山(みもろやま)是れなり、大和の一の宮にして大物主神を祀る。』と、記載がある。※大物主神とは須佐之男命。
原文『(略)既にして少彦名命(すくなひこなノみこと)熊野御崎より船に乗して再び常世の國に向ふ大己貴命愁然(しうぜん)として嘆(たん)ず我れ独力を以て爭(い)かで此國を経営し得(う)べき、誰れか来(きた)つて力を協(あ)はすものなきや大物主神(おおものぬしノみこと)忽ち海を光(て)らして来り、大己貴命に向かひて告ぐ汝、我れを祭らば相興(あいとも)に國を治めん、然(しか)らざれば功成りがたけん大己貴命乃(すなは)ち宮を倭(大和)の三諸山に造りて之れを祭る、三輪大神(みわおほがみ)是れなり大己貴命終(つひ)に経営の功を畢(を)へ、素盞嗚尊の遺業(いげふ)を継ぎて大八洲國を服し給ふ今の山陰、山陽より畿内近傍に至るまで皆其命(そのめい)に服す、乃(すなは)ち諸子を各地に分置(ぶんち)して其土(そのど)を治む功高く、徳渥(とくあつ)し、稱(しょう)して大國主命と曰う』と記載がある。
この条文から判断しても大國主命が大八洲國こと日本列島の殆どを掌握。大國主命が三輪山(三諸山)に三輪大神こと須佐之男命(素盞嗚尊)を祀り、素盞嗚尊の遺業を後継したと明記。
大國主命は越國を融合平定、更に原:滋賀、京都、大阪、奈良などの豪族と融合のうえ勢力を拡大しており、全國的に大國主命と子神の加茂大御神を祭神とする神社が圧倒的に多い。
大神神社」社伝には“大三輪鎮座次第”(鎌倉時代嘉禄二年1226年)『古来当社宝倉無く、唯三個鳥居有るのみ、奥津磐座は大物主神、中津磐座は大己貴命、辺津磐座は少彦名命。とあり、当山に鎮まる神の御座すなはち神座は、三箇所と定まっている。』従って、大物主神は須佐之男命こと素盞嗚尊であり大己貴命は大國主命。

『出雲國風土記』によれば「神原神社」島根県大原郡加茂町神原には大國主命の神宝(カムタカラ)が積まれていた場所と言う。「神原神社」からは、魏帝より届けられた卑弥呼の景初3年銘三角縁神獣鏡が発見されている。
「神原神社」の北西約2Kmの所に銅鐸39個出土の“加茂岩倉遺跡”があり、更に北西の約4Km先には“荒神谷遺跡”島根県簸川(ひかわ)郡斐川町神庭(かんば)西谷(さいだに)からは、古代日本史の常識を根底から覆すような、銅剣358本・銅矛16本・銅鐸6個が出土した。
従って、大國主命の「神原神社」と加茂岩倉遺跡・荒神谷遺跡そして四隅突出型墳丘墓とは密接な関係にあると考証できる。

【四隅突出型墳丘墓と天の八衢】
四隅突出型墳丘墓は、出雲・意宇と伯耆國妻木晩田遺跡そして北陸地方などに見られる特有な
ヒトデ
(海星)形状
の古墳であり、出雲市“西谷”(にしだに)墳墓群が平成12年に國史跡となった。
古代意宇國もヒトデ(海星)の地形であり、その中央には高天原と「高天神社」「比婆社・神納神社・神魂社・大庭大宮・神魂大社こと神魂神社」「イザナギ神社こと真名井神社」「厳神之宮こと熊野大社」「山代神社」があり、周辺には、大庭鶏塚(卑弥呼の塚)、イザナギ尊御陵、イザナミ尊御陵、山代古墳、神名備山(意宇ヶ山こと茶臼山)、神納山、天宮山、有、天王、天馬口など高天原に通じる名称地名が多くある。従って出雲市“西谷墳墓群”四隅突出型墳丘墓(9号墓)は古代意宇國のヒトデ地形を取り入れ造形したと考えられる。出雲國王こと日本海沿岸諸國を統治した大國主命が埋葬されたのではと推察できる。この奇妙な十字路状半島の地形が正に「天の八衢」に該当。
衢神(ちまたのかみ)と猿田彦大神は同一神。

其の5:女王俾彌呼・邪馬臺國連合30ヵ國名列挙の説明。

【対馬海域北九州ブロック】
1・狗邪韓國〔クヤカン〕弁辰國・意富加羅國(イフカラ)。
2・対馬國〔ツマ〕対馬(ツシマ)長崎県対馬。
3・一大國〔イキ〕壱岐(イキ)長崎県壱岐。
4・末盧國〔マツラ〕松浦郡(マツウラ) 長崎県松浦市。
5・伊都國〔イト〕糸島郡(イトシマ)佐賀県唐津市から糸島郡。
6・奴國〔ヌ〕博多那津(ナツ)福岡県(筑前那珂郡)。福岡市博多区板付。
7・不彌國〔フミ〕宇彌(ウミ)福岡県糟屋郡宇美町から宗像郡。

【日本海域山陰北陸ブロック】
8・投馬國〔ツマ〕隠岐國都万(ツマ)島根県隠岐郡都万“邪馬臺國の北門”。
9・邪馬臺國〔ヤマタイ〕出雲・意宇國(イズモ・イウ)島根県松江市大庭町「大庭太宮」・山代町「伊弉諾尊の宮」。神名樋野(茶臼山)が中心地“山島に寄り添って國都(國邑)こと邪馬臺國を建立”。邪馬臺國の前は海である。景初3年銘陳是作鏡・卑弥呼の三角縁神獣鏡が出土。
※アイヌ語「ヤン」はヤン衆のよそ者漁師。「タイ」森林。タイガ-森林の狩猟民族ことアイヌ族。
10・斯馬國〔スマ〕岩見(イワミ)島根県太田市の西部を石見(イワミ)國。〔スマ・シュマ〕とはアイヌ語:石・岩の意。
11・已百支國〔イホキ〕伯耆(ホウキ)鳥取県伯耆大山麓の東伯郡・西伯郡・日野郡・会見郡「夜見島」と島根県能義郡。弥生時代日本一妻木晩田遺跡(156Ha)発掘中。大神岳こと大山の麓・高天原。
12・伊邪國〔イヤ〕因幡(イナバ)鳥取県因幡國“因幡の白兎”。
13・都〔郡〕支國〔クシ〕越國(コシ)福井県敦賀市(越前)。大國主命時代からは富山県(越中)・新潟県(越後)と石川県(能登)。
14・ 彌奴國〔 ミヌ〕 美濃 (ミノ)岐阜県美濃國。

【関門海峡瀬戸内海ブロック 】
15・好古都國 〔ナコト〕 長門 (ナガト)山口県長門市。
16・不呼國 〔フオ〕 周防 (スオウ) 山口県防府市。

【四國ブロック】
17・ 姐奴國 〔シヌ〕愛媛県姐奴(シヌ)と伊豫(イヨ)の二名の地名國。
18・ 対蘇國 〔ツサ〕 土佐 (トサ) 高知県土佐國。
19・ 蘇奴國 〔サヌ〕 讃岐(サヌ) 香川県讃岐國。
20・ 呼邑國 〔アパ〕 阿波 (アワ) 徳島県粟國。

【太平洋海域ブロック 】
21・ 華奴蘇奴國 〔カヌサヌ〕 久奴須奴神(クヌスヌ) 鹿苑神社の祖神。遠江(とおとうみ)國。静岡県遠江磐田郡。
22・ 鬼國〔キ〕尾張大桑郡 (オワリ)愛知県尾張丹羽郡大桑郷。
23・ 為吾國 〔イカ〕 伊賀 (イガ)三重県桑名市伊賀町。
24 ・鬼奴國 〔キヌ〕 紀伊 (キイ)和歌山県新宮市木の川(紀ノ川)。 
25・ 邪馬國 〔ヤマ〕 大和 (ヤマト)奈良県大和郡山市(古代額田郷)。

【瀬戸内海本州ブロック 】
26・ 躬臣國 〔クオミ〕 近江(オウミ) 滋賀県近江國琵琶湖周囲。犬上郡多賀町「多賀大社」・三上山麓の中主町・野洲町・守山市一帯、河内國・摂津國・和泉國そして山代(ヤマタイ)國・山城・山背國。
西暦600年「隋書」記載の俀國首都『邪靡堆』。『水多陸少』琵琶湖。「高穴穂宮」用明天皇と聖徳太子の館。
27・ 邑利國 〔ハリ〕播磨(ハリマ) 兵庫県播磨國。
28・ 支惟國 〔キビ〕支(吉)備 (キビ)岡山県備前國・備中國。
29・ 烏奴國 〔オヌ〕 安芸安那郡 (アキアナ)広島県備後國。

【狗奴國系ブロック 】
30・ 奴國 〔ヌ〕 信濃 (シナノ) 長野県信濃國。委奴國と融合混在。『シナノイ』アイヌ語「大きい川野(奴)」の意。千曲川。
狗奴國 〔クヌ・クズ・クド〕の薩摩隼人族の鞠地王國。委奴(ウェイヌ)→アイヌ國。 富士山東北の相模國・武蔵國・
上野國・下野國など毛人國(アイヌ國)男王卑弥弓呼。 日の本國(常陸國・日立)

以上。

対馬海域北九州ブロックのヶ國。日本海域山陰北陸ブロックのヶ國。関門海峡瀬戸内海ブロックのヶ國。四國ブロックのヶ國。太平洋海域ブロックのヶ國。瀬戸内海本州ブロックのヶ國。
狗奴國系ブロックのヶ國。 合計 30ヶ國
※『三國志』「魏書」東夷傳倭人条を編纂完成させた陳寿は倭國の記載を順次列記している事が解る。

以上を以って、9番目に記載の邪馬臺國は意宇出雲國である結論とする。


其の6:高天原は高麗山(孝霊山・瓦山)麓の妻木晩田遺跡一帯。
已百支(イホキ)國こと伯耆(ホウキ)國にあった。
田和山遺跡(松江市乃白町)から楽浪郡の石板“すずり”破片が出土。 (次回投稿)

					最終更新 平成27年2月11日