『陳寿の筆法と魏志倭人伝の謎の解明』

												田中真生雄(たなかまきお)

邪馬台国には、謎が多い。理由は、魏志倭人伝の不可解な記述にある。そのため、倭人伝は、信用できないという。そうでなくても、解釈が百出し、収束には程遠い状況である。しかし、「編者陳寿の名誉にかけても、陳寿に感謝することはあっても疑うべきはない」、これが、私の結論である。

1.はじめに

邪馬台国については、百家争鳴諸説ある中で、これらの説を大別すれば、「比定地論」と「卑弥呼論」に分類できる。邪馬台国が何処にあるかの議論[*2]と邪馬台国の女王が誰であるかの議論である[*3]。その議論には、基本的な問題点として、その魏志倭人伝(以下倭人伝と称す)[*1]の記述の信用性が疑われる意見や都合のよいところだけを対象とした意見が、多々見受けられることである。私の立場は、邪馬台国は、同時代の倭人伝において唯一規定されていると考えるものであり、倭人伝の編者陳寿は、一級の歴史家であるとの認識であり、その編書である倭人伝の内容は、十分信用に値するものと考えている。その根拠は、以下となる。

①記述には、概ね妥当性がある。特に矛盾した箇所は、見受けられない。

②内容的に明解でない箇所があるが、何らかの意図によるものであって、誤りというよりは、そこに歴史の真実が隠されていると理解できる。

この根拠は、倭人伝を数学的公理論により、その信用性の評価を行った結果と、その評価の際、考察において、課題となった筆法について検討した結果に基づく。

本論文は、陳寿の筆法の解明と、その結果により得た解釈による検討を示すものである。

2.倭人伝を記述する上で、要求されること。

陳寿は、歴史家として、西晋の官吏の立場であり、当然、王朝の正史の編纂という制約のもとで、倭人伝を作成した[*a、*4]。

陳寿が、倭人伝を書く上で、考慮した事項は、以下の3点と考える。

①西晋が正式な王朝であることの正当性を示す。

②歴史家として、歴史的事実を記述する。

③歴史家として、歴史書の評価を得たい。



 ①については、倭人伝が、中国王朝の正当性を示す正史である以上、当然のことであるが、更に、晋王朝の成立過程において、司馬 懿の功績を示すことを目的としたものと考えられる[*b]。司馬 懿は、公孫氏の征伐に続き、倭との軍事同盟も成功させた。その功績を西方の大月氏国との軍事同盟の成功である「親魏大月氏王」の称号と同等として、「親魏倭王」の称号が卑弥呼に授与されたことを示すことが求められた。

 ②については、歴史家が歴史的事実を記述しなければならない立場であることは当然であるが、①に関わる正当性にこだわるあまり、事実を曲解や、虚偽の事実を捏造して記述することが考えられる。この困難な立場を克服して歴史書を書くことは至難なことであり、歴史家としての矜持が問われることになる。

 ③については、正史を編纂するための一定の制約があり、規則がある。例えば、過去の正史に記述されたものは、見解は異なっても、正しいものと受け止めて扱わなければならないこと、春秋の筆法といわれる記述についての技法を配慮しなければならないこと、さらに筆法については、簡略字数により記述することが優れたものと評価されるということ、等を考慮した作成が求められる。

3.陳寿の筆法の解明

 倭人伝を読むと理解に苦しむ場面にいくつか遭遇する。この状況を招く起因となるものは何か。いくつか考えられるが、その主たる要因が、陳寿の筆法に関わっていると考える。陳寿の筆法については、既にいくつかの解説が提示されていて、その内容を見ると納得させられるものも多々見受けられる[*c]。しかし、問題は、「比定地論」と「卑弥呼論」に見られるように、一貫性に欠けるという点である。これは、信用性に関わる数学的公理論による解明(付録を参照)に至った経緯と類似している。つまり、倭人伝の中に筆法を見出すことが求められていると理解できるのである。即ち、倭人伝を構成する文脈から筆法は、解明されるべきであるということである。筆法の解明の手がかりは、2章の要求項目に加えて、その実現のための鍵が、文章内に秘められている疑問な点に関係すると推測する。何故ならば、陳寿が、一級の歴史家であり、粗雑な文章を作成するとは、考え難いからである。結局、解明の方法論は、倭人伝の文章から、筆法の謎を解く鍵を抽出し、その仮定に基づいて、全体に妥当な結論を求め、その結論を検証することに帰することになる。本論文では、比定地論を決定付けるものに限定して、筆法を解明した内容を示す。鍵となる記述は、以下の2つである。



①「倭人在帯方東南大海之中依山島爲國邑」

②「女王國東渡海千餘里復有國皆倭種又有朱儒國在共南人長三四尺去女王四千餘里又有裸國黒歯國復在其東南船行一年可至参問倭地絶在海中洲島之上或絶或連周旋可五千餘里」

(1)①の記述の問題点について

 この文章の中の「倭人」とは何かが、倭人伝の研究者にとっての謎となっている。『三国志』東夷伝[*h]の中で、唯一国名でないのが「倭人」である。しかし、これは、国と解釈すべきである。東夷伝の他の国と何が違うかといえば、国名が特定されていないということであり、国として扱うためには、倭人を数学的表現で云えば、国の集合と考えるのが妥当であると考える。即ち、倭人とは、その集合の性質に相応しい名称と云える。したがって、倭人伝というのは、倭国伝ではなく、倭人から成る国を対象としているという意味に解釈できるのである。

この解釈が何故重要かといえば、倭人伝は、倭人に該当する全ての国を対象として記述されていることになるからである。

(2)②の記述の問題点について

この一連の記述には、いくつかの意味がある。一つは、これらの記述が、登場する文章の中の位置が示すものであり、他には、一見、意味不明な「朱儒國」の登場が示すものである。

まず、「朱儒國」の登場の意味は、記述の対象が、国から倭地に変わったことにある。この一連の文章は、女王国から始まり、対象を倭国から、倭地に広げ、その地にも国が存在していること示している。更に、「有朱儒國」は、対象が、国から、倭地に変わったことを示して、最後に倭地全体の広さに言及している。周旋五千余里は、それまでの里数から考えると倭国の広さを表しているが、同時に、ここでは、

倭地は、倭人の国々の広さと解釈できるので、当然今まで倭国に適用した一大国の広さ、方可300里より求められる里数単位ではなく、正規の里数の単位である1里が、434mとした広さと考えるのが妥当となる。

更に、文章の位置から云えることは、文章の構成法である「起承転結」の「転」に相当して、前後の内容の転換を示している。即ち、今まで倭国についての記述であったのが、倭人の国全体(以下大倭国と称す)に代ったことを意味している。つまり、

これ以降の記述は、倭国ではなく、大倭国のことを対象としているのである。 しかし、これだけでは、意味が通じないのであり、「朱儒國」を倭地として、人の身長に例えた場合、どの人の身長と比べるのかと云う疑問がわく。 ここで、初めて、いままでの記述が倭国だけの話ではないことに気付かされる。 このようにして、前の文章へと戻っていくと今まで認知していた内容とは、別の対象が浮かび上がってくるのである。最終的には、文章の始めに戻って、再読すると、別の対象の存在を認識することになる。その結果、歴史の真実が浮かび上がってくるのである。

4.陳寿の筆法による倭人伝の解釈

 陳寿は、2章の①、②、③の要求事項にしたがって、倭人伝の編纂を試み、文書を作り上げたという前提のもと、3章の筆法の解明に基づいて、比定地論についての解釈した結果を以下に示す。

(1)里数の単位について

  魏の当時において、正規の里の長さは、434m(程度)であったという。倭人伝における帯方郡から邪馬壱国までの里数は、1万2千里余と記述されている。これに、魏の都洛陽から帯方郡までの距離5千里を加えると1万7千里となり、西方の軍事同盟国、大月氏国の洛陽からの距離1万7千里程度と同等となる。つまり、邪馬台国との軍事同盟が大月氏国との同盟と同等の評価となるのである。しかしながら、1里の長さ434mで1万2千里を計算すると、5208kmとなり、実際の地図上の距離を大幅に超えてしまうことになる。このままでは、虚偽の長さとなるが、その対策が、一大国の面積方可300里と考える。地図により、方可計算すれば、壱岐の面積は、18x16=288k㎡となり、1里は、56m程度に相当する(図1を参照)。

図1 一大国の方可300里の面積算出方法
図1

この値で、1万2千里を計算すれば、672kmとなり、余の値を考慮すれば、地図上の距離にほぼ合致する。里数の問題は、政治的な要求を満足させるための妥協策と考えられる。
ここで留意すべきは、里の単位に2つの基準があり、「方可300里」が示す、1里56mは、邪馬壱国までの行程に適用され、大倭国は、正規の1里434mが適用されるということである。

(2)投馬国及び邪馬壱国までの行程について

 1里の長さを56mとすると、帯方郡から邪馬壱国までの距離1万2千里は、672kmとなり、北九州の範囲と考えられる。これは、韓伝による馬韓、弁辰韓の方可4000里と帯方郡から狗邪韓國までの行程が7000里から妥当であるといえる。ところが、倭人伝には、「投馬国は、水行二十日、邪馬壱国は、水行十日陸行1ヶ月」と行程が記されているので、1日の水行の行程を千里とすると、水行二十日は、1120kmとなり、真南では、北九州の範囲を遥かにはみ出してしまうことになる。しかし、投馬国、邪馬壱国の位置が南と考えると、水行二十日では、九州を時計回りに回り、有明海に入り、投馬国に至り、水行十日陸行1ヶ月では、更に左回りに九州南端に上陸して、九州を陸路縦断すれば、邪馬壱国に至る解釈が可能である。 ここで重要なのは、投馬国及び邪馬壱国の方向南と、水行及び陸行は、独立の関係にあるということである。

(3)国の面積について

 倭人伝の中に登場する国において、領域のサイズが明示されている国は、対海国の方可400余里と一大国の方可300里だけである。正確には、余が付かない一大国のみであるので、この値を基準として、考えると対海国のサイズは、対馬島の全域でないことは、地図上明確となる。したがって、方可400余里は、対馬島の一部であることが解る。

江戸時代の地図で確認すると対馬には、2つの国が存在し[*d]、その1つの国の面積が、ほぼ適合している。したがって、対海国のサイズが、事実であると解釈してよいと考える。

しかし、里数に一大国には、余がなく、対海国には、余が付くのは不自然である。因みに、魏志韓伝[*f]の三韓(馬韓、弁辰韓)、の面積は、「方可四千里」と余がつかないで明示され、地図上、一大国の基準とほぼ合致している。対海国の方可400余里の「400」は、「余」で調整された何らかの意味を持つ値であると考えられる(図2)

図2 対海国のサイズ
図2 (注)青と黒の外枠は、対海国の面積、黒枠は、方可400里に当たる面積

対海国の記述の中で、国のサイズに関係するものに戸数がある。この戸数については、他にも記述があり、一大国と不彌国は、戸数の代わりに家数が使用されている。戸と家の違いは何か倭人伝には記述がない。魏志韓伝で確認すると、馬韓は、「凡五十餘國」、「大國萬餘家小國数千家?十餘萬戸」とあり、弁辰韓については、「弁辰韓合二十四國大國四五千家小國六七百家惣四五萬戸」とある。馬韓と弁辰韓の面積は、同じ程度と考えると、馬韓の戸数当たりの平均面積は、弁辰韓の半分であり、平均戸数は、ほぼ同じなので、戸数は、国の面積には関係ないことが解る。これは、戸数が、地形に関係があり、耕地面積のサイズによるものと推察する。

また、戸数と家数は、比例の関係にあり、戸が、租税単位を表すことから考えると、戸と家の違いは、租税対象の有無による違いと解釈できる。一方、個々の国については、馬韓と弁辰韓のいずれにおいても、おしなべて、同じ戸数の傾向がある。

図3 三韓(馬韓、弁辰韓)の面積と戸数、家数の関係
図3

この地形と耕地面積から戸数を調整した結果が、対海国の面積方可400余里の「400」の意味であると考える。 つまり、調整の意味は、対海国の面積と戸数は、倭国における国の面積の基準を求めるためであると推察する。

この基準により、計算した結果は、表1となる。この表から、馬韓と弁辰韓の面積が同じとすると、對海国の戸数当たりの面積は、弁辰韓とほぼ同じとなり、對海国の地形や耕地面積は、弁辰韓と同じとなる。表中、投馬國及び邪馬壹國のサイズには、存在する地域との関係において疑義があることが分かる。これについては、5章の考察にて検討する。

表1戸数と家数から算出した国の領域サイズ
表1
(注1)領域面積(km2)は、對海国(戸数)、一大国(家数)を基準により求めた値
(注2)アラビア数字が示す値は、計算値

(4)邪馬壹国の比定地について

 倭人伝の中で、筆法による観点から解釈する上で、重要な鍵となるのは、「朱儒國」である。そこで、この文の解釈を試みると、先ず問題となるのが、「人長三四尺」の解釈となる。人の丈が1メートル程度というのは、倭種においては考え難く、人の身長と解釈すると倭人伝は、空想の世界が描かれているという評価になってしまうことになる。しかし、「朱儒國」が、小人を導くための人の例えであると考えると、「朱儒國」自身が人となる。解釈は、「其の南に朱儒國が有り、人に例えれば、1m程度の身長の国である」となる。ここで、比べる相手は誰かということになるが、その答えが「去女王四千餘里」にある。即ち、女王が、その位置から移動して、ということであるから、女王が住んでいた所ということになる。即ち、九州島となるが、倭人伝の中で確認できるのは、「投馬国は、水行二十日、邪馬台国は、水行十日陸行1ヶ月」が示すサイズとなる。 女王の居住する島のサイズとなり、単なる行程を表す文ではないことが解る。即ち、陳寿の筆法が具現されていることの証といえる。つまり、この「朱儒國」を含む文脈は、倭人伝の中で、陳寿の真意と深く関わっていることになるのである。

改めて、この文脈を考えてみると、文章の構成法である、起承転結の「転」に相当する。

それまでは、女王国邪馬台国の行程、風俗、統治と女王国に限られていたが、この文脈を区切りとして、魏との国交が記述されることになる。ここで、問題となるのが、魏の相手は、誰かということである。「景初二年六月倭女王遣大夫難升米等詣郡求詣天子朝献」以下の文は、魏との国交の内容であるが、此の中で、魏と交渉する国及び人は、「倭」と「倭女王」である。更に、倭の使節として、大夫難升米等が登場する。これらの人物は、それまでの記述には、一切登場していないのが不思議である。一体どこに居住しているのであろうか。実は、この答えは、先の「朱儒國」の一連の文脈に示されていると考える。朱儒國のサイズと位置を示したにも関わらず、「女王國東渡海千餘里復有國皆倭種」の国々の存在する地のサイズがないのは、不自然であり、「参問倭地絶在海中洲島之上或絶或連周旋可五千餘里」にその答えが隠されている。表向き、倭地は、倭国の地、即ち、女王が都する邪馬壹国に統属する国々全体の地域と解釈できる。しかし、この解釈は、不自然であることが解る。まず、この解釈であれば、先の行程の終わりに記述するのが自然といえる。また、倭地ではなく、倭国とすべきである。つまり、倭地の解釈にある。先の「朱儒國」の一連の文脈は、倭国ではなく、倭種の国々のことを述べていることから考えると、倭地というのは、倭人の地と解釈するのが妥当である。「周旋可五千餘里」は、倭国と解釈すると、5000x0.056=280km程度となり、倭国のサイズに適合する。一方これを倭人の地と考えると5000x0.434m=2170km程度となり、北は、北陸、東海、南は、九州を含む領域となり、当時の倭人の住む地域と解釈できる。 表向き倭国と云いながら、実は、倭人の地(大倭国)を表すと解釈できるのである。 つまり、倭とは、大倭国であり、倭女王とは、大倭国の女王である。ここで、倭国の女王と大倭国の女王の二人が存在することになる。その答えは、「去女王四千餘里」にあると推察する。この文の意味は、今は、去って、元居た所から4千里と解釈できなくはない。すると、現状、女王が住む所(邪馬台国)は、何処かという疑問が生じる。その答えは、「投馬国は、水行二十日、邪馬台国は、水行十日陸行1ヶ月」の記述にある。女王は、九州には住んでいないとすれば、東の倭地に住んでいるのであり、近畿地方が有力となる。江戸時代の地図[*f]で確認すると、水行二十日は、丹後から若狭、水行十日は、出雲が該当する。出雲より、陸行1ヶ月は、近畿となり、邪馬台国は、奈良県当たりと比定する。投馬国は、日本海沿いの若狭、丹後、但馬から瀬戸内海に至る領域となる。丹後、若狭から更に水行十日すれば、富山県(大倭国の境界)となり、陸行1ヶ月で奈良県となる(図4)。

図4 行程(地図)
図4

5.考察

(1)比定地論

  4章において、邪馬壹国は、北九州、邪馬台国は、近畿の双方であるという結果を得た。即ち、倭国に邪馬壹国が、大倭国に邪馬台国がそれぞれ存在していた。

 これを裏付ける根拠が、表1にある。表1の倭国の戸数より算出した面積方可4845里は、倭国の周旋5000里を正方形として求めた値、方可1250里を上回り、更に、ほぼ同数の戸数の三韓(馬韓及び弁辰韓)の面積、方可4000里も上回る。地図で確認すれば、明らかであるが、九州全体より、三韓の面積は、大きいので、北九州に位置する倭国の国々の面積が、九州より大きい三韓の面積を上回ることはなく、矛盾している。これらの関係を図5に示す。

図5 倭国の戸数の合計面積と大倭国、三韓、九州、倭国の面積の関係
図5
(注1)大倭国周旋:5000里、三韓方可:4000里、倭国周旋:5000里
(注2)大倭国:1里は、434m、三韓、倭国:1里は、56m
(注3)九州のサイズは、地図より判断

その理由は、奴国、投馬国及び邪馬壹国の面積が大き過ぎることにある。結局、投馬国及び邪馬壹国は、九州以外の地にあると考えるのが妥当であり、4章において、得た北九州と近畿の双方であるという結果に合致する。また、 「投馬国は、水行二十日、邪馬台国は、水行十日陸行1ヶ月」の行程が、道里で表現されないことの理由の根拠となる。即ち、道里で表現とすると、近畿地方は、倭国の圏外となり、1里56mの単位が適用できないのである。この点、水行及び陸行表現であれば、九州と近畿の両方に適用可能となる(図6)。

投馬国が、邪馬台国と同等の距離と仮定すると、末盧国より2千里の距離となり、これに正規の里数1里434mで計算すると、868kmとなる。すると邪馬台国は、水行10日で434kmとなり、43.4km/日となる。また、残り434kmを25日(5日休息)で割ると1日で陸行17.36km程度となり、公孫氏討伐に要した日数(「往百日 攻百日 還百日 以六十日爲休息 如此 一年足矣」[*g])洛陽から帯方郡までの4000里/100日の行軍(17.36km/日)から判断して、妥当な行程といえる。

図6 行程(里数と日数)


図6

(2)陳寿の筆法の存在

 本論文における陳寿の筆法の解明を検討して得られた解は、妥当性、一貫性のあるものであり、筆法の存在を証明していると考える。筆法の解は、数学的公理論で得た解を含むものである。これは、数学における一次関数と二次関数の関係に似ている。即ち、一つの変数の値に対して、いくつの解があるかという点にある。したがって、本論文では、取り上げなかったいくつかの不自然な箇所についても、従来と異なる解が存在している可能性がある。また、倭人伝自身を1つの関数と考えれば、得られた結果を変数として代入すると新しい結果が得られる可能性も示している。

 一方、少ない文字数で記述する手法については、筆者が、記紀や出雲風土記の記述方法で指摘した方法[*5]との共通性が感じられる。倭人伝の筆法がこれら歴史書に影響を与えているとすると、当然、これら歴史書の編纂者も倭人伝の内容を理解していた可能性があり、倭人伝の解が、記紀を解く鍵であるならば、筆法の観点からのアプローチによる読解も考えられる。

4.まとめ

(1)成果

 本論文は、陳寿の筆法を解明し、それに基づいて、倭人伝の解釈を行った。その結果、従来、比定地論は、九州説や近畿説等、一元的な視点での評価がなされていたが、本論文における視点は、その並立性と同時性の議論に踏み込んだものであり、比定地論を新しい議論の場に飛躍させるものと考える。

(2)今後の課題

本論文の議論の対象外とした卑弥呼論については、比定地論に影響はないものとして扱い、今後の課題とした。



最後に、本論文が、可能となったのは、先人の努力による成果によるところ大であり、多大な知識を提供いただいた諸氏に深く感謝を致します。本論文の結果が、更なる古代史の謎を解く手助けとなれば幸いです。

以上

<参考資料>
本文、[* ]内は、参考資料の番号を示す。
1. 石原道博編訳
  「新訂 魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝・随書倭国伝」岩波文
2. 「卑弥呼と邪馬台国」 発行 テレビせとうち株式会社
3. 「歴史読本」7月号 2014 特集 謎の女王卑弥呼の正体 発行 (株)KADOKAWA
4. 「歴史研究」平成26年12月号 史談往来 「日本の歴史学者と陳寿」
5. 「歴史研究」平成26年10月号 特集 越前福井の謎
  ヤマタノオロチに登場する「高志」の謎とその秘密 
6. インターネット関連資料
a. 陳寿 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/陳寿
b. 司馬懿 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/司馬懿
c. 陳寿の筆法関連
①歴史書の歴史
http://blog.goo.ne.jp/dogs_ear/e/e6cc97858ea6372672a820569aaea77b
②陳寿の暗号(女王國の謎) 馬野吉輔
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Forest/3683/umano.html
③「三国古典の散歩」文芸社 著者: 崎岡洋右
中国の史書は暗号文か(95ページ)
④倭人伝をひもとく: 元エンジニアが挑む「魏志」倭人伝の謎 著者: 今岡純雄 文芸社
春秋の筆法(65ページ)
⑤春秋の筆法
http://matsuiism.hatenablog.com/entry/2014/01/25/211123
⑥邪馬台国参考書
http://kodaishi-0.jimdo.com/参考書/
⑦春秋の筆法」による陳寿の書き換え
http://www.geocities.jp/yasuko8787/1-4-1.htm
d. 国立公文書館デジタルアーカイブ 天保国絵図対馬国
http://www.digital.archives.go.jp/gallery/view/detail/detailArchives/0000000252
e. 国立公文書館デジタルアーカイブ 日本輿地図日本津湊図
http://www.digital.archives.go.jp/gallery/view/category/categoryArchives/0200000000/0204000000
f. 『三国志魏書』馬韓伝
http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/kanbun/bakan-kanbun1-gisi.htm
g. 魏朝の遼東経略
http://www.lun.ac/history/ancient/ryoutou.php
h. 東夷伝- Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/東夷伝

付録

本論文に取り掛かるきっかけとなった論文の抜粋を補稿として以下に記載する。

補稿  魏志倭人伝を数学的公理論で読み解く

-― 倭人伝が自らを語るとき ―

田中真生雄(たなかまきお)
<論文解説>

魏志倭人伝(以下、倭人伝と称す)における、比定地論の解釈の問題として、信用性が語られることが散見される。この信用性を評価する目的で試みたのが、数学的公理論による倭人伝の読解である。

簡単に云えば、“倭人伝自身に語らせる”、ということであり、その発言が信用できるかということである。即ち、倭人伝を公理系として、その記述文を個々の公理として捉えた場合に、無矛盾性を検証するものである。公理系として扱う意味は、倭人伝の比定地論を閉じた系として扱い、外部要因を極力排除する中で、一貫したある解釈において、記述内容に無矛盾(妥当性の存在)が確認できれば、記述内容は、論理的に信用性できると考えるからである。当然、解釈の違いによっては、部分的には、矛盾が生じる場合もあるが、その解釈は、一貫性のある議論といえるかが問題である。即ち、多くの比定地論の議論がこれに帰結する。数学的の意味は、純粋数学上の証明の立場ではなく、その方法論を用いて、信用性を議論するという意味である。閉じたとはいっても、公理論に自明なものがあるように、いくつかの前提を自明なものとして、設定した。船の速度であるとか、地理的及び歴史的な事実等である。これらの真偽の問題が考えられなくはないが、極力、自明として、配慮した。結果は、倭人伝の記述は、信用できるものであり、比定地論についても十分説明がつくことが確認できた。しかし、 考察において課題として残ったのは、筆法による解釈の問題であり、「編者陳寿の真意が存在するか」の検証であった。

以下に、参考として、論文の考察の抜粋を示す。

<以下、論文抜粋>

5.考察

5.1 結果の考察

(1)1里が56mの意味

  この値は、諸説あるが、公理系(倭人伝)自身より得られた値であることに意味がある。自理2による方面積の定義や測り方の誤差はあるにしても、最も信用に値する方可300里に基づいており、渡海を始めとする各行程に合致していることは、比定地の決定の妥当性や倭人伝の行程記述が十分信用に値するものであることを示していると考える。

また、千里(56km)は、水行で1日の行程の目安となっているように推察する。これは、対馬、壱岐、唐津に渡るのが1日行程であること、九州を右回りに水行し、20日の行程が、20x56=1120kmとなり、投馬國に至る行程を満足していることより推察できる。

(2)邪馬壹國の比定地

 邪馬壹國の所在地については、筑後川の北、朝倉市から佐賀市に渡って存在する結果を得た。しかし、邪馬壹國の中心部がどこかは、決定に至っていない。

(以下、省略)

(3)水行20日、水行10日陸行1ヶ月の経路

 邪馬壹國への行程は、12000里と、道里により、その境界が決定される。しかしながら、領域のサイズや、九州における位置は、判明しない。そのため、九州を水行により、周回し、更に九州を縦断して、各地の情報を得るための調査行であったと推察する。九州北岸から、右回りに有明海に達するためには、900km程度の行程であるが、1日50km進行すれば、可能な行程である。対馬海峡が50km程度あり、これを1日で渡っていることから考えると十分可能な行程であると考える。

(4)朱儒國の比定

  朱儒國が四国であるという解釈は、水行20日、水行10日陸行1ヶ月に関係する。

 この行程が示す意味は、九州全体の行程を示すものであり、その際、四国の位置とサイズの情報を得たと推察できる。身の丈3、4尺の小人というのは、九州を大人としたとき小人の四国のサイズを示したものと考えるが、地理的に合致する。



5.2 公理系では扱えない領域

 「邪馬壹國」は、「臺」か「壹」の議論がある。これが、公理系では、間違いとして扱い、「壹」とする。しかし、陳寿の筆法により、「臺」を故意に「壹」とした可能性も考えられなくはない。この観点より、公理を見てみると筆法と思われる箇所が散見される。これが、単なる修飾的な使用であれば問題ないが、陳寿の真意が込められているならば重要な意味を持つ。この点については、公理系の対象外ではあるが、別途検討を要する課題である。



                                  以上
					最終更新 平成27年1月28日