私の邪馬台国論  『耶馬台国よ	いずこへ』

												柴田 克彦

  古代史を考える上でのturning pointは、このタイトルと考える。
 魏志倭人伝によれば「248年卑弥呼以って死す。」とある。
 それでは卑弥呼の死後耶馬台国は、如何なることになったのであろうか。この点を検証してみよう。
 なお、耶馬台国と狗奴国の故郷が、九州にあったことを前提条件としている。


イ)耶馬台国と大和政権の所在による検証

 @大和政権が全く独自に畿内に成立した。耶馬台国は九州にあった
   この場合、畿内に発祥した大和政権が九州にあった耶馬台国を滅ぼしたことになる。
A耶馬台国がヤマトにあった。大和政権も畿内にあった。 
この場合、大和政権は畿内で発祥し、畿内の耶馬台国を破ったことになる。
Bともに九州にあり、大和政権が耶馬台国を滅ぼして、大和政権が東遷した。
九州内で争った形跡は耶馬台国と狗奴国との争いであり、この場合更にもう一つ大和政権が
あって、大和政権が耶馬台国、狗奴国の両国を滅ぼした。
C九州にあった大和政権が東征してヤマトの耶馬台国を滅ぼした。
記紀神話の話。東征した大和政権がヤマトの耶馬台国、狗奴国の両国を滅ぼした。
D九州にあった耶馬台国が東遷して、大和朝廷となった。大和政権の源流が大和にあったとすれば、耶馬台国の成立はともかく、耶馬台国を大和政権が亡ぼしたことになる。鉄の所有も少ない大和政権が、鉄で武装した耶馬台国を倒したとは、到底思えない。(勝負にならない) 九州に大和政権の源流があったとすれば、耶馬台国と狗奴国と大和政権の三国が九州に存在していたことになる。しかし耶馬台国と狗奴国以外の国で、政権を持つような強国の存在は非常に疑わしい。
結論として、九州勢力の勝者の東遷説が最も整合性があり、合理的な考えである
ここで問題になるのが、耶馬台国と狗奴国、どちらが勝者であったかである。この点を次に検証しよう

ロ)九州の安定

狗奴国は耶馬台国と筑後川を挟んで、対峙していた。そして狗奴国は、卑弥弓呼を王として、中央集権国家で専制体制をとり、狗古智卑狗と呼ばれる補佐官がいた。狗古智卑狗は、恐らく肥後菊池郡一帯の首長であろう。
いずれにしろ、狗奴国は南九州にあり、奴国の一部の人々が南に下り、建国した。鉄製武器の出土が多い。日向の川床遺跡がその候補であろうか。(日向であるならまさに神武と符合する)
250年頃耶馬台国は狗奴国との筑後川流域周辺での戦いに完敗した。252年頃和議を図り、卑弥呼の一族の壱与を立てて治まった。
そして壱与に対し、魏の張政が檄文をもって諭したとある。もし狗奴国が耶馬台国を亡ぼすなら、壱与をトップに立てずに、そのまま争えばよいこと乍、それをしなかった。ということは、両者が談合講和したということ。
耶馬台国を滅ぼさなかった、いやその理由は分からぬが滅ぼせなかった何かがあったのであろうか。
壱与で治まったということは、狗奴国にとって有利な何らかの約束ができたということ。
恐らく和議の条件は、壱与が成人の暁に、狗奴国の王子(卑弥弓呼の子息)と.結ばれること。(巫女である壱与は婚姻できないかな?)ないしは、狗奴国の王子が成人に達したとき、政権を譲渡し、耶馬台国王になることであろう。いずれにしろ壱与は、巫女としてその立場は確保されていたであろう。この狗奴国の王子こそ、崇神の父(あるいは崇神本人)と考えるのが最も筋の通ったことである。
この崇神の父の名は分からぬが、記紀の記述等から考えて神武に相当するものと強く考える。以下”神武”と表現することとする。この講和の仲介の労を取り持ったのも張政であろう。

252年に壱与は早速魏に、朝貢した。壱与は政治的に中国王朝への遣使という、卑弥呼と同じ手法で国を安定させようとした。260年頃、約束通り、壱与20歳の時”神武”と結婚したことであろう?狗奴国王卑弥弓呼は”神武”に譲位し、ここに耶馬台国王”神武が誕生した。
266年耶馬台国が安定したのを見届けて、張政は帰国した。狗奴国一耶馬台国、連合の誕生である。このことは、九州が一つの国になった事を意味しており、当時この連合国に対抗できる勢力は、倭国全体を見回しても存在しない。

晋書の記載では、266年に倭人来て「円丘と方丘を併せた墓あり」と報告した。
あまり評判のよろしくない晋書の記載であるが、これを信ずるとすれば、即ち、前方後円墳が266年にあったという事。これが事実である。遣使は前方後円墳のことを他人事として語っている。自分達がそうだとは言っていない。
つまり、「今準備中ですが、その地がもう間もなく我々の国になりますよ」と暗示しているようなものである。これを、伝えたのは、魏の張政も遣使と一緒に帰国しているので、間違いなく、耶馬台国の使いであろう。
この前方後円墳とは、ヤマトの纏向最古の古墳、纏向石塚古墳のことを指しているのであろう。この時点で耶馬台国は、ヤマトの情報を熟知していたことになる。従ってヤマトを治めるための情報収集を行い、東遷する準備を進めていたと考えられる。あるいは、下準備、調査のために何度か使者がヤマト入りを果たしていたかもしれない。

ハ)ヤマトの状況

纏向遺跡は、190年頃に造られ、250年頃最盛期を迎え、310年頃放棄されている。纏向からは、東海、南関東、北陸、尾張、近江、吉備、出雲地方など他の地方で生産されたと考えられる土器や祭祀用の道具が出土している。また鉄器の出土が少ない。
当時のヤマトの情勢はどうであったであろうか。吉備を筆頭に、次に東海、力の弱くなった物部出雲らがいた。即ち、纏向は神仙思想に基づく、吉備勢力が造った地である。

ニ).耶馬台国の東遷

265年頃までは、東遷の各種準備中で、特に当時ヤマトを押さえていた吉備との交渉が一番重要であった。耶馬台国は鉄器を多く所有し軍事的にも強力であった。吉備は争っては負けると思い、争いを避けて、協力することにした。そこで両者は平和裡に解決すべく、政治面では”神武”を頭とするが、あくまでも共同で行う。祭祀方式は吉備方式とし、埋葬方式も双方中円墳即ち吉備の特殊壺、特殊器台を取り入れた新しい形式の埋葬方式を東海の前方後方墳と共に考慮して採用する。その結果前方後円墳となった。
吉備と和合ができたことで、大和地方にいた勢力(物部や東海勢力)とは、各々安堵することで合意した。そして各勢力に対し、更にしっかり数年間の時をかけて、ヤマト先住の各氏族の最終同意を取り付けたお陰で、大きな争いもなく東遷することができた。これは記紀の争いのない国譲りかもしれない。
290年頃耶馬台国連合も安定し、”神武”は東遷を始める最終決断をする。そして先発隊が九州を出発した。
そして300年頃耶馬台国の”神武”は壱与と共に、息子祟神を伴って纏向目指して、瀬戸内海ルートで平和裡に東遷した。そのルートは紀の川からヤマトに入ったであろう。
記紀が述べている神武東征は、多大の時間を費やしているが、これは殆ど、吉備やヤマト地方の整備調整期間とみてよかろう。正に神武東征は”神武”東遷とequolなのである。
その証拠は何といっても、美典先生の仰る地名の相似点である。間違いなく朝倉の耶馬台国の人々が移住したのである。

ホ)大和で政権を握った耶馬台国

ヤマト入りを果たした”神武”は数年後の305年頃祟神に王位を譲った。構図的には、耶馬台国が主力で、次の勢力が吉備で、更に東海勢力が補強する権力体制である。吉備とは、共同統治のような形であった。その中心人物が吉備津彦で崇神を支えた。そして、崇神は纏向の地で、実質的に崇神王朝(三輪王朝)初代となった。 310年頃祟神は、何故か分からぬが纏向を放棄して別に都を創った。崇神の皇后は、四道将軍の一人大彦命の娘御間城姫、妃は紀州と尾張からである。

崇神は、耶馬台国の力を見せるために、そして権威をみせるために巨大な箸墓の建造を思いついた。崇神は壱与のために箸墓の建造を命じ、先行して箸墓の1/2のモデルを吉備の浦間茶臼山古墳を造った。この浦間茶臼山古墳の埋葬者は、吉備津彦の父?後にも行燈山古墳を造るにあたり、吉備にこの1/2の中山茶臼山が造られた。このように、当時古墳の建造は吉備氏の技術集団が中心に行ったと考えられる。吉備津彦は役割を終えて、吉備に戻って、中山茶臼山古墳に埋葬された。

箸墓は、名の通り、祟りを恐れた祟神であろうから、壱予のためばかりでなく卑弥呼の墓の直系百余歩の規模に合わせた円墳を先に卑弥呼のために作り、前方部は壱与のために造った。自分らが殺害した卑弥呼の祟りを鎮めるためにヤマトにも卑弥呼の墓をつくり、卑弥呼の御霊と壱予を同時埋葬みたいな形となった。この墓を造ることは、父”神武”の願いであったかも知れない。そして”神武”の
墓は西殿塚で、この墓を中心とした古墳形成になっている。(卑弥呼の墓は、系百余歩の円墳で伊都国が奴国あたりに存在したが、持統天皇の時代に藤原不比等により破壊されている。また、耶馬台国の都も地政学上も重要な土地である大宰府政庁の下に眠っている可能性が高い。)
祟神の後が景行で、墓は行燈山と渋谷向山である。その次の大王は存在が疑われる仲哀で、九州で敗れて殺され、仲哀の死がこの王朝の滅亡を暗示している。以上のことを表に纏めたのが下表である。

表1

へ)記紀の神武と耶馬台国の”神武”

余り唱えられていないが、祟神の父を”神武”とすると、話が急にリアリティを帯びて来るから不思議である。やはり自然に話が繋がることは、真実なのであろう。神武と祟神は同一人物でないかという説もあるが、そうかも知れないが、やはり別人で親子と考えるのが妥当であろう。記紀の神武以後の8代は、やはり欠史8代であって、皇統を長く見せかける仕掛けに過ぎない。

記紀の神武東征は、”神武”が時間をかけて東遷したことと、数年間の時間がかかった、神武の東征と時間軸があっている。

神武がナガツネヒコを破ってヤマト入りした話と、”神武”が吉備勢力と和合してヤマト入りした話と、非常に似ている。歴史の実体は、九州からの東遷とヤマトにいた集団の国譲りの繰り返しである。九州からの東遷は、初めが、”神武”、次が応神であって、国譲りは初めが吉備勢力で、次に耶馬台国である。我等が美典先生の仰る通り、神武が東遷したのである。先生と異なる点は、その息子が祟神であることである。

ホ)大和政権の誕生

何故記紀は、耶馬台国を隠す(記載しない)必要があったのか?記載できなかったからである。卑弥呼のことを語れない記紀は、何故であろうか。それは、滅ぼしていないからである。200年前の倭の5王を語れない記紀が、500年前の耶馬台国を語れないことは、何の不思議もない。武列の存在や、雄略と欽明の陵墓も明確化できない記紀である。歴史とは時の権力者によって創りだされるものであって、歴史を摩り替えているだけの話である。記紀は、素晴らしい物語であるが決して歴史書ではない。卑弥呼の化身、形代として、アマテラスと神功皇后を創り、卑弥呼の祟りから逃れるために、アマテラスを伊勢神宮に、神功皇后を宇佐神宮に祀った。書記は雄略の時代から、書き始めたように、時代を遡って編纂している。天武の時代の記紀編纂時の考えは、恐らく応神を皇祖と本当は考えていたであろう。

仲哀の死後、380年頃まで空位であったが、この間耶馬台国と朝鮮半島での侵略と交易で力を得た応神勢力との交渉期間である。応神勢力がヤマト入りする前に、仲哀の二人の皇子を殺害したり、小さな争いがあったが、耶馬台国側は応神勢力に国譲りを図って、九州から応神勢力がヤマト入りを果たした。ここにおいて、耶馬台国が亡んだことになる。なお、応神の血筋は、架空の母親と祖父から生まれる筈もなく、全く不明乍北九州人であろう。以後、応神の血も途絶え、出自不明の継体が現れ、応神の血をひく手白香皇女と結ばれ、欽明天皇が現天皇家の始祖となるのである。

おわりに

耶馬台国は九州説も近畿説も両方正解なのである。但し、卑弥呼の都は九州にあった。結論として狗奴国王が耶馬台国グループを統括して、東遷して大和に王朝を創ったのである。しかしこの耶馬台国を母体とした王朝も、大和政権の源流となる応神王朝に変わった。
正当な大和王朝の成立は、継体のあとを継いだ欽明天皇からである。

以   上

					最終更新 平成26年12月28日