『奈良盆地から発信する「邪馬台国九州説」』

									奈良市・東大寺学園理科教師  飯田 眞理

【はじめに】  邪馬台国の所在地問題は江戸時代から始まったものですが、それ以前には、「倭人自謂呉の太伯の苗」という魏略などの記述が問題になっていたとのことです。南北朝時代の円月は、これを真実として「日本書」を書きましたが、大多数の「神国日本」論者たちに政治的に抹殺されました。北畠親房は「呉の太伯の末裔」を否定して、「神国日本は三韓と同種」であるとしています。(邪馬台国の所在地については北部九州として、決まっていたと考えます。)歴史は政治と密接なのです。江戸時代の本居宣長は「邪馬台国は大和朝廷とは別のもので、九州の女酋の国、狗奴国は九州の野蛮な熊襲の国」としました。戦前では、皇国史観のもと古事記日本書紀が絶対的な真実とされ、その記述を元にした教科書で歴史教育が行われました。

 現在の多くの「学者」達の説は、かつての「皇国史観」を「ヤマト中心史観」に置き換えているだけのようなものです。私は故郷奈良を愛するがゆえに、国・学者・マスコミ一体となった邪馬台国奈良説誘導に抗して、日本の古代の真実を明らかにしたいのです。何よりも大切なのは「矛盾がないこと」と「整合性」です。つまり、日本・中国・朝鮮の諸文献と考古学試料とを「総合的かつ合理的に説明」できることです。

1 筆者の古代史骨子

(1)弥生人について

弥生時代は、渡来系弥生人が、在来の多数の縄文人と融合したものであると推察されます。高床建築、鵜飼、などの多くの文化が江南~雲南地方の文化と共通です。人骨の研究などからも、渡来系弥生人のルーツは江南であることがわかります。文献的にも「倭人自ら(呉の)太伯の苗と謂う」とあり、自分たちの故郷は呉(中国江南)であると語っているのです。

(2) 邪馬台国とヤマト政権との関係

① 「魏志倭人伝」に記す邪馬台(ヤマト)国は北部九州に存在しました。

②その後継勢力が波状的に近畿地方を中心に東遷して、ヤマト王権が成立しました。

③九州勢力の東遷の主要なものはおよそ次の三度です。

★饒速日尊(物部氏の始祖)を中心とした北部九州から多くの氏族の摂津、河内、

大和、近江,尾張、武蔵などへ移住。

★次に、ニギハヤヒの弟のニニギの尊の子孫のイワレ彦(神武天皇)勢力の東征。 

★さらに、(神功皇后、実は応神=仁徳=元イザサワケ→ホムタワケ)を首長とする騎馬文化勢力の畿内へ進出。

2 邪馬台国の所在地について  魏志倭人伝を素直に読むだけで邪馬台国が北部九州に存在したことがわかります。

【これだけで北部九州と決まる根拠】

倭人伝には「その南に狗奴國有り・・官にがあり・・」と記されています。“”は、の磐余と同様地名のことであり、現在では“菊池”となり「キクチ」と発音するようになっています。奈良時代成立の続日本紀に記されている「鞠智」城(現熊本県に存在)は「ククチ」城と呼ばれていました。平安時代には菊池となったときでも「ククチ」とよばれていたとのことです。「狗古智」は「鞠智=ククチ」を経て「菊池=キクチ」になったということなのです。狗奴國の「クナ」も訛って「クマ」モト(熊本)や球磨(クマ)川として残っています。伊都国を現糸島市、奴国を「那の津」の福岡市とするなら、「狗古智」は菊池市や菊池川あたり、「狗奴國」は熊本県地域であることに疑う余地はありません。よって、邪馬台国は其の北の福岡県から佐賀県の筑後川流域であることになります。西は吉野ヶ里から、東は朝倉市・筑前町までの広域が邪馬台国です。倭国最大の7万戸に合致します。

【その他の根拠】

①帯方郡より女王國までの萬二千余里のうち、伊都国から邪馬台国までは残りわずか1500里です。北部九州地域しか考えられません。

《水行十日、陸行一月について》

「水行十日、陸行一月」とは、帯方郡から邪馬台国までの日数での説明なのです。

「・・南至邪馬壹國女王之所都水行十日陸行一月」と記しています。他の国々は全て、「東南至奴國百里官曰?馬・・」のように、必ず国名の後に里数を記した後、その国の説明をしています。「水行十日陸行一月」の起点が伊都国または不彌國なら「南至邪馬壹國水行十日陸行一月女王之所都」と記したはずです。つまり「里数での行程説明」は「南至邪馬壹國女王之所都」で終わっています。その後で、「日数での説明」をし直しているのです。同じ東夷伝中の「扶余・高句麗・韓」などでは全て里数のみで距離が記されています。距離を日数で記しているのは倭人伝だけです。ずっと時代が下る隋書によれば倭人は距離を計るのに里数は用いず日数で計るとあります。

この倭人伝の「水行十日陸行一月」は帯方郡から邪馬台国までの距離を、むしろ倭人のほうから魏使に伝えていたことかもしれません。

②伊都国と邪馬台国の位置関係が南北であることが、三回はっきり記されています。

邪馬台国が伊都国の東であるはずがありません。

奈良説では、末盧國から伊都国や奴国への方角は正しいが邪馬台国への「南」だけが誤りで、「東」とします。このような乱暴勝手な考えは学問ではありません。これが通用するなら邪馬台国は何処でも成り立つことになります。そもそも東夷伝中に方角の誤った記述はいっさいありません。)

③倭の地は「周施五千余里」や、「女王國の東、海を渡る千余里、また國あり、皆倭種なり、」から邪馬台国は北部九州にのみあてはまります。一部の奈良説の学者は、邪馬台国を奈良であることを前提に、この「海を渡った東の倭人の国」を狗奴國=東海地方とします。マスコミも「狗奴國=東海虚説」を何度も宣伝していますが、実証を旨とする歴史学からは著しく逸脱した空想でしかなく、説としても成り立つものではありません。

論争になることが不思議です。奈良説は、倭人伝の都合の悪い記述を誤りとしたり無視することによってのみ成立するものだからです。そもそも同じ東夷伝の夫餘,高句麗,?婁,韓などでは、誤りはほとんどありません。東夷伝の前文には「四夷の変に備ふ」とあります。東夷伝は単なる紀行文でなく、軍事防衛用でもあったのです。陳寿の「三国志」編纂の姿勢は、疑わしいことは避けて確実なことのみを記すことでした。倭人伝の記述は信頼できないという奈良説の論こそ全く信頼できないものなのです。

3 古事記日本書紀も邪馬台国=北九州を示唆している (1) 書紀の編纂者たちは明確に邪馬台国は北九州であると認識していた。

★日本書紀の神功皇后紀には、魏志倭人伝が引用されています。(神功摂政三十九年)「魏志に云わく・・倭の女王、大夫難斗米などを遣わして・・」つまり、倭人伝の女王卑弥呼は神功皇后であるということを暗に述べているのです。

また、「景行天皇の九州遠征」や「ヤマトタケルによる熊襲征伐」は、倭人伝の「倭国の大乱」にあたり、“熊襲”が“狗奴国”であるように記されています。隋・唐との外交において、日本書紀を読んだ唐の高官は「景行天皇の九州征伐=倭国の大乱」「神功皇后=卑弥呼」「熊襲=狗奴国」であると即座に理解して納得したことでしょう。このことは、記紀の編集者達が、「倭人伝の邪馬台国は北部九州に存在して、狗奴国は現熊本県地方である。」と認識していたことを示しています。



(2)天照大神は邪馬台国の女王卑弥呼の軌跡が神話化されたもの

神功皇后=卑弥呼とする日本書紀の記述は隋・唐向けの創作ですが、神功皇后よりはるかに偉大な女王が記紀に記されています。それは天照大神にほかなりません。卑弥呼が五十年間のものあいだ倭の女王として君臨したその多くの事跡は、後継者たちに強く伝承されていたはずです。その卑弥呼が死んだ一年前の247年に日食があったことが、中国の三国志「三少帝紀」などに記されています。偉大な女王卑弥呼のことを天照大神として、その死を日食の岩戸隠れとして記されたと考えます。

 《天照大神と卑弥呼との共通点》

*共に偉大な女王であり弟がいた。

*アマテラスの岩戸隠れ=卑弥呼の死(岩戸隠れ=死の前年に起きた日食の事実)

*スサノオの追放=男王では国中服さなかった(王を辞めさせられた)

*アマテラスの復活=宗女トヨを女王として立てて国中治まった。

見事な一致点です。卑弥呼=天照大神なのです。多くの学者・古代史家がこの説を提唱しています。



(3)高天原=邪馬台国は北部九州ⅰ

中国の史書である新唐書では倭国(日本国)について次のように記しています。

 「・・其王姓阿毎氏、自言初主號天御中主、至彦瀲、凡三十二世、皆以「尊」為號、居筑紫城。彦瀲子神武立、更以「天皇」為號、徙治大和州。」次曰綏靖、次安寧、次懿德・・」

 要点は傍線を引いたところです。おそらく日本の遣唐使が日本書紀の内容を解説したものでしょう。ここでは、書紀の「高天原の天御中主尊」を天皇の先祖の初代として、「尊と号された三十二世が筑紫城=九州に居住していた。」と訳することができます。つまり高天原は天上でなく、筑紫城=北部九州であることをはっきりと書いているのです。唐の高官から「高天原」とは何処の地かを問われた日本の遣唐使が、「高天原=筑紫城」と答えたものと推察できます。



(4)高天原=邪馬台国は北部九州ⅱ

 次の①~③のことより高天原は筑後川上流の右岸地域に決められます。

①記紀にあらわれる高天原は天上の世界でなく地上のことです。山や川、畦や水田があります。また、「安川」「香山」「金山」など高天原の地名は現在も筑前町や朝倉市に残っています。

②高天原勢力が出雲を征服したとき、健御雷之男神は高天原から天鳥船で出雲の伊那佐の小浜に降りたとするの小浜は現在の島根県の稲佐です。高天原から船で出雲の西の浜に降りたことからも、高天原は近畿地方ではなく北部九州であることを示しています。「命」や「尊」と冠せられる高天原の神々は、亡くなった首長(リーダー)に付けられた尊称であることは誰にでもわかります。高天原は先祖の居住地であり、命や尊の神々は先祖の霊のことなのです。

4 考古学的的にも邪馬台国は北九州となる。 三世紀後半までの弥生後期の遺跡・遺物は、北九州が圧倒的です。近畿(ましてや奈良県)とは比較になりません。奈良県の弥生遺跡としては“唐古鍵遺跡や坪井・大福遺跡”くらいしかなく、しかも内容が貧弱です。筆者は中学生のときから、地元奈良県の遺跡に接してきました。また、九州の遺跡めぐりも重ねてきました。奈良と北九州との比較から、邪馬台国は北部九州であることを確信しています。

(1)弥生の鉄器は、北部九州が圧倒的

特に倭人伝に記す、「鉄鏃(てつぞく)、」は奈良の弥生遺跡ではほとんど見つかっていません。奈良県で鉄器が出土するのはホケノ山古墳からです。

(2)弥生時代の絹も九州だけ

古代の絹の研究をした布目順郎氏によると、北部九州では弥生中期の甕棺から絹が出土します。近畿地方では古墳時代になってから出土します。   

(3)魏志倭人伝に記されている宮室・楼観(物見やぐら)・城柵跡の三つがそろって発見されているのは北部九州(吉野ヶ里)です。奈良県はもちろん大阪を含めた近畿にはこれら三点セットがそろった遺跡は発見されていません。

5 邪馬台国=奈良説は成立しない (1)箸墓古墳は卑弥呼の墓ではありえない。



根拠①倭人伝には「大いにチョウ(塚)を作る、径百余歩、徇葬する者奴婢百余人。更に男王を立てしも國中服せず。・・・」とあります。男王を立てる前に短期間に墓は完成しています。さらに、墳でなく塚です。中国文献ではとを明確に区別していて、高い墳でなく少し盛り上がった程度のものということです。                        

根拠② さらに「棺有れども無く、土を封じて塚を作る。」とあります。棺を埋めたあと土盛して塚をつくるということです。まず土を大量に盛って墳を造成してから棺を埋葬した前方後円墳とは異なります。

根拠③箸墓はの墓とされるものであります。予知能力を持つ巫女皇女にすぎず、女王ではありません。このときのヤマトの大王はミマキイリヒコ(崇神天皇)です。日本書紀では、多くの民が大坂山の石を手渡しで運んだとの記述があります。事実、箸墓からは二上山の石が積まれていることが判明しており、日本書紀の記述の正しさがわかります。

根拠④箸墓の年代は四世紀のもので卑弥呼時代より100年程度後のものであります。箸墓より古いとされるホケノ山古墳についての調査結果により説明します。

(ア)竪穴式で木郭があり、「棺有れども槨無く」の邪馬台国時代の墓制に合致しません。

(イ)郭内から、小型丸底土器や画文帯神獣鏡などが出土しています。小型丸底土器は典型的な古墳時代の土器(布留1式)で四世紀のものです。また、画文帯神獣鏡は呉の国で流行した鏡の形式です。卑弥呼~トヨ時代には、倭国と呉との交流はあり得なかったのです。よって画文帯神獣鏡が倭国に伝わるのは、呉が滅んだ三世紀末以降と考えられます。

(ウ)、ホケノ山古墳の小枝資料の14C法による年代測定の報告(橿原考古学研究所)によると2σ(95%)でのその年代は250~420年の範囲であり、四世紀後半の可能性が最も高くなっています。

(エ)奈良盆地で前方後円墳時代が始まるのは、卑弥呼の後の時代から百年以上後の四世紀からとすることで、全てを説明できます。右図は1996年の朝日新聞に掲載されたものです。この時でさえ箸墓はAD300年前後となっています。箸墓がAD250年頃の築造なら、崇神天皇陵などの桜井市や天理市の古墳群のほとんどが三世紀のものになってしまい、四世紀の古墳が無くなってしまいます。

補足①歴博の報告の誤りについて

二〇〇九年に、国立歴史博物館はC14法による測定などにより「箸墓の築造は二四〇~二六〇年で、箸墓は卑弥呼の墓である。」と発表しました。そもそも14C法では、とても20年間というピンポイント(誤差1%)の年代に収まるものではありません。しかも歴博は年代が古くでる土器付着物を選んで測定しています。まさに考古学の劣化を示すものであり、森浩一氏は「魂を失った考古学」と厳しく批判しています。  

(2)纒向遺跡と三角縁神獣鏡も4世紀のもの

①二〇〇九年に纒向遺跡の大型建物跡は卑弥呼の宮殿であると、短絡的に報道されました。しかし、柱は細くて高い建物ではなく、現地を見学したところ面積も狭いことがわかります。柱跡から庄内式土器片が出土したことから、建物は土器より古い3世紀としますが、それは間違いです。

土器片は柱を固定するために埋められたのであり、古い土器であり建物のほうが新しいのです。倭人伝に記す「楼観(物見やぐら)・城柵跡も全く見つかっていません。右の写真のように、箸墓と三輪山を一直線に望む地点にあることから箸墓‐三輪山祭祀に関係する建物の可能性もあります。いずれしても、古墳時代つまり、崇神天皇(磯城瑞籬宮)や垂仁天皇(纒向珠城宮)時代の4世紀の建物なのです。

②三角縁神獣鏡が「卑弥呼がもらった鏡」という説は既に破綻しています。

(3)奈良盆地は倭人伝の記述に合致しない

①当時のクニは現在の郡程度の範囲のものです。邪馬台国が奈良なら、四国,中国、近畿などの「クニ」の記載が倭人伝にあるはずですが、全くありません。

②弥生後期の奈良盆地は近畿地方のなかでも、のどかな農耕社会であったことが唐古鍵遺跡からわかります。このような地に自生的に邪馬台国が出現することは到底考えられません。ましてや北部九州に対して政治や軍事において優位に立てるはずがありません。

③記紀には、ヤマト王権が北部九州を征服した記述は全くありません。北部九州はヤマト王権の故郷の地であったからでしょう。景行天皇やヤマトタケルの九州征伐でも征服対象は中九州地帯であり、北部九州=筑紫平野以北は対象になっていません。

【補足】卑弥呼の墓について

確定したわけではありませんが、現在のところ、糸島市の平原1号墳が卑弥呼の墓、宇佐神宮がトヨの墓と考えています。

★平原一号墳には女王にふさわしい多くの副葬品があり、鏡の製作年代が二世紀終末、墓の年代は三世紀半ばになり卑弥呼時代に一致します。巨大な内行花文鏡は“太陽の光”を表わすもので、まさに天照大神(卑弥呼)の“八咫鏡”にふさわしいものです。

★一方、宇佐神宮は天皇家の宗朝であり、その中央の祭神のヒメ大神は天照大神のことと推察できます。宇佐神宮が建つ亀山は自然の山を利用した墳墓であることは明白であります。つまり、トヨの国に祀られる天照大神ということは卑弥呼の後の女王トヨの墓と考えます。

6 邪馬台国の東遷 (1)北部九州の文化と古墳時代の文化の連続性

邪馬台国東遷の根拠の一つは、北部九州の諸文化が古墳文化に連続的に続いていることです。

① 三種の神器を宝とする埋葬文化はすでに弥生中期から北部九州地域で広く始まっています。弥生終末期になって墳墓の形は甕棺から箱式石棺や割竹型木棺土壙墓などに変わりますが副葬品の形式には変化がなく、列島の古墳時代につながります。

② 三種の神器以外でも、巴形銅器や貝輪物は鋳型を含めて出土しており、それが古墳時代の副葬品として列島各地に広がります。

③ 神仙思想も古墳時代に受け継がれていることです。北部九州で多く出土する方格規矩鏡のデザインは「天=円・地=方」を示しているものです。

その「天=円・地=方」の形を墓の形に採用したものが後の前方(地)後円(天)墳であると考えます。

④北部九州の鳥栖市の柚比本村遺跡や吉野ヶ里遺跡などでは、墳墓の上で祭祀が行なわれていたことがわかっています。この墓で祭祀をすることが、後の列島各地の前方後円墳の墳上での祭祀に続いているということです。

⑤出雲~近畿地方~東海地方の弥生時代は銅鐸文化圏でした。ところがその銅鐸は古墳時代には捨てられたり壊されたりしています。北部九州の祭祀文化が列島各地に広がったこととは全く異なります。

⑥前方後円墳の起源は北部九州

詳しい論証は省きますが、北部九州の津古2号、中原st13415、那珂八幡などの前方後円墳や赤坂古墳、那珂川エゲ墳、西一本杉009墳などの前方後方墳は、筆者の検証より、奈良の纒向石塚古墳などより古いことがわかりました。出雲の四隅突出墓や吉備の双方墳は列島には広がっていません。北部九州起源の古墳(前方後円墳や前方後方墳)のみが列島全体に広がっています。

⑦鏡作りも北部九州から摂津・河内・大和に伝わっています。北部九州では鏡作りは弥生後期初頭から行われていました。直径40㎝級の巨大な内行花文鏡も平原一号墳から奈良県天理市の柳本大塚古墳や下池山古墳などに伝わったことがわかります。さらに、文献的にも「古語拾遺」や「先代旧事紀」で、鏡作の工人が畿内に来たことが記されています。

以上①~⑦より、北部九州の弥生文化が大和を中心とする古墳文化に発展したことは明白であり、北九州勢力が東遷したことは歴史の真実であるといえます。

(2)東遷の詳細についての考察

九州勢力の東遷は「神武東征」として記紀に記されています。また、大和政権を担った氏族たちの故郷も九州であることは、記紀や新撰姓氏録(815年編纂)からも理解できます。大伴氏、物部氏、中臣氏などの「天神」氏族は天孫降臨に付き随った神々(天津神)の子孫とされています。各氏族は自分たちの先祖たちは、高天原=北部九州に住んでいたことをはっきり認識していたのです。

①東遷を促したものは何か

記紀では、天孫降臨の前に「大国主の国譲り」が書かれています。北部九州勢力(邪馬台国の後継勢力)が出雲勢力を軍事的に屈服させてから、東遷することになったのです。では、なぜ東遷したのか、これについては難しいのですが、高天原(邪馬台国)の北九州勢力は鉄器の使用による農業生産力の発達から人口が急激に増え、新天地を求めざるを得なかったことと考えます。人口急増の考古学的な根拠もあります。弥生終末期の遺跡や墳墓で比較すると北部九州は近畿を圧倒する数です。片岡宏二氏は述べています。

 「井原ヤリミゾ遺跡も 那珂 比恵遺跡も 須玖遺跡も・平塚川添遺跡も含め、東側の小田・平塚遺跡は、・・そら恐ろしい数の集落になる。時代別に比較すると下るほどその数を増し、古墳時代初頭で突然消えてしまう。このことはここだけの現象でなく、吉野ヶ里などの佐賀平野でも突然消えてしまう。」(邪馬台国九州説の新視点)ただ政治的な理由もあるはずと思います。315年頃、朝鮮半島の楽浪郡や帯方郡が高句麗に滅ぼされます。そして朝鮮半島の馬韓や辰韓では自立を促されて統合し、百済や新羅が建国されます。倭人のクニグニも、それに対抗するためにも統合へと向かったのでしょう。

②ニギハヤヒが畿内への最初の東遷リーダー

 ところが、不可解なことに邇邇芸の命は近畿地方には降臨せず、南九州に降臨しています。そしてその三代後の神武天皇(磐余彦)たちが東征したことになっています。この謎を解くカギは饒速日尊(物部氏の祖)にあります。日本書紀には、彦火火出見(神武天皇)が東征する際のところで、次のように書かれています。「塩土の翁に聞くと、『東の方に良い土地があり、青い山が取り巻いている。その中へ天の磐船に乗って,飛び降りた者がある。』と。・・その飛び降りてきた者は饒速日命というものであろう。そこに行って都をつくるのにかぎる。」つまり神武天皇は饒速日尊の後を追って東遷したのです。「先代旧事本紀」では、饒速日命は邇邇芸の命の兄で、「天照国照彦天火明櫛玉饒速日命」と記しています。記紀の神代では饒速日の名は出てきませんが、天火明命としては出ています。古事記と日本書紀の六書や八書では、「先代旧事本紀」と同様に、天火明の命と邇邇芸の尊とは兄弟で、天照大神の孫=正哉吾勝勝速日天押穂耳尊の子であると記しています。

名前の類似からも「饒速日」と「勝速日」は親子、「ニギハヤヒ」と「ニニギ」は同じ「ニギ」がつくことより兄弟であることは真実になり、先代旧事本紀の記載のほうが正しいと考えられます。

先代旧事本紀ではさらに記します。「饒速日命は、・・河内の国の河上の哮峰に天降りした。さらに、・・鳥見の白庭に遷った。・・大虚空(おおぞら)をかけめぐり、この地を天から眺め見て天降った。すなわち、『虚空(そら)見つ日本(やまと)の国』と言われたのは、このことであろうか。」

③奈良のヤマトは饒速日が名づけた。

日本書紀の神武東征の後にも次のように記されています。「饒速日命は・・この国を見てお降りになったので、(奈良盆地のことを)名づけて『空見つヤマトの国』という。」つまり、日本書紀と先代旧事本紀は、饒速日が「奈良盆地をヤマトと名付けた。」と記しているのです。このことは、奈良のヤマトは饒速日尊の故郷の高天原=邪馬台国(ヤマト)の名を移したと推察できるのです。

ところがリーダーの饒速日命は子が生まれないうちに早死します。その結果、ヤマトや河内では北九州勢力は主導権を取れなくなってしまい、子供の宇摩志麻治命も母方の現地勢力が支配する政権となったものと考えています。そのため本拠地の指導者たちとしては、北部九州勢力がリードできる政権を確立させるため、の邇邇芸命の子孫による第二次東遷=神武東征をさせることとなったのです。考古学的には、この(神武=崇神)の時代から前方後円墳時代がはじまるのです。南九州から関東までの各地に急速に広がります。

④まとめ

古墳時代は、列島に広く存在していた倭人の地域国家群が、北九州勢力の主導の元で連合されたということです。しかしながら決して大和王権が中央集権的に各地を支配したわけではありません。各地方には、やはりそれぞれの首長がいて経済的には独立していました。ただしその一方で、政治的な連合は各地の交流をより促すことになり、各地の物資の獲得が加速され連合国家全体が発展することとなったと推察します。とりわけ、北部九州勢力が掌握している朝鮮半島の鉄資源や先進技術は、各地域とも絶対に欠くことができないものであったはずです。よって、列島各地の地域国家としては、北部九州勢力の主導に従わざるをえないことになるのです。北九州勢力としても、各地からの援助(人員や兵糧)が得られるようになり、記紀や三国史記に記されるように、4世紀後半から朝鮮半島で倭が攻勢に出て勢力の拡大をすることができるようになったのです。

					最終更新 平成26年10月28日