『邪馬台国田原本説』

								住谷善愼:技術士(経営工学部門)、日本考古学協会会員

おや?また、所在論か? 多くの人が新説かと期待する。本稿は、1700年という時の積み重ねの上に、漢字2千文字で記す「魏志倭人伝」に邪馬台国の所在を探ろうとする場合の距離や方位や位置に力点を置いて述べるものである。そしてこの1700年間の営々たる人知の進歩があることを忘れて今があるわけではない。それも歴史と呼ぶならば、何がしかの真実がその人知の中にあるといえよう。読者の皆さんには本稿で耳慣れない言葉や概念に出会うかもしれないが、今一度、じっくりと目を通していただきたい。

(1)12,000里と1里の長さ

最初に大きな概念を理解するうえで、12、000里と1里=450m(世上、長里と呼ばれる)の数値の意味合いにつき再確認しておこう。この12,000里とは「魏志倭人伝」に記す帯方郡から邪馬台国までの距離である。(正しくは「万二千余里」と記されているが、以下、12,000里としておく)。

下表は単純な論理を表にしたものである。ここに示す4つのCase(ケース)の他にはないハズである。これで、考え落としはない。

注記:○印は信頼性の高い、×印は逆の意味である。

ここで、この4つのCaseにつき、簡単に検討してみよう。

Case-1では12、000里と1里=450mが共に正しければ、(南)5400kmとなり、成る程、確かに邪馬台国は赤道あたりにふっとんでしまう。

だからであろうか。ここで、いきなりCase-2が視野に入り、長里ではなく、短里、つまり、1里=63m(この63mは筆者が短里説に反論するときに用いる数値)という考えがでてきたのだろうか? そして、推測するに、この考えをベースに九州説へと結びついたのだろうか?

しかし、ここでチョット待って欲しい。 次のCase-3もCase-2と同様に可能性としてはりっぱにありうる。捨て去る理由はなにもない。

筆者は、Case-3の立場をとる。即ち、「魏志倭人伝」に記す12、000里という物理値そのものの信頼性がないとするのである。真値に程遠い、つまり、誤差をたっぷり含んでいる”きわめてあやふや”な数値であるとする。しかも、計測していない非実体値とする。

最後に、Case-4の場合。これは、邪馬台国非実在説とか、海外説であろうか?

皆さんの立場(ポジショニング)はいかがでしょうか?

(2)12、000里-10、700里=1、300里と引算することの意味合いは?

最初の質問。 あなたのいま住んでいる家を起点として、例えば、身近にある学校、あるいは会社の「位置」は、何がわかればアレコレ迷うことなく一義的(ピンポイント)にきまるだろうか?

う~ん、位置か。中学で習った平面座標で、x座標とy座標の距離(長さ、大きさ)を決めれば、原点からの位置が決まるなぁ。

あるいは、ベクトルがある。あるルートに従った方向(向きも含む)と距離で決まる。なにを、いまさら?

ここまでを下図にまとめる。(方眼紙を使うとより分かりやすい。) ちなみに、Pが座標、矢印(赤線)がベクトルを表す。

高校で勉強しますが、大きさだけでなく方向(向き)をもつ量をベクトルという。両端は始点・終点と呼ばれ、特に終点に向かって矢印で示す。これは、ベクトル線図という簡単な線1本で表現できることに大きな特徴がある。身近には力、変位、速度などがある。 一方、方向を持たない大きさ(数値)と単位だけで決まる量をスカラーという。身近には長さ、速さ、角度、質量、時間、温度などがある。

では、下図の直角三角形の場合、太矢印(黒線)の終点と中矢印(赤線)の終点との距離(細矢印(青線)の長さ)は? [注記:以降、太矢印、中矢印などは図中のベクトル矢印の線の太さをいう]

中学校で習った”ピタゴラスの定理”を思い出すと、3kmであることがわかる。

 (  数式:5×5=4×4+青×青    これより、青=3 )

と、ここまでは良く聞く話の一つです。

またまた質問。上記の2例から、わかることは何でしょうか?

太矢印(黒線)と中矢印(赤線)のなす角度が大きくなるにつれて、その先端の距離が大きくなりそうだ。そして、その先端間の距離を算出するのは難しい、といえそうですね。

つまり、2本が全く同じ方向だと、単にベクトルの大きさを2つのスカラーとして引き算で求まるが、少しでも、角度が生じると、2つのスカラーの引き算でその先端間の距離は求めることができない。引き算で求めたとしても2つの先端間の距離を求めたことにはならない。ただし、同じ方向に一直線に進む場合は、ベクトルの大きさと道のりは同じ数値となる。

以上のことは、極めて、日常的に当たり前に経験できる。



さて、ここからが本題。



皆さん、耳タコほどによく御存じの「魏志倭人伝」には韓国(からくに)と倭国の国々につき、国名とそれらにかかわる方向(方位)、距離、日数などが記されている。

その「魏志倭人伝」。明らかに読んで愉しむ古典文学作品ではない。ましてや、歴史小説でもない。中国正史といわれる、れっきとした由緒正しいとされる歴史書の一つである。つまり、編纂者陳寿の多少の政治的人為が働いていたとしても、歴史学の文献史料として第1級の価値をもつ書籍である、と位置付けられている。そして、古来、この正史という歴史書の分類のうえに、過去、幾多の邪馬台国所在論が文系・理系を問わず、はたまた、学界、市井の人を問わず百花繚乱の如く世に出された。先学100年の厚みである。

私はこれを技術者としての理工系の経験立場から、帯方郡から邪馬台国へ到る行程をどこまで追っていけるか、としてとらえてみたのである。

では、さっそくに、邪馬台国への行程を忠実にあたってみよう。 まず、漢字約2千文字のなかからその行程を知るためには情報として何が必要か? 

以下に、抜き書きしてみよう。

冒頭に倭国の位置を記す。

倭人は帯方の東南大海の中にあり、山島に依りて国邑をなす。・・・・◎

そして、帯方郡から、順次、邪馬台国に至る道順を記している。

郡(帯方郡。いまのソウル近郊といわれている)から邪馬台国まで1万2千里。・・・①

郡から狗邪韓国まで朝鮮半島の西岸・南岸に沿って、水行し、韓国(馬韓)を経て、7千里。・・・②

狗邪韓国から対馬まで南、水行千里・・・・③

壱岐まで南、水行千里・・・・・・④

壱岐から末盧まで南、水行千里・・・・・・⑤

末盧から伊都まで東南、陸行五百里・・・・⑥

伊都から奴まで東南、陸行百里・・・・・・⑦

奴から不禰まで東、陸行百里・・・・・・・⑧

不禰から投馬まで南、水行二十日・・・・・⑨

投馬から南、水行十日陸行1月で邪馬台国に至る・・・・・⑩

それでは、ここで、皆さんに再度質問です。

狗邪韓国から末盧までの距離は何里ですか?

おいおい、またかよ。

千+千+千=三千里だ。

方向は? 南だ、南!

では、末盧から不禰までは何里ですか?

そりゃ、五百+百+百=七百里だ。 小学生でもわかる。

では、方向は?

東南だ! 東南に決まっている! 本当ですか? 本当って何か、疑問でも?

いやいや、そうではなくて、せっかく、最初に”ベクトル”の復習をしたんですから、ベクトル図を思いだしてください。

といって、国名、方向、距離に従って、末盧が始点のベクトル図を書く。下図である。

ヤヤ? 中矢印(赤線)に注目して、東南より少し東にブレているな!と驚く。

ここで、私はすかさず、さらに質問する。

では、末盧から不禰まで中矢印(赤線)で移動したとすれば、何里ですか? 700里でしょうか?

う~ん、これは難しい! 三角関数を使うと解けるが、忘れてしまった。ザックリであれば、700里より少し小さく、600里よりは大きいか? すくなくとも、さっきの700里ではないと言える。

ザックリ650里としておこう。 ドンピタではなくとも、いい線いってると思います。

実は、ここで私が知りたいのは、答えとしての正確な距離ではなくて、末盧から不禰までの距離は何里か、と聞かれた場合、太矢印(黒線)の長さ(大きさ)ですか? それとも、中矢印(赤線)の長さ(大きさ)ですか? ということである。

世上、皆さん、邪馬台国の所在を立論する場合、実にいとも簡単に、郡からの距離を不禰まで順次加算する。つまり、②+③+④+⑤+⑥+⑦+⑧=10、700里として、これを帯方郡~不禰間距離とする。

そして、郡から邪馬台国まで、1万2千里と書いてある。従って、誰が計算しても、不禰~邪馬台国までの距離は12、000里-10、700里=1、300里 となる。

(火を見るよりも明らかである。小学生でもわかる。いまさら何の疑問が?・・・・)

実に、明快ではないか。あとは、1里が何kmかがわかれば、邪馬台国はパツ一だ。と、する。 はたして、本当か?

そりゃ、太矢印(黒線)の距離だよ。 実際に旅程した移動ルートのイメージは太矢印(黒線)だし、その移動距離となれば、当然に太矢印(黒線)だ。ここは自信をもって太矢印(黒線)ということにしておきましょう。

では、1万2千里の方は?

う~ん。方向がわからないな。 それと、太矢印(黒)か中矢印(赤)かと問われれば、やはり太矢印(黒)なんだろうな。といって、不禰から先は方向は南とあるが、距離では記していない。我々がかってに引き算しているだけかなぁ・・・・。

でも待てよ、ありがたいことに、冒頭に東南大海とあった、そうだ、東南方向に1万2千里だ! これで決まりだ! といいながら、東南方向に1万2千里を極太矢印(緑線)で書きこもうとする。

ハテ? 1万2千里というと? 始点は郡として、終点は?つまり、どこまで極太矢印(緑線)を引っ張ればいいのだ。この線の長さをいくらにすればいいのだ? まてよ、極太矢印(緑線)とすると、中矢印(赤線)と同じ意味合いとなり、太矢印(黒線)とは意味合いがまったく違うな。

さて、こまったな。えい、ままよ。極太矢印(緑)で1万2千だ。 作図した結果が下図である。

では、最後の質問。 極太矢印(緑線)の先端に邪馬台国が所在したとして、その邪馬台国と、いままで太矢印(黒線)に基づいて10、700里と算出した不禰との距離は何里ですか? 結果、このことは、中矢印(赤線)と極太矢印(緑線)の先端の距離を求めることになる。もちろん、不禰から邪馬台国へ向かう矢印線も当然、ベクトルである。

あれ! 単純に12、000-10、700=1、300とはいかないぞ! 算数はあってるのに。 なぜだ?!

(注記:ここに表記した邪馬台国の位置は距離換算をしていないので、ダイアグラム上では距離的に意味のない位置となっている。つまり、一義的に決まらない。)

上のダイアグラム(線図)から次の事が思いうかぶのではないだろうか?

①不禰から半径1300里上(以内?)に邪馬台国があるとしてきたが、どうもそうではなさそうだ。

②距離差1300里が南水行20日、水行10日さらに陸行1月に相当するとは考えられない。かといって、本居宣長以来の「陸行1日」は論外である。

③魏の時代には、三角関数とかベクトルの概念はなかっただろう。ということは、現代の我々が「位置」(「変位」)として認識しているような物理量として技術的におさえられるものではなかったのだろう。つまり、上図に示す極太矢印(緑線)をベクトルと認識し、その大きさを12、000里と求めることは不可能に近い。

④とすれば、「魏志倭人伝」に示す方向や里数(物理値)はどんな意味合いを持つのか?

正解を以下に。太矢印(黒線)の10、700里という数値は郡から不禰までの距離(道のり)を加算しただけのスカラー量なのである。この10、700里には情報としての方向がない。一方、極太矢印(緑線)の12、000里は郡から邪馬台国までの1本のベクトルの大きさであり、かつ、東南という方向を併せ持つベクトルなのである。この2つの10、700里と12、000里は数学的な演算ができる同じ土俵にはない。(このことはさすがに小学生には理解が難しいかも知れない)。それにしても、この12、000里もの直線距離をどうやって測ったと言うのか? 何千kmも離れた2地点間の直線距離を知ることは、それほど簡単なことだろうか?

それでも、どうしても、というなら、太矢印(黒線)6本を赤線ベクトル1本に変えて、この中矢印(赤線)の大きさを求め、なおかつ、角度αを求めて、三角関数を駆使しないと正確には算出できないのである。そうして算出した結果は、おそらく1300里にはならないだろう。ちなみに、ベクトルも加算減算ができるので、この太矢印(黒線)6本を加算すると中矢印(赤線)1本となることは自明である。それよりなにより、東南、12、000里に邪馬台国が所在するとすれば、好むと好まざるとにかかわらず、それで一義的に決まるではないか。 なぜ、今日まで、いまだに先人たちの努力にもかかわらず決まっていない?

以上のことから、次のことがわかる。確かに「魏志倭人伝」には、狗邪韓国から対馬へは南水行千里とあるが、方向については、狗邪韓国を舟で出航する時には50kmほど沖合に浮かぶ対馬北端の島影が視界に入っていた。つまり、はっきりと島当て(目標)がとれていたのである。(これは視認距離を算出することで簡単に確認できる。) だから、方向を南と確認できたのである。ところが、航漕距離は千里と記すものの実体値は知りえなかった。計測技術がなかったからである。つまり、非実体値である。以降、壱岐を経て、末盧に上陸までは、目的地が視界範囲に位置することにより、その方向を認識できたのである。

次に、末盧国から陸行で東南五百里で伊都国に至る、ともっともらしく記しているが、その方向とか距離は1本のベクトル線図で表せるベクトル量として記されたものではない、といえる。つまり、方向を示す東南と距離を示す五百里とは相互に何ら物理的な関系を持っていないのである。強いて例えれば、お互いにテンデバラバラのアッチ向いてホイの世界なのだ。ただ、陳寿に責任があるわけではない。当時は、誰しも位置を正しく表現する力がなかったのである。

想像するに、朝、末盧国を出立する時に今日の目的地(おそらく、宿泊地)の方向を確認するとしよう。ああ、東南に向かうのか、といって第1歩。2歩・・・いつのまにか東、さらに、東南、北東、北西、北・・・・途中は紆余曲折、山あり谷あり峠あり。道中、ずーっと移動しているのである。・・・北東、東、東・・・西北、西・・・で、今日の目的地、つまり、日没前には宿泊地に到着。さて、末盧からここはどの方向にあるのか? そう簡単に決めることができるだろうか? よしんば、日没近くの太陽を西の方向に見たとしても、ここへはどこからどう来たのか? 振り返ってみて、出立地がはるかに遠望できれば、なんとか分かるかもしれない。どのくらい歩いたかは、歩測をすれば、ほどほどの精度は確保できるものの、そんな面倒なことはしないだろう。まだまだ邪馬台国は先にあるのだから。むしろ、ここから何日か?といった日数の方が大事だ。山野をがんばって歩いて最大1日5里(約20km。荷を担いでのやぶこぎ路だとせいぜい10kmか? 古代中国の魏里ではザックリ40里)。こうした日々を何日か繰り返し、伊都国に到着したのである。結果、積み重ねた里数がスカラー(道のりといっていいかもしれない。)として「五百里」が記されている。 ましてや、方向を示す「東南」は、道中、たった1度の記録である。 歩行距離が長く曲がり、峠越え、遮蔽が多い場合は出発地の位置を知ることは不可能に近い。

具体的には、実際に即してほどほどに正確に現在地を知ろうとすれば、移動しつつ、方向が変わるたびの小さな区間ごとの歩いた距離を連続して記録した小さなベクトル線図(太矢印(黒線))を造り、目的地でそれら全部を誤差なくこまごまと積み上げた中矢印(赤線)1本のベクトルが必要なのである。

「魏志倭人伝」に記す方向と距離を1字1句改変しないで忠実に解釈しようにも、それに記す方向と距離の情報は、技術的(あるいは、数学的)に追っていくには極めて曖昧模糊とした”大柄な”情報なのである。位置を正確に示す情報として方向と距離が記されているわけではないのである。従って、この2つをもとにして、里数を加算、減算して得た1300里や、はたまた、1魏里が何kmかと精密に算出して、換算に使ったとしても、根本的不合理や矛盾を内包するため、これらを根拠に邪馬台国の所在を立論するには無理筋なのである。早い話が、決めることはできないのである。よしんば、南を東西方向に幅をもたせて多少振って変えても同様である。 このことは、とりもなおざす、正史たるもの金科玉条である、正史に1万2千里と明記してある、方向を間違うことなどあろうはずがない、といった既成概念や窮屈なポジショニングではなく、もっと実体に即した別の視点やアプローチが必須である。世上、第1級史料とか正史とかいわれてはいるが、まずは解釈もさることながら、その12、000里という数値の意味合いを正しく認識することが第1歩である。

(3)古代値千里と現代値63kmを等しいとする意味合いは?

それでも、なお、里数にこだわる方に。

皆さんは算数では3+4=7ということは百も承知、小学生でも知っている、と直ちに思われるでしょう。

それでは、千里=63kmと置けるでしょうか?

私に言わせれば、等しい(=)ではなくて⇒である。千里⇒63kmと左辺から右辺に1700年の時を経ている。この時の流れは数式上では目に見えないが、決して、一夜にして等しくなったわけではないのである。数値といえども時代の荒波にもまれている。

前置きはこのくらいにして、魏時代に使われていた1里が現在の何kmなのか、これが分かれば邪馬台国の所在はすぐにでも求まるという。本当だろうか?

まず、よく目にする論法は「魏志倭人伝」に記す地名の確定している2地点間の里数を地図上で同じ2地点間の距離を求めて等しいとする論法である。例えば、狗邪韓国と対馬国間は水行千里である。一方、釜山と対馬の2地点間の距離を63kmと求める。そして、両者を等しいとする。つまり、千里=63kmとなるから、1里=63mと求まる。いわゆる短里説とするものである。

あるいは、古代中国の数学書「周髀算経(しゅうひさんけい)」にいう「一寸千里の法」にもとづき、これから魏代の1里が何kmであったか求まる、とする。その法とは、南北に千里はなれた2地点で、夏至の日の正午、各々に同じ8尺長さの棒を垂直に立て、同時に影の長さを測定した。その影の長さの差がちょうど1寸であった。故に、1寸千里である、という。確か、北側に魏の首都洛陽が位置したと思う。ちなみに、現在の洛陽は北緯34°39′、東経112°26′に位置するという。近年、これに関連した算出方法を書物やインターネットで目にはしたが、素朴な疑問を持った。当時、ということは、古代中国の周か前漢、あるいは後漢時代か。この定理には地球の大きさ、特に、半径が重要であるらしいが、中国人はそれをどんな方法で何里だと知ったのだろうか? このことは、とりもなおさず、地球が丸いことを知っていたことになる。

他にも、疑問として、8尺の長さの棒なのか? 倍の16尺ではダメなのか? 逆に、4尺、あるいは1丈では?

16尺だと、影の差は2寸となり、2寸千里となるが?

夏至の日なのか? 冬至の日ではダメなのか? あるいは、春分? 元旦?

冬至の日には影の差はもっと長くなるが?

その古代中国の書物には、確か、天(=太陽)と地の距離を8万里、太陽の直径を1、250里と記してあったように記憶しているが・・・・。 古代に宇宙構造を知りたいと意識し、それなりに実験計測を行い、理論的に算出した成果ではあるらしい。だからといって、太陽までの距離8万里=1億4959万kmとおけるだろうか? あるいは、太陽直径1、250里=1、392、400kmとおけるだろうか? 等しい(=)と置いて何か意味があるだろうか? こんな1里があるだろうか? 同じ1里なのに2つの相異なる換算値があるのだろうか? よしんば計測したとはいえ信頼性のない古代値と科学技術の粋をつくした極めて精度の高い現代値を等しいとすることに意味があるだろうか? いかんせん、現代からみると、そのような内容の書物や「法」なのである。ただ、古代中国人の宇宙構造を知りたいとする知的好奇心や探究心には脱帽する。

(4)「コの字」歩きで体験する「末盧国東南陸行五百里到伊都国」

この一文からはたして、末盧国を出発点として到達点の伊都国の「位置」が物理的に正しく求めることができるだろうか。明確に2地点の地名と方位と距離(里数)が記されているので、一義的に求まる、とされてきた。大抵は、末盧国を唐津とすれば、実際は東北方向だが、距離的には短里とすれば伊都国とされる前原に到達する、といわれている。

さっそく読者の皆さんに「コの字」歩きを体験していただきたい。部屋の中で、出発点から東に向かって3歩、次に、そこから南に向かって3歩、さらにそこから西に向かって3歩く。

この行程をメモすると、下記の如くである。

→   東  3歩
↓  南  3歩
←   西  3歩

さて、あなたの現在地点(=到達点)は出発点からみてどういう位置にありますか? ベクトルを使えば、「出発点から南へ3歩」となる。では、この南はどこからでてきた南だろうか? 3歩はどんな意味合い?ちなみに、今、コの字を歩いた実際の道のりは9歩である。3歩ではない。 しからば、「東南」の意味合いは? 世上、距離とされる「500里」の意味合いは? この500里は道のりだろうか? それともベクトルの大きさを表すのだろうか? 当然、当時の様相では道のりであろう。 とても、ベクトル概念があったとも思われない。

「魏志倭人伝」に記すこの一文から正確な位置情報が「道のり」をベースにして把握できるだろうか? あたかも一義的に位置が決まるように記されてはいるが、どっこい「位置」を知るにはほとんど役立ちそうもない物理的情報がそれらしく記されているだけなのである。この一文を解釈ではなく意味合いを正しく理解することによって、邪馬台国所在論の一つの鍵が掴めると考えるのである。

(5)邪馬台国の所在

編纂者である陳寿の念頭に倭国は帯方郡の東南大海に所在するという方向認識があったであろう。これは、前漢以来の古代中国の社会的な通念(いわゆる常識)としてあったのだろう。さらに、帯方郡から邪馬台国までの里程を1万2千里としたのは、おそらく西域諸国の一つである大月氏国との里程の相対比較が、陳寿の念頭にあったのではなかろうか。何がしかの史料を手元で読んで、どうも、大月氏国との距離を見計らったのではなかろうか。要するに、陳寿は倭国の位置を意図的に大枠にはめ込んだのである。大陸奥深い蜀育ちの陳寿である。生涯、海を見たこともなければ、確かめる術もなかっただろう。

そして、編纂するに際して、魏略などの史料を参考にしたといわれる。当然、魏使として西暦240年に来倭した使者作成の公式出張レポートも参照したであろう。それらに、基づき、帯方郡からの行程を記し始めたのである。ところが、方向はともかく、距離については、どういうわけだか、正直に筆を進めるうちに、不禰まで里数を順次加算してくると、合計10、700里となってしまう。次のどこかまで行くと、提示した大枠の1万2千里を超えてしまう。しかも、倭人は里数を知らず、とまで言い切っているのに、わが魏人はどうしたことか。で、やむなく、里数表示をやめて、以降は魏使が記録として残した日数表示にせざるを得なかったのである。私は、アヤフヤサ満載のへたな里数情報よりは、日数情報の方を重視する。

ただ、敢えて距離情報にこだわれば、朝鮮半島から北九州まで渡海する際の七千里、千里、千里、千里という意味合いは、何も誇張されたわけでもなければ、あからさまな虚偽を記したわけではないのだ。 当時の海上・陸上の移動距離測定技術レベルからすれば、このようなたっぷりな誤差を纏った数値というものは、きわめて当たり前の里数なのである。 ことに、水行距離はザックリ8倍や10倍程度に過大評価していただけのことである。天麩羅に例えれば、厚手のドテッとしたコロモで揚げたようなものだ。食して旨いのは薄手に限る。逆にいえば、この程度の範囲でよく納まっているものだ、と感心するほどだ。何度も言うようだが七千里、千里と書いてるから云々ではなくて、例えば、水行千里の3つの区間については、この3区間がザックリ等しい距離にある、という感覚、また、末盧からの陸行にしても、五百里、百里、百里、という距離の割合感覚を大事にしている。このくらいの意味合いしか掴めないのである。 それよりなにより、12、000里-10、700里と算数をすることこそが、勇み足なのである。この2数値に演算として引算ができる明瞭な根拠があれば、後は簡単な力仕事で、小学生でも引算(算数)はできよう。が、事の本質を知るにはそれなりの眼力が必要なのである。

次に、方向について。航海の場合、舟の進行方向は漕いでいるとはいえ、水流の影響により舳先のブレやすさからすぐに方向を失いやすいことが特長である。ましてや、周囲のどれも似たような景観が時々刻々と変化するような航路や逆に見渡す限りの水平線の海原、灘などでは島当て・山当てができないので方向をつかむことは極めて困難である。途中、水路に迷った、とわかったとしても、その迷ったと思われる場所に戻ることさえ、これまた大変であることは、想像するに難くない。

思うに、古代中国人にとっては、中国大陸の沿岸を進行方向右手に陸地をみながら、いわゆる地文航法で進行することは、南に向かっていることを意味する。この航海上の大原則を古くから知っていたのだろう。右手に陸地を見て舟を漕げば、南下しているのだと。 逆も真なりである。 ただし、揚子江や黄河などの大河口部では注意を要する。だから、海を南といえば、会稽・東冶や、さらに?耳・朱崖などがまずイメージされるのである。「魏志倭人伝」には倭国はきっと会稽・東冶の東にあるのだろう、といっている。結果、当時の社会通念として、倭国は帯方郡から東南と示している、即ち、会稽・東冶の東なのだろうとしている。

西暦240年、魏使一行は魏皇帝の使命を帯びて、邪馬台国女王に会うべく、倭人(難升米たち)の帰国に同行して帯方郡から来倭したのである。北九州に所在する不禰国から水行20日で投馬国、さらに水行10日陸行1月で最終目的地の邪馬台国へ詣る道は現実の列島地理を知らない中国人にはどうとれるだろうか? どういうルートであれば、合理的だろうか? 道中、絶対に「親魏倭王」刻銘金印と詔書を失うわけにはいかないのである。

不禰国(現在の穂波とする)から遠賀川をくだり、北九州玄界灘にでれば、以降の航海は単純に東周りの日本海ルート、瀬戸内海ルート、太平洋ルート、西回りの有明海ルートの4ケースしかない。そのうちの1ルートである。私は、水行20日で投馬国、さらに水行10日陸行1月で邪馬台国に詣ると記す、20日と10日の2:1という割合を重視する。もちろん、潮の流れ、風、着岸地等の影響により単純に、海岸沿い、例えば500kmの距離をきっちりと2:1に、といかないのは明らかであろう。

干満差による海流の急激な変化や灘、多島による島当て(目標)喪失などのリスクを魏使一行が避けるとすれば、日本海ルートが最善なのである。ちなみに日本海中国地方沿岸での干満差はわずかに20cm~30cm程度である。さらに、波浪エネルギーでも夏場の日本海沿岸はきわめて小さくて穏やかなのである。とりもなおさず、30日間連続して(投馬国を経由したとはいえ、)進行方向右手に陸地をみる航漕は日本海ルートをおいて他にはない。鳥取の大山は格好の山当てだっただろう。魏使一行は中国山地(日本の)を常に右手にみていたので、南へ向かっていると誤認したのかもしれない。いや、魏使一行は、観測測量やヒアリングにより、正確に東と認識し、帰国後に提出したであろう公式出張レポートには北、あるいは、東と記していたのかもしれない。が、編纂者の陳寿は、当時の社会通念にのっとり、「そりゃないだろう、梯儁さん」とワザワザご丁寧にも南方重視に修正したのかもしれない。言うまでもないが、丹後から大和方向の陸行は間違いなく南である。

次に、国名。魏人にとって、倭人が音した国名は通訳を介した耳慣れない”外来語”なのである。倭の国名や人名を本来は表意文字である漢字を表音文字として使ったのである。子音多用の半島・大陸言語、一方、母音主体の列島言語。お互い聞きとり辛さは日常的に体験するであろう。それを乗り越えて、倭人の発した聞きなれない「ほにゃらもぐもぐ」風の音を通訳である倭人・韓人を介して、漢人がやっとの思いで当てた漢字で表記したのである。魏使一行は必死の思いで記録したのだ。 決して、空想の産物ではない。その苦心が結晶化した文字を、現代の我々は目にしているのである。音と漢字との対応はその音の何がしかが漢字の中にわずかに痕跡をとどめている事であり、この音と漢字の対応を紐解いて地名に復元するのは決して容易な事ではない。例えば、「斯馬」は「シマ」と読めるではないか。だから志摩や志満だ、あるいは、「狗奴国」は「クマソ」である、とは簡単にいかないのである。少し工学的に難しくいえば、一言、二言とはいえ、倭国の地名の音である多量のアナログ(連続)量を、2人の通訳を介して、漢字という3文字や4文字のごく限られたディジタル(離散)量に変換する、という極めて難しいことをやっているのである。 例として「ゲーテ」、「キリマンジャロ」、「巴赫」、「盤尼西林」などを持ち出すこともないであろう。そうした「其余旁国二十一国」を陸行1月で行程したのである。ちなみに、離湖から田原本の唐古・鍵遺跡までの行程距離は238kmとなる。

結果、邪馬台国所在を比定するポイントは以下である。誰しもすぐに「魏志倭人伝」に記す距離、方向、日数などに着目して、それを解釈して、現実の地勢に反映させ、云々という流れで形成してきたであろう。私も、ある時期まではそうだった。しかし、理工学の技術的観点から判断すると、距離や方向だけでは相互に物理的な価値を持っていないので、とてもその所在を探るには使えないのである。 いうなれば「魏志倭人伝」には距離と方向によって行程の次の目的国の位置を示しているように見えるが、じつは”それらしさ”を装っているにすぎない。 これはなにも「三国志」の編纂に心血を注いだ陳寿や来倭した魏使の表現力の未熟さのせいではない。当時は先進国の魏といえども、「位置」というものを方向と距離を使って正確にあらわす数学的・物理的概念なり技術そのものが未発達だったからである。

最後に、魏使一行の行程を参考までに。北九州内での陸行は割愛させていただくが、不禰を出たあとは、遠賀川を北にくだり、北九州玄海灘から東に日本海ルートで島根県雲南市の神原神社古墳が所在する松井原(投馬国)経由、丹後半島網野(離湖)に上陸。ここから南へ陸行1月(陸行1日ではない)で、山野を歩き、峠を越え、森を抜け、途中は由良川、淀川を渡河し、磐船街道をつたい、大和に所在する邪馬台国(国中といわれる田原本の唐古・鍵遺跡とする)にはいったのである。明確な使命をもった人物が最終目的地に向かってとるべき移動ルートとして無駄なく自然に逆らわないルートなのである。そして、この陸行1月こそが斯馬国(吉原)から始まり奴国(十市)までの「其余旁国二十一国」を順次ひとつながりで通過(あるいは宿泊)するに要した陸行日数なのである。魏使一行の行程を決定する本質的な漢字は「或」と「次」の2文字である。また、一行の帰還までの行程動線は連続であるべきであるが、3ヵ所で不連続、つまり、途切れている。つまり、陸行と水行との具体的な切替点(乗継地)の情報が不明確な事も注目に値しよう。

(6)結論

邪馬台国の所在を理工系の観点から検討することにより、以下の結論を得る。



①「魏志倭人伝」に記す里数や方位などの物理情報を使って正確な位置(所在)を求めることはできない。

②従って、いわゆる短里説や放射式行程ルート(例えば、伊都国起点)から投馬国や邪馬台国の所在を九州に求めることは無理筋である。

また、本稿では直接的には紙幅の関係で多くを論じてはいないが下記の2点を記す。(詳細は参考文献①等を参照)

・「魏志倭人伝」に記す「其余旁国二十一国」を注視する限り、通説とされる倭国の国々が構成する邪馬台国”連合”とか女王国が20数カ国を支配し、列島の広域的な”統合国家”の起源である、などのイメージは形成できない。

・日本の古代歴史の曙は邪馬台国(田原本の唐古・鍵遺跡に比定)が所在した大和に始まると言えることが明確になった。

おわりに

本稿をなすにあたっては貴重な知見や経験を踏まえた会員諸氏の皆さんと一緒に日本古代史の最大の謎を合理的に具体的に解明し、さらなる前進をしたいとの思いでいる。そして、邪馬台国所在解明に関わるチョットした勘違いや思い込みから抜け出すささやかな一助となれば幸いである。

参考文献

①住谷善愼『邪馬台国へ詣る道』文芸社、2009年1月
②住谷善愼「邪馬台国と工学」『香川県技術士会会誌』Vol.13,2009 JUNE
③住谷善愼「魏志倭人伝を読み解く」『香川県技術士会会誌』 Vol.14,2010 OCTOBER
④住谷善愼「魏志倭人伝の里数を技術する」『論考 邪馬台国&ヤマト王権』 奈良の古代文化研究会編 青垣出版 2012年11月
⑤住谷善愼「私の邪馬台国論」季刊『邪馬台国』116号、2013年1月
⑥住谷善愼 「ポスターセッション(P12)邪馬台国所在論」『日本考古学協会第80回総会 研究発表要旨』2014年5月

					最終更新 平成26年10月28日