『邪馬台国は韓半島高霊の地』

												福島 巖

倭国の始まり

 倭国(伽耶連合国、加羅国)建国の始祖は中国の上海方面から戦乱の中移動してきて朝鮮半島にやってきた金首露王である。三国遺事の駕洛国伝に伝わる内容によると王は9千の有力者と7万5千人を率いて金海に集まり住みついた(AD42年)。金海は朝鮮半島最南端で、大河「洛東江」が海に流出する場所にあたる。貿易には最適な良港を有し平坦地に金官伽耶王国を作った(釜山空港のある場所)。その夫人はアユタヤ(インド)からやってきた別の移民集団9千人を率いてきた許黄玉である。
 大量の移民は住む場所を探して海岸の島々や平坦地を求め、更には大河、洛東江沿いに遡行していった。また対岸の日本列島にも船に乗って積極的に進出した。夫人と一緒に来た兄の宝玉仙人は王に仕えるのではなく洛東江を遡った伽耶山に修行の場所を見つけ、首露王の王子たちとともに修験者の生活を送った。

金海と高霊

 伽耶山山麓の高霊は現在の大邱市から近く、洛東江から分かれた支流を遡ったところにある盆地にある。峠を越て西の海にも出られるし峠道で安羅伽耶や百済方面につながり陸路で帯方郡に行き来できる好位置にあった。
 高霊は始祖王(伊珍阿鼓)が半路国を建てたのが始まりとされるが古事記の神々の系図から該当者は素戔嗚(スサノオ)しか考えられない。初代天照神の首露王と素戔嗚(スサノオ)の兄弟が半島に誕生した倭国を引っ張っていく役割を担った。神話では兄弟で大喧嘩をしてスサノオが国を追われ、息子のイタケルを連れて浦項の港から船で日本海に飛び出し、出雲のヒノ川の上流にたどり着いたという。スサノオは古くから住んでいた越の住民と戦いをしながら国土を開発していった。出雲の神々は何代にもわたって国土を開拓し鉄の生産にも励んで豊かな国を作ることができた。7代後のオオナムチ(大国主)の時代には日本海側だけでなく瀬戸内海や近畿地方にも進出して広大な地域を確保、列島最初の大王国を作り上げた(AD150年頃)。高霊方面からやって来る倭人は新羅の浦項港から列島にくるので記紀には新羅の人と書いてある例が多い(アメノヒボコなど多数)。

葦原の国譲り

 金官伽耶の人々は九州筑紫地方に積極的に進出して各地に村(小国)を作り移住していった。洛東江沿いに農耕地を開発していった人々は土地が痩せていて天候の問題もあり食べていけない住民が国土に充満していた。三国史記によれば飢えた倭人が大挙して新羅の国境を侵した話が載っている。国全体を見通した天照神はオオナムチに将来の国家構想を提起した。日本列島の部分(葦原中国)には天つ族が大量に進出しているので金官伽耶が運営する、半島先端にある伽耶諸国は君たち国つ族が管理して欲しいと。出雲の国を天つ系に譲るように持ちかけた。交渉は長引いたがオオナムチは遂に天照神に同意した。天照神は「葦原の中つ国はお前に任すから皆を引き連れて行って管理しなさい」と天孫降臨の指示を出した。息子オシホミミには自信が無いと断られてしまったので、まだ小さい孫のニニギにその役割が回ってきた。出雲から退去したオオナムチに連れられて対馬に渡りここで大切に養育され、コノサクヤヒメと結婚した。子どもの海彦・山彦などの対馬の生活説話が残っているがニニギは早死にしてしまい列島には行けなかった。天孫降臨を実現したのはニニギから4代目の子どもイワレヒコ(神武)の時になってから、日向(宮崎県)の地ではなく博多湾に面した糸島にある高祖山に降りた。

神武の東征

 神武一行は対馬を出発、大伴・久米軍のサポートを受けて糸島半島の博多湾と反対側の加布里湾側に上陸した。湾岸を進撃、志登付近で先住民のナガスネヒコなどの抵抗を受け戦ったが長兄が戦死する損害をだした。撤退し一度出発地に戻って戦線を立て直し、右側の山道を迂回して日が昇る東側から攻略した。住民の激しい抵抗を受けたが神の加護を受け勝利することができた。(AD200年頃)
ここに神武王朝を開いて9代の王がここで政治を行なった。先住民の三雲・井原遺跡の北側にある平原・曽根遺跡群は神武朝の王たちが眠る墳墓である。また上陸地点の近くに1基だけ中心から離れて存在する一貴山銚子塚古墳は戦死した兄イツセ陵墓であることは状況から推定できる。この時代海面が今より5m上昇しているので湾が大きく切れ込んで図のように海面が広がっていた。今津湾には伊勢の海、宇田川原と呼ばれる近畿にある原点の地名が残る。

 神武天皇が即位の後、丘の上から全体を眺めて「この国はまるでトンボ(あきつ)がトナメ(交尾)をしているように山々が連なっているなあ!」との言葉を残された。日本を「秋津島」の国と呼ぶきっかけになっている。

邪馬台国の動向

 この当時(2~3世紀初め)高霊の地は押しかけてくる大量の移民と限られた農耕地の取り合いで大変な混乱を起こしていた。村のボスたちが土地の取り合いを行うが、武力では解決できず争いが絶えなかった。このため食べ物も得られなく餓死者が大量に発生していた。男の王が繰り返し即位しても騒動を収めることができずとうとう若い巫女の登場となった。神の声を聴いてそれに従わせることによってかろうじて紛争を抑えることができた。宮廷には男は弟のみで奴婢や大勢の巫女集団によってこの国の政治が行われ、軍によって治安が保たれるぎりぎりの運営になっていた。これが邪馬台国と呼ばれた国の実態で王は卑弥呼と呼ばれる女王である。
 国名は「邪馬壱」が正解だという説もある・・・伽耶語でシンボルの「亀」を表している。
 ここから卑弥呼の使者が中国の魏に派遣され話題になった。中国は倭人に非常に興味を持っていたので卑弥呼の朝貢(239年)など詳しく「魏志倭人伝」に記録されるに至った。卑弥呼の死後、男王が立ったが、やはり安定せず、再び女王壱与に引き継がれることになる。金官伽耶は続いているので半島では本伽耶(倭国)と邪馬台国が併存していたことになる。

魏使はどうして日本に来てしまったか

 魏の役人が倭国を訪問した旅行記が魏志倭人伝にまとめられている。彼らは倭国は中国紹興市の東にあるものと思い込んでいたことが錯覚を起こした原因と思われる。彼らがやってきたのは列島に出雲の国、誕生間際の伊都国があるだけの時期に相当する。
 魏志倭人伝に従って内容を検討してみる。


斜体は倭人伝の内容、下線が正解

帯方郡より倭に行くには、朝鮮半島の西海岸に沿って水行し、倭の北岸にある狗邪韓国に到着する。倭国の南岸) そこから海を渡ること千余里(約70km)で、対馬国に到着する。(距離から狗邪韓国の位置は巨済島と推定できる、金海には行っていない)


魏使の紀行ルートと邪馬台国への道程

実際に魏使が行ったのは伊都国までで、それ以降は伊都国の役人の話を聞いて書き足したもの。伊都国の役人は大国「出雲の国」については良く知っていた。

それからまた南に一支国を経由して末盧国に到着する。そこから東南に陸行東北すること40kmほどで、伊都国に到着する。代々王がいるが、かれらは皆女王国に服属している。 これから先は、東南東北し奴国に至る。さらに東にある不弥国(宇佐周辺)に至りそこからまた南、投馬国に至るのに水行二十日。(南を北と置き換えると関門海峡を通って山口県の沖合を北進し出雲の国に至る 投馬国は出雲国のこと)

九州北部の位置関係
 実際に魏使が行ったのは伊都国までで、それ以降は伊都国の役人の話を聞いて書き足したもの。伊都国の役人は大国「出雲の国」については良く知っていた。
邪馬台国に至るのに南、水行十日・陸行一月。ここが女王の都するところである。


卑弥呼の陵墓を探していて場所を突き止めたのは大伽耶の国にあることを偶然発見した。出雲国から邪馬台国は方向からするとほぼ西方に当たるがここも南と記している。

卑弥呼の眠る陵墓はどこにあったか

 高霊には主山という山がありその尾根筋には巨大な池山洞古墳群が並んでいる。その第44号墳と第45号墳が殉葬墓である。第44号墳は高さ6m直径27mにも及ぶ大きなものでありこの中に35人の殉葬者が一緒に埋葬されていた。
 魏志倭人伝の卑弥呼の墓は円墳で大きさの径は百余歩、殉葬した奴婢は百余人と記されてる。直径27mの円周は約86mで一歩の大きさを70cm位に換算すると一周112歩位になり百余歩と一致する。また殉死者は第44号墳の周辺に小さな墳墓が集まっておりこれらも含めると百人近い人が殉死したと思われる。第45号墳は次の女王壱与(いよ)のものではないかと考える。

魏志倭人伝の記述の矛盾点

伊都国についての記述で次の内容は役人からの情報の誤解と考える。

(1)伊都国は帯方郡からの使者が倭と往来するとき常に駐まる所である。
(2)女王国の北には一大率を置いて諸国を検察している。
   一大率は常に伊都国に置かれている。
(3)洛陽や帯方郡からの使いが倭にきた場合いずれも伊都国の湾頭で臨検し、
   文章や贈り物を調べ、女王の元に届けるものがこれと違わないようにした。


女王の所に行くのに2ケ月もかかる伊都国に門番のような監査機能を置くこと自体が矛盾している。卑弥呼の使者は陸路で直接帯方郡に行くことができた。

日本人が邪馬台国が国内にあると誤解した理由

魏志倭人伝を読みだすと帯方郡から邪馬台国を目指して出発した魏使が最初に到着したのは九州であった。誰が考えても邪馬台国は日本にあったのだと考えるのは自然の成り行きである。しかし良く読むと九州から船で1ケ月、陸路で1ケ月、合計2ケ月もかかる遠隔の地にあることが書いてある。
私の推論では南北を取り違えてこのような結果を招いたが一部の論者のように東西を誤ることがあるだろうか?太陽の出没をみればそのようなミスは起きるはずはない。
長く生活すれば南北の誤りは考えられないが、短期滞在では起こり得るミスではないか。

大 伽耶の成長

AD200年頃からは出雲国や日本海側の開発に携わっていた国つ系の人々が半島に戻り洛東江沿岸の開発に進出してきた。また鉄の生産に新しい技術を持ち込んだ秦氏一族の協力もあって4世紀にはこの地帯で鉄の生産が飛躍的に伸び、交易も活発になって豊かな国に変貌し始めた。高霊の地は国名も「大伽耶」と呼ばれるように大きな国に発展していった。鉄を使った兵器を駆使し、規律が取れた軍隊は向かうところ敵なしの大「倭国大軍団」を生み出した。高句麗や新羅、百済と戦うも連戦連勝で大伽耶は洛東江中流域の国をあわせて、大きな勢力の盟主となった。その勢力は「大伽耶文化圏」というほどで、金官伽耶や南海岸地域を除いて殆どの国がその勢力下になった。金官伽耶に代って伽耶連合の盟主になっていった。

倭の五王

中国南朝「宋」が451年に倭王「済」に対して与えた称号(使持節都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六国書軍事安東大将軍倭国)に 「任那」とならび「加羅」が加えられていることからも、かなり勢力が伸びていたことが分かる。倭王の活躍を伝える中国の資料に413年に始まる倭王「讃」・「珍」・「済」・「興」・「武」の五王の使節が南朝の宋に朝貢していたことが「宋書」に記録されている。倭王「武」の上表文の内容は宋書「倭国伝」に記載されてその趣旨は「祖先は休むことなく働き東方の55ケ国、西方の66ケ国、海を越えて北方の95ケ国を討伐しこれらの地に王道を知らしめ領土を広げてきた。宋の天子に会うべく準備しているが通路を高句麗に邪魔されて思うようにできていません」と朝貢ができないことをお詫びしている。そして「都督倭・百済・新羅・任那など六国諸軍事、安東大将軍倭国王」と称しているが公に認めて欲しいと記している。中国は古くからの付き合いのあった百済を倭国の下に付ける事は最後まで認めなかった。

倭の五王は大和の天皇ではない

大和朝廷にはこのような中国風な一文字で表す名前を持つ王が存在しなかったし戦いの記録を三国史記から冷静に読めば海峡を越えて出撃した姿を認めることはできない。また大和の天皇と大伽耶の天皇の即位の順序や親子・兄弟の関係も合っていない。日本書紀に全く戦争の記録もない。高句麗や新羅に船できたから日本からと短略的に考えるのもおかしい。高句麗に行くには金海から船に乗るしかない。

ツヌガノアラヒト(アメノヒボコとも)

 大伽耶国は高霊を都にして数十年の努力の結果、気候が温暖で土地が肥えてきて住み易い国に変わっていった。ここには「角の生えた王子」伝説が伝わっている。伽耶山は牛頭山であり、額有角人(角の生えた人)が日本にやってきてどこから来たかを尋ねると大伽耶から来たツヌガアラヒトであると答えた話が載っている。神武朝を開いて天津系の王朝を開いた九州地区でも祭祀を扱う集団では手に負えない問題が多発していた。軍事や開発、政治運営などにかけては甘い考えや行動が多かった。余裕の出てきた大伽耶国家では有力な人間を時々日本に派遣してきた。その一人がツヌガアラシトで日本海側から軍団をもって入り込んできた。これが後の景行天皇で九州全体を遠征し、息子の日本武尊の活躍で九州王朝が出現し、大和王朝と2朝並列の時代になっていく。応神天皇の時からは国つ神系が主力になり蘇我系の天皇が続出することになっていく。記紀ではこの2朝を立てに繋いで天皇在位を長くしているので完全に誤った年代記にしてしまった。

日本列島各地への進出

 蘇我系の天皇が河内に巨大古墳を次から次と作っていく頃が大伽耶王国も全盛時代を迎えていた。中国の王朝に朝貢する倭の五王の時代を迎えたのもこのころからである。余力を付けた国つ神系の豪族たちが列島目指して日本各地に進出してきたのもこの時代である。瀬戸内海や近畿の各地には天津系が既に出ているので比較的空白の地関東の群馬、埼玉や千葉などや北陸の地など豪族間の情報により場所を決めて行ったことが伺われる。ものすごい数の古墳が各地に造られていったが出土した発掘品は高霊で出土する品物と同じ系統の物が目立っている。

伽耶の滅亡

 継体天皇の出現で高度成長が大和を含めた近畿や瀬戸内海周辺で一斉に花開くと金官伽耶周辺の豪族は一気に列島に渡ってきて旧地は過疎の状態になってきた。この状況では伽耶国の存在そのものが無意味になってきていたので金官伽耶の最後の仇亥王は新羅に国を譲渡して日本に欽明天皇として渡ってきた。このような状態は大伽耶も同様で一時期に比べて弱体化していったが国としてはしばらく残っていた。

大伽耶国の滅亡と任那の解体

 金官伽耶が滅亡の後、百済は聖王の主宰でいわゆる「任那復興会議」を行うが世の中の流れは変えられず大伽耶国も金官伽耶と同様、一部は百済に、残りのほとんどは新羅に分譲して562年滅亡していった。最終的には任那が無くなったわけで新羅・高句麗・百済の朝鮮3国時代を迎える。歴史書は倭国(伽耶)が弱体で滅んでしまったとの表現が多いが日本の国土と人々が魅力的ったため朝鮮を捨てて移動して無くなったのである。

日本列島が倭国となったとき

 倭国(任那・加羅)と呼ばれていた国は倭人が中国大陸から朝鮮半島に移り国を構えた後半島の伽耶連合を指していもの。列島にも倭人は進出して倭種と呼ばれているが作った国は出雲にしろ伊都国にしろ中国からは倭国とは認められていない。継体天皇の後金官伽耶最後の王が日本に移動して大和王朝に欽明天皇として即位した。金官伽耶が滅亡した時が日本が倭国になった瞬間で、中国の歴史書にもその事実を載せている・・・元の小国が大国を飲み込んだとの表現で。

私の日本古代史

詳細は私のブログ「白馬の少年」http://gan205.at.webry.info/ に関連するものを全て載せていますので参考にしてください。邪馬台国が日本国内にあったというのは幻想です。記紀や中国の文献を先入観なしに読み解いて下さい。それと地図をじっくり眺めることです。新しい日本の古代史が展開してきます。
以上

					最終更新 平成26年7月2日