『陳寿の記した道里』

												伊藤 雅文

はじめに


筆者は邪馬台国研究、とりわけ邪馬台国の位置論については、第一に『魏志倭人伝』という文献記述のなかから求められるものだと考えている。もちろん、近年の考古学による成果は目をみはるものがあるし、その成果を否定するものではない。ただ、こと邪馬台国研究という分野においては、あくまでも主となる文献解釈を裏付け、補足する存在でいてほしいと思っている。
本稿では、筆者が一度ゼロから『魏志倭人伝』の記述と向き合い、邪馬台国にたどり着きたいと願って、浅い知識ながら全力で文献を解釈していく過程で気がついたポイントのなかから、邪馬台国論争の原因となった記述に関して考察してみた。

邪馬台国論争を生んだ原因

いわゆる「邪馬台国論争」を生むこととなった『魏志倭人伝』の記述は次の部分である。
「南至投馬国 水行二十日」「南至邪馬台国 女王之所都 水行十日 陸行一月」
そもそも、この投馬国と邪馬台国への行程の記述が、誰の想像も入り込む余地のない簡潔かつ正確なものであったなら、日本中に邪馬台国候補地が乱立するなどという状況は生まれなかった。「水行二十日」「水行十日」「陸行一月」とは、なんとあいまいな記述であろうか。
例えば、水行一日を10キロメートルだとすると二十日で200キロメートルだが、水行一日を千里(1里を約70メートルと仮定すると約70キロメートル)だとすると二十日で1400キロメートルにもなる。また、陸行についても一日に進む距離は、3、40キロメートルぐらいまでならどのようにでも設定できるので、それを長くみるか短くみるかで一月(30日)で進む距離は大変な違いとなる。加えて、放射説、連続説など採用する説によっても大きく異なってくる。さらには、東を南と誤認している等の説によって、極論すれば、ここの算出方法によって、日本中のあらゆる地域まで到達できるようになる。つまり、誰でも日本各地の任意の地点に邪馬台国を設定することが可能になるのだ。実際、邪馬台国論争の二大説である九州説と畿内説でも距離には雲泥の差がある(図1)。

「二十日」「十日」「一月」は道里ではない


 さて、問題の「二十日」「十日」「一月」であるが、これはいったい何か。もし、そう尋ねられたら、間違いなく「時間」「日数」だと答えるだろう。では、『魏志倭人伝』にいう「道里」とは何か。それは、「距離」「里数」である。この場合の「道里」に時間の概念はない、はずである。
 後世の『隋書』倭国伝に「夷人不知里数但計以日(倭人は里数を知らず、日をもって計る)」という記述が見られる。筆者はこれは『魏志倭人伝』の記述から派生したものだと考えているが、少なくとも『隋書』が完成した唐の時代においては「里数」と「日」が明らかに異なる性質のものであると認識されていたことを証明している。
 つまり、「二十日」「十日」「一月」はあくまでも日数であって、「道里」ではない。そして、「一日に歩く距離は百里とする」とか「一日の水行の距離は二百里とする」などの明確に定められた基準がない限り、目的地への案内に用いるには不適切な種類のものである。
 ところが、現在の邪馬台国論争では、陳寿が『魏志倭人伝』においてそんな不親切な記述をしたということに疑問を呈することなく、その認識の上で様々な議論が交わされている。

自女王国以北 其戸数道里可得略載


しかし、本当にそうであろうか。陳寿はそんなあいまいな記述をしたのだろうか。
 結論を先に述べると、筆者は陳寿が『魏志倭人伝』の中に明確な道里を、○○里と数字で記していたと考えている。
 その結論に導いてくれたキーワードは、まさに魏志倭人伝の記述そのものの中にあった。
「自女王国以北 其戸数道里可得略載 其余旁国遠絶 不可得詳」
 要約すると、次のようになる。
「女王国より北(の国)については、戸数・道里を略載できる(できた)が、その他の旁国は遠絶なので、詳細はわからない」
 そして、この文の直前にあるのが、以下の投馬国、邪馬台国の下りなのである。
「南至投馬国 水行二十日 官曰彌彌 副曰彌彌那利 可五万余戸 南至邪馬台国 女王之所都 水行十日 陸行一月  官有伊支馬 次曰彌馬升 次曰彌馬獲支 次曰奴佳? 可七万余戸」
 整理すると、非常に不自然なことがわかる。投馬国、邪馬台国に関する「戸数と日数」を記述した、そのすぐ後に、女王国より北の国について「戸数と道里」を略載した(できる)と書いている。
 不彌国までは、明確に道里を記している。狗邪韓国までの水行にしても、何日かかったかではなく、七千余里と明確に里数を記載(略載)している。海を渡って末廬国に着くまでの記述でも、狗邪韓国から対馬国まで千余里、対馬国から一大国まで千余里、一大国から末廬国まで千余里と具体的な距離を記載(略載)している。もちろん陸行もである。末廬国から伊都国まで五百里、伊都国から奴国まで百里、奴国から不彌国まで百里とすべて明記している。
 しかし、投馬国と邪馬台国の記述では明らかに道里を略載していない。
 ここでは詳細は割愛するが、陳寿とその史書『三国志』は、「質実」で「明瞭正確」で「筋が通って中庸を得た」記述で、「史官の才能がある」と様々な方面から高い評価を集めている。その陳寿および『三国志(魏志倭人伝)』が、投馬国と邪馬台国への道里だけ、どうにでも解釈できるあいまいな記述をするだろうか。
 また、『三国志』に詳細な注をつけた裴松之が、このあいまいな記述を見たならば必ずなんらかの注をつけたはずである。先に触れた『随書』の記述である「夷人不知里数但計以日(倭人は里数を知らず、日をもって計る)」というような注をつけるにはまさに絶好の題材だと思われる。
 以上から、このあいまいで不自然な記述が生じた原因は、次のように考えざるを得ない。
 つまり、「陳寿は『魏志倭人伝』の原本において、投馬国、邪馬台国への道里を記載していた」のである。そして、その道里は、何らかの理由によって、後世の誰かの手で「二十日」「十日」「一月」に改ざんされたのである。
 筆者は、いま我々が目にする魏志倭人伝の「二十日」「十日」「一月」の箇所に、陳寿が明確な道里を記していたと考えている。だからこそ、その直後の文章で自信をもって「自女王国以北 其戸数道里可得略載」と述べているのである。「自女王国以北 其戸数道里可得略載」という表現は、嘘やごまかしの記述の後では決して書くことのできない一文であると思うのだ。

【仮説】邪馬台国にはあるべき位置があった


 改ざんした人物、改ざんした理由については、今後詳細に様々な角度から検討していく必要があると考えている。ただ、現時点でも魏志倭人伝の記述自体から、改ざん理由に関する有力な仮説が立てられると考えている。
 それは、「邪馬台国には、そこになければならない『位置』があった」という説である。
 『魏志倭人伝』では、邪馬台国までの行程に続いて、倭国の地誌について触れている。その中に次の一文がある。
「計其道里 当在会稽東治之東」
 その(帯方郡から女王国までの)道里を計算すると、(女王国は)ちょうど会稽東治の東にある。そういう意味の一文である。この「会稽東治」には2説ある。そのまま「会稽東治」とする説と、「治」は「冶」の間違いで「会稽東冶」が正しいとする説である。「会稽東冶」説が出てきた背景には、范曄による『後漢書』の次の記述がある。
「其大倭王居邪馬台国 楽浪郡徼去其国万二千里 去其西北界狗邪韓国七千余里 其地大較在会稽東冶之東」
 これを訳すると次のようになる。
「大倭王は邪馬台国にいる。楽浪郡の境界からその国までは一万二千里。その北西界の狗邪韓国から七千余里である。その地はほぼ会稽郡東冶県の東にある」
 では、「会稽東治」と「会稽東冶」の位置関係はどうか。
 「会稽東治」の場合は、会稽の東部地域の治所と考えられる。詳細は割愛するが、ここでは江蘇の呉県、現在の江蘇省蘇州市付近としたい。一方、「会稽東冶」の場合は、会稽郡東冶県の東となり、台湾の対岸、現在の福建省福州市周辺とされる。地図で確認すると、南北で約580キロメートルも離れており、「会稽東治」の東は大隅半島の鹿児島県鹿屋市付近に、「会稽東冶」だと沖縄県辺りに辿り着く(図2)。


もうひとつ注目すべき記述が、この直前にある。「計其道里 当在会稽東治之東」までを含めたものがこうだ。
「男子無大小 皆黥面文身 自古以来 其使詣中国 皆自称大夫 夏后少康之子 封於会稽 断髪文身 以避蛟龍之害 今倭水人好沈没捕魚蛤 文身亦以厭大魚水禽 後稍以為飾  諸国文身各異 或左或右 或大或小 尊卑有差 計其道里 当在会稽東治之東」
 現代語訳は省くが、この部分を読むと、文脈上、夏の王小康の子が封ぜられた会稽と、会稽東治の会稽は同一ものであると考えるのが適当であろう。さらに、この後も倭の風俗など地誌の紹介が続くのである。万一、このふたつの会稽がまったく関連性のない別物であるなら、「計其道里 当在会稽東治之東」という文はこの位置ではなく、地誌の紹介の最後など別の箇所に入るべきものである。
 だから、陳寿の認識は「会稽東治」で間違いないと思われる。陳寿は、女王国は江蘇省蘇州市の東にあると考えていた。
 さて、陳寿が正しいとすると、范曄の方が誤認しているということになる。歴史上は「後漢」の方が「魏」よりも古いが、著された年代は『魏志倭人伝』の方が『後漢書』より古い。『魏志倭人伝』は280年代の著作とされ、『後漢書』の成立は432年とされる。その新しい年代の人である范曄が誤認している。なおかつ、范曄は南北朝時代の宋の人であり、「会稽東治」も「会稽東冶」も宋の国土なのである。その『後漢書』に誤認があり、しかもそれが何の問題もなく受け入れられているということは、当時の人々は、女王国は「会稽東冶」の東にあったと認識していたということである。
 そういう時代に、そういう状況下に、『魏志倭人伝』があったとしたら間違いなく、陳寿の記述は誤りだと判断されたことだろう。なぜなら、「陳寿の女王国」は、あるべき位置より580キロメートルも「北」にあるからだ。
 女王国はもっと「南」になければならない。だから、改ざんされたのだ。
 では、女王国を「南」に移動させるにはどうするか。そこで、目をつけられたのが南への行程である不彌国から投馬国、投馬国から邪馬台国への記述だったのではないだろうか。
 ところが、ここでひとつ問題が発生する。陳寿が記していた里数を単純に増やすわけにはいかない。なぜなら、『魏志倭人伝』の他の箇所には、女王国までは「万二千余里」と明記されている。こちらも同様に増やせばよいではないかと思うだろうが、すでに范曄の『後漢書』も「万二千里」と明記してしまっているので、両者の里数が食い違ってしまうことになる。だから、苦肉の策として、里数ではなく「二十日」「十日」「一月」という「日数」を用いて女王国を「南」へと移動させたのである。

 以上が、陳寿が『魏志倭人伝』に投馬国、邪馬台国への明確な道里を記していたと考える根拠と経緯である。
 ここから先、「陳寿の間違いを正してやろう」という思いから、「里数」を「日数」へ書き換えた改ざん者の善意を信じて、陳寿が実際に記していた里数を推理していく。「南至投馬国 水行X里」「南至邪馬台国 女王之所都 水行Y里 陸行Z里」というX、Y、Zの解を求め、邪馬台国を目指すわけであるが、それは2014年7月中旬発行の『陳寿の記した道里~邪馬台国への方程式を解く~』のなかで詳細を記す。そして、邪馬台国をはじめ『魏志倭人伝』に登場するすべての国々の場所の比定にも挑んでみた。

参考文献

石原道博編訳「新訂 魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝・随書倭国伝」岩波文庫
小南一郎訳「正史三国志8」ちくま学芸文庫

					最終更新 平成26年6月30日