『邪馬台国と卑弥呼の風景(畿内説)』

												水谷 敏行

第一章 魏志倭人伝にみえる各國及び人名・官名の比定

1.1 伊都國・大率

 伊都國長官 爾支(にき)と副官 泄謨觚柄渠觚(ひこほ)は日向三代の名を伝えており(表-1)、倭王権との血縁が示唆される。その伊都國に常駐し周辺諸國を総監する権限を持つ大率は王権に極めて近い氏族でなければ務まらず、神八井耳命を祖とする多氏が大率であるものと考える。皇別氏族で九州・畿内双方に勢力を有すること、神八井耳命の裔は代々「大率」と同義の「武」(たける)を名に冠すること、多氏の本拠(多坐弥志理都比古神社の在る十市郡飯富郷)が纏向に近接すること、などがその根拠。

1.2 投馬國・邪馬壹國・旁國二十一國

投馬國は出雲。邪馬壹國は大和。旁國二十一國は志摩・伊勢~東山道・畿内周辺・北陸道・東海道の諸國。いずれも邪馬壹國と狗奴國との間に位置する。倭人伝に記される女王國は甲信・三遠までの諸國連合であり、銅鐸(近畿式・三遠式)及び四隅突出形方丘墓の文化圏を包含。狗奴國は毛野。
[1]斯馬國(志摩)[2]己百支國(伊吹)[3]伊邪國(伊勢)[4]都支國(多伎)[5]弥奴國(美濃)[6]好古都國(大縣)
[7]不呼國(不破)[8]姐奴國(諏訪)[9]對蘇國(安曇)[10]蘇奴國(科野)[11]呼邑國(甲斐)[12]華奴蘇奴國(埴科)
[13]鬼國(紀伊)[14]爲吾國(伊賀)[15]鬼奴國(熊野)[16]邪馬國(山代)[17]躬臣國(高志)[18]巴利國(尾張)
[19]支惟國(三河)[20]烏奴國(遠江)[21]奴國(久努)
以下は上記比定を支持するものである。
(a) 纏向遺跡で出土する土器の分布(山陰系・吉備系・近江系・尾張系・駿河系)と整合。
(b) 志摩・伊勢から東山道の諸國は日本武尊の東征復路と、東海道の諸國は同じく往路との共通性がある。倭人伝が伝える女王國の時代と日本武尊の時代は一世紀を隔てておらず、両者には連続性が認められて然るべきである。日本武尊の東征においても、戦いの描写は駿河・相模からなされていることからも、女王國の時代も倭王権の勢力境界はこの付近にあったと推定される。

1.3 女王國東・侏儒國・裸國・黒歯國

 「女王國東渡海千餘里復國有皆倭種」は女王國連合境界の奴國(久努)を基点に駿河・伊豆・相模より東に海を渡り房総に至るさまを示す。「其南」の侏儒國は伊豆諸島、「其東南船行一年可至」に位置する裸國・黒歯國は小笠原諸島或いはマリアナ諸島を指す。

1.4 狗奴國・狗古智卑狗・卑弥弓呼

 「狗古智卑狗」は「くこちぇ・彦」~「香香背・男」= 書紀の記す悪神「天香香背男」。「卑弥弓呼」は一般には「ひこみこ」~「彦御子」と解釈されるが、「卑弥弓呼」の並びを尊重し且つ「卑弥弓呼素」までを人名と理解し、「ひみくほそ」~「(日のように輝く)甕星」~「天津甕星」と考える(表-1)。狗奴國は天香香背男及びその後裔を中心とした勢力であり、倭王権との抗争のなかで徐々にその勢力圏を狭められ、「毛野」という国名にその痕跡を残しながらもついには歴史から姿を消したものである。
(a) 天香:香背男伝承は常陸を中心とし、毛野においても複数の神社で祀られている(式内社では火雷神社(上野国八宮)にて関連が指摘されている(度会延経「神名帳考證」))。
(b) 駿河 倭文神社の由緒によると、神代、天香香背男が星神として同地を支配していたとされる。これは、女王國の境界である奴國を駿河の西隣(遠江 山名郡久努郷)とする本論の比定と整合する。
(c) 高群逸枝(「母系制の研究」)・谷川健一(「白鳥伝説」)の指摘を統合すれば、天香香背男は、旧事本紀に饒速日命の供奉者として名の見える「天背男命」に繋がる。「天背男命」は「天背男命 山背久我直等?」(天神本紀)・「天神立命 山代久我直等?」(神代本紀)とあり、「香香」「狗古」に通じる「久我」と相関がある。また、被征服者である悪神 香香背「男」は本来「彦」であったであろう。これらより、「狗古智卑狗」は「久我兄彦」~「天香香背男」であり、物部・尾張氏のうち神武に臣従せず東国に逃れ、先住民と連帯し倭王権に抵抗した勢力(外物部)の象徴であったと理解する。
(d) 孝昭・孝安の御代に創祀伝承を持つ東国古社は駿河・伊豆・相模・武蔵に多く上野・下野に少ない傾向が認められる(表-2)。これら由緒は総体として、同時代に、狗奴國との抗争の中で倭王権が倭人伝の伝える女王國の版図(久努)から漸次東に伸長し、狗奴國が毛野に追い詰められていった事歴を映す。

1.5 卑弥呼・壹與・男弟

卑弥弥は彦火明命の六世孫「宇那比姫命」、壹與は八世孫「大倭姫命」(桂川光和HP「日本建国史」)を支持する。「宇那比姫命」は亦名「天造日女命」「大倭姫」「大海霊姫命」「日女命」(勘注系図)。「大倭姫命」は亦名「天豐姫」(同)。帯方郡・魏・晋へ派遣された人物の比定を表-1・図-1に併せて示す。
(a) 和邇氏系図(太田亮「姓氏家系大辞典」)では、「宇那比媛命」は「天足彦國押人命(孝安の兄)」の女「押媛命」の母とされる。宇那比姫命の義弟は孝安であり倭人伝「有男弟佐治國」の「男弟」にあたる。同系図を肯定すれば孝安紀の「立姪押媛爲皇后」の「姪」もより明確に理解出来る。
(b) 記紀に卑弥呼・壹與の記述が見えないのは、天皇家・藤原氏にとり不都合な他氏族業績に帰する史実が落とされたことに加え、卑弥呼が大日?貴神と共に「天照大神」と扱われていることによる(第三章)。
(c) 孝霊紀は、孝霊の母を「母曰押媛蓋天足彦國押人命之女乎」(天足彦國押人命の女か)」と曖昧に表現している。これは缺史八代の皇后に対する記述としては唯一。また、古事記は他の缺史八代の皇后を出自まで述べるのに対し、孝安記では孝霊の母を単に「姪忍鹿比賣命」という淡白な記載に留めている。生母の出自は母系色の濃い古代社会では最も重要な情報の筈であるにも関わらず、記紀では孝霊后の記述を最小限にしようとする意図がみえる。これは孝霊の祖母が宇那比姫命であることと無関係では無い。

第二章 倭國大乱~三輪王権までの年代考察

2.1 天皇在位年数及び即位年の推定

 日本書紀の年代記述を「仁徳紀以前は四倍年暦」と推定し、信憑性の高い応神元年(西暦390年)を基準とし、書紀に記載の各天皇の推定在位年数÷四を引き算することにより各天皇の即位年を推定する。
この考え方に基づき各天皇(神武~応神)の在位年数及び即位年を単純評価した結果を表-3に示す。

2.2 倭國大乱(卑弥呼共立前)

「桓霊閒倭國大乱更相攻伐歴年無主」(後漢書)は神武~懿徳の御代の混乱を、特に「漢霊帝光和中倭國乱相攻伐歴年」(梁書)は神武歿後の混乱(手研耳命との抗争、綏靖・安寧・懿徳の短期在位)を指す。以下は傍証。歴代天皇の諡号から同時代の事情の推定は出来る(表-4)
(a) 宇摩志麻治命・天香語山命による尾張・美濃・越の平定伝承も同時代の「更相攻伐」を伝える。
(b) 綏靖~孝昭の即位はいずれも変則的であり静穏な状況では無かったことを示す。(綏靖;手研耳との皇位継承抗争(空位三年)ののち即位、安寧・懿徳;特殊月即位(前帝歿後の翌年一月即位ではない)、孝昭;懿徳歿後空位一年ののち即位)。
(c) 朝夕七人ずつ食べる綏靖を恐れた臣下が帝を岩屋に幽閉し世が静まったとの逸話(「神道集」,南北朝時代に成立)は実話ではなかろうが、綏靖治世の不穏がこのような伝承を生んだものと解する。
(d) 則天武后に死を賜った李重潤(中宗の長男)が懿徳太子と追封されており、「懿徳」は縁起の良い諡号では無い。「徳」の諡号を持つ皇子・天皇は自身・後裔に不幸があり「懿徳」も例外では無い(尚、「仁徳」についてもその皇統が武烈の御代で途絶えておりこの法則に該当)。中宗復位から漢風諡号撰進(淡海三船が天平宝字六~八年に一括撰進したとされる)まで遣唐使の帰国は四回あり(東野治之「遣唐使」)、懿徳太子の故事を知らずに諡号を撰上した筈が無い。「耜友」が高皇産霊神の与えた天羽々矢に射抜かれた天稚彦(味耜高彦根命の神友)を想起させることも懿徳不幸の傍証。
(e) 旧事本紀は「観松彦香殖稲尊(孝昭)は磯城津彦玉手看天皇(安寧)の太子也」とし懿徳~孝昭が父子相続で無いと記す。安寧の諡号「玉手看」の「玉手(天子の手)」の持主は孝昭であると推理する。

2.3 卑弥呼の代

 卑弥呼 = 宇那比姫命は孝昭の御代に諸氏族に共立され男弟孝安とともに王権の中心にあった。
(a) 「孝昭」の「昭」には「昭穆;祖先を祀る廟の順序の名。始祖廟を中央に置き、初代を左に置き昭、次代を右に置き穆という」の用例がある。孝昭が神武の創業を継ぎ、神武歿後の混乱を収めたと位置付けられることを暗示する。孝昭の諡号「香殖稲」は「かえし・ね」~「還・元」。
(b) 孝昭の諡号「観松(御真津)」~「御・纏・津」から卑弥呼の代に纏向が大を成したこと、孝安の諡号「国押人」から同時代に倭王権が東国に充実・伸長したことが理解される。

2.4 卑弥呼歿後の男王

「更立男王國中不服更相誅殺當時殺千餘人」は孝霊の御代における乱れを指す。「男王」は孝霊。
(a) 「霊」の諡を享けた君主には、後継問題で世の中が乱れた例が多くみられる(「史記世家」「春秋左史伝」)。一方、孝元の「元」は「もと」「はじめ」の意味。諡号撰者は史実を承知していたであろう。「孝元」の諡号「国牽」~「くに・くる」は「国を牽いて来る」「国王の座が遣って来る」。
(b) 孝霊~孝元は父子継承ではない(原田常治「上代日本正史」は「孝元は雀部臣(神八井耳命の子)に擁立され即位」とする)。古事記では神八井耳命も孝元も雀部臣の祖とされ両者の近親関係を裏付ける。
(c) 吉備津神社 正宮の相殿には、吉備津彦命の兄弟姉妹が祀られているが、吉備津彦命とは異母兄弟の関係にある孝元は何故か祀られていない。孝霊と孝元が父子継承でない傍証。
(d) 吉備及び周辺の孝霊伝承(温羅伝説・楽楽福神社 [伯耆] 社伝・他)は「更相誅殺當時殺千餘人」に符合する。鬼退治に纏わるこれら伝承から、孝霊の諡号「太瓊」は「太玉」~結界神と連想される。
(e) 水主神社(讃岐)に、孝霊皇女の倭迹々日百襲姫命は七才の年に争乱を避け黒田盧戸を出て八才にて水主宮内に至り当地で成人したと伝わる。孝霊の御代は畿内も争乱渦中にあった。

2.5 壹與の代

孝霊の御代の混乱を収束させるべく卑弥呼と二世代差の宗女壹與 = 大倭姫命が「年十三」で共立された。
(a)「梁書」「通典」に記される、壹與共立後に即位し中國爵命を受けた男王は孝元と推定する。

第三章 三輪王権と天照大神

3.1 崇神の出自

 崇神の母、伊香色謎命の記紀に見える嫁歴(孝元妃のち開化后)から崇神は孝元の皇子と推理する。
(a) 日本書紀によると、伊香色謎命が皇后に立てられたのが開化六年、崇神が皇太子に立てられたのがその二十二年後(開化二十八年)である。倍暦を考慮すれば、崇神が開化の皇子であるとするには短すぎる。伊香色謎命が開化の皇后に立てられたときには崇神は既に生誕していた。
(b) 武内宿禰の祖である彦太忍信命が崇神と父母を同じくする兄弟であれば、蘇我氏・葛城氏など古代氏族が挙って系譜を孝元-彦太忍信命…-武内宿禰に求める理由もより明確になる。
(c) 崇神と孝元が父子であれば崇神記にて「建波邇安王」を「我が庶兄」とする表現が理解出来る。
(d) 孝霊の皇女である倭迹々日百襲姫命を崇神紀では「天皇の姑」としているが、崇神と孝元が父子であれば、(記紀の上では)孝元の妹である倭迹々日百襲姫命は崇神の叔母であり辻褄が合う。世代的にも倭迹々日百襲姫命と崇神が会話を交わすことに無理はなくなる。
(e) 後世の宣化~欽明と同様、「開化」の「化」は崇神が開化の実子でないことを暗示する。
(f) 三輪王権の天皇・皇子女名に特徴的な「入」は、単純に「その土地に入ったもの・継承者」であり、崇神の諡号「御間城入彦」は「御・纏向」の継承者を意味する。類似する孝昭の諡号「観松」は、古代大和盆地に盆地湖があったこと(伊達宗泰編「古代「おおやまと」を探る」)に鑑み「御・纏・津」が詰まったもの(纏の港)と理解される。尚、崇神二皇子の名は「活目 = 久米(屯倉を置かれた来目邑)」「豊城 = 毛野(豊は修辞)」を、豊鍬入姫の「鍬」は「磯城」であり天照大神を遷した笠縫邑を指す。

3.2 卑弥呼・大日?貴神と天照大神

 豊鍬入姫命・倭姫命の両斎主による遷幸により伊勢に鎮座した天照大神は卑弥呼の御魂。崇神紀の「天照大神」であり、神功摂政前紀に顕れる「撞賢木厳之御魂天疎向津媛命」。伊勢神宮別宮第一の荒祭宮に天照大神荒魂として今も祀られている。大日?貴神も卑弥呼もいずれも日本書紀では「天照大神」とされている。共に日神を祀る巫女。大日霊貴神は雄略の御代以降に内宮正宮に祀られたものと考える。
(a) 崇神紀六年条「先是天照大神倭大國魂二神並祭於天皇大殿之内」は、天照大神の宮中での創祀時期を曖昧にすることで神代からの連続性を(瓊瓊杵尊以降、天照大神が宮中で祀られ続けてきたように)装っているが、「先是」は裏を返せば「更に遡った御代は宮中では祀られていなかった」と云っている。
(b) 豊鍬入姫命・倭姫命は皇女であると共に卑弥呼の血縁(前者は卑弥呼と同じ紀伊国造の血を引く、後者は同じく尾張氏の血を引く)であるが故に天照大神の斎主として選ばれた(図-1)。また、豊鍬入姫命の丹波・紀伊・吉備への遷幸路は、卑弥呼の縁故を巡ったもの。
(c) 天照大神荒魂が神功の御代に摂津 廣田國(廣田神社)に葉山媛(尾張氏の血統)を祭主として祀られていることは天照大神荒魂 = 卑弥呼であることの証の一つ。
(d) 天武は尾張氏の枝族 大海氏に養育され、壬申の乱においても尾張氏の支援を受けている。天武が乱の途上望拝した「天照太神」は「大日霊貴神」ではなく尾張氏に出自を持つ卑弥呼であった筈である。

第四章 吉備についての考察と銅鐸・前方後円墳との関連

4.1 地祇系賀茂族と吉備

 吉備は魏志倭人伝には現れない。吉備津彦命による平定以前の吉備を担ったのは地祇系賀茂族。吉備における史実・考古遺跡と地祇系賀茂族の状況が以下(a)~(e)のように一致することがその根拠。
(a) 吉備は出雲と同じく初期銅鐸出土域であり元々出雲と同一文化圏 ⇒ 地祇系賀茂族は出雲神族。
(b) 吉備は特殊器台・壺を創造 ⇒ 特殊器台・壺の出土分布の変遷と賀茂族関連の伝承に相関が認められる(図-2)。ここで、出雲での特殊器台・壺の出土は一般には吉備から出雲への影響として理解されるが、逆に吉備首長の出自が出雲にあるという視点で捉え直すべきである。西谷墳墓群が属する神門郡塩冶郷は出雲国風土記に味耜高日子根神の御子 塩冶毘古命が居たと記される地であり、同郡高岸郷は味耜高日子根神の御座所があったとされる。前期型特殊器台の分布から「(出雲)西谷墳墓群 ‐(被葬者)塩冶毘古命」⇔「(吉備)楯築墳丘墓 ‐(被葬者)味耜高日子根神の裔」という連想がなされて然るべき。
(c) 吉備は神武と直接交渉し(於 吉備高嶋宮)初期倭王権成立に関与 ⇒ 天日方奇日方命は神武の御代に食國政申大夫として供奉したとされ(旧事本紀)論功行賞に預かっている。
(d) 吉備津彦命が吉備の先住者を平定 ⇒ 賀茂(鴨・加茂)神社の在所と銅鐸出土地の重なりや、阿遅?高日子根神を祭神とする片山神社(備前 赤坂郡)の社記などより地祇系賀茂族が吉備の先住者と云える。又、地祇系賀茂族は、孝昭の御代以降、皇后を出すこともなく中央から遠ざかっている。崇神の御代に大物主神の祭主とすべき大田田禰古命(天日方奇日方命の六世孫)を得るのに「布く天下に告ひて求む」必要があったと記紀は伝えている。この状況は、吉備津彦命に象徴される倭王権による吉備平定と符合。
(e) 後期型特殊器台(宮山型)が吉備・大和で出土 ⇒ 宮山型を出土する宮山墳丘墓(前方後円形)は備中 窪屋郡「美和」郷に在る一方、同型を出土する大和 箸墓古墳の在る磯城郡纏向は「大神」氏の本貫。これらは、地祇系賀茂族が特殊器台を大和へ持ち込んだ傍証。大和への導入時期は、箸墓古墳が吉備津彦命(彦五十狭芹彦命)と母を同じくする倭迹迹日百襲媛命の墓と伝わること、大和には初期型(立坂型)や中期型(向木見型)の出土が無いことから、吉備津彦命による平定が契機になったと推定される。

4.2 銅鐸の消滅と前方後円墳の出現

 現時点(平成26年6月)における本論の見解は以下の通り。
(a) 出雲神族(地祇系賀茂族)の奉じる銅鐸は、天神系賀茂族の交わりを通じて(地祇系と天神系の両祖は孫と祖父の関係)吉備にて特殊器台・壺となり、更に倭王権(天孫族)と融合し古墳文化に昇華した。
(b) 後期型特殊器台・壺(宮山型)を出土する大和の古墳(箸墓古墳・西殿塚古墳など)と備中 宮山墳丘墓(前方後円形)、及び中~後期変遷期(広義の向木見型)の器台を出土する備中 矢藤治山墳丘墓(前方後円形)の存在から、前方後円墳の発祥起源が吉備・大和いずれかとの議論がなされるが、前方後円墳は吉備と大和の融合により創造され両地域でほぼ同時期に成立したと考える。
(c) 銅鐸は天孫族の東遷による支配・破壊を避けるために意図的に隠されたものでは無く、この融合の過程で吉備・大和から順次「祖先・神の憑代としての祭器」(井上香都羅「銅鐸「祖霊祭器説」古代の謎発見の旅」)としての役割を終えていった。
					最終更新 平成26年6月23日