『伊都国・邪馬台国 両国論』

												安彦 建夫

◎伊都国について

 “東南陸行五百里、到伊都國。官曰爾支、副曰泄謨觚・柄渠觚。有千餘戸。丗有王、皆統屬女王國。郡使往來常所駐”
 對馬國・一大國・末盧國の記述や伊都国の“郡使往來常所駐”などには実体験記述があり、伊都国より先の国についてはこのような記述は無い。

 “王遣使詣京都・帶方郡、諸韓國、及郡使倭國、皆臨津捜露、傳送文書・賜遣之物詣女王、不得差錯” 魏側の京都・帶方郡に対して倭国側は一箇所である。

 “正始元年、太守弓遵遺建中校尉梯儁等、奉詔書印綬詣倭國、拜假倭王、并齎詔賜金・帛・錦・?・刀・鏡・采物。倭王因使上表答謝恩詔”
 郡使梯儁等の最大の目的は倭国と冊封体制を確立することである。卑弥呼は上表答謝や狗奴国との戦いに救援を依頼していることから倭国は魏の冊封体制にあったと思う。伊都国を出先機関として、伊都国王あるいは一大率に臣下の礼を取らせるなど、代理で冊封体制を確立できるのであれば、魏・洛陽にて皇帝の臨席も可能な儀式としたほうが良い。
 伊都国は常に郡使が駐まる所であり、倭国は一箇所であり、出先機関ではないことなどから、伊都国が目的地と推定する。

 “拜假倭王”とあるので女王も伊都国か伊都国の近くに居たと思う。(万二千里は魏使以前の「公孫氏時代からか」推測概算値としておく)
 (卑弥呼が邪馬台国に居る場合として、「邪馬台国に霊験あらたかなる卑弥呼様がいらっしゃる、我らの王として、我らの為に祈って頂けるようにお願いしよう。“拜假倭王”の時には、倭王として郡使を出迎えに伊都国までお越し頂こう。卑弥呼の死後伊都国の男王は邪馬台国と戦ったが、結果として壱与を立てることで収まった」という余地はある)

王について
 女王国は”乃共立一女子爲王、名曰卑彌呼”とあるので、女王に共立される前の卑彌呼は一女子であって、王でなく国も支配する戸も持っていなかったと推測される。卑弥呼は共立されたとき、共立のシンボルとして(女)王の称号を与えられ、権威と衣食住そして安全性などは保証された。その保証は、女王に国やその国に属する戸数を与えるという形ではなく、後世の寺社領か経費の予算化といったような形が、国を運営するノウハウを持っていなかったであろう女王には適切だったのではなかろうか。(卑弥呼も弟を連れ、直接会わないなど独自のスタイルを認めさせる要求を出している)

 “居處宮室・樓觀、城柵嚴設、常有人持兵守衞”は乱が終わり、不要になった争いの拠点であった砦の一つを女王の居住地として改装したものかも知れない。
 男王が立てば、男王が支配していた国の名前で呼ばれたかもしれないが、女王を共立した国の場合、市町村合併のときの様に、特別に国の総称を新に名付けることはしなかった。この様に、女王国にも共立国にも国としての特別な名前はなく、女王国は直接支配する領土・戸数は持たなかったという現象は、支配する国を持つ男王でなく、支配する国を持たなかった女王を共立するという政治形態から起こったことであろうと考える。女王国は中国的意訳で、倭国側にはそのような認識は薄かったと思う。
 一女子をいきなり権力を持つ王にはしないだろう、また傀儡王としても一女子に特別な要素は見いだせない。血縁かある程度の地位にあるものから選ぶであろう。
 “卑彌呼以死、大作冢、徑百餘歩、?葬者奴碑百餘人。更立男王、國中不服、更相誅殺、當時殺千餘人。復立卑彌呼宗女壹與年十三爲王、國中遂定。政等以檄告?壹與” 卑弥呼の死後、冢を作った。(共立以前の男王も冢を作ったであろう)伊都の男王が継承する正当性を主張したが、今回は神意を問うことが出来ないので、正当性を支持する派とそれに反対する派が戦った。結果、壱与を立てることによって収まった。男王と壱与の霊力は比べられないので、旧男王体制より共立王体制の方を選んだのであろう。

 壱与もまた、13歳であるので権力を持たない王であろう。
 “倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和” 不和とは、男王と卑弥呼は同じ種類の対立のような感じがする。
 “其南有狗奴國。男子爲王、其官有狗古智卑狗。不屬女王” 狗奴国の官を菊池彦とすれば、男王は権力を持たない王となる。従って伊都国の男王も権力を持たない王であったかも知れない。(“有千餘戸。丗有王”はバチカンの教皇を連想させる)
 (王や官の名前には、質問の仕方・通訳・答え方・記述の仕方等において、意訳や標準化が行われたと思うが)王は全て権力を持たない祭祀を司る王である可能性がある。
 “皆統屬女王國”は、後述の霊力が劣った王は女王に従ったとする。(王の禅譲・廃嫡・簒奪・王殺しなどではなく女王共立後も王として残っている。王権引き継ぎの儀式はなかったと思う)

津について
 “自女王國以北、特置一大率、檢察諸國、諸國畏憚之。常治伊都國、於國中有如刺史。王遣使詣京都・帶方郡、諸韓國、及郡使倭國、皆臨津捜露、傳送文書・賜遣之物詣女王、不得差錯”

 一大率は常に伊都國に居るが、津は伊都国になくてもよいと思う。津を末盧国の唐津辺り(良港であったのだろう)とすれば、陸行したことは理解できるが、方位については、唐津から東に海岸沿いを進み、海から離れ内陸部へ入り、北に糸島の陸地があるので東南に進んだと思った、ということ位しか思いつかない。また、末廬国には官名が書かれていないので、港機能も含めて一括管理していたのかもしれない。皆、津に臨み献上・下賜品と目録を照合し海送・陸送の手配を行い、間違いのないよう女王に送った。
 (“自女王國以北”は陳寿が“女王之所都”とした南に対する、説明的接続文とする)

□郡使の報告書
 “其國本亦以男子爲王、住七八十年、倭國亂、相攻伐?年、乃共立一女子爲王、名曰卑彌呼”
 男王の時代に乱が起こる、乱の原因は盟主・交易権といったものでなく、自然現象・天候不順によるものだとする。凶作により争いが起こり、男王が権力を持った王の場合は乱の仲裁をし、祭祀を司る王の場合は祟る神に祈ったが、いずれの場合も効果なく、(ここでは祭祀を司る王を採る)乱が拡大していった。乱が長引いて争いに倦み人口が減り共倒れになることを避けるため、乱の関係国代表者が集まり、霊験あらたかなる王を共立することで調停した。乱に勝者は無く、文字通りの共立であり、卑弥呼は人智を超えた現象を収めるための祈る王・祭祀を司る王として共立された。

 一大率を調停監視軍として伊都国に置くことを決めたのもこの代表者達である。(代表者会議の警備も兼ねていたかもしれない)
 卑弥呼の居住地も伊都国か伊都国の近くに置いたのだと思う。
 女王を共立したのも、一大率を置いたのも、他国からの強制でなく、自分たちの為に行ったことである。
 共立の事実は倭国に来て初めて知ったことであろう。共立国としての総称はなく、倭国としか呼べない状況であった。伊都国は引き続き中心地であったが、以前の男王の時代のような立場でなく、共立を代表する国ではなくなっていた為、郡使は共立国名も卑弥呼の居住地についても具体的な国名を書くことが出来ないで、国名に「都」を残すにとどめた。

□陳寿の倭人伝編集
 “南至投馬國、水行二十曰。官曰彌彌、副曰彌彌那利。可五萬餘戸。
 南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日、陸行一月。 官有伊支馬、次曰彌馬升、次曰彌馬獲支、次曰奴佳?。可七萬餘戸”の記述は不弥国までの記述の形式と異なり、また投馬国と邪馬台国との記述が対句構成になっていること、及び前述の女王は遠方の邪馬台国ではなく、伊都国か伊都国の近くに居たということから、“女王之所都”が入っていない形が元の記述であったと推測する。

  陳寿が“南至邪馬壹國、女王之所都”と記述したのは、  資料を整理して、“制詔親魏倭王卑彌呼”と對馬国・一大国・末廬国・伊都国・奴国・不彌国の北九州の6ヶ国、狗奴国・投馬国・邪馬台国や旁国21ヶ国の国名だけを見ていると、陳寿でなくても倭女王は倭国のどこにいたのかと思うのではないだろうか?

 倭人伝の編集には、皇帝の認めた倭国を、それに相応しいものにしようとする意図が働いていた。そして一番大きな国である邪馬台国のところに“女王之所都”を挿入し、女王/女王国としてまとめていった。

 伊都国を中心とした共立国と邪馬台国とは別の国であり、その後それぞれの歴史を歩んでいった・・・


 先人たちの著作やネット上の文献などをいろいろ参考にさせて頂きました。ありがとうございました。

					最終更新 平成26年6月15日