『神武東征における邪馬台国』

												白崎 勝

1、はじめに
 建国の過程が山の名に記録されていた。だれもが一度は同名の山が多くある不思議を感じたことだろう。この同名の山が新しい情報となり、邪馬台国問題を解決できるかも知れない。古代人の英知に感謝したい。記録されていた山は高取山・鷹取山など同名の「タカ型山」と、高尾山・高倉山の「高」の一字を変えた○尾山・○倉山の同種の山だった。きっかけは神奈川県に多く見つかる高取山・鷹取山は対で、日本武尊東征の足跡と仮定したことに始まる。
 この山名の記録に天孫降臨、神武東征、日本武尊東征の足跡が見つかった。ここでは調査結果から視点を「神武東征における邪馬台国」に置いて発表する。

2、調査方法
 1)調査した山 
   山はその麓の違いにより別名で呼ばれることがあるが、ここでは国土地理院地図に登録された山名で調査した。登録に無く検証の上、採用した山は西都原の高取山、宇佐の鷹取山、宇陀の高倉山などがある。
 2)調査方法
  ・ 二つの同名の山が対に置かれているようであれば、東征の進攻方向か、その先あるいは中間の何をはさんでいるか地図で確認し、記紀の記述と比較した。
同名の山が多数あれば地図にプロットし、結び東征の進攻経路か検証した。あるいは遺跡や伝承を調べ照合した。
調査対象の山を訪ね山が良く見える場所に立ってみた。そして地形や街道、鉱物の産出、神社、地名とのかかわりについて調べた。山奥の山では、古い部落の有無を調べ、古代の山名が残される環境だったかを調査した。

表1

3、調査結果の概要
  邪馬台国の位置に関心が高いのは、位置がわかれば建国の過程がおのずと見てくると考えるからである。この山名の調査で見えた最大の成果は、東征前に北部九州にあった高天原(邪馬台国にある倭の都)に出向き、神武兄弟が倭国連合していたことである。その後、日向に立ち戻り準備をした上での出発だったことが分かった。記紀が記す東征は神武を中心に一部を記録した内容ながら、事実であった。隠れた事実は、多くの人達が力を合わせ山陰、四国、丹波、熊野など、西日本を隈なく遠征したうえの建国だったことである。見えてきた建国の過程を図1のフローにまとめた。日本武尊東征においても神武東征と同名・同種の山に足跡を記録していたことから、古代人は日本武尊東征までを一連の建国の事業と認識していたことが分かった。

  建国のフロー 図1
図1

4、調査結果
 1)記録の階層
  東征を記録した山名は階層化されていて、綿密に計画し名づけたものであることが分かった。また方角の精度も高く技術者集団がいたことや、名づけた山の位置を記録していたことまで想像できる。 
● 第一層は高取山、鷹取山である。

  図2 ベクトルの概念
図2

 この二つの山は東征隊が高取山付近を出発し、鷹取山付近に進んだことを示すベクトル(矢印)であった。
 全国の「たかとり山」の分布を図3に示す。中国・四国・丹波あるいは東北の短い配置を見て、高取山と鷹取山が対であることは明らかである。そこで対と思われる高取山と鷹取山を結んで符号をつけている。
 奈良を境に西は神武東征、東が日本武尊東征の足跡である。ベクトルI・J・Kは瀬戸内海を進んだ東征隊が中国・四国・丹波に遠征したことを示している。これで東征に六年も要したと日本書記が記す年数も納得できる。

  図3 全国の「たかとり山」の分布
図3

● 第二層は高尾山・高雄山・鷹尾山である。
 第一層のベクトルを補助して、進んだ経路の概略を記録していた。高雄山は経路の区切りである。鷹尾山は分かれて進んだ隊が、合流した地点に名づけていた。
● 第三層は○尾山である。
 東征経路の要点に置いて、越えた峠や起こった事柄を記録していた。たとえば若松半島の岩尾山と舟尾山を結んだ先は、遠賀川河口の岡水門付近を指示し、東征のための岩船を留めた記録である。遠賀川上流の船尾山はこの山の木を切り出し、船を造った記録であろう。
 木の川出し地と思われる付近には、位登古墳が残り伊都国の人が采配したことがうかがえる。神武たちと倭国の人が合流した証しである。神武東征が宇佐に至る後、すぐには瀬戸内海を東に進まず、下関海峡を通り北九州市方面に向かったと記す、記紀の記述も倭国の人々との合流や船の築造のためならば納得できる。
● 第四層は「鳥型」「タカ型」の地名である。
 東征では山にのみ名をつけたのでなく、○尾や羽根など鳥型の地名を多く残している。邑々に名前をつけることも、建国の作業だったのである。高と鳥型の名が多いのは、高天原からやってきた、神の遣い鳥との認識があったのだろう。
 東征の経路に沿って高田の地名があることを、井上赳夫が「日本古代文明の謎」で発表している。灌漑稲作を伝えることも、東征隊の自給とともに建国に欠かせない作業と考えていたことが分かる。
● 別層 高塚山、高城山、高倉山などが見つかる。
 神武隊以外にもいくつかの隊があり、隊長は不明ながら足跡を高塚山や高城山に記録していた。高天原で倭国連合による東征を決断した当時の女王、台与こと豊受大神は、独自の高倉山に経路を記録し東征を追っていた。高天原を移した遷都の記録である。

2)東征出発の記録

  図4 九州のたかとり山
図4

 九州にある六対のベクトルは、東征出発の記録である。
 内三対で朝倉市に三角域Tを形成している。ベクトルFは神武兄弟が高千穂宮で東征を相談した後、Tに向かった足跡と考える。倭国との連合のためである。ベクトルFが短いのは、多用の混乱を避けるためか、邪馬台国の領域を意識したものと考える。
 ベクトルDとEは筑紫平野の人々が、Tに向かい集合したことを記録している。直方市の鷹取山G2に延びるベクトルGは、天草や島原の人々がT付近で合流した後、岡田宮方向に進んだ本隊を示している。この本隊のことが記紀に記されていないため、その後の議論を生んできた。東征の最中に亡くなった、長兄の五瀬命の隊だったため記載が無いのだろう。
 ベクトルHは、東征を決めた神武が筑肥山地を越え一旦、日向に戻った事を示している。東征の準備だろう。ベクトルSは、西都原の男狭穂塚古墳横にある高取山から宇佐神宮の南西にある鷹取山に延びていて、記紀が記す東征最初の行程である。西都原を出発したことが分かる。古事記は東征出発について、「すなはち日向より發たして筑紫に幸行でましき。故、豊国の宇沙に到りましし時、・・・」と記していて、順次式に読めばまず筑紫に行ったことになる。迂回先の「竺紫の岡田宮」は、異なる「竺紫」を使用し区別している。神武が向かった先の筑紫を三角域Tに比定できる。高天原から降った邇邇芸命から数代を経て、神武兄弟が生まれた。ようやく東征の時期を迎えて、高天原がある倭国の都に出向き、連合することは必然な行動であった。
 倭のクニグニが東征に参加したことが記録されていた。図5は北部九州のベクトル図に「○尾山」を追加している。魏志に記す一支国の壱岐と末櫨国比定地の唐津に「高尾山」が見つかる。伊都国比定地の糸島市は、同じ「タカ」型地名の「高祖山」があって、「世王在り」「一大率」がいたと記すように、特別な国であることが分かる。奴国・不弥国比定地付近には大宰府市の「高雄山」がある。これらのクニグニも点線のように進み、太宰府付近で本隊に合流したことが読み取れる。近くの米ノ山峠に笹尾山・竹の尾山を残して、合流後この峠を越えたことまで記録している。

図5

 その余のクニの参加は五島、武雄、鹿島に「○尾山」で記録している。「高尾山」でないのは、旁国としての区別であろう。真実を知る人のみが、できた内容である。以上の事柄は、魏志が記す250年ころの後、神武東征が行われたことが分かる。三角域Tは邪馬台国の都で、卑弥呼が住んだ所と考えた。またベクトルDとEでもって、筑紫平野全体が、邪馬台国の領域と記録したのであろう。
 伊都国の「高祖山」は高天原の祖・卑弥呼(天照大神)が、伊都国に生まれたことを記録したのであろう。図6は三角域Tを拡大した図である。約10㎞前後の辺の三角域は、筑紫平野の奥まったところで、扇状地形にある。扇状地奥には、天照大神を祀る美奈宜神社がある。底辺部には多重環濠が残る平塚川添遺跡がある。三角域中央にある三奈木は、各頂点にある三つの「木」がつく地名の高木、甘木、杷木が「高甘杷=高天原」と暗に示す地名と考える。

図6

 地図の中の把木付近の麻底良(まてら)山は、アマテラスのアとスを抜いた山名で、朝倉は麻底良を(あさくら)と呼んだ由来とも言われる。
 山頂には天照大神と父母・兄弟が祭られている。麻底良山を指し挟む高山(こうやま)と高倉山は、天照大神が亡くなった後の名づけと考えられて、高倉山を天照大神の後を継いだ豊受大神の足跡比定で前後関係は合致する。

3)東征経路の記録
 中国地方を進んだ東征の足跡である。いくつかの隊があり山陰、四国、丹波に遠征したことが読み取れる。
 ● 高尾山の足跡
 神武は瀬戸内海を船で進んだと記紀に記すが、並行して進んだ陸上隊の足跡が、山陽道に高尾山の直列で記録している。吉備と播磨の境の峠は高取峠で、付近に高雄山を残して新しい出発の区切りとしている。芦屋の鷹尾山は丹波に向かった隊の集合を待ち、決戦の河内に向かったことを記録している。孔舎衛坂での戦いに負けて熊野に巡った出来事や、陸上隊が中辺路を進んだことまで記録していた。上の地図には無いが二つの○尾山で、熊野での船の遭難の場所を七里御浜だと指し残している。
 ● 高塚山、高城山の足跡

  図7 東征経路の記録
図7

 神武の本隊と別動して山陰・四国・丹波を遠征した隊の足跡と考える。やはり河内での戦いに負けた後、和歌山から熊野に迂回し宇陀に進んだことが読み取れる。
 ● 高倉山の足跡

  図8 全国の高倉山の分布
図8

 図8は全国の高倉山の分布である。東北、北陸のグループは日本武尊東征での名づけである。その内、北陸の高倉山は、越国に向かった吉備武彦の名づけである。外宮にある高倉山は日本武尊が伊勢に倭姫命を訪ねた際の名づけと考えた。
 九州には二つの対が置かれている。高天原を出発した記録と、薩摩半島に向かい天孫降臨で建国の大きな一歩を記した邇邇藝命に、東征の報告と加護を祈った記録と考えた。山口からの山列が、遷宮を繰り返しながら進んだ豊受大神東遷の記録である。孔舎衛坂で敗退した報を受け淡路島に迂回し泉南に上陸している。淡路島の高倉山と泉南・和歌山の高倉山を結んだ線上に、男神社と竈山を置き戦いで亡くなった五瀬命の葬を記録していた。

  図9 五瀬命と高倉山
図9

 熊野で神武が女賊の毒気に萎えている時、高倉下(たかくらじ)が現れ、天照大神の名で神剣「布都御魂」が届けられている。これは豊受大神が竈山近くの元伊勢・濱宮に居られる時、神武苦戦の報に高倉下を遣わして神武を勇気づけた逸話と考える。高倉下の名が、遣いであることを表している。
 足跡の最後は、宇陀の高倉山である。ここで神武が国見をしたと日本書記は記している。訪ねると10分もあれば登れる小山で山頂には高倉下が祀られていた。途中には稲荷神社があり、豊受大神が祀られていた。山頂の木を払っても周りに同じような山があり、戦況を見れる山ではないことから、ここは高倉下の案内のもと豊受大神と神武が再会した所と考える。神武を大王に任じ、東征後の国造りを神武に託すなど国の先々を見た国見だったのである。

  纏向遺跡の「宮殿」跡地
写真

4)東征の終結
 高尾山や高塚山の足跡から、神武東征の到達地点が宇治であることが分かる。「この世界を治める」と宇治の名に建国の決意を込めたのだろう。神武と豊受大神二人の東征後のけじめを見てみる。
●神武のけじめ  いくつかけじめの作業をおこなっている。
 ①都を橿原と定め、宮殿を橿原に造営した。
 ②国譲りに功績のあった事代主神の子、五十鈴媛尊を召して正妃とした。
 ③橿原宮で即位し天皇の元年と定めた。
 ④東征に携わった人たちの論功行賞を行った。
 ⑤神々の祀りの場を鳥見山に設け、高皇産霊尊を祀った。
 ⑥腋上のほほまの丘に登り、国のかたちを望み国号について述べた。

  図10 豊受大神丹波への経路
図10

●豊受大神のけじめ
 記紀が記す東征の記述に豊受大神のことが無いので、どんな作業を行ったか立証することは困難である。しかし、遷宮を重ね天照大神の御魂をお連れして来て、新しい高天原を御魂にお見せしないはずが無いと考えた。神武が高皇産霊尊を祀ったのは、このけじめが豊受大神の作業だったためだろう。
 その痕跡を遺跡や神社、伝承に求めた。手がかりが『摂津国風土記』逸文の稲倉山にあった。「昔、豊宇可売の神が山で御饌(みけ)を献じていたが、故あって丹波の比遅麻奈韋(現在の比沼麻奈為神社と思われる)に還った」とある。東征後、摂津国にいたが丹波に遷った記録である。
 宇陀の高倉山から摂津国の高ケ尾山を経て比沼麻奈為神社のある久次岳が結ばれていて、丹波に移った記録と考えた。
 経路には式内社の天照御魂神社が点々と残されていて、ここで東征の加護を祈った神々に、建国の報告と感謝を捧げたと考える。橿原宮の真北にある宇治近くの稲荷山では、新しい高天原の安寧を祈ったのだろう。
 No1は巻向にある天照大神荒御魂を祀る他田坐(おさだにます)天照御魂神社である。ここで豊受大神は御饌を献じて建国の報告と感謝を捧げていたと考え訪ねてみた。小さな神社だったが、今話題の四棟の宮殿などの建物が見つかった纏向遺跡から100mほどの距離を置いて隣接していた。
 四棟は東西の軸線が一致しているとのことで、延長を試みると5度ほど傾いて天照御魂神社の神域に向いていた。(写真1)確証は無いが、豊受大神の行宮だった可能性が高い。
 集落の出現が突然であることや、前方後円墳の築造がこの付近から始まる状況も、北部九州から参加した人が慕う豊受大神の周りでのことであれば納得できる。
 No2の天照御魂神社は田原本町の鏡作神社の中にある。鏡は天照大神の依代なので、豊受大神が御饌を献じる対象である。東征での鏡作りは神武の指示で行われてたのでなく、豊受大神の心だったのだろう。この時、多くの鏡が作られ配られたと考える。
 ●その後の豊受大神と東征の実年代
 卑弥呼が亡くなった後、男王が立っていたならば倭国連合はできなかっただろう。控え目で歴史の表に立たず、倭国女王の位を捨てる覚悟の豊受大神だったから建国は成ったと考える。丹波に遷った豊受大神の消息が、丹後国風土記逸文の奈具社にある。待女たちともはぐれ、老夫婦に子になるよう請われて身を寄せていた。しかし、そこも追われて遂には邑々を漂泊する身になったと記している。豊受大神が外宮に祀られたのはずいぶん後の雄略天皇時代のことである。
 ここで重要なことは、丹波に向かった豊受大神が老夫婦に子になるよう請われる年齢だったことである。少なくとも45歳以前と想像できる。卑弥呼(天照大御神)の死亡年を、魏志倭人伝の記述より248年と想定し、その後の13歳の台与(豊受大神)共立を250年と想定する。すると日本書記が記す辛酉(301年)の神武即位は豊受大神は64歳の高齢となっていて、丹波での年齢状況と合わない。
 台与45歳の西歴は282年(=250+(45-13))である。 晋への遣使が265年(台与28歳)頃以降、途絶えるのは台与が東遷の旅を続けていたためであれば納得できる。よって東征の実年代を265~282年の間に絞ることが可能である。東征が準備を含めて7年間を要したとすると神武の即位は272~282年に絞られる。言い換えれば277年±5年である。

神武東征経路のまとめ
 スペースに制限があり、多くの○尾山に記録した経路や、事柄は記述できなかった。すでに「たかとりが明かす日本建国」の書で発表しているので参考に願いたい。図11は○尾山などの足跡を基に、神武東征の経路をまとめたものである。豊受大神の経路は入っていない。

  図11 神武東征経路のまとめ
図11

5、邪馬台国の方角
 一支国・末櫨国比定地にある高尾山を結んで南北に延長を試みた。すると狗邪韓国比定地の金海から高千穂峰を経て串間で太平洋に抜けていた。
 串間では直径30cmもある璧が出土していて、どうしてここに残したのか謎になっていた。串間の串はこの方角の「奇し」からと思える。邇邇藝命が高千穂のくしふる峯で詔した 『此地は韓国に向ひ、・・・。故、此地は甚吉き地』の言葉もこの方角について言ったのだろう。
 この直線は152度で一支国付近の夏至の日出が62度なので、その差は90度になる。夏至の日出を東とした時の南北線である。「魏志倭人伝の方角問題も解けてきた。
 魏志倭人伝は対馬国から一支国への渡海を、「また南に一海を渡る」と記す。対馬の東端から南下しても壱岐は外れる。この152度の方位を南と記したのだろう。紀行文の途中から方角基準を変えては位置が分からなる。そこで上陸後も、この基準で行程の方角を記録し続けたと考える。この太陽の南天を南としない基準が、その後の混乱を招いてしまった。

  図12 邪馬台国の方位
図14

 図12を傾けて見てもらいたい。「東南伊都国」「東南至奴国」「東行不弥国」の表現も152度基準であれば、それぞれの比定地、糸島市、春日市、宇美町で合ってくる。さらに、不弥国から第2の南北線を想定すると、北に海の正倉院といわれる沖ノ島が見つかる。「南至投馬国」の西都原も該当し、ここを都とした理由も高天原の奇し日の南だったからであろう。「南至邪馬台国」、「其南有狗奴国」と記す朝倉の高天原、狗奴国比定地の菊池市がすべて合致する。
 邪馬台国にあった女王の都が朝倉市と分かれば、距離問題も自ずと解ける。また投馬国の都が西都原と分かれば、水行問題の手がかりとなる。しかも神武東征では宇佐津彦が急いで「足一つあがりの宮」をつくりもてなした故事から、宇佐地方が倭国の領域で無かったことが分かる。九州の西海岸沿いの水行と分かる。天草までが倭国で、その南の薩摩半島も邇邇藝命が建国した投馬国内なので、他国の領域を通らずに行ける。

6、おわりに
 安本美典、石井好*1は朝倉を邪馬台国の都、そして東征はあったと発表している。いずれも今回と同じように地名をグループとして研究し同じ結論を得ている。山名に記録した建国の足跡を発見できたのは、近年のネットの地図が拡大・縮小自在で、画面の上で直線を自由に引けたことによる。技術革新が古代史研究を変えていたのである。いずれ発見はあっただろうが、今を無為にせず発見できたことを喜びたい。
 古代人が遺したこの建国の足跡に沿って、この時代の遺物を検証しなおす必要がある。大変だが時間をかけても行わなければならない。
 世界の片隅でのやや遅れた建国ながら、今につづく素晴らし建国だった。古代人の英知を受け継ぎ、人として、国として進歩していきたいものである。

   参考
 *1 石井好書: 邪馬台国 問題の解決 第一巻 弥生時代~古墳時代の金属器の概観
    以上

					最終更新 平成26年6月1日