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世界文化遺産『百舌鳥・古市古墳群』推薦へ

    日テレNEWS24より(2017年7月31日)
         文化庁は再来年の世界遺産の登録を目指す候補に、大阪府の『百舌鳥(もず)・古市古墳群』を決定した。  文化庁は31日、再来年の世界文化遺産の登録に向け、推薦する候補を検討した。  検討されていたのは、『北海道・北東北を中心とした縄文遺跡群』、新潟県の『金を中心とする佐渡鉱山の遺産群』、 大阪府の『百舌鳥・古市古墳群』の3件で、31日午後、『百舌鳥・古市古墳群』に決定した。  『百舌鳥・古市古墳群』は、日本最大の古墳として知られる全長486メートルの仁徳天皇陵などを含む 大阪府の複数市にまたがる約50基からなる古墳群。  古墳の大きさや配置には、4世紀から5世紀の政治的・社会的な支配体制を示す証拠が残っていて、 他の候補地と比べて世界に普遍的な価値が理解されやすいことなどが決め手となったという。 日テレNEWS24の記事

福岡・沖ノ島 世界遺産に 8資産すべて登録

    日本経済新聞より(2017年7月9日)
          【パリ=白石透冴】国連教育科学文化機関(ユネスコ)の第41回世界遺産委員会は9日、 「『神宿る島』宗像・沖ノ島と関連遺産群」(福岡県)の世界文化遺産への登録を決めた。 日本政府が推薦していた全資産が登録された。国内での登録は5年連続、21件目。 5月にユネスコの諮問機関のイコモスが資産の半分について除外勧告をしていたが、一転して一括登録となった。   ポーランドの古都クラクフでの審議で決めた。 福岡県宗像市の沖ノ島と3つの岩礁(小屋島、御門柱、天狗岩)のほか、 除外勧告を受けていた宗像大社沖津宮遥拝所、同中津宮、同辺津宮、新原・奴山古墳群(同県福津市)が一括で登録された。 全資産の登録を求めてきた地元関係者にはうれしい結果となった。  イコモスは5月、「古代祭祀の記録を保存する類いまれな収蔵庫」と沖ノ島の価値を認める一方、 宗像大社辺津宮など4資産は「国家的なものであり、地域や世界的な価値とは認められない」と除外を勧告していた。 日本政府や福岡県など地元自治体は全資産の登録を求めていた。 福岡県宗像市の沖ノ島。手前の岩礁は(左から)小屋島、御門柱、天狗岩=共同 日本経済新聞の記事
  宝塚月刊雑誌「歌劇」2017年6月号に、当会の鷲崎会長のインタビュー記事が下記のような形で掲載されました。
出典:雑誌『歌劇』2017年6月号 ㈱宝塚クリエイティブアーツ    ○特別企画 第118回○ ワールドワイド オブ タカラヅカ   Worldwide of TAKARAZUKA このコーナーでは、宝塚劇場で上演される作品のモデルとなっている国々や時代背景、歴史的人物などにスポットを当て、 専門家へのインタビューや、寄稿等を取り混ぜ、様々な切り口で紹介します。 花組宝塚大劇場公演 「邪馬台国の風」            ~ここまでわかった!?  邪馬台国の謎に迫る~ ●本作の舞台となる邪馬台国。その実情を知るにはいくつもの謎があります。 最新の古代史研究はいまどこまで邪馬台国の謎に迫っているのでしょうか? 謎に包まれる古代史  日本は長い歴史と伝統を持つ国ですが、その国の成り立ちや歴史の始まりについては謎に包まれています。 日本という国、日本人という民族はいつ、どのようにかたちづくられていったのか、はっきりとは知られていないのです。  謎の多い日本の古代史を読み解くうえで鍵となっているのが邪馬台国です。 邪馬台国の解明が、まさに日本の古代史の解明につながると期待されているのです。  そもそも邪馬台国はどこにあったのか――。研究者の間では、明治43年(1910年)に、「九州説」と「畿内(近畿)説」の論争がありました。 以来、100年を経過してもこの論争はなお決着していません。また他の諸説も入り乱れている状況です。  ただし、従来の古代史研究は、魏志倭人伝などの文献に基づいた文献史学と、遺跡や遺物に基づいて研究する考古学が中心でしたが、 近年ではここに年代測定法(年輪年代法、炭素14年代法など)を駆使する自然科学による研究手法が本格的に加わってきています。 これら文献史学・考古学・自然科学の三本柱が一体となって、総合的な古代史研究が今後は一気に進むものと期待が高まっています。 魏志倭人伝とは
 魏志倭人伝は、中国の史書「三国志」の中の「魏書東夷伝」の倭人の条の俗称です。 三国志は3世紀の後半に成立したとされ、文字通り魏・呉・蜀、三国の歴史を編集したもの。その内「魏書」は全30巻で、「東夷伝」は最後の巻に収録されています。 その中にある「倭」に関する記述は2~3世紀の時代のことにあたり、三国志の成立の時代と接近していることから、かなりの史実がそこに見られるものと考えられています。  魏志倭人伝には、朝鮮の帯方郡から倭の諸国に至る道程や景観、風俗、物産、政治、社会などの様子が書かれています。 また邪馬台国や女王の卑弥呼のことも、つぶさに記述されています。卑弥呼が「共立」されて王となったことなど、貴重な情報を提供しています。 したがって、この魏志倭人伝をどう読むかが、邪馬台国の謎の解明に大きく関わってくるのです。

インタビュー ここからは、邪馬台国研究者の全国組織「全国邪馬台国連絡協議会」の鷲崎弘朋会長に、邪馬台国や卑弥呼について現在わかっていること、 そして今後の研究への期待について語っていただきます。 ○邪馬台国論争は江戸時代からあったそうですね。論争のポイントはどこに?  江戸中期の政治家で学者の新井白石が邪馬台国研究の先駆者でした。それを継承したのが江戸中後期の国学者、本居宣長です。 ポイントは「邪馬台国の位置」と「卑弥呼はだれか?」ということになります。  邪馬台国の位置については九州説と畿内(近畿)説の二大説があります。 なぜ説が分かれるかというと、史料である魏志倭人伝(以下、倭人伝)をまともに読むと、 邪馬台国は九州を突き抜けて太平洋の南の海の中にあることになってしまうからです。 倭人伝に書かれたルートをたどっていくと、佐賀県唐津あたりまではいいのですが、そこから書かれている通りに南に行くのか、 あるいは本当は南ではなく東と書くつもりだったのではないかと説が分かれます。 さらには書かれている距離の単位も当時の中国で使われた1里=約430メートルではなく、 1里=80~100メートルの「短里」だったのではないかと推理が分かれます。 その結果、「九州から東へ水行する(水上を船で行く)と邪馬台国は畿内大和だ」とか、 「短里で計算して南に行けば邪馬台国は九州内だ」などと解釈が分かれるわけです。  新井白石は当初畿内説を唱えていますが、晩年に九州説に変わります。本居宣長は最初から九州説でした。 以来300年近く議論されてきた邪馬台国の位置論は、文献からの九州説、考古学からの畿内説といわれています。 明治~大正~昭和の約120年間は、邪馬台国とほぼ同時代に記録され、また最古の文献である倭人伝を読み解く九州説がやや優勢でした。  これに対し、畿内説は、奈良県を中心に数多く発見された「三角縁神獣鏡」をその根拠としています。 倭人伝に書かれている、卑弥呼が魏国から受領した「銅鏡100枚」がこれにあたるという考えです。 また「箸墓」などの巨大古墳が奈良県を中心に分布するなど、考古学の立場から畿内説を主張しています。 ただし、三角縁神獣鏡は日本で近畿を中心に560面以上出土しているのに、卑弥呼に与えた側の中国本土からは1面も出ていません。 そこで近年では奈良県内から出土した「画文帯神獣鏡」が「卑弥呼の鏡」だとする説が強まっています。 ○邪馬台国研究の現状と今後は?  畿内説の中では奈良県(畿内大和)説が圧倒的に多く、纏向遺跡や唐古・鍵遺跡を邪馬台国の中心地に想定しています。 九州説は候補地が多く、福岡県の朝倉市、佐賀県の吉野ケ里、福岡県の山門郡、福岡市、前原市、長崎県の島原半島、 熊本県の山鹿市、熊本県の菊池市、大分県の宇佐市、宮崎県の西都市、そして鹿児島市など九州全域に広がっています。  また、卑弥呼時代は九州にあったが、その後を継いだ女王台与(壱与)が畿内大和へ移動したという「邪馬台国東遷」説もあります。 それ以外では、吉備(岡山)説、出雲説、四国阿波説、はては海外説(ジャワ、エジプト)などがあります。まさに百家争鳴という状態です。  最近は畿内説が強まっていて、邪馬台国の中心地は纏向遺跡(奈良県桜井市)だと主張されています。 これには木材や遺跡などの年代を科学的に測定する年輪年代法と炭素14年代法の影響が大きいですね。 2009年には、纏向遺跡の中にある箸墓古墳周辺から出土した土器に付着していた炭化物が炭素14年代法で測定されました。 その結果を受けて、国立歴史民俗博物館は、古墳がつくられたのは240~260年として、これを卑弥呼の墓と発表しました。  ただ、土器付着炭化物は実際より古い年代が出るとの指摘もあります。 また、現在、纏向遺跡の大型建物跡から出土した「桃の種」2769個の炭素14年代が測定されつつあります。 卑弥呼の居館とされるこの建物は3世紀前半から中頃まであったと推定されていますが、桃の種の年代によってはその推定が崩れてしまい、 畿内説は一転その論拠が弱まることになりかねません。 逆に倭人伝に書かれている矢じり、中国本土や朝鮮半島からの搬入品やその影響を受けた遺物が多く出土する九州にこそ 邪馬台国があったとする九州説が勢いを増すかもしれません。 いずれにせよ、新たな測定結果で邪馬台国の位置解明に近づくのではと大いに期待しています。 ○邪馬台国と卑弥呼の時代、日本はどのような状態にあったのでしょう。  倭人伝によると、倭国はもともと男子が王で70~80年間続いていました。 2世紀後半(170年頃~190年頃?)に大乱が起こり、小国分立状態となり、そこで約30ヵ国が卑弥呼を女王に共立し、 倭国が成立したということです。  倭国の南には狗奴国があり、卑弥呼と対立していました。また、倭国の「東・海を渡る1000里」には国々があり、 みな「倭種」であると倭人伝に書かれています。 このように卑弥呼時代の日本は統一国家ではなく、①倭国、②狗奴国、③倭種の国々に分かれていたと考えられます。  倭人伝には、「女王国から北には「一大卒」を置き、諸国を監視させた」「国と国との間で交易が行われ、 余ったものと足りないものを交換していた」「租税を納めるための倉庫があった」などの記述があります。 そこからは邪馬台国が、政治・経済の統制も整った「国家」であったことがうかがえます。 ○卑弥呼はどんな人物だったのでしょう。また当時の人々の暮らしとは?  卑弥呼はシャーマン、巫女でした。彼女の治世は非常に長くて、60年とか場合によっては70年あったかもしれません。 晩年は70~80歳でしょうから一口に卑弥呼像といっても初期と末期とでは全然イメージが違うことになります。  卑弥呼は一体だれなのか?それは大きな謎です。 明治43年に、東大の白鳥庫吉教授は古事記・日本書紀に出てくる神話の天照大神と卑弥呼を比較し、 ①女性である、②独身である、③弟がいる、④宗教的な権威者である、⑤卑弥呼死後の争乱と思われる記述が 古事記・日本書紀にあるといった理由から「卑弥呼=天照大神」説を唱えました。 一方、京大の内藤湖南教授は、宗教的な性格を持った女性皇族の倭姫命こそが卑弥呼だと主張しました。 また、箸墓の埋葬者とされる倭迹迹日百襲姫(ヤマトトトヒモモソヒメ)、古事記や日本書紀に登場する神功皇后や熊襲の女酋長説があります。  倭人伝には邪馬台国の風俗、人々の暮らし、産物、動植物など、細々と記されています。 「顔や身体に入れ墨をしている」「稲を植え・麻・蚕から麻布・絹織物・綿織物を作っている」「牛・馬・虎・豹・羊はいない」 「武器は矛・楯・木弓」「鉄や骨の矢じり」「倭国は温暖で夏冬ともに生野菜を食す」「飲食は高坏を用い手で食べる」 「人が死んだ時は棺に入れるが外を囲う箱はない。土を盛って塚を作る」「租税を取り立て、納める倉庫がある」 「それぞれの国に市がある」・・・・などなど。狗奴国との戦争を除けば、邪馬台国は実に平和的イメージで生き生きと描写されています。
▲祭祀を行う卑弥呼の宮室。
 この周囲には政所、倉庫群、物見櫓、鍛冶工房、
 宿泊施設があり、さらに兵士や侍女の住居があった。
 卑弥呼の館(復元ジオラマのクローズアップ)  所蔵・写真提供 大阪府立弥生文化博物館
○最後に本作「邪馬台国の風」にメッセージをお願いします。  卑弥呼は独身で、弟が政治を補佐していました。 また「一人の男子」が、食事の世話や臣下からの言葉を女王に伝えるために女王の居所に出入していたと倭人伝に書かれています。 この「一人の男子」と弟は別人の可能性が強いと思います。とすると、「一人の男子」とは何者か? 今回の公演ではヒロイン「マナ」が卑弥呼に相当し、相手役として「タケヒコ」が登場します。 この「タケヒコ」のモデルが「一人の男子」なのか?興味深いところですね。  宝塚歌劇は華やかな世界ですが、古代史の中の卑弥呼も同様に華やかな存在です。 卑弥呼は、侍女1000人に仕えられ約30ヵ国を統治していました。 また、239年には魏国に使者を派遣し「親魏倭王の金印」「銅鏡100枚」を授与されるなど、魏呉蜀の三国時代、激動の東アジアにあって存在感を放ちます。 この邪馬台国と卑弥呼は日本国家成立の謎を解く鍵で国民的テーマなのです。 日本という国はどういう過程で建国されたのか、それは私たち日本人のアイデンティティに関わる重要な問題です。 その邪馬台国と卑弥呼を取り上げる今回の公演は大変意義深く感じています。 若い人を含め、多くの方々が日本の古代史に興味を持っていただけるとうれしいですね。
PROFILE
鷲崎弘朋
(わしざきひろとも)


邪馬台国の謎を追う研究者や専門家が集う「全国邪馬台国連絡協議会」会長。日本考古学協会会員。 著書に「邪馬台国の位置と日本国家の起源」(新人物往来社)のほか論文多数。

松帆銅鐸、紀元前に埋納 定説より150年古く

    神戸新聞より(2017年6月6日)
         南あわじ市で一昨年春に出土した松帆銅鐸(7個、弥生時代前期末~中期前半)が、紀元前4~前2世紀に埋められたとみられることが科学分析で分かり、 同市教育委員会が6日発表した。銅鐸の埋納年代が、科学的に裏付けられたのは初めて。 従来考えられていた年代より150年以上古く、紀元前にさかのぼる可能性を明らかにした初めての例で「考古学史上、画期的な成果」と注目が集まる。  松帆銅鐸は、過去4番目に個数が多い埋納例。 3組6個は、大きい銅鐸の内側に小さい銅鐸をはめ込んだ異例の「入れ子状態」だった。 内側の銅鐸に詰まっていた砂を除去したところ植物の混入が確認され、放射性炭素年代測定法による科学分析が可能になった。  分析サンプルは計8点。4号銅鐸とそれに伴う舌(振り子)から採取した5点のうち、4点が紀元前4世紀中頃~前2世紀中頃の結果を示した。 さらに古い年代を示した2号銅鐸と7号舌のサンプルは、信頼性を欠くデータがあるという。  植物はイネ科の茎やススキ属の葉、種類不明の樹皮など。混入状況の調査結果から、分析年代は埋納時期を示すと考えられる。  「銅鐸が早い段階にまとめて埋められたのは、淡路・松帆が弥生人にとって精神的にも特別な場所だったことを裏付けるのではないか」と 兵庫県教育委員会の山下史朗文化財課長は推測する。  松帆銅鐸調査研究委員会委員の森岡秀人・関西大大学院非常勤講師は、発見当初から最古の埋納例となる可能性を指摘しており 「想定した紀元前の年代値発表に驚いた。埋納は何段階もあり、松帆は最も古い段階で、弥生中期中頃と考えてよいのでは」との見解を述べた。 (田中真治、堀井正純) 【放射性炭素年代測定法】動植物が内部に取り込んだ放射性炭素C14が死後、次第に減少することを利用した年代測定方法。 出土した木炭や骨、貝殻などのC14の量を計測する。 【松帆銅鐸】2015年4月に南あわじ市松帆地区から採取したとみられる砂を工場で処理中、7個が見つかった。 音を鳴らす棒「舌」がすべてに伴うのは異例。ひもの一部も残存し、木などにつるしての使用を初めて裏付けた。
   松帆4号銅鐸 松帆4号銅鐸の舌に付着した樹皮とみられる植物片(南あわじ市教育委員会提供) 松帆4号銅鐸の内側に付着した樹皮とみられる植物片(南あわじ市教育委員会提供)
神戸新聞の記事

淡路島で発見「松帆銅鐸」、島根2遺跡と同じ鋳型

    日本経済新聞より(2016年10月27日)
         昨年4月に淡路島(兵庫県南あわじ市)で見つかった弥生時代の青銅器「松帆銅鐸(まつほどうたく)」7個のうち2個が、 島根県の2遺跡から出土した銅鐸と同じ鋳型(同笵=どうはん)で作られたことが分かり、 同市教育委員会と奈良文化財研究所が26日発表した。「当時の青銅器文化や社会状況を明らかにする重要な資料」という。  新たに同笵と分かったのは松帆3号銅鐸(高さ31.5センチ)と同5号(23.5センチ)。 それぞれ加茂岩倉遺跡(島根県雲南市)の27号、荒神谷遺跡(同出雲市)の6号と同じ文様や図像を持ち、 鋳型についていた傷の痕などが複数箇所で一致した。  松帆の2号、4号も、江戸時代に淡路島で見つかった銅鐸1個と同笵と分かっている。 調査した同研究所の難波洋三客員研究員は「残る3個も、同笵のものが存在するのでは」と推察。材料の産地分析などを進める。  加茂岩倉遺跡では銅鐸39個が出土。うち26個は北陸や近畿などに同笵のものがあった。 荒神谷遺跡では銅剣・銅矛374本と共に銅鐸6個が出土し、うち2個が京都などに同笵のものがあった。  兵庫県立考古博物館の和田晴吾館長は「製作地は不明だが畿内を中心に広域の流通ルートがあり、 淡路島が重要な交流拠点だったのでは」と話す。 日本経済新聞の記事

会報「邪馬台国新聞」第5号が発行されました。<2017年5月22日)

会誌「邪馬台国新聞」第5号は全部で24頁です。2頁以下は項目だけ記載します。                 【各支部活動報告】 近畿・東海支部活動報告 支部長井上修一             中国・四国支部活動報告 支部長田中文也         【事務局からのお知らせ】港区への事務所移転         【会計局からのお知らせ】個人会員の年会費納入の変更         【顧問投稿】今回は「私の年代論」をテーマ設定して投稿をお願いしました。               壱岐一郎(元九州朝日放送キャスター) 私の恩師②「人のやらない研究を」               大谷光男(二松學舎大学名誉教授)   年代学雑感               小林敏夫(大東文化大学名誉教授)   邪馬台国(女王国)の行方               藤盛紀明(考古学を科学する会 主宰) 私の年代論               宝賀寿男(日本家系図学会会長)    時計と暦の話し               安本美典(邪馬台国の会 主宰)    全体を鳥の目で見る技術を               柳田康雄(元國學院大學教授)     私の年代論               島津義昭(元九州考古学会会長)    中九州の邪馬台国時代の土器型式         【会員投稿】尾関郁  『神武東征物語』の輸入の元を見っけ!-ネタバレだーっー         【わが図書を語る】  河野俊章『予言 大隅邪馬台国』2008年 牧歌舎(1000円)                    河野俊章『古日向邪馬台国』2016年 牧歌舎(700円)         【第4回会員研究発表大会概要報告】               石井 好 考古学会は百年新しく時代を間違えている               江本 精  生殖医学の観点から古代史を探る               木本 博  『魏志倭人伝』を統一基準で読む               金田弘之 「水行十日陸行一月」の経路               菊池昌美 史料を信じよう         【第5回会員研究発表大会概要報告】               米田喜彦 『4世紀の紀年論』               児玉 眞  反時計回り連続説               福島 巌  天照神と首露王は同一人物               大下 巌  邪馬台国と女王卑弥呼を尋ねて        

奈良・大和6号墳 鉄鋌、国内で製作か 「副葬品に急造」

    毎日新聞より(2017年5月11日)
         宮内庁が奈良市の円墳「大和6号墳」(直径約30メートル、5世紀築造)から出土した鉄板「鉄鋌(てってい)」を調査したところ、 国内で製作された可能性があるとの調査結果を発表した。 朝鮮半島で作られたとの見方が有力だった。同庁は、被葬者の権威を示す副葬品として作られたとみている。  大和6号墳は、天皇陵や皇族の墓の可能性がある「陵墓参考地」の一つであるウワナベ古墳の近くにあった古墳。  鉄鋌は薄い長方形の鉄板で、両端が広がった形状をしている。 国内では北部九州から近畿にかけて5世紀の古墳などで出土しており、大和6号墳の909点は国内で最多。 朝鮮半島では南部の古墳でも多く見つかっており、5世紀に築造された韓国・慶州市の皇南大塚墳では約1300点出土している。 鉄鋌自体に道具としての用途はなく、武具や農具を作る素材だったと考えられている。  国内では5世紀に鉄鉱石などから鉄を取り出す製鉄技術はなかったとされることから、朝鮮半島で製作されたものが輸入されていたとの学説が有力だった。  宮内庁は大和6号墳から出土した鉄鋌のうち大型の274点を詳細に調査。100点は製作状況が判明した。 そのうち91点については、複数の鉄材を接合して作られたものであることを突き止めた。 これらは、余った鉄のかけらなどを集め、国内で鉄鋌の形状に仕上げた可能性が高いという。  宮内庁は「副葬品として被葬者の埋葬に間に合わせるために急造されたものと考えられる」としている。  古墳には鏡や武具、農具などが副葬品として納められることが多く、その量や内容は被葬者の地位などを反映していると考えられている。 鉄鋌も被葬者の地位を示す副葬品として埋葬された可能性がある。【高島博之】 ◇研究進展を期待  白石太一郎・大阪府立近つ飛鳥博物館館長(考古学)の話 鉄鋌の用途については貨幣の役割があったとの説もあり、分からない点が多い。 宮内庁が大和6号墳から出土した鉄鋌の詳細な調査データを公表したことの意義は大きく、考古学的な研究が進むことを期待したい。 鉄材を接合した鉄鋌(宮内庁提供) 宮内庁が復元した鉄鋌の出土状況(同庁提供) 毎日新聞の記事

飛鳥最大級の方墳と判明…最高権力者を埋葬

    毎日新聞より(2017年3月1日)
        橿考研が発表  方墳の濠(ほり)とみられる巨大な石溝が見つかった奈良県明日香村の小山田遺跡で、 新たに石室への通路跡が見つかったと県立橿原考古学研究所(橿考研)が1日発表した。 一辺約70メートルと推測され、飛鳥時代(7世紀)最大級の方墳と確定した。 小山田古墳について橿考研は「出土した瓦片などから640年ごろの築造とみられる。 当時の最高権力者の墓」と指摘。被葬者は舒明(じょめい)天皇か大臣(おおおみ)の蘇我蝦夷(そがのえみし)に絞られた。  橿考研は2015年1月、県立明日香養護学校の校舎建て替えに伴い、 長さ約48メートル、上部幅約7メートル、底面幅約3.9メートル、残存する深さ約1メートルの石溝を発見したと発表。 墳丘の斜面に板石を階段状に積む特異な構造も注目された。 石溝は方墳の北辺と考えられ、橿考研は昨年12月から溝の南約60メートルの地点を発掘していた。  調査の結果、東西に幅約2.6メートルの間隔を空けて、東西約1.5メートル、南北1メートル以上の巨石2個が 抜き取られた跡を発見。両石の間には幅約20センチ、深さ約30センチの石組み溝が確認された。 二つの巨石は横穴式石室の玄室と外部をつなぐ通路(羨道(せんどう))の両壁の基底石で、溝は通路床下の排水溝とみられる。 さらに北に約10メートル離れた場所にも抜き取り跡が見つかり、通路が北に延びていることも分かった。  通路を方墳の中心軸とし、これまでの調査で推定される北西隅との位置関係から橿考研は一辺約70メートルと判断。 推古天皇陵とされる山田高塚古墳(大阪府太子町、長辺約60メートル)、 蘇我馬子の墓とされる石舞台古墳(明日香村、一辺約50メートル)を上回った。  また、古墳の盛り土からは、形式で630年前後と考えられる軒丸瓦の破片が出土。 墳丘斜面の階段状の石積み方法は舒明天皇が643年に改葬された段ノ塚古墳(奈良県桜井市)と似ている点と併せ、 橿考研は小山田古墳の築造時期を640年ごろに絞り込んだ。 石溝を埋めた土中に含まれる土器の年代から古墳は7世紀後半には廃絶したと考えられ、築造から数十年のうちに役割を終えたとみられる。  橿考研の菅谷文則所長は被葬者について「642年に最初の陵に葬られた舒明天皇が候補」と説明。 一方、同時期に天皇に匹敵する強権を誇った蝦夷が642年に築いた墓と考える研究者もいる。  現場は埋め戻されており、現地説明会はない。【矢追健介】 舒明天皇(593~641年)  在位は629~641年。蘇我氏との血縁がない敏達(びだつ)天皇を祖父に持ち、推古天皇の後に即位。翌年には最初の遣唐使を送った。 639年に百済川のほとりに大宮と大寺を造るよう命じ、宮を移した後に死去。 642年に滑谷岡(なめはさまのおか)に葬られ、その翌年、押坂(おしさか)陵に改葬された。 改葬墓は段ノ塚古墳(奈良県桜井市)と考えられている。 蘇我蝦夷(?~645年)  蘇我馬子の子。父の死後、推古、舒明、皇極天皇の時代の大臣となった。 日本書紀によると、生前の642年に子の入鹿との「双墓(ならびばか)」を造って自らの墓を大陵と称し、 入鹿に紫冠を授けて大臣に擬すなど権勢を振るった。 645年の乙巳(いっし)の変(大化の改新)で入鹿が中大兄皇子・中臣鎌足らに殺され、屋敷に火を放ち自害したとされる。 小山田遺跡の方墳石室跡=奈良県明日香村で、大西岳彦撮影 毎日新聞の記事

奈良県橿原市の新堂遺跡:古墳時代中期の椅子出土 奈良で古墳時代の椅子発見 木目が確認できるもの珍しく

    THE PAGE(Web)より(2017年2月27日)
        製作当時の姿がほぼ残る木製椅子の出土、全国的に珍しい  奈良県橿原市の新堂遺跡の発掘調査に伴う特別遺物見学会がこのほど、同市内のクリーンセンターかしはらで開かれ、 古墳時代の優雅な椅子が公開された。製作当時の姿がほぼ残り、美しい木目も確認できる木製椅子の出土は、全国的にも珍しい。 見学会は3月4日にも開催される。 熟練の技が冴える優雅な木製椅子 公開された古墳時代の木製椅子。 優雅な仕上がりで近くで見ると木目も美しい=奈良県橿原市のクリーンセンターかしはらで  見学会は歴史に憩う橿原市博物館で開催されている新堂遺跡発掘調査速報展に関連して実施された。 公開された木製の椅子は、5世紀ごろの古墳時代中期の河道跡から、大量の遺物とともに出土。 今から1500年ほど前に作られた腰掛タイプの椅子だ。  素材は硬い材質のコウヤマキ。生活用具として普段使いされる事例は少なく、古墳に埋葬する木棺などの特殊な用途で使われていたため、 椅子も儀礼の場で使用された公共財ではないかと推定される。  長さ35センチ、幅17・5センチで、高さは12センチ。 腰を下ろす座面の中央が窪み、ゆるやかに反り上がった後、両端部では逆方向にカーブを描いて装飾を施す。 一木造りで木目が美しい。脚部を含めた全体のバランスもいい。確かな美意識と熟練の技能が冴える古墳時代の職人芸だ。 椅子の主は巫女さんか神様か 初期須恵器や韓式系土器も多数出土 椅子であれば、座ったのは誰か。 発掘調査を手掛けた橿原市教育委員会生涯学習部文化財課の石坂泰士さんは「人物像は特定できない」と前置きして、次のように話す。  「椅子の大きさは、現代人が、お風呂で使う風呂椅子のサイズに近い。 人間が座れないことはありませんが、余裕を持って座るには、やや小振りでしょうか。 巫女さんが座ったかもしれませんし、人間ではなく神様の座る席として用意された可能性も考えられます。 新堂遺跡の周囲に広がる古墳群などへも視野を広げ、地域でどんな人たちが暮らし、どのような社会が構成されていたのかを探る作業を通じて、 椅子の役割なども明らかになってくるかもしれません」  見事な椅子ながら、作り手も椅子の主も、容易には特定できない。 少しずつなぞに迫るミステリアスなところが、古代史研究の妙とも言えるだろうか。 椅子をのぞき込んで、「かわいい」とつぶやいたのは、考古学を学ぶ女子大生。 「古代史は限られた史料を手掛かりに想像するところが楽しい。新しい出土品で、歴史が一新するだいご味もあります」と語り、 椅子が使用された当時に思いを馳せていた。 発掘調査担当者による成果報告  見学会は3月4日にも開催(午後1時半から2時半まで)。 木製椅子の他、初期須恵器なども公開される。同博物館の速報展は1階ロビーで6月30日まで開催中。 同博物館と見学会会場のクリーンセンターかしはらは隣接している。詳しくは同博物館の公式サイトで。 (文責・岡村雅之/関西ライター名鑑) THE PAGE

「ブラタモリ」別府編 ~巨大温泉都市・別府はどうできた?~

  2017年2月11日(土)NHK総合TV 夜7:30~8:15    再放送 2月21日(火)深夜        当会会員 角田彰男氏 より 拙著第2作「炭焼長者黄金の謎」原書房(重版)が大分県でベストセラーを頂いたことが契機で、 別府の金鉱所有者社長、生永様により新設された別府温泉の新名所「金坑道天然サウナ」が NHKの「ブラタモリ」の同温泉での散歩地の1つに選ばれ、昨秋に現地取材・収録され、この2月に放映される運びとなりました。 京都大学名誉教授 由佐悠紀先生の御助言を頂き科学的に別府温泉の成り立ちを調査して豊富な金鉱の成立を明らかにし、 おかげで長年謎だった九州大分の伝説の謎解きに成功し、その成果を執筆し出版頂いた本の、 その反響として実際に現地から別府の新名所が誕生した事は、推理に用いた科学的論証が有効だったと存じます。 全邪馬連の皆様、宜しくお願い申し上げます。
 鶴見山麓の別府金山の坑道に自然に発生する温泉蒸気を利用して2015年新設された「金坑道天然サウナ」です。 <角田彰男氏(写真右)のプロフィール> 歴史推理作家、日本ペンクラブ会員、全国邪馬台国連絡協議会会員、多元の会会員

「ザ・プレミアム 英雄たちの選択新春スペシャル  “ニッポン”のあけぼの 古代人のこころと文明に迫る」

  2017年新春1月3日(火)にNHKにてBSプレミアム夜9:00~11:00 2時間スペシャルが放映されました。       (注) 全国邪馬台国連絡協議会はこの番組に資料提供の形で制作協力しました(ただし資料提供のみ)。    この番組の最後に資料提供機関として字幕に「文化庁・・・・」が列記されており、    その中に「全国邪馬台国連絡協議会」の名前が出てきました。   【放映内容】     ◆ 弥生の先進集落の実像とは? ◆ 人が銅鐸に求めた神秘のパワーとは? ◆ 女王・卑弥呼の出身地はどこ? ◆ 磯田道史が大興奮の古墳とは? 古代人のこころと文明の成り立ちに迫ります。 【詳細】 ●ニッポンのはじまりスペシャル企画! ●最新事情を踏まえた古代人のこころと文明の成り立ちに迫ります。 ●弥生人=稲作民という常識を覆す先進集落の実像とは? ●弥生人が銅鐸に求めた神秘のパワーとは? ●邪馬台国の女王・卑弥呼の出身地はどこ? ●司会の磯田道史が大興奮の古墳とは? さらに、悪役のイメージが強い蘇我氏が、この国に与えた影響も探ります。 弥生から飛鳥までを一挙に駆け抜けてみると、ニッポンのどんな原型が見えるでしょか。 【出演者ほか】   【司会】 磯田道史、渡邉佐和子、 【出演】 里中満智子、中野信子、松木武彦、辰巳和弘、石野博信、倉本一宏

鳥取の遺跡から高松塚古墳に次ぐ女子群像

    NHK NEWS WEBより(2016年12月15日)
        鳥取市の遺跡から出土した飛鳥時代のものと見られる木の板に、6人の女性が列をなして歩く「女子群像」が描かれていることがわかりました。 古代の女子群像としては、国内では奈良県明日香村の高松塚古墳の壁画に次いで2例目で、 中国や朝鮮半島から伝わった文化の広がりを示す重要な資料として注目されています。 女子群像の絵は、鳥取市にある青谷横木遺跡から出土した5つの板の破片に墨で描かれていました。 鳥取県埋蔵文化財センターによりますと、破片をつなぎ合わせると、板は縦15.5センチ、横70.5センチの大きさになり、 6人の女性が列をなして歩いている様子が確認できたということです。 板の上の部分には穴があり、埋蔵文化財センターは、墓の壁などにかけられていた可能性があるとしています。 絵は、板が出土した地層から7世紀末から8世紀初めの飛鳥時代のものと見られ、古代に描かれた女子群像としては、 国宝に指定されている奈良県明日香村の高松塚古墳の壁画に次いで2例目です。 女子群像は墓の壁などに描かれる題材として中国や朝鮮半島から伝わったと考えられ、鳥取県埋蔵文化財センターは、 伝来した死者の弔いにまつわる文化が当時の都だけでなく地方にも広がっていることを示す重要な資料だとしています。

          どんな絵が描かれたか

女子群像の絵は大部分は欠けていますが、鳥取県埋蔵文化財センターによりますと、 服装や髪型、持ち物などから地位の高い5人の女性と侍女1人と見られます。 このうち、右から3番目の人物は高松塚古墳の壁画に描かれている女子群像と同じような縦じま模様の服装が確認できます。 また、その隣の右から2番目の人物は髪を束ねて結い上げた姿が描かれていますが、目や口など顔の表情はわかりません。 右端の人物は「払子(ほっす)」と呼ばれるハエを払う道具のようなものを持っていることから、侍女と見られるということです。

          専門家 高松塚古墳の壁画にもない特殊性

古代の美術史が専門で神戸大学の百橋明穂名誉教授は「払子(ほっす)など中国の唐の時代の女子群像に見られる持ち物が描かれている一方で、 それよりも古い朝鮮半島の高句麗で(こうくり)見つかっている行列図をモチーフに絵が描かれている。 いわば古い高句麗の伝統と唐の新しい流行が合わさっていて、高松塚古墳の壁画にもない特殊性がある」と指摘しています。 そのうえで、「当時の都だけでなく、地方にもこのような死者を弔う文化が伝わっていたことを証明するもので、 今後、日本海沿岸や瀬戸内海沿岸、九州などさまざまな場所でも女子群像が見つかる可能性もある」と話しています。 NHK NEWS WEBの記事

飛鳥大仏の顔、7世紀造立時のまま…補修説覆す

    読売新聞より(2016年11月11日)
         文献上、日本で鋳造された最初の仏像だが鎌倉時代に火災に遭った記録がある奈良県明日香村、飛鳥寺の本尊・飛鳥大仏について、 藤岡穣ゆたか・大阪大教授(東洋美術史)らの研究グループが調査し、「顔部分のほとんどは7世紀の造立当初のものとみられる」と判断した。  像の大部分が後世の補作だとするなど諸説あったが、重要な部分が古代の姿のままだったことになる。  調査は今年6月、大阪大や東京文化財研究所、韓国国立中央博物館などの研究者約30人により行われた。  研究グループは、顔と胴体の制作時期の前後関係を検討。顔の正面は、目や顎、額などに継ぎ目がなく、一体で造られた状態で残っており、 ほとんどが当初のままと判断した。様式も奈良県内などに残る飛鳥仏と似ているという。 顔に小さな銅板を留めてあるのは、当初に表面のムラを直した跡だとみている。 飛鳥大仏の材質などを調査する研究者(今年6月、奈良県明日香村の飛鳥寺で) 顔の正面の大部分や右手が鋳造当時のものだという研究結果が出た飛鳥大仏(奈良県明日香村の飛鳥寺で。藤岡教授提供) 読売新聞の記事

会報「邪馬台国新聞」第4号が発行されました。<2016年10月31日)

会誌「邪馬台国新聞」第4号は全部で16頁です。2頁以下は項目だけ記載します。                【顧問投稿】 当会特別顧問の論考です。2~14頁         ①壱岐一郎(元九州朝日放送キャスター) 恩師追悼・松本清張さん           ②大谷光男(NPO法人志賀島歴史研究会) 『晋書・武帝紀』泰始二年十一月己卯の記事~倭の使節の朝貢日が、二至の祭典日に当るのか          ③大塚初重(明治大学名誉教授)     「随想」卑弥呼の死とその周辺          ④金関 恕(天理大学名誉教授) ガラスの腕輪           ⑤小林敏男(大東文化大学名誉教授) 魏志と日本書紀           ⑥関 裕二(歴史作家)         三王朝交代説の代替え案           ⑦田家 康(日本気象予報士会東京支部長)金印と奴国           ⑧藤盛紀明(考古学を科学する会 主宰) 鉄の歴史について         ⑨宝賀寿男(日本家系図学会会長)    誤記・誤字、誤読・誤解にまつわること           ⑩森岡秀人(橿原考古学研究所・纏向学研究センター共同研究員) 高地性集落と邪馬台国~会下山遺跡発掘60周年記念シンポジュームに寄せて          ⑪安本美典(邪馬台国の会 主宰)    ベニバナ論争         【わが図書を語る】 14頁         ①伊藤雅文 『邪馬台国は熊本にあった!「魏志倭人伝」後世改ざん説で見える邪馬台国』 扶桑社新書820円(税別)         ②白崎勝  『丘と岡が明かす天孫降臨』 郁朋社1800円(税別)         ③牧村健志 『よみがえる神武天皇』 PHP研究所2500円(税別)                【第3回会員研究発表大会概要報告】 15~16頁         *研究発表大会のビデオ動画は当会ホームページで見ることができます。         ①阿部道夫  何故、佐賀大和姉川に天皇家の最高神「大神宮」があるのか         ②牧村健志  春秋2倍暦仮説よる日本書紀の復原         ③加茂田義文 魏志倭人伝中の「水行20日」「水行10日、陸行1月」の解釈についての私見のエッセンス「なぜ邪馬台国日向説なのか」         ④白崎勝   古事記と魏志倭人伝がリンクした         ⑤村山智浩  「倭人条短里説否定論」について         ⑥山科威   「魏志倭人伝」の行程記述からは「邪馬台国」の所在地を特定できないーその本当の理由                 【編集局だより】 事務局長菊池秀夫 16頁                 

宝塚花組、明日海りお&仙名彩世の新トップコンビで「邪馬台国の風」

        宝塚歌劇花組が2017年6月から8月にかけて上演する作品が「古代ロマン『邪馬台国の風』」 「『Sante!!』~最高級ワインをあなたに~」に決定。 主演は明日海りおと仙名彩世の新トップコンビが務める。 中村暁が作・演出を手がける「古代ロマン『邪馬台国の風』」では、古代日本を舞台にした歴史ファンタジーが展開。 幼い頃に狗奴国の兵に両親を殺されたタケヒコと、神の声を聞くというマナとの出会いが描かれる。 また併演の「『Sante!!』~最高級ワインをあなたに~」は、“ワインを飲んで見る数々の夢”をテーマにしたレビュー。 藤井大介が作・演出を務める本作で、明日海の新たな魅力に迫る。 公演は2017年6月2日から7月10日まで兵庫・宝塚大劇場、7月28日から8月27日まで東京・東京宝塚劇場にて。
ステージニュースの記事 2016年10月6日

毎日新聞:福岡「伊都国」. 2例目の硯 「弥生後期に文字」強まる

      毎日新聞より(2016年9月28日)
       福岡県糸島市教委は28日、弥生時代後期(1〜2世紀)とみられる硯(すずり)の破片が出土した 同市の三雲・井原遺跡で、新たに別の硯の破片が発見されたと発表した。 同遺跡は「魏志倭人伝」に登場する「伊都国」の中枢遺跡で、外交文書のやり取りをしていたとする記述がある。 1例目の硯が発見されるまで国内での文字使用は3世紀ごろからとされていた。 硯が複数発見されたことで、市教委は「伊都国で文書が作成されていた可能性がより強まった」とした。  破片は板石状で5.4センチ×3.9センチ、厚さ5ミリ。 昨年12月に発見された硯と材質は同じだが、1ミリほど薄く、裏面の加工の仕方が違うことなどから、市教委は別の硯と判断した。 ただし同時代の物とみられる。 同じ遺跡から弥生時代の硯が2例発見されるのは全国初。2個の出土場所は15メートルほど離れていた。  「魏志倭人伝」では、伊都国には古代中国の出先機関・楽浪郡(朝鮮半島北西部)などの外交使節が滞在し、 使節の到着時に、外交文書の作成を担ったとする記述がある。 信ぴょう性が高まったことで、市教委文化課の平尾和久主任主査は 「弥生時代は想像よりも官僚的な組織ができはじめていたのかもしれない」と話した。 2個の硯は10月8日〜11月27日、伊都国歴史博物館(糸島市)で展示される。【尾垣和幸】 新たに確認された硯の破片(左)。1例目の破片(右)より裏面がでこぼこしている  =福岡県糸島市の糸島市役所で2016年9月28日午後4時15分、尾垣和幸撮影 毎日新聞の記事

毎日新聞:講演会「高尾山古墳と邪馬台国・狗奴国」古代史研究者3人が発表  沼津市で25日・無料/静岡

      毎日新聞より(2016年9月10日)
       古代史愛好家らで作る「全国邪馬台国連絡協議会」(鷲崎弘朋会長)が 講演会「高尾山古墳と邪馬台国・狗奴国(くなこく)とを再考する」を25日、沼津市大手町のプラサヴェルデで開く。 同市東熊堂(ひがしくまんどう)の3世紀前半築造の高尾山古墳は狗奴国の有力者が葬られているとする説がある。参加無料。事前予約不要。  午後1時20分開会。 研究者3人がそれぞれ「高尾山古墳出土鏡と三角縁神獣鏡」「狗奴国九州(熊本)説」「狗奴国東海・関東説〜邪馬台国は東三河か」と題して研究発表。 休憩を挟み、鷲崎会長が「洛陽出土とされる三角縁神獣鏡・中国訪問実見報告」と題し特別講演。 西川修一・日本考古学協会会員が「高尾山古墳の過去・現在・未来」と題し講演する。  問い合わせは、協議会近畿東海支部副支部長の若井正一さん(080・6953・5703=午後6時以降) または高尾山古墳を守る会事務局の秋野宣治さん(080・4222・0513)。【石川宏】 毎日新聞の記事

毎日新聞:滋賀・稲部遺跡 大規模な鉄器工房遺構 「邪馬台国」時代

      毎日新聞より(2016年10月17日)
     

   「日本の国の成り立ちを考えるうえで貴重」 彦根市教委発表

 滋賀県彦根市教委は17日、市内の「稲部(いなべ)遺跡」(同市稲部、彦富両町)で 弥生時代終末から古墳時代初め(3世紀前半)の鉄器工房群の遺構が見つかったと発表した。同時代では他にない規模という。 大規模な建物の跡も確認された。 当時、鉄製品の原料は大陸からの調達に頼っており、同時代の邪馬台国について記した中国の史書「魏志倭人伝」で、 大陸と交易があったとされる「三十国」のうちの一つともみられるという。  鉄器工房は30棟以上ある竪穴建物群で、各棟は一辺3.5〜5.3メートルの方形。 うち23棟の床面から鉄片や鉄塊が見つかった。一部に土なども含んだ状態だが、全体の重さは計約6キロに上るという。 同時に鍛冶や鉄を加工する際に使ったと思われる台石や、鉄製矢尻2個なども見つかった。 国内には当時、製鉄技術がなく、鉄の延べ板を朝鮮半島から取り寄せ、武器や農具、工具を造っていたと考えられる。  一方、鉄器製造が始まった直後に大型の建物が現れた他、鉄器製造が終了した3世紀後半には、 一辺十数メートル規模の大型の建物2棟が相次ぎ出現。 首長の居館や巨大な倉庫として利用され、他の国との物流拠点だった可能性があるとしている。 邪馬台国畿内説の有力候補地とされる纒向(まきむく)遺跡(奈良県桜井市)では、より大規模な同時代の建物跡が確認されている。  「魏志倭人伝」では、倭人は現在の韓国・ソウル辺りにあった帯方郡の東南の大海の中にいて、もとは「百余国」あったが、 同書が書かれた3世紀には「使訳(使者や言葉)通ずる所三十国」と伝えている。 福永伸哉・大阪大教授(日本考古学)は「稲部遺跡は東西日本の結節点にあり、 近江勢力の大きさを物語ると共に日本の国の成り立ちを考えるうえで貴重」と話す。  現地説明会は22日午後1時半〜午後3時。小雨決行。【西村浩一】

稲部遺跡

 滋賀県彦根市南部の田園地帯にあり、弥生時代から古墳時代(2〜4世紀)を中心とする大規模集落遺跡。 総面積は約20万平方メートルと推定される。 宅地造成工事による1981年の調査に始まり、2013年からの市道改良工事に伴う調査では竪穴建物180棟以上、 大型建物、鉄や青銅の金属器工房などを確認した。 稲部遺跡が最も栄えた時代は、中国の歴史書「魏志倭人伝」に出てくる邪馬台国時代と重なる。 大型建物跡や鍛冶工房跡などが見つかった稲部遺跡=滋賀県彦根市で望月亮一撮影 大型建物跡や鍛冶工房跡などが見つかった稲部遺跡で、出土した矢尻などの鉄片=滋賀県彦根市で望月亮一撮影 毎日新聞の記事

読売新聞:奈良の都にペルシャ人役人がいた…木簡に名前

      読売新聞より(2016年10月5日)
         奈良市の平城宮跡から出土した8世紀中頃の木簡に、 ペルシャ(現代のイラン付近)を意味する「破斯はし」という名字を持つ役人の名前が書かれていたことが、奈良文化財研究所の調査でわかった。  国内でペルシャ人の名前を記した出土遺物が確認されたのは初めてで、奈良時代の日本の国際性を裏付ける成果となる。  木簡は1966年、人事を扱う式部省があった平城宮跡東南隅の発掘調査で出土した。 文字が薄く肉眼では一部が判読不能だったが、今年8月、赤外線撮影をした結果、 役人を養成する「大学寮」でのペルシャ人役人の宿直に関する勤務記録とわかった。  表側の上部に「大学寮解 申宿直官人事」、下部に、定員外の特別枠で任じられた役人「員外大属いんがいだいさかん」という役職名、 中国語でペルシャを表す「波斯はし」と同じ読み・意味の「破斯」という名字を持つ「破斯清通」という人名と、 「天平神護元年(765年)」という年号が書かれていた。 平城宮跡で出土した木簡。ペルシャ人とみられる名前が書かれていた=奈良文化財研究所提供 読売新聞の記事

朝日新聞:東大寺、平氏焼き打ちの痕跡か 東塔跡で出土

      朝日新聞より(2016年10月4日)
         平安時代末期に兵火で焼かれ、鎌倉時代に再建された奈良・東大寺の東塔(とうとう)跡(国史跡)で、 奈良時代の創建当初の基壇(土台)が出土し、1180(治承4)年の平氏の南都焼打(なんとやきう)ちで焼け落ちたとみられる痕跡がみつかった。 東大寺などが4日発表した。基壇の階段に焼け焦げた跡が残り、石材が倒れた状態で出土するなど、激しい炎に包まれながら倒壊した姿を今に伝える貴重な遺構だ。  創建当初の東大寺は、大仏殿の南東と南西に東塔と西塔(さいとう)を誇り、764年ごろの創建とされる東塔は七重塔で、 高さ70メートルとも100メートルとも伝えられた。 だが、源平の争乱が始まり、平(たいらの)重衡(しげひら)が反平氏だった奈良の興福寺や東大寺を攻撃。東塔も失われたことが記録に残っている。 その後の東塔は鎌倉時代に再建され、1362年に再び雷で失われた。  前の続き寺と奈良文化財研究所、奈良県立橿原考古学研究所が昨年から東塔跡を発掘調査し、創建当初の基壇北面で階段の踏み石の一部を確認。 踏み石の3段分の表面は黒く焼け焦げていた。 また、階段の後ろ側を構成していた石材が斜めに倒れた状態で出土し、脇の石材にも焦げた跡がみつかった。  調査した南部裕樹・東大寺境内史跡整備計画室長は「炎の勢いの強さがうかがえる。 塔が崩れ落ちながら激しく燃えた様子が遺構から裏付けられた」と話す。  一方、創建当初の基壇が、1辺約24メートル四方の規模だったことも確認された。  現地説明会は8日午前10時~午後3時。小雨決行。問い合わせは計画室(0742・22・5543)。(栗田優美) 奈良・東大寺の東塔跡で、1180年の平氏の南都焼打ちで焼け落ちたとみられる痕跡がみつかった=井手さゆり撮影 南都焼き打ちで倒れたとみられ、斜めになった状態で出土した石材=4日午後、奈良市、井手さゆり撮 朝日新聞の記事

読売新聞:律令国家成立祝う儀式の跡    …藤原宮跡で確認

      読売新聞より(2016年9月29日)
         奈良県橿原市の藤原宮(694~710年)跡で、 重要な国家儀式で使われた旗「幢幡どうばん」を立てた跡とみられる柱穴7個を確認したと、奈良文化財研究所(奈文研)が28日発表した。  律令国家の成立を告げた701年の元日朝賀で使われたとみられ、専門家は「国の形が完成したことを内外に宣言した儀式の様子がわかる発見」と評価する。  同年は日本最初の法典・大宝律令が完成し、中央集権体制が整った。 この年の元日朝賀を、歴史書「続日本紀しょくにほんぎ」は、文武もんむ天皇が朝鮮半島の使節らを招き、7本の幢幡を立てたと伝える。 柱穴に設置された憧幡の模型(奈良県橿原市で)=金沢修撮影 幢幡が立てられた元日朝賀の再現図(奈文研提供、早川和子さん作成) 読売新聞の記事

朝日新聞:キトラ古墳壁画体験館オープン 天文図の実物を一般公開

    朝日新聞より(2016年9月25日)
       奈良県明日香村のキトラ古墳(特別史跡、7世紀末~8世紀初め)の極彩色壁画を保存・公開する施設「キトラ古墳壁画体験館 四神(しじん)の館」が24日、オープンした。 現存する世界最古の本格的な星図とされる「天文図」など実物の壁画が公開された。  四神の館は、国営飛鳥歴史公園キトラ古墳周辺地区の整備の一環で、本格的な壁画を保存・公開する国内初の専用施設となる。 10月23日まで公開される壁画は天文図のほか、方角の守護神「四神」のうちの「白虎(びゃっこ)」と「朱雀(すざく)」。天文図の一般公開は初めて。  開園式典は午前10時から、四神の館近くの広場で開かれ、村や文化庁、国土交通省の関係者ら約180人が出席。 森川裕一村長(60)は「子どもたちが30年、40年と誇りを持てる施設ができた。今後も文化財を生かした地域づくりを進めたい」と述べた。  式典終了後、33年前の壁画の発見に立ち会った村民の関武さん(81)が、ガラス越しに壁画と対面した。 「壁画が石室からはぎ取られたときは、色もわからないぐらいだった。よくぞここまで修理してくれた。感慨深い」と語った。  壁画は1983年に発見されたが、劣化が進んだことから、2004年から順次石室からはぎ取られ、村内の仮設施設で修理されてきた。  壁画の鑑賞には事前申し込みが必要。募集要項はホームページで確認できる。 問い合わせは事務局(06・6281・3060)。(田中祐也) オープンしたキトラ古墳壁画体験館四神の館を見学する人たち=24日午後、奈良県明日香村、高橋雄大撮影 キトラ古墳 キトラ古墳の位置 朝日新聞の記事

毎日新聞:沖縄・サキタリ洞遺跡 世界最古、貝製の針出土 釣り師、旧石器人 2万3000年前

      毎日新聞より(2016年9月20日)
         沖縄県立博物館・美術館(那覇市)は19日、同県南城市のサキタリ洞(どう)遺跡で、世界最古となる2万3000年前の貝製の釣り針が出土した、と発表した。 これまで国内で確認された釣り針は縄文時代以降のものしかなく旧石器時代は初。 釣り針で取ったとみられる魚の骨も出土した。旧石器時代の水産資源利用の実態を示す初の資料で、当時の生業を考える上で極めて重要な発見となる。【大森顕浩】  出土したのは、完成品1点(幅14ミリ、2万3000年前)と未完成品1点(幅16ミリ、2万3000〜1万3000年前)。 ニシキウズ科の巻き貝の底部を割って削った。完成品と同じ年代の地層から、ブダイ科、アイゴ属の海魚の骨、川で取れるウナギ属の骨が出土した。 化石保存に適した石灰岩質を含む地層のため、溶けずに残った。  これまでの世界最古の釣り針は東ティモールのジェリマライ遺跡で出土した貝製(2万3000〜1万6000年前)だが、年代に幅がある。 日本最古は夏島貝塚(神奈川県横須賀市)の約1万年前のもので、イノシシの骨製。  国内で2番目の古さとなる3万年前の人骨と、3万5000年前のモクズガニのはさみ、巻き貝のカワニナの殻、ウナギの骨も出土した。 このうち、モクズガニとカワニナは、1万3000年前の地層まで継続的に出土しており、サキタリ洞遺跡で人類が生活を続けていた証拠になる。  国内の旧石器時代の遺跡は1万カ所近くあるが、石器出土がほとんど。人骨や動物の骨の出土が極度に少なく食料の内容と採取方法は不明だった。 調査した藤田祐樹・同館主任は「石器でナウマンゾウやイノシシを捕獲したという従来の旧石器人のイメージと異なり、釣り針を用い魚やカニも取っていた。 日本の旧石器時代の文化の多様性を考える上で重要な成果だ」と話す。 今も昔も旬のカニ  旧石器人はフィッシングもして、海や川の動物を利用した食生活をしていた。 沖縄の狭い島内では陸上動物が乏しいため、食料を補うためと考えられる。 カニは季節の旬を選んで捕獲していたことも判明。現代人の食生活に通じる姿が浮かび上がった。  サキタリ洞遺跡で出土した水産資源の遺物は、海魚の骨、川のウナギの骨、モクズガニのはさみ、巻き貝のカワニナの殻など。 遺物の3〜4%が焼けていた。藤田主任は「火でゆでるか、蒸すかしていたのだろう。一部の食べかすが火の近くに落ちて焼けて残った」と推測する。  遺物で目を引くのは大量のモクズガニとカワニナ。2万年の間の地層から出土する総計は各1万点以上。 この二つは、秋に集中的に採取していたことも分かった。モクズガニのはさみから甲羅の大きさを推定すると約9〜8センチと同種の最大級。 川で育ったモクズガニが産卵のため秋に海に下る時期に当たる。カワニナに含まれる酸素同位体を測定すると、秋に最も多く採取していた。 藤田主任は「卵を抱えて栄養も蓄えたカニがおいしくなる旬が分かっていたのでは」と想像する。  ■ことば サキタリ洞遺跡  沖縄県南城市の洞穴内の遺跡で2009年度から調査。 11年に約1万4000年前の人骨と石器が出土し、同一遺跡で人骨と石器がセットで確認された国内最古の例となった。 世界最古となる釣り針の完成品(左、2万3000年前)と、製作途中の未完成品(右、2万3000〜1万3000年前)。 いずれも貝製=那覇市の沖縄県立博物館・美術館で、大森顕浩撮影 え・池田奈央 毎日新聞の記事

毎日新聞:大阪・東弓削遺跡 道鏡ゆかりの「由義寺」の瓦か

      毎日新聞より(2016年9月15日)
       大量に見つかる    大阪府八尾市の外郭団体「八尾市文化財調査研究会」は15日、市内の東弓削(ひがしゆげ)遺跡で、奈良時代後半に作られたとみられる大量の瓦が見つかったと発表した。 周辺には称徳天皇のそばで権力を握った僧、道鏡が関わった「由義(ゆげ)寺」や、西京と位置づけられた「由義宮」が所在したと伝えられる。 瓦には平城京の興福寺や東大寺と同型のものが含まれ、専門家は由義寺の瓦と推定。寺の位置や規模の解明が進みそうだ。    研究会は昨年12月に発掘を始め、八尾市東弓削と都塚一帯で破片を含む3万点近くの瓦を発見した。 奈良文化財研究所が確認したところ、興福寺式軒丸瓦や軒平瓦と同じ木型で作られたものがあり、東大寺式軒平瓦と文様が似た瓦もあった。 同研究所の今井晃樹主任研究員は「奈良以外で都の瓦が見つかるのは珍しい」と話す。    遺跡がある地区は、道鏡の出自の弓削氏がいた地で、一族の氏寺「弓削寺」があったと伝えられる。 称徳天皇の信頼を得た道鏡は法王となり、地区の周辺には由義宮がおかれ、弓削寺も由義寺として整備されたとされる。   「続日本紀(しょくにほんぎ)」には、称徳天皇が由義宮を訪れ、770年には由義寺に塔が建設されたと記されているが、遺構は確認されていない。 今回の瓦は、弓削地区に由義寺があったことを示唆。瓦の形態や量の多さから、平城京の大寺院に比肩する規模を有していたとも推測できる。    滝浪貞子・京都女子大名誉教授(古代史)は「興福寺や東大寺の瓦を使えるのは、時の権力者だった称徳天皇や道鏡以外に考えられず、由義寺に使われた瓦とみて間違いない。 新たな遺物、遺構が出土する可能性があり、期待したい」と話す。研究会は発掘を続け、由義寺の遺構などの発見を目指す。    現地説明会は18日午後1〜3時、八尾市東弓削153の1の東弓削遺跡調査事務所で。【遠藤浩二】  道鏡(どうきょう)    奈良時代の僧。生年不詳。弓削氏の出身で、看病の功があったとして称徳天皇の信頼を得た。 藤原氏の勢力が停滞する宮中で少僧都、大臣禅師と異例の出世を遂げ、765(天平神護元)年に太政大臣禅師に昇格。 翌年に法王となった。称徳天皇が没すると権勢を失い、772年に死去した。 (共同通信) 奈良時代後半の大量の瓦などが出土した東弓削遺跡=大阪府八尾市で2016年9月13日、加古信志撮影 毎日新聞の記事

  足立倫行氏(ノンフィクション作家)が『歴史街道』2016年9月号で、 全国邪馬台国連絡協議会を紹介しています

                   『歴史街道』2016年9月号からのコピーです。
   

会報「邪馬台国新聞」第3号が発行されました。<2016年5月28日)

会誌「邪馬台国新聞」第3号は全部で28頁の大部です。2頁以下は項目だけ記載します。                          【各支部活動報告】 2頁目         東海・近畿支部活動報告:東海近畿支部支部長 井上修一                 【顧問投稿】特別顧問の論考です。3~9頁         ①見過ごした金印「漢委奴国王」発見の記事: NPO法人志賀島歴史研究会 大谷光男         ②邪馬台国への夢: 明治大学名誉教授 大塚初重         ③頭八咫烏と邪馬台国: 歴史作家 関裕二         ④ますます遠ざかる銅鐸と邪馬台国ー埋納の開始は紀元前2世紀まで遡る新説提唱:                       橿原考古学研究所・纏向学研究センター共同研究員 森岡秀人         ⑤古代年代と計測:考古学を科学する会 主宰 藤盛紀明         ⑥考古学における「研究不正」の構造:邪馬台国の会 主宰 安本美典        【会員投稿】 9~12頁         ①東京都会員 尾関郁:安本美典VS西川寿勝・三角縁神獣鏡論争 原秀三郎氏の「狗奴国サミット」での講演を聞いて         ②東京都会員 尾関郁:読後感想「三世紀・三国時代 江南出身の卑弥呼と高句麗から来た神武」小林恵子著         ③東京都会員 尾関郁:チョーおもしろい参考・引用 文献         ④神奈川県会員・九州の歴史と文化を楽しむ会会長 菊池秀夫:熊本地震と狗奴国         ⑤大分県会員 児玉眞:邪馬台国問題解決の鍵は「倭国報告書」         ⑥神奈川県会員・市民サークル「鎌倉雅友会」代表 田中真生雄:「魏志倭人伝」の解読について思うこと         ⑦千葉県会員 福島巌:邪馬台国候補地が満たすべき条件        【2016.3.21第2回会員研究発表大会 概要報告】 12~16頁 ①歴史でまちづくり推進協議会 梨目正:「邪馬壱国(やまとこく)は阿波・徳島」         ②大下盛巌:邪馬台国と女王卑弥呼を尋ねて         ③尾関郁:その昔、倭国と大倭国が戦いを・・・         ④槌田鉄男:騎馬民族説の復活「扶余族に征服された邪馬台国」         ⑤先古代史の会会長 前田豊:邪馬台国(原ヤマト)は東三河~駿河以東は狗奴国         ⑥鷲崎弘朋:洛陽出土とされる三角縁神獣鏡・・・中国訪問実見報告        【特別企画 1】 16~19頁         ①上田特別顧問を偲ぶ         ②上田正昭教授を悼む・・特別顧問 いき一郎         ③上田正昭先生と全国邪馬台国連絡協議会・・事務局長 菊池秀夫         ④魏志倭人伝の解釈について・・上田正昭        【特別企画 2】 19~25頁         ①応援しよう! 熊本地震の被災地         ②阿蘇山と狗奴国地域圏 特別顧問 宝賀寿男                  【事務局だより】 25~26頁         ①事務局長取材レポート:会員夫婦が経営する老舗旅館のご紹介         ②旅館松島 132年目の不思議:旅館松島 女将 島田紀子        【ツアー・大会案内】 27~28頁         ①横浜の歴史探索会 6月18日         ②第3回九州地区大会 6月4日         ③第3回全国大会 10月29日

  足立倫行氏(ノンフィクション作家)が『歴史街道』2016年6月号で、 「狗奴国サミット in 沼津」(全国邪馬台国連絡協議会主催 2016年2月13日開催)を紹介し、  前田豊氏、若井正一氏、菊池秀夫氏の3人の論考が掲載されました。

                   『歴史街道』2016年6月号からのコピーです。
     

訃報 坪井清足さん94歳=考古学の第一人者

      毎日新聞より(2016年5月9日)
       日本の考古学の第一人者で、奈良国立文化財研究所(奈文研、現奈良文化財研究所)の所長を務めた坪井清足(つぼい・きよたり)さんが 7日、急性心不全のため亡くなった。94歳だった。葬儀は近親者で営み、後日お別れの会を開く。自宅は奈良市五条2の7の11。  大阪市生まれ。京都大史学科を卒業し、1955年に奈文研に入った。 奈良県明日香村の飛鳥寺、川原寺、飛鳥板蓋宮推定地を発掘し、さらに59年から奈良市の平城宮跡の発掘調査に取り組んだ。 それまで“点”にとどまっていた遺跡の発掘に、全面発掘という画期的方法を導入した。 飛鳥寺の発掘では、学界の常識を覆す一塔三金堂の伽藍(がらん)配置を確認した。  平城宮跡で初めて出土した木簡の研究を通して、考古学とのつながりの弱かった文献史学との連携を強めた。 さらに、建築や美術工芸など総合的に遺跡をとらえたり、写真測量で詳細な図面をとったり、 大規模な発掘の調査・記録システムを確立して現在の遺跡調査方法の礎を築いた。  68年に奈文研平城宮跡発掘調査部長となり、調査と保存を組み合わせた事業を進めて緑地や史跡公園として保存整備、遺跡保存のサンプルともなった。 奈文研埋蔵文化財センター長、文化庁文化財鑑査官を経て、77年に奈文研の第7代所長に就任。 86年に退官し、大阪府文化財センター理事長を2000年まで務めた。  99年に文化功労者に選ばれた。「日本陶磁大系2 弥生」(90年)や「古代日本を発掘する2 飛鳥の寺と国分寺」(85年)など多数の著書がある。 父は釣り鐘研究の権威、良平さん(故人)。 毎日新聞の記事

京都新聞:両陛下が奈良に到着 橿原考古学研究所を視察

      京都新聞より(2016年4月2日)
       天皇、皇后両陛下は2日、初代天皇とされる神武天皇の没後2600年式年祭を3日に執り行うため、神武天皇陵がある奈良県橿原市に入られた。 2日夕は県立橿原考古学研究所を訪れ、平城京跡などから出土した土器の破片の整理・修復作業を視察した。  両陛下は研究所1階の整理作業室で、職員が小さな土器片を貼り合わせて復元したり、図面に記録したりする作業を熱心に見学。 陛下は「これはいつごろのものですか」などと繰り返し質問し、皇后さまは古墳時代の須恵器の模様を見ながら「きれいですね」と漏らしていた。 (共同通信) 奈良県立橿原考古学研究所で、土器の破片の整理・修復作業を見学される天皇、皇后両陛下=2日午後、奈良県橿原市 京都新聞の記事

朝日新聞:中国の三角縁神獣鏡、真贋は? 卑弥呼への「銅鏡」と関連? 専門家ら論争

      朝日新聞より(2016年3月31日)
       卑弥呼が中国北部の魏から与えられた「銅鏡」との見方がある三角縁神獣鏡。 だが、作られたはずの中国で1枚も見つからず、製作地論争が長年続くなか、一昨年、魏の古都・洛陽から出土したとする論文が中国の学術誌に報告された。 本当なら、歴史を裏付ける大発見だが、その評価を巡り、現在、専門家の意見はまっぷたつに割れている。  問題の鏡は直径18・3センチ。中国・河南省のコレクター王趁意さんが骨董(こっとう)市で入手。同省の研究誌で発表した。  三角縁神獣鏡は縁の断面が三角形をしていることからそう呼ばれる。 問題の鏡は小ぶりだが、神仙や霊獣の文様をあしらい、ノコギリの刃のような鋸歯(きょし)文や松の枝を重ねたような笠松文様まで表現した点は三角縁神獣鏡そのもの。 皇帝が卑弥呼に100枚贈ったのは三角縁神獣鏡なのか。関係者は色めきたった。  しかしこの鏡、結局、出土地がはっきりしない。王さんは「河南省洛陽市内の白馬寺付近から出土したと聞いた」と答えたが、それ以上を語らなかった。  異論を唱えたのが『大炎上「三角縁神獣鏡=魏鏡説」』などの著書がある、産業能率大元教授の安本美典さんだ。 安本さんは昨年来、研究誌などで「中国では今までに3千枚近くの鏡が出土しているが、三角縁神獣鏡はゼロ。あやしい。 今回の鏡は他の三角縁神獣鏡を参考に作られた贋作(がんさく)だ」との論を展開する。  一方、「間違いなく本物」と主張するのは、鏡の研究者でもある大阪府教育委員会文化財保護課の西川寿勝さん。  西川さんは昨年11月に王さんを訪ね、日本の研究者としては初めて問題の鏡を観察。 鋳造後に不要な部分を削った跡や、鋳造したままの粗い面を残す点などに三角縁神獣鏡と共通する部分があるとして、 「西暦250~260年代に中国で製作された」との説を唱える。2人は1月の研究会でも激論を交わした。  今回の鏡について、安本さんは「出土地もはっきりせず、材質の科学的分析もしていない鏡を議論の材料にすること自体、間違っている」と主張する。 だが日本の考古学はこれまで伝世品や履歴のはっきりしない遺物もあわせて研究の対象にしてきた。  とはいえこの時代、「プロの目で見たので確か」と語っても、その分野の専門家以外の賛同はなかなか得づらい。実際、研究会でも水掛け論になった。  ■客観的データ、3次元計測に期待  三角縁神獣鏡の研究は近年急速に進んでいる。中でも、奈良県立橿原考古学研究所の水野敏典総括研究員らは3次元計測で製作技術に迫る。 千枚余を測ってきたが、最大の成果は、三角縁神獣鏡の製作法が一つの鋳型で何枚も生産可能な「同笵(どうはん)技法」中心だったことを明らかにした点だ。  同笵技法は同じ鋳型を何度も使うため、良質で安定した鏡づくりには向かない。 にもかかわらず、これを採用したのは「最小限の鋳型で最大限の枚数を製作しようとしたのだろう。省力化ないし時間短縮のためでは」と水野さん。  三角縁神獣鏡に関しては、中国鏡説、日本鏡説、さらには中国製の鏡をまねて日本でも作ったとする説などがあるが、 水野さんは「(日本国内で見つかった)中国製と日本製とされる鏡の間に決定的な差は見い出せなかった。 三角縁神獣鏡の製作地はすべて中国製か、すべて日本製となる可能性がある」と話す。  問題の鏡についても、真贋はさておき、3次元計測を行えば、何らかの成果が得られる可能性はある。 少なくとも、客観的なデータをもとに詳細な議論を万人が進められるようにはなる。  中国のある関係者は「必要なら日中双方の権威ある研究機関が共同研究協定を結んだうえで、双方の責任で分析すべきだ」と話すが、 日中双方とも新たな動きは見えない。古代史の解明につながるかもしれない鏡は、依然として微妙な位置に置かれたままだ。   (編集委員・宮代栄一、塚本和人) 中国・洛陽で出土したとされる「三角縁神獣鏡」=西川寿勝さん提供 「邪馬台国の会」で議論する安本美典さん(左)と西川寿勝さん=1月下旬、都内 朝日新聞の記事

朝日新聞:古代史学者の上田正昭さん死去 京大名誉教授

      朝日新聞より(2016年3月13日)
       古代国家や渡来人などの研究で知られる古代史学者で、京都大名誉教授の上田正昭(うえだ・まさあき)さんが13日、京都府亀岡市の自宅で亡くなった。 88歳だった。近親者で密葬を営む。  1927年、兵庫県生まれ。京都大卒業後、高校教員や立命館大講師などを経て、京都大教授、大阪女子大(現大阪府立大)学長を歴任。 アジア史学会長、世界人権問題研究センター理事長、姫路文学館長、高麗美術館長などを務めた。  古代王権の政治制度、神話の研究のほか、人権問題にも取り組んだ。 古代の活発な国際交流を説き、中国、韓国・北朝鮮などの研究者とアジア史学会を設立、「21世紀を平和の世紀に」と訴えた。  京都府亀岡市の古社・小幡(おばた)神社の宮司も務め、「鎮守の森」の重要性を研究する社叢(しゃそう)学会も旗あげした。 歌人としても知られ、2001年の宮中歌会始の召人(めしうど)も務めた。  97年に大阪文化賞、98年に福岡アジア文化賞・学術研究賞、00年に南方熊楠(みなかたくまぐす)賞を受賞。 著書に「日本神話」(毎日出版文化賞)「帰化人」「日本文化の基層研究」「私の日本古代史」など多数。    まさに巨星墜つです。 当会の特別顧問としてご指導をいただき、ついこの間は「邪馬台国新聞」第2号に寄稿いただきました。 謹んでご冥福をお祈りいたします。                  2016年3月14日 全国邪馬台国連絡協議会会長 鷲崎弘朋  理事会一同 以下に、上田先生が「邪馬台国新聞」第2号(2015年12月31日発行)に寄稿された論考全文を掲載致します。                               魏志倭人伝の解釈について  全国邪馬台国連絡協議会特別顧問                             京都大学名誉教授  上田正昭        『魏志倭人伝』は多言するまでもなく、西晋の陳壽が太康年間(二八〇~二八九)        に撰述した、中国の『三国志』六五巻の『魏志』三〇巻の東夷伝の一部である。し        たがって、『魏志倭人伝』の用語の解釈は、『三国志』全体のなかで、陳壽がどのよう        な理解のもとで使っているかをまず検討することが必要である。         たとえば、「其の国、本亦男子を以って王と為し」と書いているのは、卑彌呼の死        後「更に男王を立てしも」と記しているのと関連する。もっとも亦(●)男王であったが、        「更に」男王を立てたけれどもの意味と解せられる。そして「住(とど)まること七・八十年、        倭国乱る。相攻伐すること歴年、及ち一女子を共立して王と為す。名づけて卑彌呼と        曰ふ、鬼道を事(こと)とし、能(よ)く衆を惑わす」と記載する。         『後漢書』はこの乱を「大乱」とし、その時期を「桓(帝から)霊(帝)の間(一        四七~一八八)とし、『梁書』や『太平御覧』では、霊帝光和(年中、一七八~一        八三)としぼっている。         ところでこの「共立」という用字を重視してこれを原始的民主制とか部族同盟の傍        証とする説がある。はたして陳壽はそのような意味で「共立」と書いたのであろう        か。『三国志』東夷伝の夫余の条では、簡位居という王に嫡子がなく、王が死んだの        で庶子の麻余を「共立」したと述べる。さらに高句麗の条では、伯固という王が死        んだが、長子の抜奇が「不肖」であったから小子の伊夷摸を「共立」したと記述する。        これらの「共立」は嫡子でない者が王となった場合に用いられていたことがわかる。         いまもし原始的民主制や部族同盟のあかしとし重視するなら、卑彌呼の死後、一時        男王が立ったとするさいに「男王を立てしも」とあって「共立」とは書かず、宗女臺        与女王となったさいに「年十三なるを立てて王となし」とあって、なぜ「共立」と書        かれていないのかを改めて問わなければならない。         また卑彌呼について「鬼道を事とし、能く衆を惑わすの「鬼道」を『後漢書』は「鬼        神の道」と記載しているので、それは「鬼神に事(つか)えて」の意味だとする説がある。        この場合も陳壽がなにを指して「鬼道」と述べているかを『三国志』のなかで吟味し        なければならない。『蜀志』劉焉伝には、張魯の母は「鬼道」をもって、常に益州牧        の劉焉の家に出入したとする。この張魯は道教の教団(五斗(ごと)米(べい)道(どう))        を創始した張陵の孫である。五斗米道の流れをつぐ張魯の母の「鬼道」は明らかに道教        であった。陳壽は卑彌呼の宗教乃至信仰を道教に類するものとみなして「鬼道」と表現        しているとみなすことができよう。         ただしだからというので卑彌呼のそれが、道教そのものであったと断言するわけに        はいかない。なぜなら日本古代史の史料に道教に関連する信仰や思想は明らかにみえ        ているが、教団道教の受容を物語る史料はなく、道士の史料はあっても、道観(道教        の寺院)は発掘調査でも今のところまだみられないからである。         『魏志倭人伝』の解釈は、『三国志』の用字にそくして考察する必要がある。いま        はその若干を指摘したにすぎない。私が「鬼道に事(つか)へて」とよまずに、「鬼道を        事(こと)とし」とよんできたのもそれなりの理由がある。

毎日新聞:三角縁神獣鏡 中国で「発見」?=伊藤和史(編集編成局)

      毎日新聞より(2016年3月2日)
     

徹底的な追究を期待

 三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)という日本の古墳から出土する銅鏡が、初めて中国で出土したとする報告が現れ、関西を中心に報道された。 事実なら、古代史最大の謎、邪馬台国(やまたいこく)所在地論争を左右する発見だ。 しかし、出土状況が不明なため、資料価値を全否定する見解もある。私も最初そう思ったが、興味深い論争を一歩前に進める機会になるかもしれないと考えを変えた。

資料価値に問題、学者は見解対立

 三角縁神獣鏡は縁部の断面が三角形の鏡。倭(わ)国(邪馬台国はその都)の女王卑弥呼(ひみこ)の鏡との説もある。 「魏志倭人伝」によると、3世紀、卑弥呼は中国の魏に使者を送り、贈り物をもらった。 そのリストに「銅鏡百枚」があり、魏の年号入りの品もある三角縁神獣鏡を指すとみなす。  近畿地方中心に分布する鏡なので邪馬台国畿内説の論拠なのだが、弱点がある。 500枚以上も見つかって「百枚」を大幅に超えている上、肝心の中国から一枚も出てこないのだ。 このため国産鏡説も根強く、「銅鏡百枚」候補は別の鏡だと考える。 仮に中国での出土が確認されれば、長年の製作地論争を中国鏡説に導く注目の鏡であるわけだ。  今回の報告のきっかけは、2014年12月に中国河南省の研究者兼コレクターが研究誌に発見を掲載したことだ。 大阪府教委文化財保護課の研究者、西川寿勝副主査が昨年11月、現物を調べた後、広く日本に紹介した。 09年以前に同省の洛陽(らくよう)(魏の首都)近郊で農民が見つけ、骨董(こっとう)市に出されたのを研究者が入手したという。不明瞭な経緯だ。  先日、この発見をめぐるシンポジウム(邪馬台国の会主催)が東京であった。 西川氏は、細部の形状や技法まで日本の出土品と比較した結論として、「日本で発見される三角縁神獣鏡と同じ人がつくった一枚」と断言した。  また、「日本の出土品が持ち出され、中国の骨董市場に出たのでは」という当然浮かぶ疑問には、「鏡面のさび方が、水分が多い酸性土壌の日本の鏡とは違う。 乾燥地帯の洛陽地方出土の他の鏡と共通している」と反論した。  一方、国産鏡説の安本美典・元産能大教授は「捏造(ねつぞう)鏡だろう」と酷評した。 安本氏は中国での偽物作りの巧みさ、市場の大きさなどを強調し、日本の出版物で三角縁神獣鏡のデータを参照すれば、簡単に偽造できると説明。 その上で、「中国にも出土地や時期がわかっている鏡が1000枚はある。それを研究に使うべきだ」と批判した。  捏造か否かはともかく、後段の主張には説得力がある。というのは、資料の信用性に関し、日本の考古学者は痛い経験をしたはずだからだ。 00年の旧石器発掘捏造事件の後、発掘現場では石器1点ずつの写真撮影はもちろん、位置や傾きなどの出土状況を綿密に調べ、記録している。  さらに、03年に提起された弥生時代の開始を500年早める論争でも、発掘資料の出土状況が問題にされた。 新年代に従うと、弥生時代初めの福岡県・曲(まが)り田遺跡出土の鉄器の年代が中国の鉄器の普及より早いという矛盾を生む。 新説への有力な反証だが、新年代論者は「写真や図など、出土状況の記録が報告書にない」と曲り田鉄器の価値を否定し、新説維持を図った。

邪馬台国の論争、前進める機会に

 こうした研究の現況をみれば、出土状況を説明できない鏡の1点など取り上げるに値しないとの議論はありうる。  この点で西川氏は、考古学の方法論には精緻さのレベルが異なる手法が複数あると解説し、 「今回は出土状況の対比ではなく、日本の三角縁神獣鏡と製作技法の細部を比較し、共通点が多い実態を示した。 オーソドックスな方法論に基づく結果」と述べる。  確かに厳密な発掘による資料だけが考古学の材料ではない。 私も骨董品店で著名な考古学者と鉢合わせし、「(骨董品も)研究に必要」と聞いた経験がある。 西川氏も、旧家に伝わる来歴不明の鏡に関し、出土状況の詳細を追跡する作業を地道に続けてきた一人だ。  そこで、期待したい。今回の鏡の意味を多数の研究者の目で徹底的に分析・追究するのである。 というのも、考古学界では、せっかくの論争が中ぶらりんに停滞するケースが結構あるといえるからだ。 発掘捏造事件では、「研究者の石器を見る力の向上」の提案が立ち消えになった。弥生の新年代でも、異論反論が解消されずに十数年たった。 三角縁神獣鏡の産地論争は互いの言いっ放しに陥ってほしくない。  今回、中国側は問題の鏡の分析で、日本の国家機関の参加を望んでいるという。 中国鏡説の他の研究者は、西川氏に果敢に協力してはどうか。 本当に使える資料なのか、明白な結果が出るまで、西川報告の価値を凍結するのは当然として。   「初めて中国で発見された三角縁神獣鏡」とされる鏡。直径18・3センチ=西川寿勝氏提供   日本の三角縁神獣鏡。黒塚古墳(奈良県天理市)で出土したうちの一枚。直径22・5センチ=西川寿勝氏提供

NHK NEWS WEB:弥生時代後期か すずりの一部出土 福岡・糸島市

      NHK NEWS WEBより(2016年3月2日)
      「魏志倭人伝」に登場する「伊都国」があったとされる福岡県糸島市の遺跡から、弥生時代後期のものとみられる「すずり」の一部が見つかり、 日本の文字文化の始まりをうかがわせる貴重な資料として注目を集めています。 すずりが見つかったのは福岡県糸島市にある「三雲・井原遺跡」です。 すずりは長さ6センチ、幅4.3センチ、厚さ6ミリで、糸島市教育委員会などによりますと弥生時代後期に当たる1世紀から2世紀ごろのものとみられ、 中国・漢の時代に普及していた「長方形板石硯」の一部とみられるということです。 邪馬台国が登場することで知られる古代中国の記録「魏志倭人伝」には、 当時この地域にあったとされる「伊都国」と中国との間で文書のやり取りが行われていたと記述されていて、 糸島市教育委員会では、日本の文字文化の始まりをうかがわせる貴重な資料だとしています。 弥生時代のすずりが見つかったのは平成10年に島根県松江市の遺跡から、かけらが見つかったのに続いて国内では2例目です。 鑑定に当たった九州大学の西谷正名誉教授は「『すずり』の発見は外交拠点だった伊都国を示す材料でもある。 文字そのものはまだ出ていないが、土器や小さな破片に字が書かれているかもしれないので詳しく調査していきたい」と話しています。   弥生時代の「すずり」一部が見つかる

静岡新聞:高尾山古墳に「物部氏」 原名誉教授 被葬者を指摘

      静岡新聞より(2016年2月17日)
       古代史専門家や歴史研究家でつくる全国邪馬台国連絡協議会(鷲崎弘朋会長)がこのほど、沼津市民文化センターで狗奴国サミット」を開き、 講演した原秀三郎静岡大名誉教授(81)は、3世紀前半に築造されたとみられる高尾山古墳(沼津市東熊堂)の被葬者を 有力豪族物部氏第6世代で開化天皇、崇神天皇の大臣だった「伊香色雄命(いかがしこをのみこと)」とする持論を発表した。  沼津市史編さん委員長も務めた原名誉教授は、古墳の出土品に日本書紀や古事記などの文献を照らし合わせて結論を得たという。 埋葬に使われた棺は、「古墳がある現在の金岡地区周辺の水路で使った小舟」と推論した。  高尾山古墳と築造年代や規模が似る弘法山古墳(長野県松本市)にも着目。 沼津周辺と中信州エリアを結ぶ南北の地帯が大和王権の東方統治の最前線だったとし、「物部氏がここに配置されていた可能性は十分ある」と指摘した。 同サミットは初開催。邪馬台国と対立していた狗奴国の所在に関する研究発表も行われた。 全国の会員ら約450人が聴講した。   高尾山古墳の被葬者について語る原秀三郎名誉教授= 沼津市民文化センター

毎日新聞:沼津で狗奴国サミット 古代史ロマンに400人

      毎日新聞より(2016年2月14日)
       「第1回狗奴国サミット」が13日、沼津市民文化センターで開かれた。 存廃に揺れた高尾山古墳(沼津市東熊堂)の保存を応援しようと会場を沼津に選んだ研究発表会。 古代史への関心が高まる中、約400人が耳を傾けた。  狗奴国は邪馬台国と対立していたと考えられる魏志倭人伝に登場する国。 サミットで原秀三郎・静岡大名誉教授が「高尾山古墳の被葬者は物部氏だ」とする独自説を発表。 森岡秀人・奈良県立橿原考古学研究所共同研究員が「狗奴国は天竜川以東にある」という説を発表した。 原名誉教授の熱弁に会場がどよめく場面もあった。 また「高尾山古墳を守る市民の会」の杉山治孝代表はあいさつの中で「古墳保存の署名では全国のみなさんに協力をいただいた」と感謝を述べた。  主催した全国邪馬台国連絡協議会の鷲崎弘朋会長(73)は「古代史の解明が最終目標だが、多くの人が集まり地域おこしの点でサミットは成功した。 高尾山古墳の保存活用方法の検討には会としても協力したい」と話した。 【石川宏】   約400人が集まった狗奴国サミット= 沼津市民文化センターで

日本経済新聞:中国製と国産の「中間」 能登で出土の三角縁神獣鏡

      日本経済新聞より(2016年2月5日)
       石川県中能登町の小田中親王塚古墳(4世紀後半)で明治時代以前に出土した三角縁神獣鏡が、 「中国製」と「日本製」の双方の特徴がある過渡的な鏡だったことが宮内庁書陵部の調査で分かり、詳細が書陵部紀要に掲載された。  「卑弥呼の鏡」ともいわれる三角縁神獣鏡は、初期ヤマト王権が権威の象徴として配布したとの説が有力。 文様のパターンや正確さなどから中国製と国産に分類されるが、小田中親王塚古墳の鏡は両者が一連のもので、 中国か日本のどちらかで作られ続けた可能性を示しており、論議を呼びそうだ。  調査した加藤一郎主任研究官によると、鏡は直径約21センチ、重さ827グラム。 神像、角や牙を持つ獣像などの文様がある「三神三獣鏡」で、中国製では最新段階に位置づけられる。 しかし、鏡の中心部(内区)とその外側(外区)の厚みにほとんど差がないなど国産鏡に近い要素もあった。  「いわゆる『中国製』から『日本製』への過渡期に当たる。 文様は初期の三角縁神獣鏡に比べ崩れているが、古代中国の神仙思想を理解したものであり、中国製だろう。 個人的には三角縁神獣鏡は全て中国製と思う」と話している。  同古墳は直径約65メートル、高さ約14メートルで、北陸最大級の円墳。能登半島を横切る交通の要衝にあり、 1875年に崇神天皇の皇子である大入杵命の墓に指定された。  指定前は埋葬施設の石槨が露出し、三角縁神獣鏡は墳丘上にあった神社に祭られていたという。 日本海側では最北の出土例で、近くの「白久志山御祖神社」の神宝となり、詳細な調査はされていなかった。〔共同〕 日本経済新聞の記事

   毎日新聞:全国邪馬台国連絡協     「高尾山古墳と狗奴国の魅力を知る」13日、沼津でサミット 基調講演や研究発表大会 /静岡

      毎日新聞より(2016年2月7日)
       全国の古代史愛好家らで作る「全国邪馬台国連絡協議会」(鷲崎弘朋会長)が13日、 沼津市内で「第1回狗奴国(くなこく)サミットin沼津〜高尾山古墳と狗奴国の魅力を知る」を開く。 狗奴国は、邪馬台国とライバル関係にあったとみられる魏志倭人伝に登場する国。  サミットは当初、熊本県で開催予定だったが、高尾山古墳(沼津市東熊堂(ひがしくまんどう))の保存問題が全国的問題となったため、沼津での開催となった。  狗奴国の所在地は不明。邪馬台国九州説に立てば熊本県、畿内説に立てば濃尾平野や関東北部が有力視される。  一方、高尾山古墳は230〜250年ごろ築造で全長62メートルの東日本最古最大級の前方後方墳。 前方後円墳はヤマト王権の権力の象徴とみられるのに対し、前方後方墳については ▽ヤマト政権の支配下にあるが前方後円墳を作ることが許されなかった勢力が作った ▽ヤマト政権の対抗勢力が作った−−という相反する考え方がある。  邪馬台国畿内説で、前方後方墳はヤマト政権の対抗勢力が作ったという考え方に立つと、高尾山古墳の被葬者は狗奴国の有力者の可能性もある。 狗奴国の男王卑弥弓呼(ひみここ)が高尾山古墳に葬られているのではないかとロマンを語る人もいる。  サミットは2部構成で、1部が「高尾山古墳の魅力について」。 日本考古学協会会員の瀬川裕市郎・高尾山古墳を考える会代表が概要説明をした後、 原秀三郎・静岡大名誉教授が「高尾山古墳に葬られたのは誰か−日本史上に占めるスルガ高尾山古墳の歴史的位置」と題し基調講演する。  2部「狗奴国サミット」は、森岡秀人・奈良県立橿原考古学研究所共同研究員が 「邪馬台国と狗奴国−その領域問題をめぐる考古学論争」と題し基調講演した後、研究発表大会がある。 当初講演予定だった日本考古学協会元会長で前方後方墳の研究で知られる大塚初重(はつしげ)・明治大名誉教授は病気のため欠席する。  全国邪馬台国連絡協議会の菊池秀夫事務局長(56)=横浜市泉区=は「協議会は特定の説を支持しないが、 邪馬台国畿内説に立てば東日本全体が狗奴国の対象となりうる」と説明。 沼津で開催する意義について「高尾山古墳は日本の古代国家形成の過程を解明するうえで重要。保存運動の成功を目指し世論喚起をしたい」と話した。  サミットは13日午後1時から沼津市御幸町の市民文化センターで。会費800円、高校生以下無料。 問い合わせは高尾山古墳を守る会事務局の秋野宣治さん(080・4222・0513)。【石川宏】 毎日新聞の記事

産経新聞:市道建設予定地の高尾山古墳「迂回で保存」推奨案、有識者協議会が決定

      産経ニュースより(2016年2月3日)
       市道建設予定地にある高尾山古墳の保存と道路建設との両立策を話し合う沼津市の有識者協議会が2日協議会後、 栗原裕康市長は「古墳と道路の両立への道筋が見えてきた」と、この案に沿って道路計画を修正する考えを表明。 古墳の保存を求めて市道建設に反対してきた市民団体もおおむね同案に理解を示しており、双方の対立は収束に向かう方向になった。  協議会ではこれまで、渋滞を緩和できる4車線道路の整備を前提に、道路を古墳西側に迂回する ▽トンネルで古墳を回避する▽古墳の東西に2車線ずつ上下線を分割する-などの9案を検討してきた。 2日の会合では、事業費が50億円を超える案や、多くの住民に再度の住宅移転を強いる案について「課題が大きい」として除外。 6案に絞り込んだ上で、検討を進めた。  このうち、トンネル案については、委員から「トンネル内部が急勾配にならざるを得ず、国道1号とも近接するため事故の危険度が高い」と慎重論が続出。 古墳の東西が道路に挟まれる案についても景観が損なわれる点などに懸念が集中した。  結局、事業費が約5億円と最少で、古墳西側に道路を迂回させる案を協議会の学識委員らが推奨案に決定。 ただ、T字型交差点に信号機を設置するための許可を県公安委員会から取れるかなど、流動的な側面も残るため、 他の5案も併記して市側に答申することになった。  協議会の決定について、「高尾山古墳を守る市民の会」の秋野宣治事務局長(71)は「全体的に古墳を守るという方針で協議が進められ、一安心した。 推奨案のように、古墳を迂回する形で道路を建設してほしい」と評価。 道路建設をめぐって行政と市民が鋭く対立してきた同問題は解消に向かう道筋が見えてきた。  市道の建設場所はJR沼津駅から北に約2キロの住宅街。 周辺の生活道路の渋滞解消を狙って計画が浮上したが、当初の案が古墳の真上を通る形で墳丘の大部分を取り壊す内容だったため、 考古学会や市民らが反対運動を展開していた。  同古墳は古墳時代初頭の前方後方墳で、同時期のものとしては東日本最大級。 邪馬台国畿内説を前提にした場合、邪馬台国の女王卑弥呼と敵対した狗奴国は東海地方にあったとする説が有力視されており、 埋葬者は狗奴国の有力者ではないかという見方も出ている。         【全国邪馬台国連絡協議会の対応】          2016年2月2日、高尾山古墳の保存と道路建設の両立を求める第3回協議会(これが最終回)が沼津市で開催され、鷲崎も傍聴してきました。          協議会が最も推奨した案では、古墳がほぼ現状で全面的保存され事業費も5億円と最小で済みます(もっとも、信号設置の留保条件は付きますが)。          協議会はこれにて栗原市長に答申することになりました。栗原市長もこの案にうなずかれ、協議会後、この案に沿って道路計画を修正する考えを          表明しました(産経新聞ニュースを参照)。          全国邪馬台国連絡協議会は、これまで保存運動を支援し、全理事・監事連名で保存を求める声明文を栗原市長や文化庁へ送付しました(2015年8月9日)。          協議会の今回の結論は当会の要望に全面的に沿った内容であります。あと一歩のところまで来ました。皆様のこれまでのご協力・ご尽力に感謝申し上げます。          後は、2月13日の「第1回狗奴国サミットin沼津」を成功させ、市長に英断していただくのが最善と思われます(記:2016年2月5日、鷲崎弘朋)。

東京新聞:第1回狗奴国サミット in 沼津(2月13日、市民文化センターで開催)

                狗奴国は邪馬台国と同様に日本国の起源として重要であるにもかかわらず、あまり注目されていません。         邪馬台国に関しては畿内説と九州説が長年に渡って論争が行われていますが、狗奴国についてはなされていません。         狗奴国の関心を高めることを狙いとして、全国の狗奴国の候補地を中心に「狗奴国サミット」を、全国邪馬台国連絡協議会が企画しました。         第1回目は高尾山古墳の保存問題で注目を浴びている沼津市で開催します。         この「第1回狗奴国サミット in 沼津」について、東京新聞2016年1月27日版で以下のように紹介されました。       

洛陽出土とされる三角縁神獣鏡を中国河南省で実見してきました(報告)

  中国河南省の古鏡研究家で鏡コレクターの王趁意氏(1949年生)が、洛陽発見とされる三角縁神獣鏡を、 2014年12月に『中原文物』(河南博物院主編)に論文発表した。 このことは、2015年3月2日の朝日新聞記事で紹介された。ただ、現物を見た日本人はいない。 そこで今回、大阪府教育委員会の西川寿勝先生に同行して、河南省鄭州へ赴き王趁意氏を訪問すると共に、 日本人として初めてこの三角縁神獣鏡を実見した(記:鷲崎弘朋)。 続きは・・・・・・

会誌「邪馬台国新聞」第2号が発行されました。

    邪馬台国新聞より(2015年12月31日) 会誌【邪馬台国新聞】第2号の2頁目以降の記事(項目のみ) *各支部活動報告・・2~4頁    ー東京支部    -近畿東海支部    -九州支部 *顧問投稿(アイウエオ順)・・4~13頁   ①元九州朝日放送キャスター・壱岐一郎・・『日本人とは何か~中国文明集団三波渡来説』   ②真説魏志倭人伝研究会・主催、北京大学医学部名誉顧問・岩元正昭・・『何故、「魏志倭人伝」は解明できないか』   ③京都大学名誉教授・上田正昭・・『魏志倭人伝の解釈について』   ④明治大学名誉教授・大塚初重・・『考古学者の邪馬台国への夢』   ⑤大阪市立大学准教授・岸本直文・・『倭国王帥升はヤマト国王か』   ⑥大東文化大学名誉教授・小林敏男・・『邪馬台国問題の課題』   ⑦歴史作家・関裕二・・『邪馬台国論争の忘れ物』   ⑧元九州考古学会会長・島津義昭・・『熊本と邪馬台国』   ⑨日本家系図学会会長・宝賀寿男・・『歴史資料の取り扱い姿勢』 *わが図書を語るー梨目正『邪馬壱国は阿波・徳島』・・・13頁 *第1回会員研究発表大会概要報告・・13~14頁   ①伊藤雅文・『魏志倭人伝の「道里」に関する新考察』   ②松尾定行(ペンネーム和田潤)・『邪馬台国九州北上回帰説』   ③福島巌・『大和に崇神王朝はなかった・邪馬台国は大伽耶の前身』   ④米田喜彦・『会員研究発表の要旨・・系図解読とは何か』 *編集後記・・14頁 *大会案内・・15~16頁    ①第1回狗奴国サミットin沼津~高尾山古墳と狗奴国の魅力を知る~ 2016年2月13日、13::00より。沼津市民文化センター    ②第3回東京大会「邪馬台国×気候変動」気候変動が文明の盛衰に与えた影響を科学的に解明する 2016年5月22日、13:00より。品川区総合区民会館きゅりあん

毎日新聞:今こそ生きた歴史学を 上田正昭(うえだ・まさあき)さん 著書『古代の日本と東アジアの新研究』(藤原書店・2015年10月21日・3888円)

    毎日新聞からのコピーです (2015年12月27日)  第二次世界大戦のさなかに大学に入り、戦後の混乱期に卒業した。「臣民」として「天皇」と「皇国」に殉ずるべきだと教育された。 敗戦とともに抱いた「天皇制とは何か」という疑問を解明しようと、古代史に本格的に取り組むようになった。 「戦後70年はそのまま私の研究史に重なります」  ここ3年ほどの間に学術誌などに発表した論文と書き下ろしで構成した。88歳にして81冊目の著書。 「人生最後の論文集になるでしょう」。それでも随所に新視点を盛り込んだ。  古代の王統の画期を改めて論じた。 奈良盆地東南部を本拠とした初期の三輪王権の崇神(すじん)、垂仁(すいにん)天皇が「イリヒコ」と呼ばれたのは、 九州にあった勢力が東に移ってこの地域に入ったことを反映していると、邪馬台国東遷説の立場を明確にした。  大阪平野を本拠とした応神天皇以降を河内王朝と呼ぶ。 この時代、中国に使いを送った倭(わ)国王(天皇)は朝鮮半島の一部を含めて自らの統治領域と主張した。 日本を中心として朝鮮半島を下に見る「日本版中華思想」が、『日本書紀』で天皇を「天子」と称していることにも表れていることを示した。  いつから天皇が神と呼ばれるようになったのかについて考察した。 天武天皇とともに古代国家成立に大きな役割を果たした持統天皇の即位式と大嘗祭(だいじょうさい)で、 中臣氏が奏上した「天つ神の寿詞(よごと)」についても論究している。 「出雲(いずもの)国造(くにのみやつこ)が奏上した神賀詞(かむよごと)は嫌というほど論文があるのに中臣の寿詞はほとんどありません。 新研究と言えるでしょう」  これまでの著書では、朝鮮半島の百済(くだら)、新羅(しらぎ)、高句麗(こうくり)と日本の関係を個別に論じてきたが、 本書では三国をまとめて取り上げ、さらに中国の唐、渤海(ぼっかい)を加えて論じた。 江戸時代の朝鮮通信使について言われる善隣友好が、古代にもあったことを強調する。 「関係が悪化している今こそ、対立を乗り越えて友好を築いた過去に学ぶべきです」  学生時代、国文学者の折口信夫の講義を聴いて影響を受け、神話や祭り、芸能に目を向けてきた。 明治以来、国策として悪用されてきた国家神道ではなく、自然とともに新しい文化を創造するのが神道の原像であり、今こそ見直すべきだと主張する。  隣接の学問にも目を向け、史実に即して、日本がいかにあるべきかを見極める。「それが生きた歴史学だと思います」 <文と写真・佐々木泰造> 毎日新聞記事より 古代の日本と東アジアの新研究 毎日新聞の記事 (注)京都大学名誉教授の上田正昭先生は全国邪馬台国連絡協議会の特別顧問で、会誌『邪馬台国新聞』第2号(2015年12月31日発行)に、                論文「魏志倭人伝の解釈について」を寄稿されています。

読売新聞:三角縁神獣鏡、中国で発見? 日本人研究者、近く報告

    読売新聞からのコピーです (2015年12月16日)  日本の前期古墳から出土する三角縁神獣鏡は、邪馬台国の女王・卑弥呼が3世紀半ば、中国・魏から贈られた鏡とも言われる。 だが、肝心の中国からは一面も見つかっておらず、日本製か中国製か、製作地を巡る論争が続いている。 ところが、この鏡が中国で見つかり、現物を確認した日本人研究者が「中国で出土した可能性が高い」とする見解を 24日に京都市内で開かれる研究会で報告することになった。 真偽も含め、新たな論争が起きそうだ。  2014年12月、収集家で研究者の王趁意(おう・ちんい)氏が、かつて魏の都があった洛陽(河南省)で この鏡が発見されたとの論文を現地の専門誌に発表した。 しかし、鏡は王氏の手元にあるものの、出土状況が不明な上、実物を見た日本の研究者はこれまでなく、意義付けが難しかった。  そこで三角縁神獣鏡に詳しい大阪府教委文化財保護課の西川寿勝副主査が、今月11月、河南省の王氏を訪ね、 問題の鏡の写真撮影や計測を行った。 その結果、直径18.3センチの「吾作銘三角縁四神四獣鏡」という種類で、鏡面は硬く分厚い赤色のサビで覆われ、一部に絹織物が付着。 二つに割れており、ハンだ付けした後、合成塗料を塗って補修を隠した痕跡があることが分かった。  西川副主査は「文様だけでなく、表面が波打つような研磨方法からも本物なのは疑う余地がない。 サビや補修の特徴などから、最近、洛陽付近で出土した可能性が高い。三角縁神獣鏡の製作地を考える新たな資料になる」と指摘する。  一方、日本製説の菅谷文則・奈良県立橿原考古学研究所長は「写真では文様や銘文にやや違和感があり、 自分の目で確かめるまで価値判断できない」といい、中国製説の福永伸哉・大阪大教授(考古学)も「本物とみてよいが、 出土状況が分からない以上、製作地の決め手にはならない」と慎重な見方をしている。 (大阪本社編集委員 関口和哉) 読売新聞記事より 王氏が所蔵する三角縁神獣鏡(11月下旬、中国河南省で)=西川寿勝氏提供

Web ニコニコニュース:近畿派呆然? 「邪馬台国はどこ」意識調査で「九州説」大勝の謎

    Web ニコニコニュースからのコピーです (2015年12月4日) 日本古代史上最大の謎と言えば、「邪馬台国は、いったいどこにあったのか?」という問題だろう。 江戸中期に活躍した儒学者・新井白石の研究をきっかけに、現在まで300年以上続く大論争である。 そこでJタウン研究所は2015年10月19日から12月2日までの45日間、「邪馬台国はどこにあると思う?」というテーマで、 都道府県別にアンケート調査を実施した。選択肢は「九州」・「近畿」・「その他」の3つ。 はたして、全国925名の読者は「九州説」と「畿内説」、いったいどちらの学説を支持したのだろうか。 日本人の過半数が支持しているのは、どっち? 全国の投票結果をみると、その結果は明暗がくっきりと分かれる形になった。 北海道から沖縄まで、全国の幅広い地域で支持を集めたのは――九州説だった。 「九州」は全体の54.4%となる503票を獲得。一方の「近畿」が330票(35.7%)と伸び悩んだこともあり、結果として大きな差がついた。 全国の分布を見ても、近畿地方を除くほとんどの地域で九州説が優勢だった。 都道府県別で見ても、得票率8割を超えた地元・九州を筆頭に、全国32の地域で過半数(同率含む)を獲得。 そのなかでも、とくに有力な候補地とされている佐賀・熊本・大分・宮崎の4県では得票率100%という分かりやすい結果が出た。 そうはいっても、近畿ではやはり「畿内説」が強さを見せた。 投票率100%を獲得した奈良・和歌山を筆頭に、近畿2府5県内での得票率は68%に達した。 しかし、過半数を獲得した地域が17止まりという結果を見れば分かるように、他地域からの得票はイマイチ伸びず。 これが、九州説に大きく水をあけられる直接の要因となった。 ちなみに鳥取では、全国で唯一「その他」が最多得票を獲得。 調べてみると、どうやら俗説の1つに「邪馬台国山陰説」というものがあるらしい。 確かに、島根でもその他への投票率は20%を超えている。 なかなか耳慣れない説ではあるが、両県民の間では定着しているのだろうか......。 学説では「近畿」が優勢だけど... 今回の投票では、多くの日本人が「邪馬台国は九州にあった」と考えていることがわかった。 だが実は――、卑弥呼の墓という説もある「纏向遺跡」(奈良県)が2009年に発見されて以来、 現代の学説では「畿内説」が比較的優勢となっているらしい。 いったいなぜ、学会の風潮とは真逆の結果が出たのだろうか。 おそらくそれは、学校で「邪馬台国論争」を習った時期が関係していると思われる。 1960年代から2000年代半ばまで、学界では長らく「九州説」が有力視されていた。 その傾向は、教育の現場に直接的な影響を与えたことは間違いない。 つまり、多くの読者が「邪馬台国=九州」といったイメージを持っているのは、昔受けた「歴史の授業」が要因なのではないか。 あくまで、推測ではあるが。 Web ニコニコニュース記事より Web ニコニコニュースの記事

読売新聞:「卑弥呼の鏡」製作技術に迫る  同じ鋳型で短期間に量産か

    読売新聞からのコピーです (2015年12月2日)  邪馬台国の女王・卑弥呼の鏡とも言われる三角縁神獣鏡は、畿内大和説と北部九州説が対立する邪馬台国の所在地や、 古代国家形成の7謎を解く鍵を握るとされる。奈良県立橿原考古学研究所は、この鏡の精密な3次元計測を続けており、 その結果、製作技術を巡る新たな事実が見えてきた。(大阪本社編集委員 関口和哉)    三角縁神獣鏡には、卑弥呼が中国・魏に使者を送った「景初三年(239年)」の年号を持つものもあり、 近畿(畿内)を中心に分布することから、邪馬台国や大和王権との密接な関係が指摘されている。 製作地については、①中国製で一部は日本製②全て中国製③全て日本製―――の3説があり、決着がついていない。    1998年に同県天理市の黒塚古墳(3世紀後半)で、この鏡33面が出土したことを受け、同研究所は、3次元計測を開始。 1面あたり400万ものデータを記録し、立体画像として形状の詳細な比較が可能となった。    これまでに三角縁神獣鏡289面のほか、画文帯神獣鏡37面、方格規矩鏡20面など中国製の鏡214面、内行花文鏡78面、 だ龍鏡23面など日本製の鏡563面、製作地不明12面の計1078面を計測している。    こうしたデータを基に成果を上げたのが2010年、同県桜井市の桜井茶臼山古墳(3世紀末~4世紀初め)で出土した鏡の調査。 破片384点から、中国・魏の年号「正始元年(240年)」のある三角縁神獣鏡を含む13種81面を特定。 国内で最多の鏡が副葬されていたことを突き止めた。    三角縁神獣鏡では、同じ文様の鏡が、多いもので10面前後存在する。 量産方法については、同じ鋳型を使い回す「同范技法」と、同じ元型で作った複数の鋳型で鋳造する「同型技法」の2説あり、議論になっていた。    計測結果を分析したところ、鋳型に由来する傷などから、ほとんどが同范技法で作られていることが判明した。 同研究所の水野敏典・総括研究員は、同型技法に比べて同范技法は、良質の銅鏡を量産するのに適さず、 中国と日本の古代鏡では、ほとんど使われていない点を指摘。 他方、鋳型の数を最小限にとどめて多数の鏡を製作できる利点もあるとして「省略化、時間短縮のために同范技法が選択されたのでは」と推定する。    さらに、出土した三角縁神獣鏡のうち、中国製とされるものと日本製とされるものに製作技法上の違いはなく、 「全て中国製か、全て日本製のいずれかの可能性が高い」と指摘。 「中国製で一部は日本製」という、従来主流だった説は成立しないと主張する。    製作地までは特定されていないが、材料の成分分析や、型式の変化などと合わせ、厳密で総合的な研究ができるようになってきた。 製作地を決める証拠となる鋳型が発見されれば、どの鏡を鋳造したかまで特定できる可能性もある。    福永伸哉・大阪大教授(考古学)は「三角縁神獣鏡の研究は文様が主で、製作技術については十分進んでいなかった。 短期間の量産に対応するため特殊な技法を用いたとの見方には賛成できる。そこから、この鏡の歴史的な意義も見えてくるのでは」と評価している。  ※三角縁神獣鏡   直径22センチ前後という大型の青銅鏡。 姿を映す面の裏側は、縁の断面が三角形で、古代中国思想の神仙や霊獣が浮き彫りになっている。 主に古墳時代前期(3世紀後半~4世紀末)の古墳に副葬され、これまでに約560面が出土、同じ文様の鏡が100組以上ある。 ただし、中国では出土していない。 読売新聞記事より 黒塚古墳で出土した鏡。中央の小さい鏡は画文帯神獣鏡。残りは三角縁神獣鏡=奈良県立橿原考古学研究所提供 読売新聞記事より 同じ鋳型で鋳造したことで、次第に壊れていく文様のコンピューター画像。(奈良県立橿原考古学研究所提供) 読売新聞記事より 三角縁神獣鏡の3次元計測をする水野総括研究員(左)ら(奈良県橿原市で)=長沖真未撮影 読売新聞記事より 奈良県立橿原考古学研究所が3次元計測した古代の鏡

日本経済新聞:「中国製」「国産」同じ鋳型か 卑弥呼の「神獣鏡」、傷ほぼ一致

    日本経済新聞からのコピーです (2015年11月1日)  女王卑弥呼が中国・魏から贈られた「銅鏡百枚」の有力候補とされ、舶載鏡(中国製)か ●(にんべんに方)製(ぼうせい)鏡(国産)かで論争が続く三角縁神獣鏡。  奈良県立橿原考古学研究所の清水康二主任研究員が、鏡に残った鋳型の傷から舶載鏡とされる1枚と ●製鏡とされる3枚が同じ鋳型から作られた可能性があることを1日までに突き止めた。    4枚とも中国製か国産の可能性が浮上。三角縁鏡は文様の正確さなどから舶載、●製に分類されるが、 この分類が揺らぐことになり、製作地論争に影響を与えそうだ。  清水さんによると、鋳型にひびのような傷があると、鏡にはひびを反映した線状のしわができる。 三角縁鏡は仕上げの研磨が雑で鋳型の傷を確認しやすく、清水さんは同研究所などが行った3次元形状計測による鏡の精密な画像を分析した。  その結果、舶載とされるヘボソ塚古墳(神戸市)の鏡と、●製とされる鶴山丸山古墳(岡山県備前市)などの計4枚は いずれも文様が違うのに鋳型の傷を示すしわの形や長さ、位置が、それぞれ2~3カ所で一致したとしている。  清水さんは「複数箇所の一致は偶然ではありえない。鏡を鋳造後、鋳型の文様面を削って新しい文様を彫り込んだが、 ひびが深いため、そのまま残り、同じ形のしわができた」とし、4枚の鋳型は同じと結論付けた。  他にも筒野古墳(三重県松阪市)などの舶載鏡と、造山1号墳(島根県安来市)の●製鏡は 同じ鋳型から作られたと確認し、さらに増える可能性がある。  清水さんは「途中から日本で作ったとすると、鋳型をわざわざ中国から運んできたことになり可能性は低い。 舶載、●製の分類は意味がなくなった」と話している。〔共同〕  ▼三角縁神獣鏡  古墳時代の早い段階で古墳に副葬されることが多く、縁の断面が三角形をしている。 日本で500枚以上確認され、文様の正確さなどから400枚近くが舶載とされる。  卑弥呼が中国・魏に使いを送った「景初三年」(239年)を銘文に持つ鏡があるため、 魏から卑弥呼に贈られた鏡との説もある一方、中国では1枚も出土していないことから国産説も根強い。〔共同〕 日本経済新聞記事より ヘボソ塚古墳の三角縁神獣鏡(左)と鶴山丸山古墳のもの。 それぞれの鏡の矢印部分で、同じ鋳型の傷を示すしわが確認された(東京国立博物館蔵)=奈良県立橿原考古学研究所提供          日本経済新聞の記事

     足立倫行氏(ノンフィクション作家)が『歴史街道』12月号で、          全国邪馬台国連絡協議会を紹介しました。

                  『歴史街道』2015年12月号からのコピーです。
     

     おもしろ歴史フェスティバル:歴史バトルー邪馬台国はどこだ?

  2015年9月27日、奈良県明日香村あすか風舞台VS佐賀県吉野ヶ里歴史公園をネット回線で結び、 邪馬台国近畿説と九州説の研究者と歴史愛好家のバトルが開催された。 近畿説:石野博信氏、麻殖生剛一氏、熊倉房明氏、西川寿勝氏 九州説:高島忠平氏、関家敏正氏、河村哲夫氏、杉岡貴之氏 10月31日(土)の奈良新聞で、この歴史バトルが大きく報道されました。下記の記事コピーを参照下さい。 なお、高島忠平先生と西川寿勝先生は全国邪馬台国連絡協議会の特別顧問、 関家敏正氏は同副会長・九州支部長、河村哲夫氏は同理事・九州副支部長です。            奈良新聞記事1   奈良新聞記事2 奈良新聞記事より    インターネット中継で吉野ヶ里歴史公園と結び、邪馬台国論争が繰り広げられた歴史バトル=27日、明日香村のあすか風舞台

     朝日新聞:古代史研究家の古田武彦さん死去 「邪馬壹国」と主張

    朝日新聞からのコピーです (2015年10月16日)  古田武彦さん(ふるた・たけひこ=古代史研究家)が14日死去、89歳。故人の遺志で葬儀は行わない。  福島県生まれ。東北大で日本思想史を学んだ後、高校教諭などを経て昭和薬科大教授に着任。 当初、親鸞の研究で知られたが、邪馬台国問題に強い関心を持ち、「魏志倭人伝」に記された国名は 「邪馬台(たい)国」ではなく「邪馬壹(いち)国」と主張。 九州説の立場で70年代以降、「『邪馬台国』はなかった」、「失われた九州王朝」(いずれも朝日新聞社刊)などの著作を次々と発表した。            朝日新聞記事より    古田武彦さん 朝日新聞の記事

     奈良新聞:白熱!邪馬台国論争 - おもしろ歴史フェスティバル

    奈良新聞からのコピーです (2015年9月28日)  26、27の両日、明日香村の国営飛鳥歴史公園石舞台横「あすか風舞台」で開かれた「第4回おもしろ歴史フェスティバル~歴史を愉しむ」 (同フェスティバル実行委員会主催、奈良新聞社・国営飛鳥歴史公園・吉野ヶ里歴史公園共催)。 好天に恵まれ、日本人の心の故郷、明日香を舞台に歴史のロマンにふれるさまざまなイベントを繰り広げた。  ∇歴史バトル  2日目の27日には、インターネット回線であすか風舞台と佐賀県・吉野ヶ里歴史公園を結んで歴史バトル「邪馬台国はどこだ?」を開催。 女王卑弥呼の邪馬台国をめぐって、研究者と歴史愛好家が論争を繰り広げ…            奈良新聞記事より    インターネット中継で吉野ヶ里歴史公園と結び、邪馬台国論争が繰り広げられた歴史バトル=27日、明日香村のあすか風舞台 奈良新聞の記事

     西日本新聞:邪馬台国の所在地でネット通し持論展開 吉野ケ里でフォーラム [佐賀県]

    西日本新聞からのコピーです (2015年9月28日)  九州か、近畿か。邪馬台国の所在地について討論するフォーラムが27日、吉野ケ里歴史公園(神埼市、吉野ケ里町)であった。 同公園と奈良県明日香村の飛鳥歴史公園をインターネット中継で結び、九州説、畿内説を唱える研究者がそれぞれ登壇。 魏志倭人(わじん)伝の研究、遺跡の発掘成果などを踏まえた持論を展開した=写真。  吉野ケ里歴史公園で11月8日まで開催中の 特別展「よみがえる邪馬台国 倭人伝の道3・テクノポリス国家『奴国(なこく)』」(西日本新聞社後援)の記念イベント。  畿内説を唱える兵庫県立考古博物館の石野博信名誉館長は「当時の都に一番ふさわしいのは奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡。 大規模な建物群が計画的に集中して造られているほか、周辺に大規模古墳がある」などと指摘。 吉野ケ里遺跡発掘を指揮した考古学者の高島忠平氏は「優れた霊能力を持つ卑弥呼のような巫女(みこ)王の誕生過程は考古学的にみて 北部九州でしか説明できないほか、国際色豊かな遺構も集中している」と九州説を主張した。            西日本新聞記事より   西日本新聞の記事

     朝日新聞:王仲殊さん死去 中国の考古学者、邪馬台国論争で新説

    朝日新聞からのコピーです (2015年9月27日)  王仲殊さん(ワン・チョンシュー=元中国社会科学院考古研究所長)が24日、病気で死去、89歳。 同研究所によると、公葬は行わないという。  中国考古学界の第一人者。邪馬台国の謎を解く鍵と考えられる「三角縁神獣鏡」について、 渡日中国人が日本で製造したという独自の説を発表した。 浙江省寧波の出身で、北京大歴史学科を卒業と同時に同研究所での研究生活に入った。 専門は中国漢唐考古学だが、古代の日中交流史の研究に力を注ぎ、日本での講演活動も多かった。 1996年には福岡市などが設けた「福岡アジア文化賞」の大賞を受賞した。 朝日新聞の記事

     読売新聞:邪馬台国期の集落跡、寝屋川に…土器片数千点も

    読売新聞からのコピーです (2015年9月18日)  邪馬台国時代の2世紀後半~3世紀半ばの集落跡が、大阪府寝屋川市の小路しょうじ遺跡で出土したと、市教育委員会が17日、発表した。  市教委は「北河内地域でこの時期の集落跡が確認されるのは初めてで、代表的な集落遺跡になる」とみている。  市教委によると、約4000平方メートルを発掘し、柱穴や溝、井戸跡などを確認。ごみ捨て穴などから、 2世紀後半~3世紀半ばの土器片が数千点出土した。集落は南北300メートル、東西200メートルの範囲に広がると推測している。  また、土器には、吉備(岡山県)や東海(愛知県)のものが各1点含まれており、広域的な交流があったことをうかがわせる。  遺跡の南東500メートルには全長87メートルの前方後円墳、忍岡しのぶがおか古墳(4世紀初め)があり、集落と関連する可能性がある。 市教委文化スポーツ振興課は「北河内地域の古墳出現期について解明する手がかりになる」と評価している。  現地説明会は26日午後1~3時。京阪バス小路北町バス停から南約200メートル。駐車場はない。  問い合わせは同課(072・824・1181)へ。            読売新聞記事より    ごみ捨て穴から出土した邪馬台国時代の土器片(大阪府寝屋川市の小路遺跡で)=寝屋川市教委提供 読売新聞の記事

     朝日新聞:奈良の中西遺跡で溝跡など出土 4世紀最大の建物群か

    朝日新聞からのコピーです (2015年8月19日)  古墳時代前期(4世紀前半)の特殊な大型建物群が見つかっている奈良県御所(ごせ)市の秋津(あきつ)遺跡に隣接した中西遺跡で、 多数の竪穴建物や区画溝の跡が出土した。県立橿原考古学研究所(橿考研)が19日発表した。 両遺跡の建物群は一体のものとして計画的に配置され、当時最大規模だった可能性がある。ヤマト政権の実態が不明な「空白の4世紀」に迫る発見だ。  秋津遺跡では2009年度以降、東西約150メートル、南北約100メートルの範囲で、現代の伊勢神宮などにみられる 「独立棟持柱(むなもちばしら)建物」と呼ばれる建物跡やそれらを板塀で囲んだ「方形区画施設」が出土。 祭殿のような祭祀(さいし)空間のあった可能性が指摘されている。  今回、その南西の中西遺跡で、一辺3~6・5メートルの竪穴建物跡計26棟や、人工的に掘られた幅30センチ~1メートル程度の 複数の区画溝が出土。竪穴建物群は秋津遺跡の建物群と方位をほぼそろえていた。 両遺跡では東西200メートル以上、南北約400メートルにわたり、祭祀と居住の空間が計画的に配置されていたとみられる。  橿考研の今尾文昭調査課長は「屈指の規模。初期ヤマト政権直営の祭祀施設では」。 石野博信・兵庫県立考古博物館名誉館長(考古学)は奈良盆地西南部が大豪族・葛城氏の拠点とされることに着目、 「葛城一族の独自の祭場だったのでは」とみる。  現地説明会は23日午前10時~午後3時。JR玉手駅の南西に徒歩約40分。 問い合わせは橿考研(0744・24・1101)へ。(塚本和人)            朝日新聞記事より    四世紀で最大規模の建物群か、中西遺跡 奈良=熊倉隆広撮影 朝日新聞記事より    土器とともに見つかった竪穴建物跡=19日、奈良県御所市 朝日新聞の記事

     毎日新聞:高尾山古墳を考える:沼津市、道路変更検討へ  有識者協初会合、速度や車線削減 /静岡

  毎日新聞からのコピーです (2015年9月4日)     沼津市が取り壊しの方針を白紙撤回した高尾山古墳(沼津市東熊堂(ひがしくまんどう))の現状保存と  道路建設の両立を検討する有識者による協議会(大橋洋一議長)の初会合が3日、同市内であった。  市側は設計速度など4点について前提を変更し道路設計を検討し直すことで両立を図ると説明し、了承された。  11月ごろ予定している次回会合で、具体的な検討結果が示される。市民72人が傍聴した。【石川宏】    検討し直すのは(1)設計速度を60キロから50キロまたは40キロに減速 (2)車線数を4車線から2車線に削減 (3)幅員25メートルの道路の上下線分離・歩車道分離 (4)周溝から5メートル離すとした古墳保護区域の見直し−−の4点。    例えば、設計速度を60キロから40キロに落とせば、カーブの最小半径を従来の120メートルから50メートルに、    坂道の最大勾配を7%から9%にすることが道路構造令で許され、古墳を迂回(うかい)できる可能性が高まる。  会合では、高尾山古墳の重要性と道路建設の重要性の双方について委員の認識が一致した。  委員からは「古墳を残した場合のまちづくり上の価値を併せて議論する必要がある」(矢野和之委員)  「古墳と道路の両方の100点は狙えなくても、80点と80点の両立なら可能」(久保田尚委員)  「墳丘の高さが古墳の特徴。墳丘を残すことが大きなポイントになる」(禰宜田(ねぎた)佳男委員)−−などの意見が出た。  会合後、栗原裕康市長は「大変有意義な議論をしていただいた。両立する案が出そうだ」と評価した。  傍聴した「高尾山古墳を守る市民の会」の杉山治孝代表は「両立の方向性でみなさん真剣に考えていると理解した。  意義ある結論に進むのではないか」と期待した。  大橋議長は「公共事業は始まったら止まらないのが一般的。(事業を止め、公開で協議会を開いた)沼津市の取り組みは透明性が高く先進的。  将来のまちづくりの新しいモデルになるのではと期待している」と述べた。 ==============  ◇高尾山古墳の協議会委員◇  大橋洋一・学習院大法科大学院法務研究科長(行政学)=議長  ▽久保田尚・埼玉大大学院理工学研究科教授(都市計画) ▽矢野和之・文化財保存計画協会代表(文化財保存計画)  ▽難波喬司・副知事(京都大客員教授) ▽杉山行由・県教育次長 (アドバイザー)               神田昌幸・国土交通省街路交通施設課長▽禰宜田(ねぎた)佳男・文化庁主任文化財調査官            毎日新聞記事より    高尾山古墳の協議会であいさつする栗原裕康市長=沼津市大手町のプラサヴェルデで 毎日新聞の記事 ■ 静岡県沼津市高尾山古墳の保存を求める当会声明を出しました。

     読売新聞:銅鐸にひも初確認、「舌」つり下げる…淡路島

  読売新聞からのコピーです (2015年8月13日)    木に銅鐸つるして鳴らす  兵庫県南あわじ市(淡路島)で見つかった弥生時代中期(紀元前3~同2世紀)の「松帆銅鐸まつほどうたく」について、 県教育委員会などは12日、音を鳴らすため内側につるした青銅製の棒「舌ぜつ」と、銅鐸のつり手部分の「鈕ちゅう」に ひもの一部が残っていたと発表した。銅鐸でひもが確認されるのは初めて。 専門家は「銅鐸を木などにつるして鳴らしたことが裏付けられた」としている。    県教委などによると、発見された銅鐸7個のうち、大きい銅鐸に小さい銅鐸を納めた入れ子状態の1組2個を分離して調べたところ、 大小それぞれの銅鐸で、ひもが舌の穴に通された状態で確認された。    ひもは、植物繊維をねじったり、組み合わせたりしており、太さ4~5ミリ。銅鐸内面の下方の隆起した「突帯とったい」に、 ひもでつり下げた舌をあてて鳴らしたとみられる。    大小いずれの銅鐸の鈕にも太さ2ミリ程度のひもや痕跡があり、つり手にひもを巻いてつり下げたらしい。    ひもの原料は麻か、イラクサ科の多年草「からむし」の可能性があり、銅鐸から溶け出した銅イオンの防腐効果で残ったとみられる。 舌の下端や銅鐸内部にはイネ科などと推定される草の葉らしい植物も付着。県教委などは放射性炭素年代測定などで分析し、 銅鐸の使用や埋納の時期を調べる。    調査した奈良文化財研究所(奈良市)の難波洋三・埋蔵文化財センター長は「ひもが残っていたのは奇跡的。 銅鐸の具体的な使い方を示す発見だ。銅鐸が埋められた時期を知る手がかりになるだろう」と話した。    13~16日に南あわじ市滝川記念美術館でひもの写真などが展示される。問い合わせは同館(0799・36・2314)。            読売新聞記事より 読売新聞記事より    舌の上端。茶色く残っているのがひも(奈良文化財研究所提供) 読売新聞記事より  小さい銅鐸の舌。上端の穴にひもが残っていた。下端に付着しているのは植物(兵庫県南あわじ市教委提供) 読売新聞の記事

     毎日新聞:<キトラ古墳>天文図は紀元前後中国で観測された星の可能性

  毎日新聞からのコピーです (2015年7月15日)    奈良県明日香村の国特別史跡・キトラ古墳(7世紀末~8世紀初頭)の石室天井に描かれていた天文図について、 文化庁などは15日、星の位置関係を調べた結果、紀元前1世紀半ばと、紀元後4世紀に中国で観測された星が 共に描かれている可能性があると発表した。 謎とされていたキトラ天文図の由来に迫る成果といえそうだ。    キトラ天文図の星の配置は独特で、原図に該当する星図は見当たらないとされる。 今回の研究は、文化庁と奈良文化財研究所、中村士・元帝京平成大教授(天文学史)、 相馬充・国立天文台助教(位置天文学)らが共同で行った。    星の位置は年々変化しており、中村元教授は天文図に描かれた20個以上の星宿(せいしゅく)(星座)の位置から年代を推測。 その結果、紀元前1世紀半ばごろの観測と判断した。紀元前の星の位置を記録したとされる 古代中国の「石氏星経(せきしせいきょう)」とも整合したという。    一方、天文図には北極星の周囲にあり地平線に沈まない星の範囲を示す円が描かれている。 相馬助教は円や星の位置関係などから、紀元後4世紀に北緯約34度地点で観測したと結論付けた。 この緯度には古代中国の都として栄えた洛陽や長安(現西安)が位置する。    奈文研飛鳥資料館の石橋茂登学芸室長は「天文図は紀元前の中国で作られ、数百年後に修正が加えられて海を渡り、 明日香にたどり着いた可能性がある」と話している。【矢追健介】            毎日新聞記事より  キトラ古墳の星宿=文化庁提供 毎日新聞の記事

新刊書『古代史研究の最前線 邪馬台国』の出版

2015年5月15日、洋泉社より(1600円+税)で出版されました。 巻末で、全国邪馬台国連絡協議会が紹介されています。 洋泉社より  テーマ毎に12人の第一人者が執筆し、最新の研究動向を確認する上で分かり易い内容となっています。 当会顧問の西川寿勝先生、松木武彦先生、森岡秀人先生が含まれており、当会会員は是非お読みいただくよう、お勧め致します。 巻末第4章「邪馬台国研究入門」(宮代栄一・朝日新聞編集委員)は当会を紹介し、 「また、もし、アマチュアだけれど、研究成果をどこかで発表したい、研究仲間と議論したい・・・ということであれば、 昨年発足した全国邪馬台国連絡協議会などはいかがだろう。 国内のアマチュアの邪馬台国研究者の連絡組織で、加入すると、地方大会などで発表することができる。 独自のプロジェクトも進めている。ホームページがあるのでくわしくはそちらを見てほしい。」  それと、おやっと思った事があります。第1章「所在地論争の現在」の中に、「纏向遺跡の現状ー大型建物跡発見以後」がありますが、 「纏向遺跡=邪馬台国王都説」にかなり批判的に書いています。 この執筆者は寺沢薫先生や橋本輝彦先生ではなく、洋泉社編集部となっています。 寺沢先生や橋本先生はお忙しいかったのでしょうか? 以下、目次です。 第1章 所在地論争の現在          『魏志』倭人伝を読む         田中俊明          唐古・鍵遺跡が語る邪馬台国      西川寿勝          北九州の視点から邪馬台国を探る    若井敏明          纏向遺跡の現状ー大型建物跡発見以後  編集部 第2章 邪馬台国時代の国内問題          卑弥呼「共立」前に起こった「倭国(大)乱」とはなにか  松木武彦          環境変動と東海地域「狗那国」の原像           赤塚次郎          卑弥呼の「都」を諸条件から考える            西本昌弘          弥生時代の女性の地位からみた、卑弥呼の擁立       清家 章          卑弥呼治世に向けての倭国の変動             森岡秀人 第3章 邪馬台国をめぐる国際関係          魏志東夷伝のなかの邪馬台国               東 清          卑弥呼は倭国、それとも邪馬台国の女王だったのか     仁藤敦史          三角縁神獣鏡を科学する                 水野敏典          中国考古学から見た邪馬台国               上野祥史 第4章 邪馬台国研究入門                    宮代栄一 (文責 鷲崎)

     朝日新聞:淡路島で発見の銅鐸内部に「舌」4本 全国で初めて確認

  朝日新聞からのコピーです (2015年6月27日)    兵庫県南あわじ市(淡路島)で見つかった弥生前期末~中期初頭(紀元前3~同2世紀)の銅鐸(どうたく)7個のうち、 大小の銅鐸が「入れ子」状態になった内部に砂が詰まっている2組計4個をCTスキャンしたところ、 音を鳴らすための青銅製とみられる「舌(ぜつ=振り子)」4本が入っていることがわかった。 県教育委員会が26日発表した。舌が入った状態の銅鐸が確認されたのは全国で初めて。 研究者は「銅鐸の祭祀(さいし)を考える上で極めて貴重だ」と注目している。    7個は、「入れ子」状態の3組計6個と破損した1個。石材セメント製造会社の砂置き場で4月に見つかり、 元々埋納されていたとみられる沿岸部の地名から「松帆(まつほ)銅鐸」と名付けられた。 今回、砂に埋まっている可能性のある「舌」の位置などを慎重に調べるため、奈良文化財研究所(奈文研)がX線で断面を撮影した。    2組はいずれも高さが約32センチと22センチ前後の銅鐸が二重になっており、 各銅鐸の内側に長さ約13センチと約8センチの舌を確認した。 舌は4月に見つかった3個と合わせ計7個を数え、1カ所で確認された青銅製としては過去最多。            朝日新聞記事より CTスキャンで舌が入っていることがわかった2組の銅鐸。大小の銅鐸が「入れ子」状態になっている=奈良市            朝日新聞記事より CTスキャン画像に基づいて、1組の内部を表現した3次元画像。細長い部分が「舌」=奈良文化財研究所提供            朝日新聞記事より CTスキャン画像に基づいて、1組の内部を底側から見た3次元画像。左下の二つが「舌」=奈良文化財研究所提供            朝日新聞記事より CTスキャン画像に基づいて、1組の内部を表現した3次元画像。細長い部分が「舌」=奈良文化財研究所提供 朝日新聞の記事

     中日新聞:沼津の高尾山古墳 壊さないで

  中日新聞からのコピーです (2015年6月16日)

  ◆市民3団体 きょう陳情書提出

   沼津市が都市計画道路の建設中に見つかった高尾山(たかおさん)古墳(同市東熊堂(くまんどう))の取り壊し方針を決めたことに対し、 古墳の保存を求める市民グループ三団体が相次いで発足した。市議会で取り壊しの予算化が審議されるため、 三団体は十六日、古墳の現状保存を求める陳情書を市議会議長宛てに提出する。    高尾山古墳は、高坏(たかつき)などの出土品から三世紀初頭築造の前方後方墳で、東日本最古級とされる。 市議会が今月、古墳の発掘調査費を盛り込んだ市補正予算案を可決すれば、市は記録保存の「全面発掘」を名目に、 七月から古墳を削り取る作業に取り掛かる。    陳情書を提出するのは、古墳近くの金岡地区の住民でつくる「高尾山古墳を守る市民の会」 (杉山治孝(はるたか)代表)、考古学者を中心にした「高尾山古墳を考える会」(瀬川裕市郎代表)、 市内外の声を集める「高尾山古墳の保存を望む会」(吉田由美子代表)の三団体。いずれも市が先月に取り壊し方針を発表後に発足した。    市民の会の十二日の発足集会には二十人が集まった。代表の杉山さんは「市側が市民から古墳保存を求める声がないと 認識していることに違和感を覚えた」と結成理由を語る。杉山さんは地元の歴史を発掘する有識者会議の元会長でもある。 「地元住民の多くは古墳を地元の誇りだと思っている。誰も保存を求める声を上げないのは市民として恥ずかしい」と語気を強める。 陳情書を提出後、署名活動を展開する。    考える会の瀬川さんは沼津市教委の元学芸員。日本考古学協会(東京)に属しており、 「県考古学会と一緒に保存を働き掛ける」と学術的立場を強調する。    望む会は、地元住民とは別に内外の声をまとめようと、市内の主婦吉田さんと山下富美子沼津市議が十四日に結成した。 インターネットで「取り壊さないで!」に賛同クリックを求める活動を始め、山下市議は「予算案が通ってからでは遅い。 少しでも多くの声を市に届けたい」と話す。    報道などをきっかけに高尾山古墳に関心を持つ人もネット上に増えている。 交流サイト・フェイスブックで、市民を中心に五百人以上が参加し、まちづくりを議論する「沼津大学」は七月下旬、専門家を招いたセミナーを開く。 主催する女性経営者は「古墳の価値を理解する市民を少しでも増やし、何が大切なのかを皆で考えたい」と述べた。    一方で、古墳の地元の五自治会は今月二日に道路の早期完成を求める要望書を沼津市長に提出している。

◆卑弥呼と敵対の王の墓?

   静岡文化芸術大の磯田道史教授(歴史学)の話 中国の歴史書「魏志倭人伝」に「女王卑弥呼(ひみこ)、 狗奴国(くなこく)の男王卑弥弓呼(ひみここ)ともとより和せず」とあり、狗奴国は東国にあるというのが考古学研究者の説だ。 高尾山古墳は二三〇~二五〇年の間に築造と埋葬が行われ、まさに卑弥呼の墓とされる箸墓古墳(奈良県桜井市)と同時代でもある。 箸墓古墳と同様に、高尾山古墳は周囲に堀があり、大きさも六十メートル超と東国最大級。卑弥呼のライバルと言うべき東国の王の墓だ。 卑弥弓呼の墓の可能性も十分にある。            中日新聞記事より 沼津市が取り壊す方針の高尾山古墳 =沼津市で、本社ヘリ「まなづる」から            中日新聞記事より 古墳保存を求める「市民の会」の設立集会で あいさつする杉山治孝さん(中) =沼津市江原町の金岡地区センターで            中日新聞記事より            中日新聞記事より 中日新聞の記事

     読売新聞:国産銅鏡最古の鋳型出土、奴国の先進性裏付け

  読売新聞からのコピーです (2015年5月28日)    福岡県春日市教委は27日、同市の須玖タカウタ遺跡で、裏面に複数の鈕ちゅう(つまみ)がある 多鈕鏡たちゅうきょうの鋳型が出土した、と発表した。 権威の象徴とされる銅鏡の最古の鋳型で、弥生時代後期(紀元後1世紀頃)に始まると考えられていた銅鏡の国産が、 銅剣や銅矛などと同じ中期前半(紀元前2世紀頃)までさかのぼることを示す発見。 中国の史書「魏志倭人伝」が記す奴国なこくの中心部とされるこの一帯の先進性を改めて裏付けるものだ。    発表によると、鋳型は石製で墓の跡から出土。長さ5・1センチ、幅2・5センチ、厚さ2・3センチの破片で、 鈕にひもを通す穴や、直線と曲線を組み合わせた文様が残っていた。復元できれば直径15センチを超える可能性もあるという。 銅鏡の鋳型は全国で十数点出土していたが、多鈕鏡の鋳型は初めて。    多鈕鏡は国内で出土する最古の形式の鏡で、弥生時代中期の遺跡から12面が出土している。 いずれも土の鋳型で作られたとみられる繊細な文様を持つ多鈕細文さいもん鏡と呼ばれるもので 文様が粗い今回の鋳型とは一致しないが、鋳型の出土で、すべて朝鮮半島製と考えられてきた通説も再検討を迫られそうだ。            読売新聞記事より 須玖タカウタ遺跡で出土した多鈕鏡の 鋳型の破片(福岡県春日市で)            読売新聞記事より            読売新聞記事より 長崎県平戸市・里田原遺跡で出土した 多鈕細文鏡。今回出土した鋳型とは 一致しないが、比較的文様が粗く 国産の可能性が指摘される (平戸市教委提供)            読売新聞記事より 読売新聞の記事

     共同通信:弥生時代にバジル伝来、纒向遺跡 花粉を発見

  共同通信からのコピーです (2015年5月22日)    邪馬台国の有力候補地・奈良県桜井市の纒向遺跡で22日までに、日本で自生しないバジルの花粉が見つかり、 分析した奈良教育大の金原正明教授(環境考古学)らが論文発表した。 弥生時代に中国から持ち込まれたとみられ、金原教授は「遺跡が大陸との交流の拠点だった事を裏付ける発見」としている。    花粉は、1991年の発掘調査で、遺跡の中心にある3世紀中ごろの溝の土から検出された。 植物の特定は進んでいなかったが、金原教授らが現生のバジル花粉と比較し、判明した。    バジルはインドや東南アジアなどが原産。見つかった花粉は、国内最古のバジルの存在を裏付けるという。            共同通信記事より 奈良県桜井市の纒向遺跡で 見つかったバジルの花粉    (金原正明奈良教育大教授提供) 共同通信の記事

     読売新聞:砂山から銅鐸7個発見…「国宝級の資料」評価も

  読売新聞からのコピーです (2015年5月20日)   弥生時代中期(紀元前2世紀頃)の銅鐸どうたく7個が、兵庫県南あわじ市(淡路島)で見つかり、県教委と市教委が19日、発表した。   海岸近くの松帆まつほ地区から採取された砂の山から見つかり、「松帆銅鐸」と名付けられた。 出土数では、最多の島根県雲南市・加茂岩倉遺跡(39個)などに次ぐ4番目となり、一度に大量に埋められた最古のケースとなる。 専門家は「初期の銅鐸祭祀さいしの解明につながる国宝級の資料」と評価している。   銅鐸は、高さ22~32センチ、底幅13~19センチで、絵画が描かれていない古い時期のもの。 うち1個は、上部の半円形の「鈕ちゅう」と呼ばれる部分の断面がひし形をした「菱環鈕りょうかんちゅう式」で、 全国でほかに11例しか確認されていない最古段階のものだ。また、3個には銅鐸を鳴らすため内部につるす 青銅製の棒「舌ぜつ」(長さ8~13センチ)が付いていた。 一度に見つかった舌の数としては最多。 舌が付いたまま大量埋納された例はなく、銅鐸を大量に埋める祭祀の最初の形態だった可能性がある。            読売新聞記事より 出土した銅鐸。左2個が最初に見つかった。 右奥は入れ子状態の2組4個。右手前は壊れた1個。 手前の銅鐸の前に置かれた棒3本が舌 (19日、兵庫県南あわじ市で)=金沢修撮影 読売新聞の記事

     読売新聞:縄文時代の「土偶」、1・9億円で落札…初出品

  読売新聞からのコピーです (2015年5月15日)    13日にロンドンで開かれた競売会社サザビーズのオークションで、日本の古美術収集家のコレクションだった「土偶」が、 約101万3000ポンド(約1億9000万円)で落札された。落札予想価格7万~9万ポンドの11倍以上の高額だった。   サザビーズジャパンによると、この「土偶」は縄文時代のもの。サザビーズのオークションに土偶が出品されるのは初めてという。 落札者については明らかにされていない。            読売新聞記事より サザビーズのオークションで落札された「土偶」 (サザビーズジャパン提供) 読売新聞の記事

     日本経済新聞:湖の「しましま」で町おこし 福井、7万年分の堆積層

  日本経済新聞からのコピーです (2015年5月14日)    化石や遺跡の年代を特定する世界標準の「物差し」として、福井県の水月湖(若狭町)の堆積層「年縞(ねんこう)」が注目を集めている。 年輪のように1年ごとの層がしま模様を形成しており、県や町はこの「しましま」を使って教育目的の旅行や観光客を呼び込み、 地域おこしにつなげようと力を入れている。    水月湖は名勝三方五湖の一つ。プランクトンの死骸や鉱物など湖底に沈降する物が季節によって変わるため、堆積層がしま状になる。 湖の深い場所は酸素がなく生物が生息できないため、しまが乱されずに残る。    日欧の研究チームが堆積層の葉の化石を調べるなどして年代特定の物差し作成に成功。2012年、科学誌に発表したことから 国内外での認知度が高まり、湖底の年縞は直接見られないが、地質に興味がある人たちが多く訪れるようになった。    12年からは若狭町が船でクルーズしながら年縞や湖の環境について説明するツアーも本格的に開始。 中高年を中心に人気で、キャンセル待ちが出るほどだ。    若狭三方五湖観光協会の担当者によると、修学旅行で水月湖近くを訪れ、年縞の説明に興味を示していた台湾の高校生グループもあった。 担当者は「教育を目的とした旅行を呼び込む新しい武器になりそうだ」と話し、今後、年縞の説明を充実させていくという。    福井県も動きだした。採取した年縞約1メートル分を張り付けた展示パネルを作成。全国を回ってPRする考えだ。 年縞の実物や分析データを研究機関に提供することも検討。県自然環境課は「国内外の研究者が福井を訪れるきっかけになってほしい」と 期待を寄せる。〔共同〕

▼水月湖の年縞

  年縞は湖底の堆積層にプランクトンの死骸や湖水から出た鉄分などが積もって描かれた模様で、 年輪のように1年ごとの層がしま模様を形成。水月湖では日欧の研究チームが7万年分の層を確認した。    チームは各年代の堆積層と、中から見つかった木の葉の化石に含まれる炭素の放射性同位体の量を組み合わせ、 精度の高い年代測定の「物差し」を作成。歴史的な遺物の年代を決める物差しを定期的に見直している世界の研究者らが、 水月湖のデータを使うことに合意した。国内では他に秋田などで同様の堆積層が見つかっている。〔共同〕   日本経済新聞の記事

    会誌「邪馬台国新聞」が創刊されました

  邪馬台国新聞より (2015年4月27日)  邪馬台国新聞記事より  会誌【邪馬台国新聞】創刊号の2頁目以降の記事(項目のみ)  *各地区活動報告―東京地区・・・2頁  *加盟団体紹介・・・2~4頁     NPO法人阿波国古代研究所、出雲邪馬台国研究会、九州の歴史と文化を楽しむ会、   真説魏志倭人伝研究会、先古代史の会、邪馬台国の会、邪馬台国を考える会  *顧問投稿―大阪府教育委員会西川寿勝・・・5~8頁     『邪馬台国研究にあたって 付―洛陽発見の三角縁神獣鏡』  *事務局だより・・・8頁

     毎日新聞:福岡・延永ヤヨミ園遺跡:国内最古級の「導水施設」

  毎日新聞からのコピーです (2015年3月16日)

      ◇3〜4世紀中ごろ 近畿の水の祭祀、短期間に九州に

  九州歴史資料館(福岡県小郡市)は16日、同県行橋市の延永(のぶなが)ヤヨミ園(その)遺跡から九州で初めて出土した 古墳時代の水の祭祀(さいし)遺構「導水施設」の木樋(もくひ)が、3世紀中ごろ〜4世紀中ごろのものと判明したと発表した。 ヤマト政権発祥の地とされる奈良県の纒向(まきむく)遺跡で出土した国内最古の3世紀後半〜4世紀初頭のものとほぼ同時期で、 近畿で始まった水の祭祀が極めて短期間に九州にも伝わっていたことになる。誕生したばかりのヤマト政権が 延永ヤヨミ園遺跡一帯を九州支配の拠点としていたとみる識者もいる。   2011年の調査で出土した木樋は三つの細長い部分からなり、長さ4.2メートル、幅35〜70センチ、厚さ4〜10.4センチ。 一方の端に長さ35センチ、幅30センチと、長さ60センチ、幅35センチの二つの水槽状のくりぬきがあり、 もう一方の端まで幅10センチの溝が延びる。放射性炭素年代を測定し実年代に換算した結果、3世紀中ごろ〜4世紀中ごろのものと判明した。 二つの槽を持つ木樋の実物が出土したのは国内初。   木樋はくいで地面に固定され、周囲には1.7〜1.8メートル間隔で柱が4本あった。 建物か塀で囲った中で、くりぬき部分に水をためて上澄みを得たとみられる。水の祭祀の意味はよく分かっていないが ▽葬送儀礼や王位継承で用いた▽浄化した水で首長が地域の繁栄と永遠の命を願った▽浄水を水田にまき豊作を祈願した−−などの説がある。   纒向遺跡に続く導水施設の遺構は滋賀県や京都府、石川県などで4世紀のものが見つかっている。 5世紀になると導水施設をかたどった埴輪(はにわ)や石製品も近畿を中心に全国各地で出土する。 このため5世紀ごろに水の祭祀が近畿から各地に波及したとされていた。 今回、近畿から遠い九州で纒向遺跡とほぼ同時期のものが出土したことで、その通説は再考を迫られそうだ。   調査した九州歴史資料館の城門(きど)義広・主任技師は「近畿でも出土例が少ない古い時代に、地域の首長が行う祭祀として既に伝来している。 ヤマト政権が遺跡一帯を重視していたといえる」と話している。木樋は5月10日まで同館で展示される。【大森顕浩】   西谷正・九州大名誉教授(考古学)の話 ヤマト政権の最新文化が時間差なくもたらされており、 この遺跡一帯が誕生したばかりのヤマト政権の九州支配の拠点だったのではないか。

      ◇導水施設

  木樋や木槽などに水を流し、上澄みの浄水を得る古墳時代の施設。木樋の周囲は建物や壁で覆う例が多く、 神聖な場所の隔離とみられることから祭祀施設とされる。近畿中心に群馬県など全国13遺跡で確認され、 施設をかたどった埴輪や石製品も三重、東京、大分など全国12地点で出土している。              毎日新聞記事より 延永ヤヨミ園遺跡(福岡県行橋市)で出土した国内最古級の導水施設木樋 福岡県小郡市の九州歴史資料館で 毎日新聞の記事

     朝日新聞:邪馬台国論争に新材料 卑弥呼の鏡?「中国で発見」論文

  朝日新聞からのコピーです (2015年3月2日)          邪馬台国の女王・卑弥呼がもらったとも言われ、製作地を巡り論争が続く謎の鏡・三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)。 これと同じ型式の鏡が中国河南省の洛陽市で見つかったとする論文が、地元の研究誌に掲載された。   論文を書いたのは河南省在住のコレクターで研究者でもある王趁意さん。 王さんは鏡について「2009年ごろ、当時、洛陽最大の骨董(こっとう)市で、市郊外の白馬寺付近の農民から譲り受けた」と説明する。 正確な出土地点はわからないという。   鏡は直径18・3センチ。厚さ0・5センチ。三角縁神獣鏡としてはやや小ぶりで、 内側に西王母(せいおうぼ)と東王父(とうおうふ)という神仙や霊獣、外側にノコギリの刃のような鋸歯文(きょしもん)と 二重の波状の模様を巡らせる。   鏡が見つかった洛陽市は中国の三国時代に魏の都があった場所。歴史書「魏志倭人伝」は、239年に魏の皇帝が倭(日本)を 治める邪馬台国の女王・卑弥呼に「銅鏡百枚」を与えたと記している。 日本では、100枚の鏡は三角縁神獣鏡とみる意見が多かったが、肝心の中国から1枚も出土していないため、疑問が呈されてきた。 今回の発見はこの論争だけでなく、邪馬台国の所在地論争にも影響を与える可能性が大きい。   明治大の大塚初重名誉教授は「写真を見ただけだが、三角縁神獣鏡に間違いない。 まだ1面だけなので、同種の鏡がさらに見つかるかどうか注意深く見守っていく必要がある」と話している。(塚本和人)

    ■製作地巡り2説が対立

  今回発見された「三角縁神獣鏡」の最大の特徴は、今まで中国の鏡では確認されていなかった、松の枝を重ねたような「笠松文様」がある点だ。 三角縁神獣鏡独特のもので、王さんは「外側の鋸歯文も日本の三角縁神獣鏡の典型的な特徴の一つで、中国の鏡にはほとんど見られない文様」と主張する。 実物を見た河南省博物院の張●(●は金へんに皆)生さんも「複数の研究者が実物を見たが、贋作(がんさく)などではない」と話す。              朝日新聞記事より 中国で見つかった三角縁神獣鏡 王趁意さん提供 朝日新聞の記事

     朝日新聞:奈良)弥生時代の大柱、初公開 唐古・鍵ミュージアム

  朝日新聞からのコピーです (2014年10月31日)         弥生時代の大環濠(かんごう)集落遺跡、田原本町の唐古(からこ)・鍵(かぎ)遺跡(国史跡)で見つかった 弥生時代最大級の大型建物跡の柱が、唐古・鍵考古学ミュージアム(同町阪手)の秋季企画展「弥生遺産Ⅱ~唐古・鍵遺跡の木製品~」で 初公開されている。   町教委によると、柱は円筒状で、直径83・2センチ、長さ2・5メートルのケヤキ。 弥生時代中期中ごろ(紀元前2世紀)のものとみられ、残存する弥生時代の柱材では最大級とされる。 柱穴の中で傾いた状態で出土し、上端部が炭化していた。   柱材を転用するために穴から抜き取ろうとしたが、その巨大さのために断念。 柱を傾かせたうえで地上部に突き出た部分を燃やして取り外し、残った部分を現地に放置したとみられる。              朝日新聞記事より 唐古・鍵遺跡で出土し、保存処理を終えた柱 田原本町教委提供 朝日新聞の記事

     朝日新聞に全国邪馬台国連絡協議会のニュースが取り上げられました

  朝日新聞からのコピーです

朝日新聞 2014年11月22日

       (あのとき・それから)平成元年 吉野ケ里遺跡発掘 邪馬台国のロマン、一躍脚光

(1989年)

             修学旅行生の一団に交じり、吉野ケ里歴史公園(佐賀県神埼市、吉野ケ里町)の高さ12メートルの物見櫓(ものみやぐら)             を上る。弥生後期の国内最大規模の環濠(かんごう)集落跡「吉野ケ里遺跡」を整備した公園は、九州の米どころ             筑紫平野にあり、周囲をめぐらせた濠(ほり)と木の柵の向こうに収穫後の田が広がる。              1989年、この遺跡に突然、全国の注目が集まった。きっかけは2月22日、発掘調査現場を訪れた             奈良国立文化財研究所の考古学者、佐原真さん(故人)のひと言だった。「魏志倭人伝(ぎしわじんでん)に             記されたクニの中心部を思わせる」              中国の史書「魏志倭人伝」は、邪馬台国の女王・卑弥呼がいるところは「宮室楼観城柵(ろうかんじょうさく)             厳設(宮室、楼観、城柵が厳かに設けられ)」と記す。吉野ケ里には、物見櫓「楼観」の跡とみられる1メートル             四方の六つの柱穴と、濠の外側に「城柵」をうかがわせる土塁があった。弥生時代の遺跡では全国初の発見だった。             「邪馬台国か」。翌日から連日、新聞やテレビが大きく取り上げ、黄金週間までの2カ月半で、100万人を             超す見学者が押し寄せた。              説明は県教委の職員だけでは足りず、遺跡の保存を訴える市民団体「佐賀の自然と文化を守る会」のメンバーらが             加わった。守る会の関家敏正さん(80)は300人に囲まれて説明を続けたという。              海部俊樹首相や、邪馬台国の謎に挑んだ作家の松本清張らが訪れ、映画「男はつらいよ」の「ぼくの伯父さん」             (89年公開)のロケもおこなわれた。関家さんは「発掘現場は『大イベント』の現場へと変わった」とふり返る。

             遺跡の発掘調査はその3年前に始まった。佐賀県が企業誘致のために計画した工業団地の予定地だったからだ。             埋まっている文化財を発掘し、記録保存するための調査だった。時はバブル経済に向かう好景気。             農業地帯の若者たちが就職で地元に残るために、工業団地が切望されていた。              その状況が一変した。県庁の会議で、県教委文化課参事だった高島忠平さん(74)が遺跡の保存地域の拡大を             求めると、開発担当の部長らと「保存か開発か」で激論になった。香月(かつき)熊雄知事(故人)が             「調査結果をみて判断しよう」と、遺跡北側にある墳丘墓(ふんきゅうぼ)の発掘を提案した。             91年には国の特別史跡に指定された。              高島さんは「工業団地計画によって消えかけた遺跡の保存を決めたのは、圧倒的な数の見学者に象徴された世論。             『邪馬台国のロマン』に対する国民の関心の高さが原動力だった」と明かす。また、吉野ケ里のインパクトにより、             魏志倭人伝という文献中心だった邪馬台国論争が「遺跡を目の前にして本格的に展開されるようになった」と高島さんはいう。

             現在、邪馬台国の所在地をめぐっては、九州説だけで吉野ケ里以外に、福岡県の朝倉(あさくら)、甘木(あまぎ)、             久留米、八女(やめ)などがある。畿内説には、奈良県の纒向(まきむく)遺跡、唐古(からこ)・鍵(かぎ)遺跡などがある。              今年、古代史の専門家やアマチュア研究者らが「全国邪馬台国連絡協議会」を立ち上げた。             上田正昭・京都大名誉教授や大塚初重・明治大名誉教授らが特別顧問。文献史学や考古学に、             年輪年代法や放射性炭素年代測定法なども取り入れて、遺跡や古墳群の時代特定を目指す。              会長の鷲崎弘朋さん(71)は「吉野ケ里をはじめ、筑紫平野の遺跡は邪馬台国の有力候補だ。             全国各地の出土物の資料を入手して科学的に歴史を解明し、日本の国家成立や私たちの祖先の姿を明らかにしたい」             と語る。(平出義明)

■あきらめきれずに電話 遺跡発掘現場の責任者・七田(しちだ)忠昭さん(62歳)

             吉野ケ里遺跡に初めて行ったのは小学生のときです。高校の日本史教師だった父が遺跡の研究をしていたので、             ついて行きました。              77年に佐賀県教委に採用され、遺跡の発掘をしてきました。吉野ケ里の担当になった時は、子どもの頃から             隅々まで歩いてきた遺跡だけに、発掘で、どのような光景が広がるか想像してうれしくなりました。             発掘は県教委職員ら6人と作業員100人で実施。年長者の私が現場の責任者を務めました。              環濠が南北1キロに及び集落も大きい。物見櫓の柱跡も見つかりました。調査後には壊すのだと考えると悲しくなり、             佐原真さんに見に来て欲しいと電話をしました。「10日後なら行ける」という返事に、工業団地造成工事を             延ばしてほしいと業者にかけ合いました。              大きく報道され、視察した香月知事が「すごい遺跡だから残したい」と記者たちに語ったときは、「まさか」と             驚きました。知り合いの記者に「よかったね」と声をかけられました。              吉野ケ里遺跡はその中心部の形が中国の古代城郭を意識しており、私は邪馬台国の可能性が高いと考えています。             吉野ケ里は、大陸文化を産業、社会、紛争、外交に上手に生かして発展してきた、日本文化の源流です。             いま、外国との関係や付き合い方を考えるとき、私たち先祖の姿に思いをはせてほしいですね。

◆卑弥呼の国、今なお論争

             3世紀、卑弥呼が女王だった邪馬台国はどこにあったのか。魏志倭人伝では、邪馬台国への道のりが方角や距離、             日程で示されているが、確かさに欠けているため、長年にわたって様々に解釈されてきた。              江戸時代は、儒学者・新井白石や国学者・本居宣長らが魏志倭人伝などから、畿内や九州の説を論じた。             明治になると、東京帝国大教授の白鳥庫吉(くらきち)が九州説、京都帝国大の内藤虎次郎(湖南)が畿内説をとり、             論争を繰り広げた。両教授の立場は、しばらく東京大系と京都大系の学者に受け継がれた。              1968年には、九州説の松本清張が「古代史疑」を著すなどしたことから、一般の人々の間にも邪馬台国への             関心が高まった。              九州説、畿内説以外に、出雲、吉備、阿波のなど90を超える候補地があるという。             朝日新聞記事より 「邪馬台国時代のクニ」報道後の日曜日には             1万1千人もの見学者が押し寄せた             朝日新聞記事より 1989年当時の吉野ケ里遺跡の発掘の様子。             遺骨を納める甕棺(かめかん)が約3千みつかった。             矢を打ち込まれた遺骨もあった             朝日新聞記事より 復元された祭殿や物見櫓などの建物群            朝日新聞の記事

     奈良新聞:天皇陛下が纏向遺跡の「桃の種」年代測定でご質問

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奈良新聞 2014年11月18日

       44年ぶりの参拝 纒向遺物も見学 - 大神神社

 天皇・皇后両陛下が大神神社を参拝されるのは昭和45年以来、44年ぶり。二の鳥居周辺では、多くの参拝者が             国旗を振って出迎えた。  両陛下は参拝の後、ご神体の三輪山や纒向遺跡の出土遺物を見学された。纒向遺跡で出土したモモの種について             「年代測定はしていますか」と質問されるなど、それぞれの遺物に強い興味を示されたという。  市教育委員会文化財課の橋本輝彦・調査研究係長と同神社の平岡昌彦・権禰宜が説明役を務めた。  3時間前から沿道に立ったという田原本町の藤田信弘さん(72)は「一生で最後の機会と思ってきました」、 妻の弘子さん(68)も「車中の皇后さまはおきれいで上品でした」と感激した様子。母親とそろって沿道に             並んだ桜井市の小学2年、末松優佳ちゃん(7)は「お二人とも優しいお顔でした」と話していた。 【全国邪馬台国連絡協議会のテーマとの関係】             実は、その前日の11月16日に、東京有楽町の読売ホールで纏向学研究センターの「東京フォーラム」が開催され、 松井桜井市長や橋本輝彦先生も出席された。松井市長は挨拶の中で、「あす17日に天皇陛下が来られるので、今日 夕方には桜井市に帰らなければなりません」と話をされていました。 この機会に、私(鷲崎)は橋本輝彦先生に「桃の種」の炭素14年代を名古屋大学のAMS装置で測定させていただき たいと要請しました。2014年10月5日には全国邪馬台国連絡協議会の第1回全国大会が明治大学を会場に「科学的 年代論で解く邪馬台国」と題し、「考古学から見た邪馬台国」(大塚初重明治大学名誉教授)、「文献史学から みた邪馬台国」(安本美典元産業能率大学教授)、「年輪年代法と古代史」(光谷拓実奈良文化財研究所客員研 究員)、「酸素同位体比を用いた新しい年輪年代法と古代史」(中塚武総合地球環境学研究所教授)、「炭素14 年代法と古代史」(中村俊夫名古屋大学教授)、の5人の最高権威にご講演をいただきました。それを受けて最 後に私が「今後への期待と展望」と題して講演を行いました。この私の講演では纏向の「桃の種」を取り上げ早急 に炭素14年代を測定したいとしました。 橋本輝彦先生には私からこれらを説明し、「桃の種」の炭素14年代を測定すべく、今後、名古屋大学も入れて進め たいと要請しました。橋本先生は前向きに受け止め持ち帰って検討したいとのことでした。橋本先生が天皇陛下と 「桃の種」の話をしたのは翌日の17日ですから、これにはびっくりしました。もちろん、これは偶然のタイミング でしょうが、これを機会に全国の遺跡や出土物の年代測定が進み古代史解明が大きく進展すればと思っております。 (会長 鷲崎弘朋)             奈良新聞記事より 両陛下の車列を沿道で歓迎する参拝者=17日、             桜井市三輪の大神神社 奈良新聞の記事

     奈良新聞に全国邪馬台国連絡協議会のニュースが取り上げられました

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奈良新聞 2014年10月07日

       「邪馬台国」解明へ - 全国連絡協が発足 東京で第1回大会

 邪馬台国を研究する全国の団体と個人で構成する全国邪馬台国連絡協議会(鷲崎弘朋会長)が発足し、5日、             東京都千代田区の明治大学で第1回全国大会が開かれた。5人の研究者による講演に、約400人の古代史ファンが             集まり、熱心に耳を傾けた。  同会は、邪馬台国と古代史解明に新たな道を切り開こうと、ことし4月に発足。多くの研究者が長年にわたり             調査研究を続けてきた邪馬台国を中心に、全国の16団体と約170人の個人会員で構成している。             会員らは研究報告などを通して交流する。  各団体の情報開示を積極的に行うことも目的で、「文献史学」と「考古学」が中心だった従来の研究に「自然 科学(理化学)」を加えた新たな枠組みで研究を加速させる狙いがある。  第一回大会は大会タイトルを「最新情報・科学的年代論で解く邪馬台国」とし、明治大学の大塚初重名誉教授らが 講演した。  鷲崎会長は「古代史の解明は日本人のアイデンティティ確立にとって不可欠。畿内説も九州説も、プロもアマも、 同じ土俵に乗って議論し、情報を共有していく」と同会の意義を述べた。             奈良新聞記事より 考古学から見た邪馬台国について講演する             明治大学の大塚初重名誉教授=5日、             東京都千代田区の明治大学 奈良新聞の記事

     朝日新聞に全国邪馬台国連絡協議会のニュースが取り上げられました

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朝日新聞 2014年04月22日

 中国の歴史書「魏志倭人伝」に記されながら、所在地すら分からない「邪馬台国」。その解明に取り組む全国の アマチュア研究者らが連絡協議会を立ち上げた。「ゆくゆくはプロと一緒に共同研究を」と夢はふくらむ。  会の名前は「全国邪馬台国連絡協議会」(事務局・東京)。19日に東京都内で開催された設立総会で発足した。  特色は、個別に活動しているアマチュアの古代史研究者の多くが参加していること。個人のほか、約1500人 の会員を擁する「邪馬台国の会」など15団体も加盟した。  協議会会長となった鷲崎弘朋さんは「熱意を持つ団体や個人を広く募り、アマチュアの知恵を結集して研究を 進めていきたい」と意気込む。  歴史書「魏志倭人伝」では、邪馬台国は女王・卑弥呼が治める倭(わ)(古代の日本)の中心的なクニとして描か れるが、所在地については、有力とされる九州・畿内の2説のほか、山陰説、四国説、沖縄説など30以上の説がある。 九州説でも博多湾沿岸、大分県宇佐、筑後など二十数カ所近い候補地があり、研究者の間でも意見が分かれているのが 現状だ。都の候補地としても、奈良県の纒向(まきむく)遺跡や佐賀県の吉野ケ里遺跡などの名があがっている。  とはいえ、今回発足した協議会は「所在地などについて、統一見解を出すのが目的ではない」(副会長の内野勝弘さん) という。発足メンバーをみても、会長の鷲崎さんは宇佐説、副会長で山陰古代史研究会代表を務める田中文也さんは 山陰説とばらばら。「一義的にはそれぞれの説を尊重したい。そのうえで議論を交わして解明につなげたい」と内野さん は話す。  協議会が主な研究テーマとするのは「邪馬台国論(文献・考古学からの位置論)」「邪馬台国の前後(前史~ヤマト 王権まで)」「古代年代論」(土器編年、古事記・日本書紀に基づく紀年論、科学的年代論)など4項目。発表を募り、 年1回の全国大会のほか、数回の地区大会を開催する。地域起こしを仕掛けると同時に、地方で一人で研究をしてい る人にも発表の場を提供するのが目的だ。  このほか、京都大名誉教授の上田正昭さんや明治大名誉教授の大塚初重さん、元産業能率大教授の安本美典さんら、 20人の専門家に特別顧問を委嘱。顧問の講演を聞く一方で、アマチュア研究者には「私の邪馬台国論」と題した発表を してもらうなど、プロとアマチュアが議論できる場の創成を目指す。  「第1回の全国大会では、年輪年代法や放射性炭素年代測定法をはじめとする科学的な年代決定法をめぐる議論に 力を入れたい。遺跡や古墳の年代をはっきりさせることこそ古代史解明の突破口になるはず」と会長の鷲崎さん。  特別顧問の安本美典さんは「このような全国的組織が発足した事は喜ばしい。色々な考えの人に接し、多くの講師の 指導を受けることでレベルアップが図れるだろう。一つの説に偏ることなく、議論を進めてもらえたら」と話している。 (編集委員・宮代栄一) 朝日新聞記事より 朝日新聞DIGITAL記事にはここから(カラー写真があります) 朝日新聞の記事


     毎日新聞に全国邪馬台国連絡協議会のニュースが取り上げられました

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毎日新聞 2014年01月09日 07時30分

     邪馬台国:畿内説・九州説の研究者、古代史解明へ呉越同舟

 所在地などを巡って論争が続く邪馬台国の専門家やアマチュア研究者らが、4月に「全国邪馬台国連絡協議会」 を発足させる。畿内説と九州説で立場が分かれる研究者も一堂に会し、古代史の謎に挑む。邪馬台国解明のための 全国組織は初めて。

 ◇4月に「連絡協議会」発足

 代表発起人は古代史研究家、鷲崎弘朋さんを中心に「邪馬台国の会」の内野勝弘会長ら。特別顧問に畿内説の 重鎮、大塚初重・明治大名誉教授(元日本考古学協会会長)や九州説の第一人者、高島忠平・佐賀女子短大理事長 らが就任予定。本部は東京都練馬区に置く。 邪馬台国の研究が百家争鳴の論争を展開してきた結果、日本国の成り立ちなど古代史には多くの未解明部分が残さ れたまま。その反省を踏まえ「呉越同舟」で熱意のある団体・個人が交流。研究報告を行い、情報を広く開示する 組織をめざす。  邪馬台国の解明だけでなく、地域おこしにもつなげる考えで、定期的に研究成果を発表する全国大会や地方大会 を実施する。  アマ研究家が集う全日本邪馬台国論争大会などを手がける「新邪馬台国建設公団」の高橋宜宏総裁(元大分県 宇佐市議)も連絡協に参加予定。  「2015年秋に宇佐神宮で全国大会を開きたい。論争がやや低調になっているので、大会を機に盛り上げたい」 と意欲的だ。【大漉実知朗】